01 イリア、戸惑う!
神殿巫女の一日は忙しい。
日中、訪れる冒険者の為に祈りをささげる彼女たちの仕事はそれだけでは終わらない。縁起を担いで転職の日取りを決める冒険者も多い為、日によって訪れる人々はまちまちであるが、空いた時間には雑事に追われるのが普通である。
自由都市《ぺネロペイア》の大神殿は他の都市のものよりも規模も大きく格式も高い故に、その仕事の多さも想像するに余りある。
『神殿巫女の優雅な一日』などという特集が「裏酒場」が発行する季刊雑誌に載せられた事もあるが、あんなものは真っ赤な偽物である。特集の中に出てくる巫女は本職の彼女たちがうらやむほどに実に優雅な一日を過ごしているが、そんな楽な仕事があるなら是非ともやってみたいものだ、というのが人情であろう。
長い柄のついたタワシを華奢な身体でしっかりと抑えつけ「えい、やあ」と泉周辺の床掃除に精をだすイリアは、そんな重労働の最中だった。
本日最後の冒険者を笑顔で送り出した後、彼女はいつもの清掃着に着替えて、その日の担当分を黙々とこなしていた。
華やかで見た目重視の巫女服とは違って、動きやすく機能性を追求した……というよりは単に布切れを身にまとっているというだけのあられもない姿は、とても外部の者には見せられない。洗礼以外の時は男子禁制のこの場所だからこそ、こんな姿でいられるのである。
額に汗してせっせと、長柄たわしで床を磨く姿は、『神殿巫女』という存在に幻想を抱く者たちにはタブー以外の何物でもない。
だが、そんな姿であっても姉巫女のマリナは、イリアでも思わずどきりとする艶っぽさを見せながら、気品と共に優雅に仕事をこなしてしまうのだから恐ろしい。
「ああ、今日も一日が終わりましたね……」
と、笑顔で汗をぬぐう仕草をみれば、きっと多くの男性が卒倒して彼女の虜になるに違いない。
「ザックス様にだけは見せないようにしないと……」
ぽつりと呟いて思わずかぶりを振る。
何を考えているのだろう、彼がこんなところに来る訳がないというのに……、と赤面しながら泉の水面を見つめる。
一日の役割を終え、上階層から降る滝の水も今は止められ、水面は何事もないかのように静かである。そこに映る己の顔を見ながら思わず、にへら、と顔がゆるむ。彼女の目には、部屋の一番大切な引き出しにしまってある《額環》をつけた自身の姿が輝いている。
質素が旨であり、公式の行事においての正装の際に唯一巫女達に許される、とっておきの装飾品を、先日の『大市』の際にザックスより贈られた彼女は、その時の喜びを反芻し、腕の中の長柄タワシによりかかって身悶える。その贈り物に込められたのは、彼からの『感謝の念』である事は十分に承知しているのだが、それでも期待してしまうのは彼女がまだ少女ゆえであろう。
様々な妄想に浸りながら、水面に映った緩みっぱなしの自身の顔にはたと気づいた彼女は、思わず身を正す。
つい数日前は、その状態のままで後ろから姉巫女の一人に声を掛けられ、慌てふためいて足を滑らし、泉に落ちるという醜態を堂々とさらしたイリアである。当然、その夜は彼女が何を考えていたのかという事で、姉巫女達とのお茶会の場はすっかり盛り上がってしまった。
いい加減、自分をネタにからかうのは止めて欲しいと思う一方で、そんな機会に、外部の伝手から彼の近況をさらりと知らせてくれる姉巫女達の厚意に感謝し、その夜、寝台の上で枕を抱えて悶えてしまうのは、ここ一カ月の間についた習慣のようなものである。
――そろそろ夕食の時間だし、片づけないと
洗浄道具を一纏めにして、いつもの倉庫に放り込もうとしたその時だった。突如として、上層階から滝の水が降り始め、泉の表面を慌ただしくかき乱した。
その音に驚き小ぶりな兎の耳をピンとたて、丸い尻尾をわっさと膨らませて振り返った彼女の目には、信じがたい光景が映った。神聖水の流れる滝の中に一人の女性が入ろうとする姿を目にしたのである。
「ま、待って……」
洗礼衣姿の彼女を呼び止めようと混乱した頭のまま、泉にかけよる。
転職の為の洗礼の際には冒険者はただ滝を潜るだけでなく、事前に巫女の祈りの加護を受けなければならない。まだ自分は彼女にそのような行為をしてはいない、いやそもそも何時の間に彼女はこの場所に入ってきたのか……そんな混乱を必死で押さえながら泉に駆け寄った彼女の足が止まる。彼女は滝に入ろうとする女性の特徴ある長い耳に気付いた。
