33 イリア、選択する!
生まれ落ちた世界は闇そのものだった。
総族長の子として生まれながら、種族をまたぐその出自ゆえに、実の母からも疎まれ、遠ざけられた。
大人達の複雑な利害関係、偏見と憎しみ、そして裏切り。歪みきった現実の中で育ち、幼くして人の醜さに辟易とした。
それでも幼い彼は希望を失う事はなかった。
いつか自分の存在を認め、愛してくれる人が現れるはずだ。
ここではないどこかに自分だけの理想郷があるはずだ。
この苦しい今は神が与えたもうた試練の時。耐え忍び、己を練磨し続ければきっと救いの手が差し伸べられるはず……。
絶望的な現実の中、神の教えのみを心のよりどころとし、彼は美しい場所を探し求めた。
古きを温ね、智を磨く日々――。
それでも現実は容赦なく、彼の心を削り続けていく。
初めて己を認めてくれた人ですら、離れていってしまった。
裏切られ、泣き叫び、それでも己を傷つけながら叱咤し続け、彼はその理想の世界を追い求めた。
延々と繰り返され続ける苦悩と苦痛、失敗と絶望の日々。
そして、彼はついに真理へとたどりつく……。
神によって救われる者は初めから決まっているのだ。
神によって裁かれる者は初めから決まっているのだ。
世界に『慈しまれる存在』と世界から『疎まれる存在』。
それらはあらかじめ定められている。
忌まわしき創世の神によって……。
己を世界から『疎まれる存在』と位置づけた傲慢極まりない神というものが許せなかった。
己が心安らぐ居場所を与えぬ傲慢極まりない神というものが許せなかった。
――ならば彼の神とその世界を破壊し殺戮してやろう!
それもまた神への『愛』である。
たどりついた狂気の結論は彼に前進を命じた。
己が倒すべき敵を見出したその時、全ての迷いは晴れた。
ただ、その目的に向かって邁進する。そう……、あらゆる手段を使って……。
世界によって定められた禁忌は、その裏に隠された真実を導いた。
血を流し、手を汚し、人の世の真理へとたどり着く。
所詮、世界は弱肉強食。
一度、強者の地位に就けば、世界が思い通りに動く快感を知る。
絶望を試練と偽り、犠牲を奉仕と偽り、無知なる愚者の群れを欺き続けた日々。
気づけば神殿のやっていた神様ごっことさほど変わらない己の現実に苦笑する。
さらに、そしてさらにその先へ……。
自身が追い求めた理想郷を目指して。
そして、彼はついに境地へと至った……。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ボロボロの胴体が、音を立てて大きく割れ、その中から輝きが生まれる。
眩しい輝きの中に現れたのは、白く長い蛇の尾。
次いで胴体部が現れ、最後に唯一の頭部が現れた。
古い皮を脱ぎ棄てるかのように《七つ頭の重蛇》の身体からするりと抜けだす。
現れたのは一匹の《白大蛇》。
大きさは《五つ頭の大蛇》だった時よりもさらに小さい。
ずるりと地を這い、少し離れた場所にとぐろを巻き、生まれおちた世界を見渡すかのように鎌首をもたげ、周囲を見回す。
「きれい……」
思わずつぶやいたアルティナの言葉は、その場にいた全ての冒険者たちの心を代弁していた。
現れた《白大蛇》は、禍々しさとは無縁で神々しく輝き、穢れなく美しかった。
対して《白大蛇》が抜け出た《七つ頭の重蛇》の身体の至る所から禍々しい煙が噴き出し、再生を始める。
だが、その再生は不完全だった。
硬い甲殻は剥がれおちたまま、全身の傷口から小さな蛇の頭のようなものが生まれては消えていく、さらに再生した七つの頭部は人型の上半身へと変化する。
それはかつて幹部だった者達の姿に酷似していた。
再生した蛇の頭達は何かを求めるかのように、とぐろを巻いた《白大蛇》に腕をのばし、一斉にずるりずるりと這い寄っていく。
まるで足りぬものを補おうとするかのように、《白大蛇》ににじり寄り、とりつこうと襲いかかった。
《白大蛇》はかつての身体の振る舞いに怖じる様子もなく、近づくその姿を一瞥すると、大きく顎を開いた。
吐き出されたのは光のブレス。
強力な輝きが、禍々しい闇に包まれたかつての身体を容赦なく焼き払っていく。
無数の絶叫と絶望の悲鳴が空間を揺るがし、冒険者達は思わず耳を押さえた。
『俺達を裏切るのか……』
『私達を見捨てるの……』
『あんなに忠誠を尽くしたのに……』
《七つ頭の重蛇》の全身だけでなく、おどろおどろしい怨嗟の声と魂までもが焼き尽くされ、マナの輝きとなって消えていく。
生みだされた圧倒的な浄化の輝き、そして理不尽なその所業はまさに『神』そのものだった。
全てが焼き尽くされその場に残ったのは、とぐろを巻き、鎌首をもたげた《白大蛇》の姿のみだった。
かつての同志たち、否、そのなれの果てを一瞬にして葬ったその姿に一片のためらいもない。
それは絶対的な正義の審判者そのもの。
対して呆然と立ち尽くし状況に取り残される冒険者達。
戦闘体勢を解く事はなかったものの、彼らの心の中に迷いが生まれた。
外見こそ異形なモンスターそのもの。だが、その魂と全身にまとう空気は圧倒的な神々しさに満ち溢れている。
その場にいる冒険者達全員が、かつて出会ったことのない存在だった。
――この《白大蛇》は倒すべき敵なのか?
