27 ザックス、叱られる!
互いに立ち上がって身構える。
怒りでギラギラと瞳を輝かせるレガードの膨張した四肢が収縮し、元の大きさに戻る。折れたはずの左腕から陽炎のようなものが立ち昇り、みるみる再生していく。
間髪いれず、先手を取ったレガードがザックスに襲いかかる。
――仕方ない、使うか。
両腕を前面で組んで防御の姿勢を取ると《皇竜の小手》を発動させる。
まだ完全にその力を把握しきっていなかったそれを使うのに不安はあったが、切羽詰まりつつある現状ではやむを得ない。
紅の小手に宿る深紅の輝きの《竜人石》が発動し、防御壁を形成した。レガードがにやりと笑い、両腕でかかえこみ防御壁ごとザックスを圧し潰そうとする。ザックスもまたその勢いに反発するかのように体重を前にかける。
再び咆哮するレガード。
彼の次の手をザックスは読んだ。瞬時に投げ捨てた《千薙の太刀》の位置を確認する。
レガードの両腕が膨張しかける。動きの止まったほんの一瞬の隙を突いて、障壁を消し、ザックスはレガードの懐に飛び込んだ。
前のめりにつんのめるレガードの襟首を握って、地面に投げつける。
音を立てて大地に転がったその頭をすかさずザックスは踏みつけた。マナの込められたその一撃をレガードはゴロゴロと転がってかわし、その場で跳ね起きた。
すでにその場にザックスの姿は無い。少し離れた場所で《千薙の太刀》を跳躍横転して拾い上げ、着地と同時に装備するザックスの姿を目にして、レガードは小さく舌打ちしながら腰を落として身構える。
自らが放り捨てたスタッフの位置までは少し遠い。
既に剣を腰だめに構えて攻撃の姿勢に入ったザックスに対する選択肢は、二つだった。
不死身の身体を生かして攻撃を生身で受け止めるか?
あるいはスタッフを拾うか?
どちらの選択肢を取ってもレガードの不利には違いなかった。
戦いの流れがザックスの方に向いた事にレガードは舌打ちする。
相手の動いた瞬間を狙う。
それまでの激しい戦闘が嘘のように膠着し、静寂が場を支配する。
じりじりとにらみ合いながら、放り出されたスタッフと二者が描く距離を探り合う。
互いの呼吸の音以外は、耳に入らなかった。
二人の戦いは佳境に入りつつある。次の一撃がおそらく勝負の分かれ目になるはずだった。
ザックスとレガードもまた、互いにその事を理解していた。
場を支配する緊張が極限へと達し……、弾けそうになるその刹那……。
上空から何かが落下した――。
頭上にわずかな空気の揺らぎを感じた二人は、互いに大きく距離を取った。大地に叩きつけられたのは、大きな氷塊だった。大地に大きな穴をうがったそれは、一瞬で消滅する。
思わぬ状況に二人が戸惑う中、彼らめがけて、《火炎連弾》が撃ち込まれた。
慌てて小手を発動させ魔法障壁を張るザックスと、それをバク転で飛び下がってかわすレガード。
直撃すればただでは済まない威力の一撃が、二人を容赦なくおそう。
障壁の向こうに彼らとは別の人影が二つ。二人を攻撃する術者の正体を知ってザックスは目を丸くする。
「お、おい……。ちょっと待……」
問答無用の雷撃が二人を襲った。ザックスは障壁でそれを防御し、レガードは拾い上げた《スタッフ》を放り投げて避雷針代わりにした。
戦いの興をそがれ呆然とする二人に、術者である女性冒険者が歩み寄った。
「頭は冷えたかしら、二人とも?」
冷たく無表情の女性冒険者――アルティナの背後に、マリナが控えていた。
『何するんだ、オレを殺す気か!』
いつもならそう言って怒る場面だったが、今の彼女には通用しない。
アルティナは本気で怒っていた。別段魔法を使っているわけでもないのに、その場の気温がどんどん下がっていくような錯覚を覚えた。
つかつかと歩みよって二人の間に立つと、彼女は口を開いた。
