28 イリア、涙する!
ぼんやりとしたその視界に映ったのは、愛娘の姿だった。彼女は己にむかって何かを必死で呼びかけている。
――ああ、また夢を見ているのだ。
朦朧とした頭で彼はそう理解した。
彼女はもうこの世にはいない。その事は分かっているはずなのに、死んだはずの娘がそばにいる事が当たり前なのは、夢という世界の中だけの特権だった。
彼女を失った直後は、毎夜のようにその夢を見た。
微笑み、涙し、怒りで頬を膨らます。
年をとってできた娘ではあったが、生前はさほど振り返る事のなかったその一つ一つの表情が、夢の世界で声の出せぬ己を苦しめた。
涙を流して朝を迎え、己の罪の深さを思い知る。
いつしか時とともに、夢を見る日も少なくなり、己が少しずつ忘却している事に気づいた。
死んだ愛娘の事すら忘れさせてしまう老いと忘却は、創世神が与えた薄情な己への罰なのか、あるいは救いなのか?
目の前で己に呼び掛ける彼女に、もうしばらくだけそこにいてほしい、そう頼んだ。
「もう少しだけ、幸せな夢を見させておくれ……」
出ない声を振り絞り、その名を呼んで必死で彼女に訴える。ほんの少しだけ戸惑った表情を浮かべた彼女はそれでも優しく微笑んだ。
「大丈夫です。私はここにいますから……、お爺さん」
違和感を覚え、それをきっかけに意識が急激に覚醒する。
はっきりとした視界に映ったのは、神殿巫女の少女だった。
「お嬢さん、どうして、ここに……」
最後の記憶をたどる。
己が歪めてしまった愛弟子の手によって精神と身体が束縛されたところで、記憶が途切れている事を思い出す。
少しだけ困ったような表情を浮かべた少女だったが、すぐに老いた身体に手をかざした。
温かな温もりが傷だらけの身体を少しずつ癒していく。
酷い暴行を受け、己が傷ついていた事をようやく思い出した。
「お嬢さん、一体どうして、ここに。そもそもここはどこじゃ?」
少しだけ身を起こして老人は周囲を見回した。オレンジ色の空に短い背丈の草原が果てしなく広がっている。その光景に見覚えはない。
「その、私にもよく分からないのですが……」
神殿巫女の衣装を身にまとった少女――イリアが困ったように答えた。
「では私が代わりにお答えしましょうか」
宙空から聞き覚えのある声が聞こえた。声の主に心当たりがある老人の表情が険しくなる。
ぼんやりと輝き始めた空間から人の姿が現れた。
「《魔将》ヒュディウス……。主か」
「ええ。御老人、ご気分はいかがですか」
互いの視線がぶつかった。力ない笑みを浮かべつつも老人は答えた。
「ヒョヒョ、つい先ほどまでは懐かしい夢を見て良い気分じゃったんじゃがのう……」
「それは失礼を……」
わずかに魔人は肩をすくめた。
「で、聞いてもよいかの、ここはどこじゃ?」
「多分、御老もご存じの場所ですよ。古の時代に《封邪の塔》と呼ばれた場所の最上階です」
「なん……じゃと……」
大きく老人は目を見張った。
《忘れられた遺跡》ラヴィロディアの外縁部に位置する三角塔――古より決して触れてはならぬと伝えられ、封じられてきたその場所に彼らは身を置いているらしい。
「眠った貴方をここに連れてきたのはアシェイトルさん。そしてそちらのお嬢さんを連れてきたのは私です。もしかしたら、怪我したお身体にはきつかったかもしれませんね」
平然とした表情で魔人はそっと一礼する。
老人はしばらく無言のままだった。やがて彼に問う。
「アシェイトルはどこじゃ?」
「すぐ、おそばに……。お繋ぎしますか?」
「やってくれ」
イリアの力を借りて老人はその場に、身を起こす。
では、という声とともに周囲の光景ががらりと変わる。
