15 ザックス、導く!
静かな夜だった。否、静かすぎる夜だった。
草も木も虫も、あらゆるものが、眠りの世界へと誘われる。不気味ともいえる静寂に満ちた夜の空には『蒼月』が青々とした輝きに満ちていた。
遠い神話の時代から夜空に浮かぶ青い『蒼月』には、様々な言い伝えが残されている。
――曰く、そこにはこの世界とは違った人々が住んでいる、と……。
――曰く、そこは竜と竜人達の故郷であると……。
――曰く、世界を覇した《魔王》達が居を構え、日夜神々と戦い続けていると……。
子供達の空想を掻きたてる物語の題材として、吟遊詩人たちに語り継がれてきたその内容に真実がいかほど含まれているかは分からない。
だが、マナの扱いに長けた者達ならば、この夜の『蒼月』が世界に大きすぎる影響を与えるであろうことに気付いていただろう。そして、多くの者が己が家に静かに身を潜め、何事も起きぬ事を祈りながら、普段通りの朝の訪れを待つ。
上級レベルダンジョン『幻影の迷宮』の入口付近にあったのは五人の姿だった。ウルガ、エルメラ、ダントンの3人とその協力者であるザックス、そして最後の一人は創世神殿の高神官ライアットの姿だった。
「若いの、足を引っ張るでないぞ」
「おっさん、あんたの方こそ、今日は出し惜しみしてんじゃねえぞ。体力に不安があるんだったら、そろそろ引退を考えるんだな」
先日の《ドラゴンゾンビ》との戦闘の際の乱入は、あまりにもタイミングが良すぎた。おそらく今日の為に、ザックスの力量を影から計っていたのだろう、とおおよその察しがついた。
「ザックス、お前、ライアットさんと知り合いなのか?」
「ちょっとした縁でな、でも知り合いなんかじゃねえ。多分、天敵だ!」
ザックスの勘は、なぜかそう告げていた。攻撃的な視線で睨みつけるザックスとそれを軽く受け流すライアット。二人の姿に、ウルガ達は顔を見合わせる。
「そんなことより、なんで、このおっさんがここにいるんだ?」
「今までもライアットさんには上級ダンジョン攻略時に、力を借りてきたんだ。何か気になるのか?」
先日の《トロイヤ》での一件の事もあり、ライアットに対してはどうにも素直になれない。
「そりゃまあ、実力不足とは思えないけど……。でもこれからの相手は《魔将》なんだろ……。いいのか?」
《魔将》との戦いは、ダンジョンの踏破などとは全くレベルの違う問題である。少なくともザックスはそう考えていた。死ぬことすら考えられるその戦闘に協力を申し出るなど正気の沙汰ではない。ザックスの問いに答えたのはダントンだった。
「まあ、創世神殿に仕える神官ってのは、俺達とどうも頭の構造が違うらしくってな。己の命よりも世界の秩序が大切な場合ってのがあるらしい。詳しい事は俺も知らんが、《魔将》ってのは秩序を乱す者と考えられているそうだ」
どうやら、ここは一時休戦すべきであるらしい。何故、二人の間がそういう風になってしまったのかは、当のザックスにも理解できぬ問題であるが……。
「ヘマをするなよ、若いの」
「おっさんこそ、気ぃつけな!」
その言葉で休戦の意思表示を互いに確認した。顔合わせを終えたウルガ達は、やがて最後の確認事項に入った。
「手順を確認する。俺達はこれから《跳躍の指輪》を使って、このダンジョンの第49層にある転移ポイントに突入する。見晴らしのいい場所ではあるが、遭遇戦の危険もある。転移完了と同時に周囲の状況は必ず確認しろ、特に頭上は要注意だ!」
ウルガが一同を見渡した。最後にザックスに向かって言い渡す。
「特にザックス、お前は絶対に手を出すな。ここらはA級からAA級の周回モンスターがごろごろしている場所だ。逃げ回って身の安全を第一に考えろ。お前の仕事は闘う事じゃない、ということを忘れるな」
「ああ、分かってるよ!」
「周囲の安全を確保すると同時にリーダーの交代。ザックスは俺から《跳躍の指輪》を受け取ると同時にマーキングを忘れるな。完了と同時に進撃開始だ。極力無駄な戦闘を避け、第50層の扉にたどりつく事のみを最優先しろ」