「ザックス、貴方、ここで一体、何やってるの……」
抑揚を押さえたその言葉に、彼女の怒りが感じられた。
「私達、イリアを助けに来たのよね?」
「あ、ああ」
「それで……どうして、ここで殺し合いになってるの?」
「そ、それは……」
ザックスは口ごもる。アルティナのおかげで冷静さを取り戻した今、何故そうなったかいま一つ思い出せなかった。
「邪魔するな! エルフ、俺達は今……」
「黙りなさい、レガード! 私が今、ザックスと話してるの!」
問答無用のアルティナの迫力に、レガードまでもが一瞬、気押される。
マリナがそっとアルティナの傍らに立ち、レガードを無言で見詰めた。
「ザックス、イリアは見つかったの?」
相変わらず抑揚のないアルティナの問いに、ザックスは首を横に振る。
「そう……」
彼女は一つ溜息をつく。レガードに振り返り、アルティナが問うた。
「レガード、貴方に問うわ。イリアはどこ?」
「おい、エルフ。何の挨拶もなく、お前は……」
「イリアはどこ? 答えなさい。レガード!」
取り付く島もない冷たいアルティナの態度に、レガードは眉をひそめる。
「レガード、私が貴方と再会を喜び合うような事はないわ。貴方は絶対に許されない事をした。ヒュディウスと手を組んでイリアをさらった貴方を、私は決して許さない。でも今は、イリアの保護が最優先。だから、答えなさい!」
レガードは沈黙する。
「レガードさん……でしたね。私からもお尋ねします。イリアは……、貴方によってさらわれた私共の大切な妹はどこですか? 教えてください、お願いします」
目の前で突然イリアを奪いさられ、憎いはずのレガードに対して、マリナは頭を下げた。
再び沈黙が訪れる。己に頭を下げ続けるマリナにレガードはぽつりと口を開いた。
「詳しい事は知らん。小娘とは蛇共との戦いが始まる直前に別れたからな……」
「貴方、イリアを見捨てたの!」
アルティナの声に非難の色が混じる。
「見捨てるも何も、俺があの小娘を守る義理は無い。相手は蛇の大軍だ。いかに雑魚の集まりとはいえ、何かを守りながら戦える道理はないだろう?」
アルティナの視線に侮蔑の色が混じる。
「そう……」
彼女は身をひるがえす。
「行きましょう、ザックス、もう、ここに用は無いわ」
冷たい表情を崩さぬアルティナは、ザックスに歩み寄り、彼にこの場からの退場を促した。その言葉には、逆らい難い強制力があった。
先頭にアルティナを、そして躊躇いがちなザックスが続く。少し離れて、マリナが続いた。
「待て、フィルメイア、俺との決着はつけないのか?」
レガードの問いにザックスは足を止め、振り返る。
「悪いな、今の俺はパーティのリーダーなんだ。テメエとの決着よりも優先しなきゃならない事があるんでね」
「リーダーだと……。何をいまさら……。女の尻に敷かれやがって……」
その言葉を最後に彼らに興味を失ったレガードは、その場に音を立てて仰向けに倒れた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
崩れ落ちた遺跡街の中をしばし、三人は黙って歩いていた。
沈黙したままの二人の女性に前後を挟まれ、決まり悪い時間をザックスは過ごしていた。
先を行く揺れる黄金色の馬の尾は一切こちらを振り向かず、背後の黒髪の神殿巫女は、声をかけづらい距離を保ってついてくる。
無言で示される二人の非難の態度は、ザックスを前後からじわじわと締めあげる。
――オレが何したってんだよ。
勿論、それを口に出すほど愚かではない。非難の理由は見当がついていたし、そうされて仕方ない事も理解していた。
――けどよ、こっちの言い分だって、少しは聞いてくれたっていいじゃないか!