「敵に決まっている!」
その場にいるすべての者達の迷いを打ち払うように、一つの影が飛び出した。
「待て、レガード!」
ザックスの制止の声をものともせず、大鎌を振りかぶったレガードが《白大蛇》に襲いかかった。
電光石火の一閃が、《白大蛇》の首を捉えたかのように見えた。
だが、大鎌の刃は《白大蛇》の身体をすり抜けた。
手ごたえを失い、レガードの身体がもんどりうって石床の上を転がる。
素早く立ち上がった彼が目にしたのは、彼に向って大きく拡げられた、《白大蛇》の顎だった。
再び吐きつけられる光のブレス。
とっさに《両刃の大鎌》を正面に構えて、レガードはそれを受け止めようとした。
獣の咆哮が大きく響き渡るその空間に、光のブレスが広がり、容赦なくその全身を焼いていく。
「援護しろ!」
すぐ傍にいたバンガスの声に、シュリーシャ、ブラッドンが素早く反応する。ブレスを吐いている《白大蛇》に一斉に襲いかかった。
巨大な白尾が勢いよく振り抜かれ、三人は遥か後方へとまとめて弾き飛ばされた。衝撃でマヒしたせいか、三人ともすぐには起き上がれない。
吐きつけられるブレスの中にさらにひと際眩しい輝きが生まれ、カランと音を立てて大鎌のみが石床の上に転がった。
持ち主だった者の姿はどこにもない。光に呑みこまれ、レガードは消滅していた。
「ちょっと待て……、嘘だろ……」
圧倒的な実力で戦場を暴れていた彼が一瞬にして消滅した事に、ザックスだけでなく冒険者達の誰もが呆然とする。
消滅した状態からレガードが再生できるかどうかは不明であるが、仮に再生できたとしても、力の大半を獣戦士化で使い切っているこの状況では、おそらく復帰は、困難であろう。
言葉を失い立ちつくす彼らの前で、《白大蛇》は再びとぐろを巻き鎌首をもたげた。
その視線の先には、マリナとイリア、そして二人を守るように立ちはだかるライアットの姿。
三人の危機を察知したザックスは、直感的に両者の間に割って入り、中間地点で身構えた。リュウガ達後衛が、ライアット達の周囲を固める。
膝を軽くたわめて腰を落とし、両手で愛刀の鞘と柄を握る。
――いいのか?
先ほどから大きな違和感が頭を離れない。
何かが違う。でもその何かが分からない。
焦りと歯がゆさが脳裏を駆け巡る。
眼前に立ちふさがるものは容赦なく叩き潰す――冒険者の本能が下すその命令を、ザックス自身の何かが拒絶していた。
――それでも……、やるしかないか!