――エルフ……。
その事実に彼女の本能が警戒心を呼び起こす。
エルフと兎族、否、妖精族と獣人族は互いに相入れない。
それは彼らの種としての発生の在り方に起因するものであり、歴史書を紐解けば、過去、二つの種族の間で勃発した多くの争いが記載されている。そのほとんどの争いにおいて、原因たる原因が存在しない事からも窺える通り、互いの種族が些細な事でいがみ合い、争いを大きくしていくという負の連鎖は、この時代にも脈々と受け継がれてきた。
妖精族の代表ともいえるエルフはその生まれとルーツをなによりも重んじ、特に七氏族と呼ばれる家系に属する者たちのプライドの高さには並々ならぬものがある。彼らの機嫌を損ねた為に《エルフの呪い》をかけられた都市が一つ衰退した、などとまことしやかな噂もあるように、その存在を決して侮ってはならないのがこの世界の常識である。
イリア自身にそのような偏見はない。
彼女自身が兎族という羨望と偏見の対象である為に、そのような視点で他者を判断する事が愚かであるということは十分に承知している。
だからといって、相手方が同じような考え方であるという保証は限りなく0に近い。これまでの短い神殿巫女としての経験の間にも、妖精族出身の冒険者を担当し、あらぬ中傷を浴びせられた事は一度や二度でない。涙をこらえて、巫女としての務めを終えた後で、マリナのふくよかな胸で泣きじゃくるという苦い経験も多々ある。
だが、責任ある神殿巫女としてこの事態を見過ごすわけにはいかない。意を決して彼女に声をかけようとしたその瞬間、眼前で再び信じられないことが起きた。エルフの女性が滝の中に入ると同時に、それまで勢いよく流れていた滝がさっぱりと消え、同時に彼女の姿も消えてしまった。後にはただ、静かに泉が水を湛えているだけであり、そこに膝までつかったイリアは呆然と立ち尽くした。
「…………」
理解不能の眼前の事態に呆然とする彼女の脳裏にとある一つの噂話が思い浮かぶ。
『エルフの幽霊を見た!』
つい一月ばかり前に姉巫女の一人が遭遇した一件は、しばらくの間神殿に務める者達の間で大きく話題になっていた。
きっと想像力豊かな姉巫女が、日頃の退屈な務めの日々を紛らわせるために、皆を驚かせようとした作り話が受けたのだ、とその時のイリアは受け止めていた。
だが、眼前で起きた事態は、彼女の話通りのものであり、今は何事もなかったような静かな泉の様子にイリアは、初めてこの場所に不気味な物を感じていた。思わず己の頬を抓ってみたのだが、決してそれが夢ではない事を、痛みが彼女に伝えた。
「イリア、何をしてるのかしら?」
不意に彼女の後ろから姉巫女のマリナが声をかける。振り返ったイリアの姿を見て彼女は思わず吹き出した。
自身の頬を指で抓ったまま振り返った可愛らしい顔立ちの彼女の愛嬌あるその仕草に、マリナは笑みを浮かべて尋ねようとした。
「どうしたの、イリア。そんな顔をしているとザックスさんに……」
だが、その言葉は途中で中断される。
頬から手を離した彼女は、顔を青くしてよろよろとよろめきながら泉から上がると、そのままふらふらと自分の元へ歩みよってくる。
愛しい妹分の尋常でない様子をいち早く察した彼女は、慌てて彼女に駆け寄り、その少女らしい華奢で繊細な姿態をしっかりと抱きしめる。
「どうしたの? イリア! 何があったの? 話して……」
自身の腕の中の少女が震えている様子に困惑しながらも、懸命に言葉を掛ける。しばらくして、ようやく平常心を取り戻したのか彼女は豊かなマリアの胸にうずめていた顔を上げると、愛らしい小さな口元を懸命に動かして、震える声でぽつりと告げた。
「姉さま、どうしよう、私、見てしまいました……」
「何を見たの?」
「わたし、確かに見たんです。エルフの幽霊を……、この目で、はっきりと……」
その言葉にマリナは驚いた。
今、自身の目には、ただ静かに洗礼の泉が水を湛えている様子が見えるだけである。
