02 ヘッポイ、突き進む!
自由都市《エルタイヤ》、またの名を神殿都市《エルタイヤ》――。
その都市の最奥部にあたる北区画には、サザール大陸全土をまたにかける創世神殿の総本山である《最高神殿》が存在する。
《最高神殿》のその壮麗な建物は《ぺネロペイヤ》の大神殿など比べるべくもなく、そこには膨大な数の神官と巫女が住まい、そして大陸中から創世神の信者たちが日々訪れている。
また、この都市の冒険者協会支部は、最高神殿と密接な関わりをもつ事により、協会内でも屈指の発言権を持っており、《ペネロペイヤ》にある協会本部からその実権を奪いとるべく、虎視眈々と狙いを定めているというのがもっぱらの噂である。
そんな都市の一角に、ガンツからの直接のクエストを受けたザックスの姿があった。
彼の目的地はそこから経由して辿りつけるダンジョンでもなければ壮麗な威容を誇る最高神殿でもない。《ドノヴァンの酒場》――冒険者協会の認定証の表示が入った酒場の看板の前に彼は立っていた。
「ここか……」
小ざっぱりとした若干洒落っ気のある店の造りは、おそらく改修してまだ間がないゆえであろう。規模及び宿屋の収容人員はガンツのものとさほど変わらない。宿屋としては、大きくも小さくもないといったところである。
ただ、どうにも建物の外観から活気のある様子が伝わってこない事が気になるところではあったが……。
ともかく、「よし」とばかりに気合を入れたザックスは、店の扉を勢いよく開け中へ入っていった。
「いらっしゃいませ」
と、カウンター内で笑顔と共に彼を迎えたのは、この店の主ドノヴァンだった。
ザックスよりも年上、おそらくはウルガ達と同程度であるだろう彼は同業者の中では若い方だろう。彼の丁寧な応対は、ガンツの親父もこういうのを少しは見習ったらどうなのか、とザックスに思わせるほど新鮮だった。
ガンツの紹介状に目を通したドノヴァンは営業用の笑みを消して、若干はにかみ気味の彼らしい笑みを浮かべてザックスを歓待した。
「すみません、なんだか、変な依頼をしてしまいまして……。御覧のように店内はこんな有様でして……、」
がらんとした酒場内にはポツリポツリと人影がまばらなだけで、ザックスが先ほど感じたとおりに活気のない様子が一目了然だった。
周囲を見回したザックスはドノヴァンに向き直ると、単刀直入に述べる。
「俺は宿屋の専門家じゃないし、冒険者としても日が浅い。ガンツの親父が何を考えてるか知らないが、多分、役には立てないと思うぜ……」
「ご謙遜を……。《魔将殺し》のザックスと云えばそれなりに有名ですよ。そんな方が私の宿に逗留して頂けるだなんて、光栄の極みです」
ドノヴァンの言葉に店内にいた冒険者達が好奇の視線を投げかける。人が少ないために声の通りがいい店内では仕方のない事とはいえ、気恥ずかしくなったザックスは話をはぐらかせる。
「そんな立派なものじゃないさ、そんなことよりも部屋への案内とあいさつ代わりに何かいいクエストがあったら紹介してくれないか」
「さすがに熱心ですね、クナ石を拝見しますので少しお待ち下さい」
名前 ザックス
マナLV 27
体力 159 攻撃力 209 守備力 173
理力 MAX 魔法攻撃 0 魔法防御 163
智力 138
技能 144
特殊スキル 収奪 駿足 全身強化 倍力 直感
剣撃術 斧撃術 一刀両断 乱れ斬り
称号 中級冒険者 魔将殺し
職業 剣士
敏捷 166
魅力 112
総運値 0 幸運度 MAX 悪運度 MAX
状態 呪い(詳細不明)全属性半減
備考 協会指定案件6―129号にて生還
協会指定案件6―130号にて生還
協会指定案件6―131号にて生還
所持金 57294シルバ
武器 ミスリルセイバー
防具 魔法障壁の籠手 神聖護布の上衣
疾風金剛のひざ当て バトルブーツ
その他 ウルガの腕輪
ザックスのステータス値をクナ石で確認したドノヴァンは帳面を引き出すと、店で引き受けているクエストのリストを物色する。
「いくつか適当な物がありますが、実はザックスさんに是非ともお受けしてほしいものがあるんです」