背後に守らねばならぬ者達の存在がある。
下腹に力入れ、《抜刀閃》の体勢に入った。
膨れ上がる違和感を押さえつけ、飛びかかろうとする《白大蛇》との間合いをはかった。
両者の間に生まれる緊張感。
闇夜の海中に引きずり込まれるような重苦しさの中で、互いが対峙する。
先に動いたのは《白大蛇》だった。
鎌首をさらに持ち上げ、尾を跳ね上げ、とぐろを解く。
その目的は立ちはだかるザックスではなく、結界内のイリア達だった。
地をゆるりと滑り、《白大蛇》が前進を始めた。
それに合わせるように、飛び出そうとしたその瞬間だった。
『手を出すな!』
何者かの声――。
それはザックスの耳にではなく、脳裏に直接響いたように思えた。
瞬間、頭の中で何かがカチンと噛み合った。すかさず声に従い、愛刀から両手を離す。
考えている暇はなかった。
《抜刀閃》の体勢を解除し、そのまま両腕を大きく広げ、眼前に迫る《白大蛇》に向かってザックスは仁王立ちした。
「ザックス!」
突飛過ぎるその行為にアルティナが悲鳴をあげ、背後にいた仲間達が大きく息を呑む。
《白大蛇》の前進は止まらない。仁王立ちしたままのザックスの身体が、《白大蛇》の口に呑みこまれたように見えた。
誰もが目を瞑った。
だが、仁王立ちしたザックスの身体は、《白大蛇》の顎を、口腔を、そして胎内をすり抜けていた。
それだけではない。
ザックスの身体をすり抜けるや否や、《白大蛇》の姿が消滅していく。
慌てて振り返ったザックスの背後に現れたのは、純白の法衣を纏った一人の男。それはアシェイトルと呼ばれた蛇族の長だった。
その場の誰もが言葉を失う。
姿こそアシェイトルであったが、現れたその気配はそれまでのものとは全く異なっていた。
敵意も悪意も全く感じられない穏やかな表情。そこにはむしろ神々しさを感じる。
そのまま、彼はライアット達に向かって歩き始めた。
慌てて追いかけようとしたザックスだったが、その足音がない事に気づいた。
不自然すぎるその姿に、ザックスは思わず歩みを止めた。
アシェイトルもまた立ち止る。振り返る事なく彼は言った。
「よく気づかれました、冒険者殿。貴方が私に必殺の一撃を放っていれば、それは全て貴方の身に跳ね返る。『神』に刃をむけるとはそういう事です」
その言葉に誰もが立ち尽くす。アシェイトルは再び歩み始め、盾を構えるライアットの傍をすり抜け、イリアの眼前で立ち止った。
すでにその表情に反逆者の長としての冷酷さはない。かといって、戦闘前にわずかに垣間見せた人としての弱さや温もりも感じられなかった。
互いに言葉はない。その場で相対するイリアはアシェイトルの姿に戦慄した。
彼女の知っている以前のアシェイトルとは圧倒的に何かが違っていた。その要素に心当たりがあったが、慌てて首を振る。
創世神に仕える神殿巫女には、決して許されぬ結論だった。
しばしの時を置いてアシェイトルは再び口を開いた。
「願いは叶いました……」
彼の願い――それは世界への復讐が叶ったという事。
何を持ってそう結論したのか――その意味をイリアは考えようとした。
と、その眼前でアシェイトルの全身の輪郭が一瞬ぼやけた。ふわふわとマナの輝きが立ち昇っては消えていく。
――この人も……逝ってしまう……。
直感的にその運命の結末を知る。
何かを言わねばならぬはずだが、言葉が浮かばない。歯がゆさにイリアは唇をかみしめる。
全身からふわふわと立ち昇り続ける輝き。それを気にすることなくアシェイトルは口を開いた。
「どうやら……、時間はないようです。それでも……、最後に一つだけ……」
そっと手を差し伸べると彼は目を閉じた。全身の輝きがさらに強まった。眩しい光の中で、彼は詠唱した。
「古より伝わりし《六元の宝珠》の管理者。名を《賢き者》アシェイトル。これよりその役目を終え、後進へと譲らん。譲られる者、名を……」
詠唱が中断する。
眩しい輝きの中、目を開いたアシェイトルはイリアに視線を合わせた。互いの視線を合わせたまま、詠唱を再開する。
「名を……神殿巫女にして、《等しき者》イリア。彼の者の名と魂と身体を以て次なる器とせん」
全身の輝きが胸元へと集まり、アシェイトルの胸元から外へと飛び出した。老人の時と全く同じ状況であったが、差しだされた掌の上に現れたそれは全く異なるものだった。
光り輝いていたはずの宝珠の姿はそこになく、注意しないと見落としてしまうかのようにその存在は儚げだった。その大きさは、ほっそりしたイリアの指先にも満たない。
「これは……、一体……」
怪訝な表情を浮かべるイリアに、アシェイトルは静かに答えた。
「宝珠の力は、先ほどの《戦の儀》において全て解放されました。今やこの遺跡を通じて世界へと広がり、その『あるべき姿』を映し出していることでしょう。人によってはそれらを……、『災い』と呼ぶのでしょうが……」
周囲の冒険者たちの間にざわめきが広がった。アシェイトルは、そっとイリアの眼前に手を差し出した。
「今やこの宝珠からは、全ての叡智が失われ、只の空っぽの容れ物に過ぎません。引き継ぐ価値すらないものとしか言えません。そのうえで尚、巫女殿……、正統な資格者として……、貴女は……、これをいかがしますか?」
そのやり取りを周囲は固唾を呑んで見守っている。差し出された空っぽであまりにも小さな容れ物を見つめたイリアはそっと目を閉じる。
浮かんできたのは、出会ってしばらくの時を過ごした肉親だったかもしれぬ老人の顔だった。
その最後の言葉がふと蘇る。
『自由に……、思いどおりに生きて……、幸せになりなさいな……』
宿命に縛られ続けた老人の最後の願いを反芻する。
何かに縛られる事なく振る舞いながら生きること――人はそれを『自由で思いどおりな生きざま』というのだろうか?