前後からかけ続けられる無言のプレッシャー。二人とも絶世の美女だけあって、その迫力は並みではない。
前門のケルベロスに後門のドラゴン。
運悪くそんな絶望的状況に飛び込んでしまった哀れな見習い冒険者のように、ザックスには思えた。
と、先を行くアルティナの歩幅が徐々に小さくなっていく。そしてその両肩が、少しずつ震え始めた。
歩幅はさらに縮まり、やがて彼女は歩みをとめた。近寄ると小さくすすり泣く声が聞こえた。
「お、おい。アルティナ?」
突然の事態におろおろしながら、小さく震えるその背に、おそるおそる声をかける。だが返事は無かった。
ただ、すすり泣く声だけが大きくなる。
「……してよ……」
聞き取れぬ声で何かをつぶやいた彼女は、ザックスを振り返った。
その顔はすでに涙でグチャグチャに濡れている。思いもよらぬ事態にザックスは言葉を失った。
「どうしてよ? 」
そのままアルティナはザックスにつかつかと詰め寄った。
「イリアが大事だっていったのは貴方でしょう? なのに、どうして貴方はあんな奴とのんきに遊んでるのよ!」
「あ、遊んでるって……」
言葉通りの意味ではない事は理解している。
「貴方がイリアが大事だって言ったから……、取り返したいって言ったから……、私は……、私達はここまで来たのよ。こんなにたくさんの死体のある場所で……、貴方はイリアの事が心配じゃなかったの?」
アルティナは目に大粒の涙を浮かべ、顔をグチャグチャにして、小さな両こぶしでザックスの胸を叩く。
マリナがわずかに目を見開いて、そんな二人を見つめていた。
「ご、ごめん……」
「しっかりしてよ、ザックス! 貴方は私達のリーダーなのよ! 貴方が迷ったり、いなくなったりしたら、皆が迷うのよ! 分かってる?」
「わ、悪かったよ」
「分かってない、貴方は全然、何も分かってない! ホントに何も分かってない!」
何かが抑えきれなくなったのか、とうとう彼女はわあわあと子供のように泣き出した。
言葉を失い呆然と立ち尽くすザックスの胸元で、アルティナは泣きじゃくっていた。
照りつける夏の日差し、焼け焦げ破壊された遺跡の建物群、そして時折そっとふきつける一陣の風。
焼け残った夏の草花以外全く生命の気配のせぬその場所で、アルティナの泣き声だけが響きわたる。
眼前で泣きじゃくるその小さな肩を見つめながら、ザックスはこの旅の間の彼女の言動を思い出していた。
陰気な旅の道中、いつもと変わらぬ朗らかな彼女の言動の中に、時折、不自然さを感じさせる事があった。
そして、それは背後で黙して佇む、もう一人の彼女も同じだった。常にザックスの数枚上手をいく話術で巧妙に隠してはいたが、それでも完全に隠し通せるわけではない。少なくともそのくらいの事は理解できる間柄となっている。
アルティナに胸を貸したまま、ザックスは背後のマリナに尋ねた。
「マリナさん、聞いてもいいか?」
「……何でしょう?」
その声はいつもと変わらなかった。
「あんた達、何かオレに隠してるだろ?」
小さく息を呑む音が背後から聞こえた。泣きやみつつあったアルティナもまた、同様だった。
多分、それは出発前からの事。心当たりがあるのは、星詠みの時のことだった。
しばらくして、背後でマリナが答えた。
「いいえ、ザックスさん、私達は貴方に何も隠してなどおりません……、とだけお答えします」
「そっか……」
多分、それが彼女なりの精一杯なのだろう。
泣いているアルティナ共々、強い口調で二人を問い詰めれば、あるいは何か別の答えが見えるのかもしれない。
でも、二人がそれを隠したいと思う以上、己に知らせたくない何らかの事情があったのだろう。
ここまで、二人は小さくない不安を抱え、それでもいつもどおりにやって見せていたに違いない。
《貴華の迷宮》でクロルが突然泣き出した時のライアットの言葉が、ザックスの脳裏に蘇る。
――相変わらず、リーダー失格だな。
仲間の事が全く見えていなかった己に大きく駄目出しする。
「ごめんなさい、ザックス、こんなこと言うつもりじゃなかった……。それでも私は……」
赤く目をはらしたアルティナが小さくつぶやいた。
「いいよ、もう。気配りが足りなかったのはオレの方だから……」
イリアの事で感情的になり、いつしか己の都合だけで動いていた。レガードとの諍いも、きっかけはイリアであっても、結局のところ己の都合だけでしかない。
沈みきった空気が重くのしかかる。それをふり払うかのようにマリナが明るく言った。
