23 レガード、暴れる!
激発する感情を抑える事が出来ず、貧しい《首府》の街並みを破壊した冒険者達の一団は、完全に駆逐されていた。
方々に立ち昇る煙と焼け焦げた建物の臭い。焼け出され親を失って泣く子供の姿も見える。
その光景を目の当たりにしながら、アシェイトルは何の感慨も抱かなかった。
「司教様、どうぞ、御慈悲を……」
彼の姿を目ざとく見つけた人々が、次々にその周囲に集い始めた。
――狭い視野で対立しあうだけのお前たちの愚かさが招いた当然の結果だ!
本音を胸にしまい、彼らに向かって、アシェイトルは悲しみの表情を創る。
「皆さま、これは神が我らに与えた試練なのです。今は助け合い、一人でも多くの傷ついた人たちに皆さま自身が救いの手を差しのべるのです。神はそのような貴方達の姿を必ず見ておられます」
神を信じるわけでもなく、都合が悪くなればすり寄ってくる大衆を侮蔑とともに見下ろしつつ、彼もまた正論を騙る。
「後で政庁から物資が届くでしょう。それまでどうぞ持ちこたえてください」
「おお、司教様、ありがとうございます」
蛇神教の信徒らしきものの言葉に周囲が同調する。混乱が収まりかけたところで、ようやく側近達が一人、また一人と彼の周囲に集い、己の手がらよろしく、冒険者達の討伐を報告する。
と、それらを黙って聞いていたアシェイトルに食ってかかるものが現れた。
「待て、半獣! ワシは騙されんぞ! これはお前が招いた事に違いない! この父殺しの大罪人め!」
「そうだ、家族を、家を失ったのはお前のせいだ!」
純粋種と思われる者達が立ち上がり抗議の声を上げる。
静まりかけた群衆が再びざわめき始めた。
「貴様ら……、黙れ、我らの司教様に無礼だぞ」
黒衣の側近の一人が抗議した男を蹴りつけた。蹴られた男はその場に崩れ落ちる。その男を守るかのようにして周囲の者達が集った。
「分をわきまえぬ奴らめ……」
黒衣の男の身にまとう空気が変わった。明らかに殺気と分かるものを振りまき、何かをしようとしていた。
「控えなさい!」
穏やかながらも、冷たい言葉がそれを制止する。びくりと身を震わせた側近はしぶしぶ従い、一度集団を睨みつけると、アシェイトルの元へと戻った。己を誹謗した者たちの集団の前に立つと、アシェイトルは表情を崩すことなく彼らに告げた。
「皆さまの苦しみ、非力な蛇族総族長として、慙愧の念に堪えません。非力な私ではありますが、蛇神教の司教として今、その苦しみから救って差し上げましょう」
集団の中にいた者達が互いに顔を見合せる。総族長であり司教を名乗る半獣の男の意図が見えない。
高みから見降ろされ、バカにするなと声を上げようとした彼らだったが、それは不可能だった。
どういう訳だが、彼らは声を上げる事が出来ず、身一つ動かせなくなっていた。その顔に恐怖の表情が張り付く。
逃げ出したくとも足は動かない。動かぬどころかその足が、腕が、そして体が徐々に石化していった。
「助けて……」
哀れにも、物言わぬ石像となった者達はその場に立ちつくした。
群衆達が恐怖する。まるで石化でもしたかのように彼らはその場から動けなかった。
「おお、これは偉大なる蛇神様の奇跡じゃ。皆の衆、背教者の末路、しかと見るがよい」
その言葉に誰もが平伏する。
その場のノリで右往左往する愚かな民衆など、所詮、恐怖と力でしか従えられない。 ただし、その効力はほんの一時でしかないが……。
だが、今のアシェイトルにはそのほんの一時で十分だった。
平伏した群衆を冷たく見下ろし、その場を後にする。
「総族長、一大事でございます」
側近の一人が近付き、耳打ちする。
「かの老人を奪還しに冒険者と巫女が大礼拝堂に……」
「ほう……。護衛の者はどうしました?」
「護衛は全滅しましたが、彼らは奪還に失敗し、遺跡へと逃走した模様です」