ふと視線を感じ、イリアは周囲を見回した。
最初に目についたのは、いつも厳格な義父の不安げな顔だった。
何かを言いたくともそれを自らの意思で抑えつけ、イリアを見つめている。
傍らに立つマリナもまた同様だった。
それは、イリアにとって最も身近な人達ですら決して踏み込むことはできない……、イリアだけが導き出さねばならぬ選択である事を理解する。
彼らの向こう側にいるザックスの……、そして冒険者達の視線までもが己に集まっていた。
――もしかしたら……、間違った選択をする事になるのかもしれない。
己の決定は『世界』というものの行く末に影響をあたえるのかもしれない、という不安がイリアの心を迷わせる。
――私は……、どうすれば……。
もう、泣き出すわけにはいかなかった。
もう、投げ出すわけにはいかなかった。
もう、逃げ出すわけにはいかなかった。
一つの選択をする――そのことで、己がただ守られているだけの存在のままではいられぬ事に気づいた。
背筋を伸ばし姿勢を正す。
まっすぐにアシェイトルに向き合い、イリアは口を開いた。
「引き継ぎます」
言葉にした瞬間、心中にあった様々な躊躇いが霧散する。
「私はこれを引き継ぎます。私が正統な資格者だからではありません。私が関わったお爺様や貴方の苦しみ、そして失われてしまった数多の命の意味と重さを忘れぬために……、私は……一人の神殿巫女として、これを引き継ぎ……いえ、受け止めます!」
堂々とした『巫女』の宣言だった。
アシェイトルはわずかに目を見張る。口元にかすかな微笑みが浮かんだようにイリアには思えた。
眼前に差し出された宝珠に両手をのばし、イリアは詠唱を開始した。
「古より伝わりし《六元の宝珠》の管理者。名を神殿巫女にして、《等しき者》イリア。これよりその役目を継承す。我が名と魂と身体……、その存在の全てを以て次なる器とせん!」
うつろなはずの宝珠に小さな輝きが生まれた。輝きは少しずつ小さくなり、やがてアシェイトルとイリアの手を覆った。
輝きが消える――。
イリアの中へと消えるはずだった宝珠は、未だに二人の手の中にあった。
ただし、小さな首飾りにその姿を変えている。
アシェイトルがわずかに目を見張った。
「これは……」
己の手の中の首飾りとイリアの顔を交互に見つめ、彼はふっと微笑んだ。
「形を変え、あり方を変え、空っぽの器の所有者には新たな役割が与えられた。全てが解き放たれて最後に残ったのは……希望か……、あるいは……」
聞き取れなかったその言葉に「えっ?」と怪訝な表情を浮かべるイリアの首に、アシェイトルは丁寧にそれを掛けた。
同時にアシェイトルの輪郭がぼやけ始め、その勢いは加速していく。
「お別れのようです……」
アシェイトルはイリアから数歩後退した。
「やっかい事を押しつけるやもしれぬ、私が言うのも滑稽ですが……」
微笑み、彼は続けた。
「貴女の未来に幸運な光あらん事を……、心よりお祈り申し上げます……」
ついにその姿が消滅する。
「さようなら……、イリアさん……」
消えゆく光の中、最後に見せたのはおそらく彼本来の表情だったのだろう。消えていくその表情をイリアは心に焼き付けた。
全てが終わり、戦いの気配が消え去ったその場所を、やがて沈黙と静寂がそっと覆っていった……。
2017/11/07 初稿