「お二人とも、ここは一度戻ってみなさんと合流しませんか?」
「そうね、すぐ、バンガス達もくるものね……」
すっかり泣きやんだものの赤く目をはらした顔と、疲労しいつもよりぎこちない微笑みがザックスに向けられる。
なんとなくばつの悪さを感じわずかに肩をすくめると、ザックスは二人に答えた。
「分かった、それと……悪かったよ、ティナリナ」
「「な……」」
動揺する二人の声が重なった。
「もうそれはやめて……」
「そうです、ザックスさん、それはあの方だからこそ許されるのであって……」
「いや、先達の教えを元にした我ながら結構いいネーミングだよな、うん、後でイリアにも教えてやろう」
「ザックスさん!」
二人の表情に柔らかなものが混じる。いつもの調子に戻ってほっと安心した。おそらく二人もそれに気づいたのだろう。
三人はザックスを先頭にしてその場を後にしようとした……、その瞬間だった。
不動の大地が一瞬、大きく揺れた。同時に《忘れられた遺跡》の城壁の外にある巨大な建築物が強く輝き始めた。
ざわめく樹海――。
危険を感じた鳥たちの群れが一斉に飛び立ち、獣たちの怯えたような咆哮が聞こえた。
建築物の周囲から一斉に生き物たちの気配が離れていく。
素早く近くの廃墟の上に飛びあがって、その様子を確認するとザックスは二人の元へと戻った。
「どうだったの?」
「全然、よく分かんねえ、ただ、ヤバいって事だけは確かだ!」
只でさえ《忘れられた遺跡》についての情報が全くないのだから、この状況ではどうしようもない。
「やっぱり、一度、合流ね」
「そうだな、急ごう、マリナさん……」
ザックスの呼びかけに彼女は返事をしなかった。
「マリナ……さん?」
その美貌を覗き込んだザックスの表情が険しくなる。アルティナもすぐにそれに気づいた。
「マリナさん、一体、どうしたんだよ」
肩をゆすろうとする彼をアルティナが止めた。
「待って、いいから、今はそのままに……」
目の焦点が合わぬままマリナは、輝く建築物へと向かってふらふらと歩みだす。
「おい、アルティナ……」
「黙って、覚えがあるの……、ちょうどあんな感じだった」
彼女の脳裏に蘇ったのは、星詠みの日の出来事。
ゆらりとマリナが振り返る。その顔にいつもの彼女らしい表情はない。
慈愛あふれる彼女とは無縁のそのらしからぬ表情。あえて言うならば、それは絶対的な支配者のそれだった。
『其は、我が理に仇なす力。其は人の身に余る力。創造物たる人の子たちよ、過ぎた力を求むるならば、我は、再び大いなる戦を以て、彼の者共ともども全てを滅ぼすものなり……』
言葉が終ると同時に不意に巨大な何かがマリナから離れていく気配がした。その場に崩れ落ちるマリナを、ザックスは慌てて抱きとめる。
「マリナさん、大丈夫か、しっかりしろよ」
ザックスの呼びかけに、ぼんやりしかけていたマリナの意識が覚醒する。
目と思考の焦点が合うや否や、マリナはザックスの袖をつかんで訴えた。
「イリアを見ました」
「えっ?」
アルティナと顔を見合わせる。
「イリアを見つけました、あの場所に。泣いているあの子の姿を……」
指差したのは、遺跡の外で輝く建築物の先端だった。
「間違いないのか?」
「私があの子を見間違えるはずはありません。あれは確かにイリアでした」
「じゃあ、あそこへ行けばいいんだな」
「はい、お願いします」
顔色も悪くまだわずかにふらつきながらも、マリナはザックスに肩を借りてどうにか立ち上がった。
「マリナさん、さっき言った事を覚えてる?」
アルティナの問いにマリナは首をかしげる。
「私が……、ですか……? いえ、何も……」
「そう……」
アルティナとザックスは顔を見合わせた。
あまりにも物騒すぎる内容だが、当の本人は覚えがないという。
「神託ってやつなのかしら、今の……」
「さあな、とにかくこのまま指加えて見ていたら、状況はどんどん悪くなっていく事だけは確かだ。急ごう」
マリナを両腕で抱き上げるとザックスは歩き出す。
「ザ、ザックスさん、私なら、大丈……」
突然抱えあげられた驚きにわずかに頬を赤らめたマリナが、巫女の衣に包まれた豊満な肢体をわずかによじる。抵抗しようとするもののその力は弱く、突然の神託によって 身体にかかった急激な負荷のせいか、まだ本調子でないことは明らかだった。
「悪いが、とにかく急がなきゃならないみたいだ、回復するまでしばらく我慢してくれ」
「はい……」
マリナがそれ以上、抵抗する事は無かった。