老人とともにやってきた獅子猫族の若者を思い出す。
己が力とそのあり方に誇りを持つ彼は、蛇族という歪みきった環境の中で育った者には決して持ちえない輝きがあった。アシェイトルと己との力量差を察して見せた潔い撤退ぶりに、胸の内でそっと感嘆したものだが、どうやら見込み違いだったらしい。
「もう少し分別をわきまえた方だと思いましたが……」
小さく彼はつぶやいた。
「追手をいかかがしましょう?」
その問いに暫し瞑目する。
首府は蛇神教の支配下にあるが、もはや、防衛線としての機能は果たし得ないだろう。再び冒険者達がやってくれば、戦力はさらに消耗する。おそらく一方的に。そして、いずれは神殿の刺客も……。
いかに六部族の一角とはいえ、大陸の全てを敵に回すには、閉鎖された蛇族は余りにも小さく、薄っぺらく、非力すぎた。
全てが手遅れになる前に、彼はどうしてもやっておかねばならない事があった。
ゆえに彼は決断する。
「では、街の防御に必要最低限の人員を残して、集められるだけの戦力を集めてください。これより私は老人を連れ、遺跡に向かい秘宝獲得のための儀式を執り行います」
「はっ!」
そのやり取りに耳をすましていた側近達が色めき立つ。
――さらなる手がらを。さらなる力を。他者よりも多くを。
乾ききった砂地にしみこんでいく水のごとく、彼らは貪欲に力を求めている。隙あらば、司教であり総族長であるアシェイトルにとって代わろうと密かに願う者も少なくない。
だからこそ都合が良かった。
彼らが力を求め、それを高めれば高めるほど、それはアシェイトルの利益となる。
この先の彼と蛇族の歩む道程に必要なのは、無欲で健全な善意あふれる聖者や善人ではない。邪悪で貪欲な愚者である。
愚者の果てしなき欲望こそが、行き詰った種の限界の壁をたやすく破壊する。
秘宝という誰もが分かりやすい言葉でそれらを釣り、孤独な王はその信じる道を突き進む。その先にあるものが自身の破滅であると分かっていても……。
己の存在よりもその理想に価値を置く者として振る舞い続ける蛇族の長。
その内心と危険さを理解する事のできる者はとうに排除され、笛の音に導かれるネズミの群れのごとき愚者達を率いた彼は、その野望の終着地へと足を踏み出した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
大神殿から《ラヴィロディオン》の遺跡へ――。
転移が終わると同時に眼前に広がったのは、血の海と無残な死体の山だった。アシェイトルとともに現れた側近たちが何事かと驚く。
「どうしました?」
アシェイトルの来訪に気づいた者達が、慌てて報告した。
「総族長。どうにかしてくれよ。このままでは俺達は全滅だ!」
「一体、相手は何者ですか?」
討ち漏らした冒険者達の集団に先回りされたのだろうか。そんな疑問がふと思い浮かぶ。
「それが、たった一人の……。礼拝堂に現れたあいつです!」
慌てふためく別の者の言葉でようやく事情が呑み込めた。
戦慣れしていない蛇族の者達が《転移の門》で転移した瞬間をねらっての先制攻撃。単独で戦うしかない獅子猫族の戦士にとって最も有効な戦術だった。先ほどからいくつもの結晶がアシェイトルの元へと転移してきていたのは、そういうことかと合点がいった。
彼は本気でたった一人で蛇族と事を構えるつもりらしい。何故、そのような無謀な結論へと至ったかは定かではないが……。
「こちらの戦力は?」
「特務隊のうち、不適応者と第一形態能力者の八割以上が死亡、もしくは戦闘不能。現在、第二形態能力者と幹部の方たちがそろって交戦中ですが……、戦況は思わしくなく……」
「そうですか……」
予想外の損害に思わずアシェイトルは押し黙る。