だが、愛しい妹分は確かにそれを見たという。彼女は他者からの関心を引きたいが為にわざと嘘をつく娘ではないし、神殿巫女という職に誇りを抱いている。何よりも、彼女にとって『エルフ』と云う言葉は冗談の種に使えるようなものでは決してないのである。
イリアの突飛な言葉にマリナも又動揺する。そんな彼女がようやく絞り出した一言は余りにも簡潔なものだった。
「そう、困ったわね……」
滔々と水をたたえる泉の淵に立った二人の巫女姉妹はただ、呆然と、静かな水面を見つめるだけだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
空回り――という言葉がある。
もし、それを具体化したのなら、多分、それは今の自分の状態なのだろう――そう考えながらザックスは目の前のアルキル果実のしぼり汁の入ったグラスを乱暴にマドラーでかきまわした。氷結魔法によって作られた氷がコロンと音をたててグラスの中で踊る姿を、ため息をついて眺める。子供から若者、そして老人までが飲む一般的な飲み物をクエストの終わった後で酒場で飲むというのが、ここ暫くの彼の日課になっていた。
普段ならば麦酒の一杯でもと考えるものだが、残念なことに近頃の彼はとてもそのような気分になることはできなかった。
優秀な腕ききアタッカーとして、近頃は酒場の中だけでなく外部でも評判の上がりつつある彼には、度々クエストの依頼が舞い込んでいた。大抵はダンジョン踏破に挑む中級パーティの臨時メンバーとして彼は必要とされ、その期待を裏切らない働きを続けてきた。
何よりも彼の持つ称号《魔将殺し》の威力は絶大であり、彼に実力以上の評価を与えていることは、少々こそばゆいところである。
様々なパーティから臨時メンバーとしての打診を受ける彼であったが、以前のように「うちの正式メンバーになりませんか」と彼に申し出る者は皆無だった。
理由がなんとなく察せられるだけに、ザックスも彼らとの付き合いを仕事であると割り切って、それ以上は深入りしようとはしなかった。
最初は良好だった雇い主との関係も、しばらくすると先頭を歩く彼と後方からついてくる彼らとの間に、距離とは言えない微妙な距離感が生まれはじめ、それはミッションやクエストの終わりの際の「お疲れさまでした」という他人行儀な言葉とともに0に戻る。
――なぜ、そうなるのか?
端的にいえば、視点や目標の違いなのだろう。
これまでのザックスの異常ともいえる成長速度と巻き込まれた異常事態の数々が、彼の視点を普通の冒険者としてのそれとは全く異質なものにさせていた。例えマナLVは同じくらいであっても、そのような冒険者としての基盤の違いが彼らとの間に空白を生み、無意識に敬遠させているのであろう。
ささいな歪みが徐々に広がり、同じ状況を重ねるという負の螺旋に巻き込まれつつある事を自覚しながらも、自身の力ではどうにもできず、ただただ、苦悩ともいえぬ中途半端な悩みに頭を抱えていたのである。
過去に彼を唯一受け入れた《ブルポンズ》の面々は、臨時収入を手に入れて温泉地への豪遊に向かい、彼に土産を送ってよこした後は何ら音沙汰がない。酒場のマスター、ガンツからの話によれば、温泉に飽き足らなくなった彼らは諸国漫遊の旅へ足を伸ばしたという事であり、《ペネロペイヤ》への帰郷はまだまだ未定であるらしい。
ミッションの最中には閉口した彼らのハチャメチャぶりが、いつしかザックスにはなぜかとてつもなく懐かしいものとなっていた。
カランと再び音を立てたグラスを自身の脇に追いやり、眼前の卓に突っ伏す。
ガンツ=ハミッシュの酒場、二階の一番席――そこに座る事をマスターに許されたのは、店内でただ一人、ザックスのみである。それは決してザックスの実力ゆえではない。
様々な偶然と出会いの中で彼はこの場所に堂々と座る偉大な者たちと行動を共にし、彼らに力を貸す事で、ここに座る事を許されただけである。辛い別れを乗り越えてここに只一人残ったザックスは、彼らの客分として未だにここに座る事を許され続けているだけであり、ザックス自身がこの場所に誰かを座らせるということは決して許されない。
顔を上げ空席に目を向けたザックスは、かつてその場所に座っていた偉大な男たちの姿を思い浮かべる。
今の自分をみたら彼らはなんというのだろう?