その場所は石造りの大広間。広さこそ圧倒的であるものの大礼拝堂によく似た光景だった。
「先生、お目ざめになられたようですね、お加減はいかがですか?」
「アシェイトル、主は……」
怒りの表情を浮かべる老人の前に、平然とアシェイトルは立っていた。
「これで全ては終わりました。先生、後は……、先生次第です」
全てを悟ったかのように穏やかにアシェイトルは微笑んだ。
不意に彼の眼前に結晶が一つ実体化する。懐から金色に輝く杯を取り出したアシェイトルは、其れを手にすると杯の中へと移した。結晶が杯に放り込まれた瞬間、杯が眩しく輝いた。
「また一人、偉大なる神の御許に御使いが旅立ちました」
「いい加減にせよ、アシェイトル。神様ごっこなど止めぬか!」
「ごっことは……聞き捨てなりませんね、先生。我らが偉大なる蛇神は常に我らをお守りくださっております」
「やめんか、そのような世迷言、主が一番よく分かっておる事であろうが!」
「既にあらゆる禁忌を犯した身。私に怖れるものなど最早、存在致しません」
互いに押し黙り、視線だけがぶつかり合う。
「ヒョヒョ、道は交わらず……か。もはや言葉も通じぬとはの……」
老人が視線とともに肩を落とす。
「私の申し出に耳をふさぎ、道を交えぬようにしているのは、先生、貴方なのですが……」
アシェイトルの言葉に老人が顔を上げた。
「どういう事じゃ?」
「そのままの意味です。先生が背負われておられるものは最早、老いた身には重く、辛いはず。故に私が代わりにそれを背負うと、申し上げているのです」
「言ったはずじゃ。半獣人であり、兎族ですらない主には到底かなわぬ事じゃと……」
「古の血の縛り……というやつですね」
老人がわずかに目を見張る。
「主、そこまで到達しておいて何故……。いや……それほどまでに世界が憎いか?」
「ええ。この愚かで愚かでどうしようもなく愚かな者達が集い、群れなし、過ちを繰り返し続けるこの世界が……、そのような世界の支配者たる創世神という名の紛い物の神が……、私は憎くてたまりません」
言葉とは裏腹にその表情は穏やかなものだった。
「だから神への復讐という訳か。獣人種の力を強制的に覚醒させる禁忌、偽りの神を騙る禁忌、そして……同胞を喰らう禁忌。主はそれを犯したのじゃな。主に良心というものはないのか、アシェイトル!」
怒る老人の傍らでイリアは小さく息を呑む。アシェイトルは穏やかに微笑み続けた。
「その程度の事、私にとっては禁忌でもなんでもありません。他者が何らかの意図をもって押しつけた禁忌など、一度犯してしまえば、彼らの意図を知り、禁忌を定めた側に立つ者の弱さと怯えが見えるもの。私が犯した禁忌とは、偉大なる父を殺さねばならなかった事、そして、これから敬愛する先生、貴方を殺さねばならぬ事です」
「そ、そんなこと、駄目です。絶対にしてはいけません」
思わずイリアは二人に割って入った。
「お嬢さん、貴女を巻き込む事になってしまったこと、心苦しく思います。ですが、私も、先生も、そして蛇族全体ももう引き返す事は出来ないのです」
「部族の過ちと暴走を止め、正しく導くのが長の役目ではないのか? アシャリム殿はそうして生きてきたはずじゃ」
「かつてはそうでした。ですが、そうではなくなってしまった。言ったはずです。老いが父を変えたと……」
アシェイトルの顔はどこか寂しげであった。
「いつの頃からか、蛇族は六部族の一角以上の存在たる事を望むようになった。そして 先々代はその野望に忠実に従い、獣人族社会に大きな混乱を招いた。神殿の力を借り、その野望を食い止めた偉大なる父。そして、先生、貴方もそれに御尽力された」
「そうじゃ、もう随分と昔の事……」