「俺に?」
ドノヴァンに薦められたクエストを引き受ける事にしたザックスは、彼に連れられ、しばらくの根城となる宿の一室へと案内される。
「宿の利用についての詳しい規約はそちらに書いてあるので目を通しておいてください。それと私からガンツさんへの依頼につきましては、是非ともご存分になさってください」
その言葉を残して、丁寧なお辞儀と共に去って行く。
店に入って以来感じられた、どこか息づまる想いからようやく解放されたザックスは、寝台に寝転がりながら規約なるものを書いた紙面に手を伸ばし……、思わずげっそりとした。
「成程、こりゃ、みんな嫌がるかもな……」
事細かく決められた規約がびっしりと書き連ねてある様子は、大雑把さが信条のザックスにはかなりの苦痛を伴った。
ドノヴァンが頼んだというガンツからの依頼の内容は端的にいえば『なぜ、この宿が繁盛しないのか』ということの調査であった。
「お前の思った通りに言えばいいんだよ!」
ガンツの言葉にかなりためらったものの、他の都市に行ってみるという提案はザックスにとって魅力的に響いた。
「まあ、なにはともあれ、散歩だな……」
自室に不要な荷物を置くと、ザックスは暫くのホームタウンとなる《エルタイヤ》の街を観光がてら見物することにした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
冒険者協会《エルタイヤ》支部――その建物の大広間においてザックスは多くの冒険者達に混じって、協会自らが依頼人になった大々的なクエストについての説明会に出席していた。
様々なパーティのリーダーと思しき人物が肩を並べるその場所で、誰か知っているものがいないかと辺りを見回してみたものの、彼の知る顔は一つとしていなかった。これほどの人間がいながら知り合いに出くわさないというのは、いかに冒険者の世界に人が多いかということだろう、と自身で納得して、彼は与えられた資料に目を通しながら演壇に立つ協会職員の話を聞いていた。
『……で、あるからしまして、この度のクエストは《エルタイヤ支部》の全冒険者に参加していただき……』
退屈になってきたザックスと同じように周辺では、小声でのひそひそ話が目立っていた。
「だから、協会の支部長が神殿のタヌキ共に取り入る為に計画したって噂だぜ」
「手間の割にカネにならないからって、上級パーティの大半が不参加らしいな」
「いいんじゃねえの、ちっとくらい俺達貧乏パーティにも楽なクエストまわしてもらわねえと、やっていけねえよ」
「人が足りないんであちこちから支部の伝手を頼って人材を確保しているらしいな。本部の爺さんはどうにもカンカンだとか……」
「その話なら俺も聞いたぜ、なんでも《魔将殺し》って奴まで駆り出されたらしいな」
「ああ、なんでも山みたいにでかい奴らしくって、そこらの巨人族なんか軽く絞め殺せるらしいぞ」
最後の言葉に思わず、ずり落ちた。
そんなザックスをにらみつける後ろの席に座る者たちに、小さく頭を下げると肩をすぼめて参加者たちの間に身を隠す。変に有名になるとどうにもいろいろと問題があるらしい。配られた紙片に目を通すふりをして下をむく。
手の中の紙片にはこの度のクエスト内容である『初級レベルダンジョン一斉捜索』という題字が踊っている。
ここしばらく、冒険者達の間では二つの奇妙な噂が囁かれていた。
一つは初級レベルダンジョンにおいて想定ランク以上のモンスターとの遭遇率が高まっている事、そして、もう一つは初級レベルダンジョン内にエルフの幽霊が徘徊するというものである。どちらも今のところ大きな実害がもたらされていない為、冒険者協会本部はこれを無視することとしていたのだが、この度《エルタイヤ》支部が総力を上げての捜索を決定したのである。
13ある初級レベルダンジョンを全て一時閉鎖して、担当区画ごとに区分けし、冒険者達のパーティに徹底調査させる。当然かかる費用は莫大なものになるのだが、自由都市有数の財力を持つ《エルタイヤ》だからこそ可能な事といえた。