国同士の戦ならば、既に大敗・壊滅必至の状態であるのだが、それでもアシェイトルは顔色一つ変えずに、戦場の方向へと顔を向ける。
視線の先には火柱、土柱がひっきりなしに上がり、地を揺るがすような振動と廃墟の崩れ落ちる音が絶え間なく続いている。そのリズムはまさに戦場を楽しんでいるかのようだった。再び、いくつかの結晶がアシェイトルの元へと転移する。
――随分と大きな力を手に入れたようですね、彼は。
いわゆる《転職》という行為が行われたのだろうと推測する。そして彼に力を与えたのは、彼の傍でアシェイトルの行為をたしなめようとしたあの少女に違いない。
冒険者という存在の恐ろしさを改めて実感する。
それに対抗するために、彼はとある者達の協力を得て禁忌を犯し、多くの半獣人の若者達にその恩恵を与えた。だが、長い年月の間に神殿によって培われた冒険者というシステムの前では、ほとんど無力に近い。
無知な者にどんなに強力な力を与えたところで、それを使いこなすためには相応の時間と経験、そして命を代償にした無数の失敗の積み重ねが必要である。
神殿の支配の下で培われた冒険者の歴史のうわべだけの真似事をしているアシェイトル達が、かなう道理などなかった。
尤もそういった事態を全て想定したうえでの『今』である訳だが……。
盛大な音とともに再び土柱があがる。
その方向になぜか惹かれる己にアシェイトルは気づいた。
己の目的とは全く関係のないレガードの行動など放置すべきであったが、その時のアシェイトルは、なぜか、らしくない行動に出た。
「その老人を運んでおいてください」
傍らで首枷をはめられたまま眠らされた兎族の老人を、城壁外の森の中に存在する三角塔へ運ぶように部下たちに指示した。そのまま、戦闘がおこなわれているであろう場所へと足を向ける。
「総族長、どちらへ?」
「すぐ戻ります」
慎重な性格の彼としては珍しい行動に、側近たちが顔を見合わせた。とはいえ、その命令は絶対である。すぐに指示通りの行動を起こし、彼らはその場を後にした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
次々に襲いかかってくる大蛇と異形の姿の者達を相手に、レガードは息つく間もなく戦い続けていた。
初めのうちこそ人型の雑魚を薙ぎ払う作業が続いたものの、やがて数種のブレスを使うものから、半人半蛇の身体で武器を使いこなす者達の出現によってレガードは、苦戦という名の彼好みの戦況の只中に身を置いていた。
当初の戦場と定めた《転移の門》前の広場から少しずつ追いやられていく。
数の理に阻まれつつも、新たに得た《覇戦鬼》の力、そして、死からも復活可能な再生能力によって彼は戦い続けていた。
もし、蛇族の戦士たちがチームワークや集団戦術に長けていたならば、状況はもっと違ったものになっていたかもしれない。だが、所詮、信頼や連携というものが欠如した集団である。手がらを焦る者と、己の死におびえる者がおりなす不協和音が、圧倒的な数の利を前に苦境に陥りかけたレガードを、皮肉にも助けていた。
苦境から脱するたびに生き生きと目を輝かせる獅子猫族の男を取り囲む集団は、勝手の行かぬ状況に戸惑い始め、徐々に攻勢を欠き始める。
――ちっ、そろそろ打ち止めか?
所詮は、負け犬集団。
弱者いじめばかりに精を出し、圧倒的な数を頼みに取り巻いてみたものの、自分達が叶わぬと見ればとたんに腰が砕けて逃げ腰になる。立ちはだかる集団から圧力が消えかけ、物足りなさを感じ始めたその瞬間だった。
背筋にぞわりと悪寒が走る。
素早くその場を大きく飛び下がり、視線を感じたその先に向かって身構えた。
崩れたがれきの上に立っていたのは一人の黒衣の男。その顔を一目見て、レガードの闘争本能が歓喜する。
――こんなところで本命の御登場かよ!