老人は遠い目をして、過ぎ去った過去に思いをはせる。
「獣人族全体からみれば正しいはずの行いも、増長し続けた蛇族からみれば只の裏切り者でしかない。長としての信念を支えた若さと気力が失われれば、蛇族という集団の中の一員としての焦りと後悔が顔を出す。やがては自らの選択と行動によって生まれた半獣人の息子である私の存在までもが疎ましくなっていった。そしてその弱さに、近視眼的な愚者共が言葉巧みにつけ入った……」
アシェイトルは老人を正視する。
「いかに崇高な理念と正論も多数の無知にはかなわない。目先の利に惑わされ己のことだけが可愛い愚者共が声をそろえてあげる不満の声。例え、力づくで押しとどめたとしても、それはすぐに別の形で現れる……。ならば……愚者共に望みをかなえさせ、その結果訪れる彼らにふさわしき破滅を以て、その愚かさを教えるしかないのです」
老人の表情が歪んだ。それはかつて己が通った道だった。
「潰えて尚、分不相応な望みを抱き続ける純粋種達、そして、自らが蛇族の未来であることに誇りと確信をもてぬ半獣人達。互いに相憎み合い、歩み寄る事は無かった」
小さく彼は溜息をついた。
「かつて兎族は、この地を自ら捨て、大陸全土へと広がっていった。それは、兎族という獣人種としての弱さを自ら認め、幾世代もの長い時の中での苦労と葛藤を重ねてようやく手に入れたもの。自らの過ちを認めず、己の在り方こそが唯一絶対であると信じて疑わぬ我ら蛇族。人と形ばかり交わったところで、見ている世界が狭い以上、その先に未来は無かったのです。たとえ誰かが器を整えたとしても、その器にふさわしい中身を自らの手で満たそうとしなければ、何も変わらない……、その厳しい現実に誰も向かい合おうとしなかった」
イリアも老人もそして宙に浮かぶ魔人も黙したままだった。
「最初は小さな歪みだった。誰かがその時声をあげ、その過ちを認め正せば、そこで終わるはずだった。だが、誰もそれをしようとせず、結果として過ちは過ちを生み、重ね、それだけが真実となった。長としての私の最後の使命は、父が曲げた蛇族のあり方を元に戻す事。そしてそのあり方そのものが間違っている事を知らしめること」
「だから……、半獣人を犠牲にしたのか……、主は」
「そうです。代わりに彼らは、幻の強者の力に酔いしれ、自らを蔑んできた純粋種に報復し踏みつけ、一時の夢を見た。十分な対価ではありませんか?」
アシェイトルは懐から、輝く杯を取り出す。
「ヒュディウス殿の協力で、今、私の手にはこうして彼らの生きた証が集まっている。憎しみ、悲しみ、喜び、怒り、恐怖、絶望。様々な魂の叫びこそが、生きた人の身では決して叶わぬ私の力です」
懐に杯を治め、アシェイトルは座ったままの老人の前に片膝をつく。
「先生、あえてもう一度お願い申し上げます。どうぞ、私に《六元の宝珠》をお譲りください。その力を持って、私はこの世界の真実を広く大陸全土に知らしめましょう」
アシェイトルは頭を垂れた。
《六元の宝珠》。
聞き慣れぬ言葉であったが、それを尋ねるのはイリアには憚られた。
誰もが沈黙する中、老人がその場から立ち上がろうとした。よろめく老人にイリアが肩を貸した。
「ありがとう、お嬢さん……」
イリアの支えを借りて立ち上がった老人は、礼を言うと己の力で数歩歩いてアシェイトルから距離をとる。
一つ大きく深呼吸をすると、背筋を伸ばし、老人はアシェイトルに向き直った。
「アシェイトルよ。いや、蛇族総族長アシェイトル殿。主の苦しみ、形ばかりの総族長であるワシには、おそらく決して分からぬ事じゃろうよ。いや、主の苦しみの一端は、かつてのワシの所業の所以である。済まなかった……、もっと早くに気づいておれば……。そのような言葉で謝っても謝りきれるものではない。償っても償いきれぬものではない……それでも言おう。許せ……」