ザックス以外の四人の身体からは、ダンジョン攻略に臨む際の冒険者が放つ特有のピリピリした空気が漂っている。『錬金の迷宮』の際には、まだ彼らが本気ではなかったという事を改めて思い知る。
「扉に辿りついてからが、ザックス、お前の出番だ。開けると同時に現れる無限回廊の幻影から、俺達を導け」
「気楽にやるんだよ……」
「まあ、こればっかりは運任せだからな」
「奴と遭遇したら隙を見てお前はパーティを離脱。タイミングは俺の指示を待て。離脱と同時に《跳躍の指輪》を使って迷宮を脱出。夜明けと共に《跳躍の指輪》を使って転移ポイントに再転移し、俺達を回収するんだ」
これがザックスがウルガ達に示した一手だった。ザックスを置き去りにして自分達だけ逃げ出した『若様』達のやり方を逆手に使い、非力な己の身を守りながらウルガ達の目的を果たさせる事を可能としたのである。
「再転移でヘマするんじゃないよ」
「分かってるよ」
「転移の際は必ず危険を伴う。俺達の姿がなかったら直ぐに離脱するんだ、いいな!」
「了解」
「以上だ。聞きたい事はないか?」
全員が沈黙で返答する。
「行くぞ! 俺達はここで必ず奴とのケリをつける!」
言葉と同時に《跳躍の指輪》が発動する。転移時の奇妙な浮遊感に身をまかせながら、ザックスはごくりと唾を飲み込んだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「妙だね」
周囲を警戒しながら、エルメラが首をかしげた。
「うむ、前回はしつこいほどに遭遇した周回モンスターに、一匹も出会わんとは……」
ザックスの背後に立つライアットが同意する。第四十九層の込み入った通路を進みながら、パーティの面々は首をかしげていた。
星詠みの託宣を受けた直後、下見がてらにこのダンジョンを踏破した四人によれば、モンスターとの遭遇率は半端なものではなかったらしい。ウルガ達ですら途中脱出を含めて数日を掛けて踏破したというのだから、恐ろしいものである。冒険者に脅威を与える様々なトラップに細心の注意を払いながら歩くザックスを真ん中に、一同はモンスターの気配の全くしない通路を、目的地目掛けてひたすらに歩み続けていた。
「あれだ」
先頭を歩いていたウルガが立ち止まる。最下層である第五十層へと続く《帰らずの扉》が、重々しく立ちはだかり行く手を塞ぐ。
「大丈夫か、ザックス。顔色が悪いぞ」
ダントンが中央に立つザックスを気遣う。
「ああ、大丈夫だ」
とはいえ、背筋に走る悪寒は並々ならぬものがある。強烈な波動となって渦巻くマナの様子が、頑強な作りの扉を通して感じられる。これが上級レベルダンジョンなのか? 今まで踏破してきた中級レベルのそれと比べて圧倒的に異なるその迫力に呑み込まれそうになる。
「少し休むかい」
事情を理解するエルメラの心配そうな言葉に、ザックスは返答する。
「いや、行こう。待っていても、この波動が弱まる訳じゃないんだから……」
言葉と共に扉に手を掛ける。五人のメンバー全員が力を合わせて扉を押し開けた。そして、その先の空間にザックスは目を奪われた。
普段ならば、大広間につながる通路がぽっかりと口を広げているその場所には、幾つもの幻影が同時に現れては消えていく。
それが密度の濃いマナによっておこされる現象である事に気付いたものの、無数に現れては消えて行く事象は、手のつけようがない。
右に、左に、上に、下に。
平衡感覚が狂いそうになるのを必死で押しとどめながら、ザックスは足もとの地面に意識を集中する。幾百、幾千、幾万にも展開する世界の中からただ一つの正解を選びださねばならない。それは不可能としかいいようがなかった。
思わず後ずさったザックスの背を、ウルガが押さえた。
「前もこうだったのか?」
「ああ、あの時はさほど意識をしなかったのだがな、改めて見ると凄まじいものだな。一度、引き返すか?」
その言葉に途方に暮れる。仮に引き返したところでいい案が浮かぶ訳でもなく、やみくもに前に進んでも正解にたどりつけそうには思えない。いかに悪運度MAXを誇るといっても文字通り運任せにする事は、正しい選択とは思えなかった。何かのきっかけが必要といえた。