冷たい表情を崩さぬその男――総族長アシェイトルの予期せぬ登場に、周囲の若者達に動揺が広がった。
涼しげな顔で立つその男を前にして、獅子猫族の戦士は小さく舌なめずりし、ごくりと喉を鳴らす。
獣人としての、あるいは冒険者としての直感が導く彼我の実力差は、相変わらずレガードの圧倒的劣勢。
「逃走せよ」と命じる獣の本能を、「喰らい、踏み潰せ」と人の意思が凌駕する。
その意志を以てレガードは咆哮し、《光刃斧》の刃を輝かせてアシェイトルへと突撃する。
並みの者なら見えるはずのないスピードでレガードはアシェイトルに襲いかかる。
不意にブンと何かが振り回されるような音ともに、不可視の何かが右方向からレガードを襲った。
強烈な一撃をまともに受けたレガードは左方へと跳ね飛ばされ、廃墟の壁に叩きつけられた。
だが、がれきと化して崩れ落ちる廃墟の中にレガードの姿はない。
跳ね飛ばされた勢いを利用して壁を蹴ったレガードの姿は、アシェイトルの頭上にあった。
そのまま《光刃斧》をきらめかせ、アシェイトルを狙う。
アシェイトルに動揺はない。
再び不可視の一撃がレガードを空中でとらえ、少し離れた大地に叩きつけた。
もうもうと湧き立つ土煙の中、レガードが立ち上がる。強かに叩きのめされたはずの彼は口元に笑みを浮かべた。
「捕まえたぜ!」
その左腕が不自然に肥大化し、膂力と握力を強化した左腕を何かに突き立てていた。
下腕の半分ほどをめり込ませて動きをとめられたそれは、ぼんやりと実体化する。
巨大な蛇の尾だった。
レガードの身体よりもさらに太い尾が、突き立った異物を払いのけんと大きく振り回される。
その動きにレガードは逆らわない。巨大な尾にしがみついた彼は、動きを止めた瞬間、光刃斧の柄を大地に突き立て、身体を支えた。
アシェイトルがほんの一瞬微笑んだように見えた。同時に巨大な殺気を身にまとう。
瞬間、レガードの身体が蛇の尾ごと引き寄せられた。
レガードに動揺は無い。しめたとばかりにその勢いを利用してアシェイトル本人を《光刃斧》で狙った。
と、慌てて光の刃を納め、左腕を尾から抜いて自由にすると防御の姿勢をとる。アシェイトルの背後の空間から現れた三つの頭がレガードを襲った。
鈍い音とともに重い衝撃がレガードを襲う。わずかな時間差で襲いかかる三頭の大蛇の牙をスタッフで防御する。強烈な頭突きを連続で受けて、防御したままのレガードの身体が宙に舞った。
ほんの一瞬、意識が飛びかけたレガードだったが、己のわき腹に生まれた強烈な痛みで覚醒する。
下方から現れた四つ目の蛇の頭の角がレガードの身体を貫いていた。それまでの三つのものとは輝きが異なる四つ目の頭による攻撃。
血の味が口腔内まで逆流し、盛大にそれを吐き散らす。
レガードを貫いた蛇は、そのまま大きく頭を振って、彼の身体をはるか離れた場所へと放り捨てた。
わき腹に大穴をあけられながらも、闘争心を失わぬレガードはスタッフを支えに立ちあがる。
その姿を前に、アシェイトルの全身から殺気が消えた。
勝負あったとばかりに彼はレガードに背を向ける。
――テメエ、ふざけるな! まだ、勝負はついてねえだろ!
吠えようとしたが、彼の身体はその闘争心についてこれなかった。蓄積した重いダメージと常人なら確実に致命傷の一撃で、身動きが取れない。
「皆さん、後はお任せします」
涼しげな声で周囲を囲む者達に、彼の処理をまかせるとアシェイトルはすたすたと去っていく。ほんのわずかな時間の交戦で圧倒的な差を見せつけてのアシェイトルの勝利だった。
スタッフを支えに立っているのもやっとのレガードを前にして、獣鬼化したままの蛇族の若者達が勢いづく。
これまでやられっぱなしだった鬱憤を晴らさんと彼を取り囲み始めた。
――ったく、弱った相手には相変わらず強気な奴らだ。
単純明快な思考と行動パターンに呆れつつ、震える左手で《袋》から最後の高級薬滋水を取り出し、一気に飲み干した。その効果で幾分痛みは和らいだものの、完治には程遠い。大きすぎるわき腹の傷と、長く戦い続けたせいか再生能力も落ちているらしい。イリアが怪我をした老人の回復の為に派手に使ったせいで、肝心な時に必要なアイテムがないのは皮肉だった。
――こういうのが悪運度の賜物ってやつか。
あるいはあの小娘のささやかな嫌がらせかな、と口元に不敵な笑みが自然とこぼれた。
状況は彼好みの圧倒的苦戦。
この一年、幾度も味わった死と生の境界線上でしか開かないぎりぎりの研ぎ澄まされた感覚が、レガードの中でさらに覚醒を促した。その、四肢が、体幹が、そして全身が獣のそれへと変貌していく。
自らの勝利を確信していた獣鬼達の顔色が変わる。
獣戦士化したレガードは、獅子のごとき咆哮をあげた。空になった瓶を放り投げ、スタッフから光の刃が生まれる。
瓶が大地に叩きつけられた時、レガードの姿は風となってその場から消えた。
再び、戦場と化したその場所は、荒れ狂う猛獣の咆哮と獲物と化した獣鬼達の断末魔の叫びが渦巻く阿鼻叫喚のるつぼと化していた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