片膝をついたままアシェイトルは顔を上げなかった。
「じゃが、ワシもまた形だけとはいえ、兎族総族長、そして、我が一族が古より預かり続けた《六元の宝珠》への責任がある。ワシはワシの責任において、この力を正統な資格無き者に預ける事はできん。あの悲しみを再び目にしたくは無いのじゃ……」
老人の脳裏に映ったのは、愛娘とともに幻と消え去った不毛の大地だった。
「ゆえにアシェイトルよ、ワシは主とともに往こう。ともに創世神の元へと赴き、その罪をワシもまた引き受けよう。許せ。我がたった一人の弟子よ……」
その言葉にほんの一瞬アシェイトルの肩が震えた。
「分かりました、先生。既に貴方をこの場所にお連れした事で、不完全ながらも我が目的の大半は成し遂げられております。かの紛い物の神とやらの御許へ共にお付き合いいたしましょう」
アシェイトルの言葉に老人の表情がわずかに歪んだ。
「これより、古より受け継がれたわが《六元の宝珠》の力を解放しよう。主と、そして……」
老人はイリアに目を向けた。
「すまぬ、巫女殿、ワシは恩義あるお嬢さんを巻き込んでしまう事になる。どうか、許してほしい」
その言葉にイリアは息を呑む。
それは老人が何らかの力を持って、自分をも含めたこの場全ての者を、破綻の運命へと巻き込むことを選択したことに他ならなかった。
――私は死ぬ……。
その事実のみがイリアに突き付けられた。
視界がぐるぐると回る。義父の顔が、姉たちの顔が、そして出会ってきたたくさんの人々。体験した多くの出来事……。
ぐるぐるとそれらが脳裏に浮かんでは消えていく。
――もう皆に会う事はできないんだ。
ジワリと涙が浮かび上がる。
『忘れるなよ、小娘! 今のお前だってその命を落とす若いやつらの一人になりかねないという事を。他人事だなどと甘く考えていたら痛い目に遭うぞ!』
レガードの言葉が思い浮かんだ。その本当の意味を思い知る。
――いやだ、死にたくない、誰か、助けて!
その言葉が喉元まで出かかった。大声で泣き叫びたかった。
でも、それを留めたものがあった。脳裏に浮かんだのは、敬愛する姉巫女の凛然とした姿だった。
――私は神殿巫女なのだ。
それは己が選んだ事。幼い心に抱いた憧れを胸に、そうなりたいと……近づきたいと……離されまいと……願った事。
だからそれを汚す行為はできなかった。故に彼女は背筋を伸ばし胸を張る。
「構いません、私は、それを創世神より与えられた運命として受け入れます」
言葉にした瞬間、大粒の涙がこぼれた。
理想通りに毅然と振る舞いたい――そのような意思とは無関係に涙は後から後から湧いてくる。胸の中から苦しみが湧きあがり、堰を切ったように流れ出す。
神殿巫女なのだ……。
私は神殿巫女なのだ……。
私は神殿巫女でなければならないのだ……。
両袖で必死であふれる涙をぬぐいながら、自分自身に言い聞かせる。
「すまぬ、お嬢さん、本当にすまぬ」
老人の詫びの言葉は彼女を慰めるものではなく、傷つけるものにしか聞こえなかった。そんな風に感じてしまう己までもが、イリアは無性に悲しかった。
アシェイトルは動かない。そして老人は己の力を解放する準備に入ろうとした。
「申し訳ないんですが、御老体、そろそろ身勝手な振る舞いはやめていただけませんかね?」
全てを受け入れようとした三人をそれまで黙って傍観していたヒュディウスだった。
「主には関わりのない事であろう」
老人がキッと顔をあげ、彼に答えた。