「仕方がないな……」
ぽつりと呟きながらライアットが《袋》から何かを取り出した。
「それにマナを込めてみろ……」
若干、嫌そうな顔をしながら渡されたのは《護符》だった。ライアットの態度に釈然としないものを感じながら、ザックスは言われたとおり、左手に《護符》をのせてマナを込める。マナを込められた《護符》は瞬時に激しく燃え上がった。
「えっ?」
炎の中から護符の中におさめられていた幾筋もの銀色の糸が柔らかく宙に浮遊し、ザックスの左手に絡みつく。その銀糸から懐かしく温かなマナの波動を感じた。
「おっさん、これってもしかして」
驚くザックスにそっぽを向いて、ライアットはぶつぶつと呟いている。
「まったく、なんだってこんな馬の骨の為に、あの娘の……」
その言葉に確信する。これはイリアの髪の毛である、と。
手にふわふわと絡みつく彼女の髪にこもったマナが周囲の混沌としたマナを浄化し、ザックスの感覚を研ぎ澄ませていく。銀糸に導かれるまま、再び前に一歩歩み出たザックスは静かに目を閉じた。
途端に幾つもの凶悪なマナが襲い掛かるようにザックスの感覚を刺激した。
それらはおそらくこの無限回廊の先に手ぐすねを引いて待ち構えている凶悪なボスモンスター達のものであろう。これまでに出会った事のない強力なマナの波動にうろたえながらも、ザックスはそれらが自分達の求めるものではないと直感した。
「違う、俺達の行くべき場所はこいつらのところじゃない。もっと別のところだ」
押し寄せる圧倒的なマナをイリアの銀糸による浄化に任せながら、一歩ずつ先へと歩を進める。
「お、おい、ザックス」
慌てて四人がついてくる様子をその背で感じながら、目を閉じたままのザックスはその研ぎ澄まされた感覚でさらに気配を探っていく。
不意にザックスの感覚の中に違和感が生じた。無数の暴力的なマナの波動の中にちらほらと感じられる『無』の事象。似たようなものは他にも幾つもあるが、そこだけは他の何かと異なっている。立ち止まったザックスはその『無』のさらに奥へと意識を集中する。……と、彼はその違和感の正体に気付く。
それは『無』ではなく『静』であった。一見『無』としか思えぬほどに圧倒的な『静』の中で何かが息づいている。
――ここだ!
ザックスの勘がそう告げた。確信ではなくあくまでも直感。後は運任せである。
目を開いた彼は振り返ると四人の仲間達にはっきりと告げた。
「行こう、ここが俺達の目的地だ」
言葉と同時に周囲の景色が暗転する。ザックスの肩や背中に触れていた彼の仲間たちも又、転移していく世界へと呑み込まれていく。
そして僅かな浮遊感の後――、揺らぎ終わったその場所に現れた五人の眼前には、一人の男が立っていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
周囲に広がる景色は室内のそれではなかった。
岩塊がぽつりぽつりとあるものの、足元には砂浜が広がり、少し離れた場所には海が見える。だが、水平線の彼方に目をやれば、その景色が揺らいでいた。隔絶された異空間、それが適切な表現であろう。
その場の主とも窺えるその男はただ静かにそこに立っていた。整った顔立ちに涼しげな目もとのその男は、すらりとした長身に漆黒の騎士甲冑を纏い、左腰には見慣れぬ形の大剣を吊っていた。
無言で近づいていく五人の姿。やがて彼らは足を止め、静かに立ち続ける男と対峙した。
「ラヴァン……」
しばらくの沈黙の後にエルメラが声をかけた。幾つもの想いが込められた彼女の呼びかけに男が答えた。
「その名で呼ばれるのは久しぶりだ。エルメラ、ウルガ、ダントン……知らぬ顔も混じっているようだが、少し変わったか……」
「五年だ。あれから俺達は五年の歳月を過ごしてきたんだ。お前は変わらないな、ラヴァン……」
「五年……。もうそんなになるのか。時の流れは早いもの……、いや、そこから外れた俺には、もはや関わりない事……」
「ふざけないで、あんたにとって私達はもう関係のないものだっていうの?」
「そうだ、俺はもはや《魔将》と呼ばれる存在となった身。《現世》の些事など詮無きこと……」