初級レベルダンジョンが一時閉鎖される事は他の都市の冒険者達に大きな影響を与えるため、他の支部からの不満は並々ならぬものがあり、それでも強行できるのは《エルタイヤ》支部の協会内での絶大な発言権ゆえと云うところである。とばっちりをくらったのが《ペネロペイヤ》に居を構える協会本部であり、苦情の矢面に立たされた件の老人は相当お怒りになっているらしい。
「天罰だな……」
老人の顔を思い浮かべてニヤリとするザックスだったが、彼としても実入りの少ないクエストには若干の不満が残る。
『このクエストに参加する事でザックスさんもいろいろとお知り合いができて、この先、動きやすくなると思いますよ』
というドノヴァンの言に従い、当座の生活に困らぬ彼の当面の目的は、人脈作りといったところだろう。
「尚、臨時に参加されました単独の冒険者の方々には、現地においてこちらで割りあてた人員でパーティを組んでいただく事になりますので、ご容赦を……」
そんな言葉と共に終わった説明会の会場から、散ってゆく冒険者の群れの中に混じりながら、ザックスは不慣れな街の人ごみの中に身を預けるのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「おい、いいな、オレ様がリーダーなんだから、命令には絶対に従えよ」
気持ちいいほどに『イタい』ヤツである。
それが、彼に対する印象だった。周囲から嘲笑と同情の視線を浴びながら、ザックスは「まあ、よろしく」とお茶を濁す。
一斉捜索当日、協会職員に割り当てられた彼の相方は創世神殿神官籍を持つ冒険者だった。他に面子はいないのかというザックスの問いに、協会職員は若干申し訳なさそうにザックスが過去、数度の単独踏破の経験をもつことと、担当区画が上層階である事をあげて詫びた。
協会に一方的に割り当てられたこの男であるが、顔を合わすや否や、マナLVと冒険者になっての日数を問われ、ザックスが日の浅い事を告げると、胸を反りかえらせて『オレ様リーダー・絶対服従』発言をかましてくれたのである。
今後の事を考えると軽い実力行使の上で主導権を奪い返しておくのが定石であるが、彼は厄介なことに神殿神官籍を持つ人間である。創世神殿の影響力の絶大なこの街で神官籍を持つ者とトラブルになるのはさすがにまずいだろうと考えたその時から、ザックスの忍耐ははじまることとなった。
「暇だーー」
ダンジョン内に麗しき相方、ヘッポイの声がこだまする。担当区画の数か所の召喚魔法陣を回って、周回モンスターを殲滅したあとは、定期的に呼び出されるモンスターを順次瞬殺しながら、担当区画をパトロールする。これを全ダンジョンの全階層で行う事でモンスターの出現率調査、及びエルフの幽霊についての調査を行う訳である。
二日間の日程で行われるこの調査も、一日目はどうにかうまくやり通せていた。
厄介なのは退屈な調査よりも、相方ヘッポイの自分語りであり、ザックスの頭の中には彼の半生の年表が完全な形で再現されていた。すでに聞く気力の失せたザックスに構わず延々と己を語り続けるヘッポイを、ザックスは自身の頭の中で5度ほど《ミスリルセイバー》の錆にしていた。
二日目が終盤に近付いたころ、さして変わらぬルーチンワークに耐えられなくなってキレてしまったのは、なぜかストレスの溜まりまくったザックスではなく、さんざんに自分語りを続けて悦に入っていたはずのヘッポイだった。
「どうして、オレ様がこんなところでチンケなD級モンスターをちまちま相手にしなくちゃならないんだ」
ちなみに討伐数はザックスの方が3倍近く多い。
そんなヘッポイにもなかなか人間臭いところがあるようで、「もう、飽きたよ」といきなり昼寝を始めて、頭上から現れたスライムに押し乗られた時には、その苦痛が忘れられなかったらしい。自分から丸2日間見張りを買って出てくれたのはとても有り難かった。
「よし、決めた! これからこのダンジョンを踏破することにしよう!」
「おい!」
「待っていたって、チャンスは来ない! 自分から掴みにいかなければ!」
言っている事は正しい。惜しむらくは状況が全く見えていない事だろう。