ザックスの右腕にひっそりと輝く《精霊金》の腕輪には、ザックスがその背を見続けた偉大な男の魂が嵌め込まれている。あの男のような冒険者になりたい、あの男の背中をのりこえたい、そう思えば思うほど、それはザックスの心に焦りを生み出し、周囲とのちぐはぐさを生み出す原因になっていることに、彼はまだ気付いていなかった。
「昼日中からアルキルのしぼり汁なんざで、のんびりとうつつを抜かしてるとは、ずいぶんな御身分じゃねえか」
不意に頭の上から声をかけられる。
振り返ったザックスの前には巨漢の男が立っている。優れた斧使いとして定評のあるその男は、この店の2階の2番席に座ることを許されたパーティのリーダー、バンガスだった。
腕はいいのだろうが性格は褒められたものではない――それがザックスの彼に対する評価である。
ウルガが逝き、ダントンとエルメラがここを去ってしばらくしてから、バンガスはザックスに事あるごとに突っかかるようになっていた。度重なる因縁に、時として一触即発の事態になったこともある。
それなりに経験を重ね、いい年をした冒険者が自分のような駆け出しに突っかかるなど実に大人げないと思うのだが、災いは向こうからやってくるのだから仕方がない。ウルガに比べて何かと見劣りする彼と関わりを持ちたくなかったザックスは、仕方なくその場を離れる事にした。
ここはウルガ達がいた大切な場所――つまらぬ事で穢すような事だけはしたくなかった。
いかにこの場所に座る事を許された身であったとしても、ザックスはまだ中級クラスの孤独な冒険者である。店内での発言力など0に等しい彼が、この場所を守るには黙って引き下がるしかない。
仕方なく立ち上がったザックスはバンガスに会釈をすると、そそくさとその場所を立ち去った。
「けっ、スカしやがって!」
バンガスの悪態を黙ってその背で受け止めたザックスは、そのまま階段を降りて、カウンターの前を通りかかった。
「おい、ザックス」
野太い声でそんなザックスに声をかけたのは、この店の主であるガンツだった。
「なんだい、マスター。クエストなら今日は勘弁だぜ。帰ってきたばかりなんだからよ……」
「フン、そういうのはもっと一人前になってから言うんだな。クエストが終わったってのに、そんな辛気臭い顔してうろうろしてるようじゃ、とても一流の冒険者とは言えねえな!」
口は悪いが、その眼力は一級品である。
カウンターの向こうから店内の一部始終をしっかりと把握し、その人を見る目には決して誤りがない。そんな彼にかかればザックスの内心など透けて見えるのだろう。
「お前、今のまんまじゃ、そのうち大きなポカをやらかしちまうぞ」
「分かってんだよ、そんな事は!」
声を荒げたザックスに一階席にいた他の冒険者達の視線が集中する。自身の放った思わぬ言葉の強さに、ザックスは我に返る。
「悪いな、マスター、疲れてるんだ……」
「フン、まあ、いいさ。ところでザックス、お前に少しばかり相談があるんだが……」
「相談?」
「ああ、お前の今の状況を少しばかり好転させた上に、俺の悩み事が一つもしくは二つばかり消えてくれるという、実に魅力的な提案の相談なんだが……」
「俺に……? 一体何をしろと」
その問いに直ぐに答えることなく、ガンツは傍らのグラスの中の冷たいホメヨ茶のグラスを一杯傾けた。一拍置いてニヤリと笑ったガンツの言葉は、意外なものだった。
「お前、この都市を一度離れて、別の都市に行ってみるつもりはないか?」
2011/08/28 初稿