カツカツと石畳を叩く己の靴音だけが響き渡り、周囲に木霊する。
濃い水の臭いが充満するその場所は、ぼんやり輝く魔法の光と、通路上部の隙間から漏れる太陽の光がほのかに差し込む地下水路だった。
住人がいなくなって尚、魔法の力で稼働し続ける浄化設備によって、水路の水は比較的澄んだものだった。その通路は長年無人だった事もあって、壁面が蔦やコケで覆われ、蜘蛛の巣も至る所に張っていた。
レガードと別れた後、イリアは戦闘に巻き込まれぬよう、地下水路へと身を潜めた。 この場所で数日過ごした日々の中での探険の際に、もしもの時の避難場所として目をつけていた事が役に立っていた。
彼女がやってきた方角――遺跡の中心部では、レガードが言った通りすでに戦闘が始まっているらしく、振動と破裂音が断続的に響き、通路の壁や水面を揺らした。
通路の壁をミスリルナイフで傷つけて目印をつけながら、イリアは戦場から少しでも離れるべく先を急ぐ。
どこかで水路が崩れ落ちたらしく、巨大な崩落音が通路内を駆け抜け、イリアは思わずその場に座り込んだ。
――大丈夫、きっと迎えは来るから……。
水路の天井につながった井戸から漏れる太陽の光の中に、懐かしい人たちの笑顔が浮かぶ。
――大丈夫、絶対に大丈夫。
己にそう言い聞かせ、彼女は立ち上がり、道に迷わぬよう極力支流への侵入を避けて移動する。
――あの暖かい場所に絶対に帰らなきゃ!
冒険というにはあまりにも過酷な現実を突き付けられ続けたこの数日を、いつか懐かしく振り返る事ができるようになるために。
イリアは暗い水路の中を前へ前へと走り続けた。
耳朶を打つのは自身の靴音と滔々と流れる地下水路。
不意に水音が大きく跳ねた。
――何かいる。
慌てて足音気配を消す。気配までをも消して、そっと通路の先を覗き込んだ。
通路の上部から差し込む光の中に一つの影がうごめいていた。
「畜生、冗談じゃねえっての、なんでこの俺があんな化け物相手に戦わなきゃならねぇンだよ」
地上の井戸から器用に首を突っ込んで水路にあふれる水を舐める大蛇の姿だった。
薄気味の悪いその姿にイリアは思わず唾を飲み込む。
――引き返さないと。
だが緊張する身体は思ったように動かなかった。こわばった足が足元の小石を蹴飛ばし、それが水面をたたいた。水音に気づいた大蛇がこちらを振り向いた。
二人の視線が合う。
「おやー。こんなところで何しているのかなあ、可愛いお嬢ちゃん?」
下卑た視線と浮かんだ表情にイリアは背筋を凍らせる。
「ちょっと暇しててさあ……。こっちに来て、オレと遊んでよ」
大蛇が井戸を伝ってずるりと水路に侵入する。
その尾の部分にしぼんだ人間の身体のようなものがついている。
完全な変化ができなかったのだろうか?
イリアの視線に気づいた大蛇が顔色を変えた。
「なんだ、テメエ、テメエもオレをできそこないとバカにすんのか?」
突如として感情を激発させる。明らかに情緒不安定なその姿は、大神殿の中で見た異様な目つきの若者達を思い出させた。
――ここから逃げなきゃ。
明らかに常人と異なるその言動で振る舞うち大蛇にもはや人の言葉は通じぬだろう。
少女の本能がその事実を悟り、彼女はその場から徐々に後ずさり始めた。
「おい、待てって言ってるだろう。テメエ、聞こえねえのかよ!」
変化し損ねた身体を十分に扱いこなせぬのか、こちらへ這いずろうとする大蛇の動きは重い。
禍々しいその姿に恐怖する己の足を叱咤し、彼女は手にしたナイフをギュッと握りしめた。
己を拉致し、言いたい放題に振る舞う男から奪い取ったそれを握りしめることで、イリアの中に小さな勇気が生まれた。
脳裏に大切な人達の姿が思い浮かぶ。
――帰るんだ。あの場所に。
その一念がこわばった彼女の背を押した。
くるりと振り返り、彼女は一目散にその場所を後にする。
「待ちやがれ! バカにしやがって!」
背後から這い寄るその音を耳にイリアは水路の中を一目散駆けだした
だが冷静さを失った頭では知らず知らずに方向感覚を失いかけていた。
迷路のような構造の水路の中を逃げるイリアとすぐ後をずるずると身体を引きずるできそこないの大蛇。
背後に迫る無言の圧力に、思わずそれまで避けていた支流へと侵入してしまったイリアは当然のごとく袋小路の中に迷いこんでしまった。
「どこだよー、どこに隠れたのかなあ」
獲物を追い詰めていく快感に酔いしれる大蛇が、猫なで声でイリアの後を追う。
「お嬢ちゃん、困ってんだろ? 出口探すの、一緒に手伝ってあげるからさあ……」
言葉とは相反する邪念を感じ取り、イリアはそれを振り払って走り続ける。
蜘蛛の巣にかかるのも気にせず、無我夢中で細い支流の中を走り続けたイリアの前に行き止まりを示す壁が立ちふさがった。
――どうしよう。
支流の細さと無我夢中で走り続けたおかげで大蛇との距離はわずかに開いている。しかし、追いつかれるのは時間の問題だった。
隠れてやり過ごす適当な場所も見当たらず、立ちふさがる壁面を前に、イリアは途方に暮れる。
――どうしてこうなるの!