全ダンジョンの全区画に担当者が張り付く事で調査が成立するのである。担当員が勝手に、持ち場を離れてしまえば、調査そのものに意味がなくなる。
だが、オレ様リーダー、ヘッポイに正論は通じない。そして常識とは彼だけが決めるものである。
「行くぞ、ザックス、ついてこい!」
胸をはって《鋼鉄槌》を片手に堂々と進軍を開始する。
「こんな人脈……要らねえよ」
ザックスの悲痛な叫びが虚しく通路に響き渡った。
「オレ様の目標はライアット高神官なのだ!」
2日間聞かされ続けたセリフを繰り返しながら、ヘッポイはつき進む。こんな奴に目標にされるおっさんにも多少の同情はするが、やはり奴を作り出してしまった大罪は是非とも追及すべきであろう。
創世神殿神官籍――高度な資質を要求される神殿巫女とは異なり、神官籍を持つことに特別な条件はない。建前上、男女、種族による制限もない為、実に雑多な人々が神官衣に身を包み、神殿の名の下に様々な奉仕活動や治安活動を行う。神殿と事を構えるというのはよほどの事なのである。
冒険者のスキルが多大に貢献する事もあり、大抵の人間は冒険者活動でスキルを身に付けた後で神官職に専念する。
高神官職と冒険者を兼任し、しかも魔将殺しにまで関わったライアットの存在はかなり稀有な事例だが、そんな彼にあこがれて、神官職をおろそかにして、冒険者である事にうつつを抜かすものも中にはいるようで、ザックスの頼もしい相棒のヘッポイはそんな者達の代表例だろう。
「お、おい、お前ら、何やってんだ!」
自身の担当区画に突如として現れた、ヘッポイの姿に驚くパーティを尻目に、彼の進軍は続く。
「皆の者、見回り御苦労! 立ち止まらずに俺に続け、ザックス!」
人の話を一切聞かぬヘッポイを断じる事を諦め、後に続くザックスに非難の視線は集中する。
「もう、帰りてぇよ」
非難の視線に耐えながらザックスは彼に続く。こんな奴でも一応相方である。この先二度と彼と組む事は願い下げだが、それでも冒険者である以上、彼を見捨てるわけにはいかない。ザックスの苦悩と忍耐は続くのだった。
初級レベルダンジョンとはいえ、中階層辺りを過ぎると、出現モンスターの数が攻略の難易度をあげていくというのは周知の事実である。
上階層から『オレ様快進撃』――他のパーティが殲滅した道を歩いて来ただけだったが――を続けてきたヘッポイもこのあたりで苦戦するようになった。ヘッポイの制止を諦めた周辺区画の担当者達は「じゃあ、任せたぜ」と高みの見物を決め込んだらしく、再出現したモンスター達とヘッポイの壮絶な死闘が始まった。
中級冒険者になりたての能力的には至って平凡なヘッポイの『職』は、どういう訳か神の御技と呼ぶべき治癒系呪文を駆使する僧侶であり、他に目立った固有スキルは持ち合わせていない。創世神は一体何を考えて彼にそんな力を与えたのだろうか?
そんなザックスの疑問もどこ吹く風とばかりに彼の眼前では壮絶なバトルが繰り広げられる。そして、過去にどこかで見た事のある光景が次々に再現された。
歴史は繰り返される……とはこの事なのか?
「ぬうりゃあーー」
大木槌を持った妖精族モンスターに囲まれ、タコ殴りにされるヘッポイ。当然、助けるのはザックスである。
「とわぁーー」
びっしりと吸血モンスターに噛みつかれ、ふらふらのヘッポイ。当然、助けるのはザックスである。
「いやぁーー」
大型の虫型モンスターに玉突きの要領で転がされるヘッポイ。当然、助けるのはザックスである。
「むぎゅーー」
スライムの群れによる空中連続ボディアタック。初めて見る華麗なその技に押し潰される我らがヘッポイ。当然、助けるのは……。
少しは痛い目に遭えば、いろいろと思い直すだろうと考えたザックスは手出しを控えていたのだが、ヘッポイという名のこの男、恐ろしい事に……決して引こうとしなかった。倒されても、倒されても、立ち上がり、自身に回復魔法をかけては咆哮と共に突撃するその姿勢は、あまりに清々しく美しい。
「引かぬ! 媚びぬ! 顧みぬ! 何人たりとも俺の前は歩かせん!」
意気込みは見事!