「たしかにそうかもしれません。それでもあえて、御忠告申し上げます。貴方は『また』同じ事を繰り返すおつもりですか?」
意味深長な言葉に老人は眉をひそめた。
「どういう意味じゃ」
ヒュディウスは意味ありげに笑う。
「ですから……『また』、『同じ』、『過ち』、を繰り返すおつもりかと尋ねたのですよ」
「主、何が言いたいのじゃ?」
「《現世》の存在たる者達の運命の輪に私が干渉すべきではないのですが……。仕方ありません。では、お耳を拝借……」
老人の傍らに身を移すと、ヒュディウスは何事かを老人に囁いた。
「なん……じゃと……」
老人が驚愕の表情を浮かべた。視線の先には目を真っ赤にして泣きじゃくるイリアの姿があった。
「バカな……事を……、貴様、この期に及んで……何を……」
怒りに顔を赤く染める老人を、ヒュディウスは嘲笑う。
「この世に偶然の出会いなどというものは存在しません。そして私は杯の《魔将》ヒュディウス。『命縁』を起源に持つ者ですよ、フェディクスさん」
ヒュディウスの言葉に老人は茫然とする。やがて、その場にぺたりとへたり込んだ。
「なんということじゃ……、そんな事……、そんな事……、あるはずがない……」
幾度もそうつぶやきながら、老人は続けた。
「一体、どういう事ですか、ヒュディウス殿……」
アシェイトルが眉をひそめて尋ねた。つぶやき続ける老人を醒めた目で見下ろしながら、ヒュディウスは答えた。
「なぁーに、いつまでも己が世界の中心たる事を信じてやまぬ、少しばかりこの思いあがった御老体に、創世神とやらが下した神罰というものを教えて差し上げたのですよ」
その言葉に老人が怒りをあらわにする。
「ヒュディウス、貴様、ワシを謀り、誤った導きをするつもりじゃな」
「まだ、いいますか、この思いあがった御老体は……、では真実というものを見せつけてさし上げましょう……」
振り返ったヒュディウスは泣きはらした目をしたイリアに問う。
「お嬢さん、貴方の御父君の御尊名をお聞かせくださいますか?」
突然尋ねられたイリアは、その質問に警戒する余裕もなく、素直に答えた。
「私の義父は冒険者にして高神官ライアット。血はつながっていませんが、幼い時に私を何処かで拾いあげ、神殿でともに暮らし、今日まで過ごしてまいりました。私にとっては大切な……本当の父です」
もう会えぬだろう義父の大きな背中を思い出し、再びこみ上げそうになる涙をイリアは必死で我慢する。
「ライアット……じゃと……」
老人は真っ青になって呆然とする。それを冷ややかに見下ろし、ヒュディウスは老人に宣告した。
「そういう事です。『許せ』だの『すまない』だのと口先だけで物分かりのよい老人を演じたところで、いざとなったら純朴な若者達を自分の都合でためらいなく、生贄にし切り捨てる。貴方方老いた者達の行動の本質はどこまでも身勝手。だから運命に復讐されることになるのです、このようにね……」
力なき眼で老人はヒュディウスを見上げた。口元に嘲笑を浮かべ軽蔑しきった視線を老人に向け、ヒュディウスは一礼する。
「さて、私の出番はここまでです。傍観者として舞台の結末を見届けましょう。後は貴方のご自由に、奪うなり壊すなりしてくださいませ、断絶種の長殿」
ヒュディウスの言葉の剣が、老人の命脈を絶ち切った。
何かが壊れた瞬間だった――。
手をつき、肩を震わせる。
涙で地をぬらし、やがて、老人は大きな声で泣き始めた。その場に崩れ落ち今は亡き愛娘の名を呼びながら老人は泣き続けた。
老人の変貌にイリアもアシェイトルもしばし呆気にとられていた。
ただ、時間だけが過ぎていく。老人は何度も何度も謝りながら泣き続けていた。
どのくらい時が経っただろうか?