大切な人達との様々な思い出がぐるぐると脳裏をよぎり、イリアは泣き出しそうになっていた。
「おや、どうにか間に合ったようですね……」
不意に聞き覚えのある声が降ってきた。見上げた先には、すっかりなじみとなってしまった魔人の姿があった。
「《魔将》ヒュディウス……」
この状況で、さらに自分を狙っているはずの魔人の登場で、イリアの思考は停止寸前だった。
ふわりと魔人の幻像がイリアの眼前に浮く。
近づいてくる大蛇もどきの気配を察したのか、ヒュディウスの表情は珍しく余裕を感じさせなかった。
「随分とひっ迫している状況ですので、説明は省きます。どうぞ、こちらへ……巫女殿」
指し示したのはつい先ほどまで何もなかったはずの壁面だった。そこにぼんやりと鏡のようなものが現れた。
「いやあ、苦労して、知り合いから借りてきた甲斐がありました。どうぞ、こちらからお逃げください」
それは転移の扉と同等の効果を持っているのだろう。ただ、転移したその先がどこへ通じているのかは不明であるが……。
『ヒュディウスはまだ、お前を狙っている』
レガードの残した忠告が耳に蘇る。彼の言葉が真実ならば、この魔将は自分をその目的に利用するため、さらなる別の場所へと連れていくつもりなのだろう。
その意図が見えるだけに、イリアは指し示された選択肢に有無を言わずに飛びつく事が出来なかった。
『オラァ、下手に出てたらつけあがりやがって、ちょろちょろ逃げ回ってんじゃねえよ、どこだ、小娘!』
下心ありありだった大蛇の猫撫で声は怒声へと変わり、イリアに迫ってくる。
「急いだ方が、よろしいですよ、お嬢さん。私はこの状況にこれ以上の干渉はできません」
「でも……、貴方は……」
「貴女に与えられた選択肢は二つだけ、私とともにいらっしゃりこの目の前の危難を逃れるか、それとも、ここにやってくる下劣な輩にいたぶられ、人知れずみじめな最期を迎えるか、そのどちらかです」
選択の余地はない。イリアにとって『幸運な』選択肢は初めから存在しなかった。
尤もこの遺跡に連れて来られた時からそんなものはあるはずもなく、ひたすらに目の前の魔人の掌の上で踊らされ続けているわけだが……。
なすすべもなく運命に翻弄され続ける己に歯噛みしながらも、イリアは生存の可能性のより高い選択肢を選びとる。
そんな彼女を魔人は己に壁面に顕現させた鏡へと誘導した。
右手をナイフの柄に、左手を己の胸にあて、彼女は一つ深呼吸する。這い寄る邪悪な気配はすぐそこまで迫っていた。
――大丈夫、なんとかなる。きっと……、ううん、必ず……来てくれる。
一人の冒険者の顔を思い浮かべ、そっと胸にあてた左手を握りしめると彼女はまっすぐに鏡の中へと踏み出した。
すぐ背後まで迫っていた大蛇がその背に飛びかかる。
間一髪、イリアの姿が鏡の中に消えると、鏡は光を失い砕け散った。這い寄ってきた大蛇は何もなくなった壁面に激突し、そのまま動かなくなった。
2017/08/08 初稿