その言葉にダントンが舌打ちをする。
「ふざけるな、テメエ、ロットを殺ったこともなかった事にしようってのか!」
「いったはずだ、ダントン。些事であると……」
「ラヴァン!」
拳を震わすダントンの傍でウルガが叫んだ。
「お前、人の心を投げ捨て、化物と成り果てたのか……」
「それが、今の俺そのものだ。《剣》を司る《魔将》エイルス、それが今の俺の名だ」
「五年間、俺達はお前を追い続けてきた。その間、お前に執着する事で俺達は自分達の時間が止まっている、そう思っていた」
「相変わらずだな、ウルガ。お前が本当に執着していたのは俺ではないだろう。俺を追い続ける事でお前は自分の愚かさと向き合っていただけだ」
ウルガが沈黙した。ラヴァンは続けた。
「冒険を重ねる事で、未知の物へと挑むうちに、お前達は皆少しずつ変わっていった。俺以外を除いてな。俺の居場所はもうお前達のところにはなくなっていた、とっくにな……」
「ラヴァン、あたしは、あんたを……」
「やめろ、エルメラ。愛だの恋だのというのは、所詮、ひと時のまやかしだ。お前も又、俺を置いて変わっていった者達の一人だ」
エルメラも又沈黙した。言いたい事、告げたい思いは山ほどあるのだろう。だが、それは言葉に表せるようなものではない。共に時を重ねることで、感じ合う事しかできないものである。時を大きく隔ててしまった彼らの間では、おそらく通じることは永遠にないのだろう。
「俺達は道を分かち、こうなる運命だった。そして分かたれた運命は決して交わる事はない」
「もう何を言っても無駄だということか」
「そうだ」
「分かった」
ウルガは自身の《袋》から携帯ボトルを取り出し、それをダントンに渡した。中身を一口含んだダントンはそれをエルメラに、そして同様にしてエルメラはウルガにそれを返した。返ってきたボトルの中身を一口含みウルガは、それをラヴァンに放り投げる。
「ノキル酒か……」
「そうだ、5年前、俺達はそれを飲むことなく別れた。それを今、ここで果たそう」
「いいだろう」
ノキル酒を口にしたラヴァンは、そのボトルを宙に放り投げ、やおら腰の《大太刀》を引き抜き、一閃した。二つに割られたボトルは瞬時に炎に包まれ、宙に消失した。ザックスにはラヴァンの剣さばきが全く見えなかった。己が場違いな存在であるという事実に、密かに歯ぎしりする。
怪しい輝きを放つ刀身を右手に、ゆらりと立つラヴァンは眼前に立つ五人に向かって宣言した。
「我こそは《剣》を司る魔将エイルス。ここは我が守護する場所。速やかに立ち去るならばよし。かなわぬならば我が剣の贄としてくれよう」
エイルスの名乗りに答えるかの如く、ウルガも又、背の《大剣》を引き抜いた。
「魔将エイルスよ。最後に一つ聞きたい。貴様は《杯》の魔将の企てに加担しているのか?」
その問いにエイルスは僅かに戸惑いを見せたものの、速やかに返答をよこす。
「知らぬな。確かにこの身がこの地にあるのは彼の者の企てであるが、それ以上は関わりなきこと。彼の者が《現世》に何らかの企てを行えども、その真意などに興味はないな」
「そうか、返答、感謝する」
己が背の《大剣》を引き抜いたウルガが、ザックスの正面に立ち、彼に命じた。
「行け、ザックス、お前の役目はここまでだ。ここからはお前に関わりない世界。奴の強さが理解できるくらいには、お前も成長しているはずだ」
「ウルガ……」
背中越しに僅かに振り返ったウルガが、その口元に小さく笑みを浮かべた。
「世話になったな、お前はお前の目的を果たせ。さらばだ……」
言葉と共に魔将に向かって歩みを進める。さらに三人がそれに続く。無意識に後を追おうとして、ザックスは立ち止まった。
それは正しい選択ではない、己はウルガ達に与えられた最後の役目をまだ果たさねばならない――ザックスの足を止めたのは、尊敬に値する先達との約束だった。
「帰ってこいよ、絶対に……」
叫びながら《跳躍の指輪》にマナを込める。そして……、ザックスは、ウルガ達のパーティを離脱した。
2011/07/29 初稿
2013/11/23 改稿