徐々に輝きを増していく巨大建築物を横目に、マリナを抱えあげたザックスはアルティナを連れ、遺跡中央の門へと急いだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
目にうつる青空は、己の心情のごとく一転の曇りもなかった。
戦場跡の臭いは相変わらずだが、周囲に悪意と敵意の気配はない。破壊をまぬがれ、長い年月ただそうしていただけの無数の廃墟群が静かに佇んでいるだけだった。
うとうとと浅い眠りから覚めた彼の脳裏に浮かんだのはここ最近、出会った者達の姿。
一年という時間を経て再会した二人の冒険者――。
そして彼らとともに現れた神殿巫女――。
彼らが心配する小娘の姿――。
彼らを中心に関わった者たちの顔が次々に浮かんでは消えていく。
誰かの為に行動する。それは所詮、己の満足の為でしかない。
この僻地へとやってきた彼らもまたそうであったはずだ。
「下らんな……」
己の欲求に忠実すぎる主張も理念も行動も、決して何者にも恥じることはない。それでも誰かが己に頓珍漢な枠をはめようとするのなら、力で排除すればよいだけのこと。
旧知との戦いにおいても、躊躇いは無かったはずだった。だが、珍妙な乱入者の暴挙に彼は、決着をつける事をあっさりと譲ってしまった。
去っていく三人の背を前に、心に浮かんだ小さな揺らぎを、絶対に認めることなく。
――つまらない、物足りない、満足できない。
力を得て尚、彼の中の乾いたものは埋まらない。むしろ、乾きはさらに増していた。
ふと、数日をともに過ごした小娘の顔が脳裏をよぎる。
『嘘つき! 最低……!』
浮かんだのは彼をなじる涙顔だった。
平和な場所で他者に守られ、ぬくぬくと生きてきただけの彼女に責められたところで、動じるはずはなかった。
『生きる』という本来ルールのない行為の中では、誰かと寄り添う事が当然の甘ったれた少女の信じるものなど、幻想そのもののはずだった。
だが、その顔とかわしたやり取りを思い出すうちに、己の中に言葉で表現できぬ呵責が湧きあがる。
ちっ、と一つ彼は舌打ちする。
人と交わるという事は、己を知らず知らずに弱くしてしまうものらしい。
何かをやり損ねた……、そんな乾きを癒すべく、その対象を求めて彼は目を瞑る。
最初に思い浮かんだのは、そのわき腹に、強烈な一撃を叩き込んだあの若い司教の顔だった。
何もかも達観したかのような表情で、彼我の決定的差だけを見せつけて去って行ったあの一瞬が脳裏に蘇る。
『欲しい物は奪い取り、やられたら、数倍にしてやり返す』
秩序の外に生きる者にとっての絶対の信条を、穢されたままである事を思い出した。
歪んだ集団の中に身を置きながら、只一人正常に振る舞う異常な絶対者の姿の中に、彼は己の欲望のみに忠実な『王』を見た。
――結局のところ……、俺も妬んでるわけか。
己の中に渦巻く感情の正体を理解する。いかなる犠牲もいとわず、ただ己の欲望のみを実現するためだけの振る舞いは、求めてやまぬ彼の未来そのものだった。
――いずれ全てを手にするはずの俺を越える『王』など認めない。
ゆえに彼は立ち上がる。
既に怪我も体力も回復していた。腹は減っていたが耐えられぬほどではない。むしろ空腹感が、その五感を鋭敏にさせていた。
戦力差、実力差、能力差。
現実に存在する彼我の圧倒的差などどうでもよかった。
ただ、穢された己の信条と誇りを取り戻すため、『孤独な覇王』は再び立ち上がる。
――悪いな、腰抜けフィルメイア、お前との決着は後回しだ!
目指す先はただ一点――城壁外で不気味な気配を発して輝き始めた建築物だった。
一年近くの時をすごした地下の広大な迷宮。
無謀という言葉では物足りぬ挑戦の末、幾度も死を体験し、彼は戦士としての実力を磨き続けた。
ふと、その行き帰りに必ず通る開かずの扉をどうにか押し開かんと挑み続けた日々を思い出す。
決して開かぬことが分かっていながら挑み続けたのは、意地であり願いだった。
――あの扉は……もう開かれたはずだ。
鍛え上げた己の力技のみでは決して開かぬその扉が開いたときこそ、彼がさらなる世界へと足を踏み出すその瞬間だった。
「始めるか……」
転がっていた得物を拾い上げ、大きく一振りする。
踏み出すべきその行き先は既に決まっていた。
――相応の返礼を以て最初の一歩としよう!
『孤独な覇王』は歩き出す。その瞳に映るのは彼の覇業への最初の獲物だった……。
2017/08/29 初稿