老人は泣く事をやめ、顔を上げた。その顔からは張りつめたものがすっかり抜け落ち、穏やかなものへと変わっていた。
改めてイリアを見て、アシェイトルを見た。
「アシェイトルよ……、主の希望通り《六元の宝珠》を主に譲ろう」
「先生?」
「ただ、一つだけ約束してほしい」
「なんでしょう?」
老人は一つ大きく息をつく。
「正当な資格無き主がそれを扱う以上、主の行く先には破滅しかない。せめて、そこのお嬢さんだけはその道から外してほしい」
「心得ました、先生、お約束しましょう」
「信じてよいのだな?」
「破門した弟子の言葉を信じていただけるのならば……」
「そうか……」
老人は穏やかに微笑んだ。イリアに呼びかける。
「お嬢さん、いや、イリアさんや……」
びくりとイリアの身体が震えた。その姿に老人はわずかに頬を歪めた。
「すまなかったのう、イリアさん。あやうくワシは……、苦しい中でもあれだけよくしてくれた恩義あるアンタに泥をかけ、その厚意を踏みにじるところじゃった。所詮、ワシは……、優しいアンタにそのように警戒と怯えの顔をさせてしまう……、浅ましく卑しいジジイじゃった」
平時ならば、それをすぐさま否定しただろう。けれども今のイリアには、老人にどう答えればいいか分からなかった。
「お嬢さんや。ここから先のワシの選択は大いなる過ちであり、後の世に災いを生みだす事となるであろう。だが、それでも、ワシにとってはもう決して失うことはできぬものを守るためだったのだと、覚えておいておくれ」
それがイリア自身の事である事は彼女にも理解できた。だが、何故そうなるのかは今の彼女に理解できなかった。
最後に一つ柔らかく微笑むと老人はすっくとその場に立ちあがる。
その全身が眩しく輝き始めた。老人は高らかに詠唱する。
「古より伝わりし《六元の宝珠》の管理者。名を《等しき者》フェディクス。これよりその役目を終え、後進へと譲らん。譲られる者、名を《賢き者》アシェイトル。彼の者の名と魂と身体を以て次なる器とせん」
全身の輝きが胸元へと集まっていく。やがて輝きは一つの光の珠となって、老人の胸元から外へと飛び出した。それを掌に浮かべると、老人は宙に置いた。その場から力なくよたよたと数歩下がって、その場に崩れ落ちる。
条件反射でイリアは老人のもとへ駆け寄った。
横たわる小さな体を抱き起こす。その体内のマナが急激に減少していくのを感じ取った。
老人の表情から生気がどんどん失われていく。
「ヒョヒョ、皮肉なものじゃ。兎族の為、獣人族の為、そして世界の為。己の肉親までを犠牲にして世界に尽くしてきたワシが、最後の最後に全てを裏切る事になるとはの……。まあよい……。それでもワシは……同じ過ちだけは繰り返したくなかった……」
薄れていく視界の中でぼんやりと浮かぶのは、娘によく似た、否、存在するはずのない己が肉親の顔だった。
「どうして……ですか……」
ぽつりとイリアが尋ねた。老人は力ない笑みを浮かべた。
「ヒョヒョ、長く生き過ぎた。そして過ちを犯し過ぎた……。時に正しいと思いこみ、あるいは思いこまされての……」
ふわりと小さな輝きが老人の身体から宙へと舞い上がる。
「何かを犠牲に捧げて通した大義はやがて必ず代償に見合う見返りを己に求めるようになる。どんなに崇高な志も、そこに価値を認め受け継いでくれるものが存在しなければ、所詮、戯言にすぎぬ。そして……価値とは人のつながりの中から生まれるもの。つながりのない世界の真理なぞよりも、時にたった一つの目の前の命を守る事の方がずっと大切なんじゃ。わしはようやくその事に気づいた……なんともマヌケな話よのう……」
再びふわふわと複数の輝きが舞い上がる。
「お嬢さん、人は記号になれてもなりきれぬ。なりきってはならんのじゃ」
老人の輪郭が崩れ始め、無数の光が立ち昇り、その重さと温もりが消失していった。
輪郭の崩れかけた腕を伸ばし、イリアの頬にそっと触れる。
「自由に……、思いどおりに生きて……、幸せになりなさいな……、イリア……さん……や」
老人は再び柔らかな微笑みを浮かべると、眩しいマナの輝きの中に消失した。