だが、伴わぬ実力は如何ともしがたく、後始末に明け暮れるのはザックスである。勝ち目のない戦場で兵をむやみやたらと突撃させる指揮官は困りものだが、自分までもが先頭に立つとなるとさらに厄介な事この上ない。
攻撃対象範囲内にヘッポイがいるため、特殊スキル《乱れ斬り》での一斉掃討は困難を極めた。
「もう、帰りてぇよ」
とうとう半泣きになりながらザックスは剣をふるう。しばらくして、ザックスの願いがようやく通じたのか、ヘッポイの足は徐々に鈍り始めた。いわゆる体力と理力の限界である。
さらに現れた大型獣モンスターにふらふらの足で果敢に挑み、ヘッポイは渾身の一撃を放つ。
「必殺! ライアット・アタック!」
本家よりもはるかに弱々しげな踏み込みと共に両手で振り上げた彼の《鋼鉄槌》は、空振りしてすっぽりとその手をすり抜け、彼の頭上に舞った。天井にぶつかった反動で落ちてきたそれをまともに頭で受けた彼はその場で昏倒する。
すかさず《ミスリルセイバー》でモンスターを《一刀両断》することに成功したザックスの周囲はようやく静寂に包まれた。
倒れて目を回すヘッポイの姿を見下ろしながら、ザックスは凶暴なボスモンスターを倒した後のような気分を味わっていた。とにかくこのままダンジョンから連れ出そうと彼から《跳躍の指輪》を抜き取ろうとしたザックスは、その背にふと人の気配を感じた。
「すまんがちょっと手伝って……」
と、言いつつ振り向いたザックスは、唖然とする。
彼の背後に立っていたのは美しいエルフの女性だった。年の頃は彼よりも若干下であろうか……。
尤も、異種族であるエルフの外見と年齢は判断の参考にならないと言われるため、正確な事は分からない。黄金に輝く長い髪を後ろでひとくくりに結いあげ、妖精族独特のピンととがった長い耳の彼女の外見は美しかった。
だが、勝気さを感じさせる整った顔立ちに浮かぶその表情にはどこか悲壮感が漂い、何よりもザックスを驚かせたのは、彼女の姿がうっすらと透けており、その輪郭がおぼろげな事である。
――この世のものではない……。
直感的に感じ取ったザックスは、それが噂のエルフの幽霊であることをようやく理解した。
「おい……」
声をかけるものの件のエルフの幽霊に聞こえる様子はない。ただ静かに彼の眼前を歩み去って行く。
その横顔から美しいうなじへのラインを見送りながら、ザックスはふと奇妙な感覚に襲われた。
(前に会った事があるな……)
どこで会ったのかは思い出せない。だが、彼女の美しい横顔と後ろ姿を見送りながら、ザックスの頭からはその考えが離れなかった。
「うっ、うーん……」
そんなザックスの足元でヘッポイが起き上がろうとする気配を見せる。この状況で目を覚まされてはたまらない。そう考えたザックスは急ぎヘッポイの手から《跳躍の指輪》を抜き取ると慌てて、ダンジョンを脱出したのだった。
「チクショー、オレ様はまだ戦えるゾ」
担架に縛り付けられて運ばれていくヘッポイの姿を見送ったザックスは、ため息をついた。
おそらくもう2度と会う事はないだろうと思いつつ、彼の振り返った先には渋面を浮かべた数人の協会職員が並んで立っている。勝手に持ち場を離れた事についての釈明をして頂きたい、とザックスは彼らに促されるまま、管理所へと入って行く。言い出しっぺの本人はとっくに立ち去り、後始末を押し付けられ頭を抱えたザックスだった。
憤然としながらも彼らに事情を釈明するうちに、数人の職員がザックスに同情の色を見せ始める。そのうちの一人が気の毒そうな顔をしながら、意外な事実を語り始めた。
「実は彼、《エルタイヤ》でも有数の富豪の一族でして、神殿にも多額の寄付があり……、そのせいかどうかは知りませんが、協会内ではかなり有名な問題児なんです」
「ちょっと待て、そんな奴とオレを組ませたのか?」
「すみません。上からの指示でして、《魔将殺し》のザックスさんと組ませれば彼に箔が付くからと……」
「おい!」
「極力、調査の邪魔にもザックスさんの負担にもならぬように、配置したつもりだったんですが、まさか自分から行動をおこすとは……」
冒険者協会《エルタイヤ》支部、この組織、どうやら大いに問題があるらしい。
「つきましては、この度のクエスト、彼とザックスさんは参加なされなかったという事で……。ああ、事後処理はお任せ下さい。何事もなかった、と上には報告しておきますので……」
「おーい……」
さも当然、と言った風に結論を出した彼らは、いそいそとその場を後にする。二日間の忍耐の末にただ働きとなったザックスは、無人となった詰所内で怒りと虚しさに拳を震わせた。自身のパラメータ、悪運度MAXは未だに健在のようだ。
だが、彼はまだこの『ヘッポイの災禍』に続きがあるなどという事をこの時、夢にも思っていなかった。
2011/08/29 初稿