老人の存在を示した重さと温もりが完全に消失し、イリアは茫然とその場にしゃがみこむ。
――お爺さんは死んだのだ。
亡骸すら残さぬ不自然な結末に、死の実感が湧かなかった。
悲しいはずなのに涙は浮かばなかった。
自分の中から一杯に広がりあふれそうになりながらも、つまったままでいる感情の行き場がない事に途方に暮れる。
ただ直感的に浮かび上がったたった一つの言葉だけが、消えてしまった老人への餞別となった。
「さようなら……、私の……おじいさま……」
頭上には老人が最期に残した輝く光の珠がぼんやりと浮かぶ。イリアはそれを力なく見上げていた。
アシェイトルか近づいた。
「そういう……ことだったのですか……。先生と貴女は……」
欲してやまないはずだったそれを前にして、彼はすぐに手をのばそうとはしなかった。
「どうして……ですか……?」
イリアはそんな彼に尋ねた。宙に浮かぶ光の輝きを挟んで、アシェイトルがイリアを正視する。
「どうしてなんですか? 貴方は、破門されても尚、先生と呼んで、あんなに慕っていたのに……。どうしてこうなってしまうんですか?」
イリアの問いにアシェイトルは小さく目を見張る。それまで冷徹に決して表情を崩す事のなかった彼の中に、初めて人間らしい感情が垣間見えた。
自嘲気味な笑みを浮かべて彼は答えた。
「本当に……、どうしてこうなってしまうんでしょうね……。貧しさや寂しさを乗り越えた誰もが笑える世界を望み、己の非力さを嘆き、望むものを手にせんがための力を得ようとして、大切な物を失っていく……。期待し愛したものはいつのまにか憎しみへと変わり、それに気づいた時には世界に一人ぼっち……。巫女殿……。もしかしてこれが破戒の罪を背負った者への創世神とやらの思し召しなのでしょうか?」
イリアに答えることはできない。
眼前には浮遊する光の珠。
何気なくそれに彼女は手を伸ばそうとした。アシェイトルが静かにそれを制止する。
「巫女殿、いけません。今の貴女がそれに触れてはなりません。例え、貴女が正当な資格有するものであったとしても……」
宙に伸ばしかけた手が止まる。代わりにアシェイトルがその輝きを両手で優しく包んだ。
「かつて、私を生んだ人間族の母は私を産んだ後すぐに、遠ざけました。半獣人として生まれた私の姿と存在を彼女は受け入れる事が出来なかったそうです。そして長として厳しすぎた父もまた、息子である私と親子として向き合う事は……できなかった。私にとって先生だけが、唯一、この世で私の存在と価値を認めてくれた方でした、けれども……」
アシェイトルは柔らかく微笑みイリアを見つめる。
「その、先生ですら肉親の情には勝てなかった。娘を失くしたことで、全てを悲観し、 そして今、出会って間もない貴女の命を守らんがためだけに、己の生きざまに背を向けた……。巫女殿、私は貴女に嫉妬しています。貴女が妬ましくてたまりません」
言葉とは裏腹にアシェイトルは優しい微笑みを浮かべた。そのような表情を浮かべる彼こそが、本来の彼の姿なのかもしれないとイリアには感じられた。
「ですから、申し訳ありません、巫女殿。この《六元の宝珠》はニセモノの後継者である私が手にさせていただきます」
小さく息を吸い込むとアシェイトルは両手でマナを込めた。
「古より伝わりし《六元の宝珠》の管理者。名を《賢き者》アシェイトル。これよりその役目を継承す。我が名と魂と身体を以て次なる器とせん」
懐から輝く杯を取り出し、光の珠に近づける。光の珠は吸い寄せられるようにして、杯からあふれる光に呑みこまれ、その輝きは一段と激しさを増した。
「一体、それは何なのですか?」
問うイリアにアシェイトルは答えた。
「《六元の宝珠》。光と闇、存在と非存在、変化と停滞――『六元』の理を内包するその宝珠の力は『無限』であり、その存在は『夢幻』そのもの。時として、《三千世界の知》、《集合知》、《原初の記録》そう、呼ばれるもの。その実態は世界の『穴』です」
「『穴』……ですか?」
「ええ、私達の暮らす《現世》と『神』なる者の御座所といわれる《揺らぎの世界》。それらをつなぐもの。先人達は、かつてその穴を通して様々な英知をさずかったのです。神殿に伝わる《生命の書》、あるいは大陸の至る所に真贋あふれる《賢者の石》。絶対知の代名詞ともいうべき権威あるそれらは、その英知のほんの一部を人の力で模造したものにすぎません。勿論誤ったやり方でそれらを解放すれば当然、力は暴走し、《現世》を侵食する。そう、できそこないの力におぼれて滅んだかつての《ユフタル》のように……」
話のスケールが大きくなりすぎ、イリアは混乱する。
「一体、そのような物をどうしてあの方が……」
「それは分かりません。かつて、先人はその力を自在に操った。そして獣人種が人から生まれた……ですが、それは神殿によって禁忌とされ、歴史は書き換えられた。獣人種にとっても不都合なそれは、歴史の闇へと葬られ、やがては、その扱いも忘れられていった。そしてただ《六元の宝珠》だけが兎族の長の血統の中で脈々と受け継がれてきた……」
「貴方はそれをどうするつもりなのですか?」
その問いにアシェイトルは小さく微笑んだ。
「あるべきものをあるべきように……。それが私の望みです」
今、彼が手にしたものが大変なものである事はイリアにも理解できた。だが、その事に対してちっぽけ過ぎる無知な己に何ができるのか? イリアには見当もつかなかった。
瞬間、空間が大きく揺れた。
「やってこられましたね」
アシェイトルは不敵に笑った。ただ、その笑顔はどこか悲しかった。再び大きく空間が揺れる。
「何が起こっているのですか?」
「《封邪の塔》に侵入してきた者達が、この場所にたどりつきつつあるという事です。想定外の者たちもいるようですが……」
アシェイトルが左手を大きく振った。
空間の中にいくつもの景色が映る。
そこには戦っている冒険者達と、その身をモンスターに変じて戦う蛇族の若者たちの姿があった。
その景色の中に、イリアは懐かしい、そして待ち続けた者たちの姿を見出した。
――来てくれた……。私を迎えに来てくれた。
過酷な現実を前に時に心折れそうになりながらも、信じ待ち続けた日々。
勇壮な姿で戦う者達の中に大切な姉巫女と、小指の温もりを与えてくれた冒険者の姿があった。
「この世に悪が栄えるとき、正義の冒険者達が現れ、悪に鉄槌を下す……。自由都市で盛んだという歌劇風にいえば、そうなるのでしょうか、ヒュディウスさん?」
少し離れた場所で黙して傍観し続ける魔人が、わずかに肩をすくめる。
「さて、それでは私も最後の準備をしなければなりません」
アシェイトルはそっとイリアを指差した。彼女の周囲に光が生まれ、彼女はあっという間に光の檻に閉じ込められた。
「な、何をなされるのですか!」
空間が閉じてしまったらしく、光の隙間から抜け出る事は出来ない。一種の結界のようだった。
「お嬢さん、もうしばらくそこで待っていてはいただけませんか? 帰りたい場所があるのでしょう? 先生との約束を果たし、あの方たちの元へとお送りしましょう。そしてお嬢さん……」
アシェイトルは片膝をつき、イリアと視線を合わせる。
「滅びゆく『偽物』が最後にあがく『本物』の姿を、どうかその心に焼き付けてください」
どこまでも哀しく、それでいて決して揺るがぬ決意を胸に、アシェイトルは微笑んだ。イリアは何も言えなかった。
空間が揺れ、突然光が差し込んだ。扉のようなものが開かれたその向こうには三つのシルエットが浮かぶ。
三人が空間内に入るや否や、すぐに空間が閉じられる。
「異端審問である! 《賢き者》蛇族の長、アシェイトルよ。我らが審問に応じよ!」
『微笑』の仮面をかぶった中央の錫杖の男が堂々と告げる。
「それでは神殿巫女イリアさん、ここでお別れです。貴女の未来に幸運な光あらん事を……心よりお祈り申し上げます……」
アシェイトルの表情から優しさが消えていく。冷徹な指導者にして反逆者の仮面をかぶり直し、彼は審問官たちと対峙すべく歩き出した。
「待ってください、考え直してください、今ならまだ……」
光の檻の中で視えない壁を叩くイリアの声が、外に聞こえる事は無かった。
その眼前で、反逆者の長たる彼に大陸秩序の守護者にして絶対者の審判が下されようとしていた。
2017/09/07 初稿