22 レガード、走る!
再び大礼拝堂――。
礼拝を終えた信者達は既にその場を去り、広大な空間は閑散としていた。
室内に残っているのは複数の衛兵を務める若者。柱の上部に巻きついたままの大蛇達。壇上にアシェイトルと側近が数人、そしてとらわれの老人が一人。
鎖に繋がれた老人は両手と首を木枷に固定され、木枠には老人が術を行使する事を阻害するための魔法陣が描かれていた。身に着けていた複数のアクセサリーは、金目のものに目のくらんだ者達によって強引に引きちぎられ、その傷跡は無残だった。
「なぜ、殺さぬ?」
老人の言葉にアシェイトルは笑う。
「まだ暴走されては困ります。それに貴方も腹を決めかねていらっしゃるようにお見受けします。察するところ、あの二人の為、といったところでしょうか?」
「フン」
老いた己に敵意と侮蔑を向けながらも、戦士としての道義と誇りを失わぬ獅子猫族の若者。
そして、まだ幼いながらも神殿巫女としてふるまう心優しき少女。死んだ娘の面影を重ねてしまうのは、年寄りのノスタルジーであろう。
かつての弟子との決着をつけんがために、縁あって数日を過ごした恩義ある二人を巻き込むのは未だに躊躇われた。
己の利に敏いあの獅子猫族の若者ならば、少女を連れてうまくこの場を切り抜けるだろう。彼らが安全な場所へ逃れたという確信が得られるまでは、事を起こすつもりはなかった。
かつての弟子はその師の心情を良く理解し、それゆえに二人を自由にしたのだろう。
老いた身であるが、まだ待つ事が苦になるほど耄碌しているわけではない。
もうしばらく辛抱の時が必要だった。
湧きあがる傷の痛みに耐えようとしたその時、大礼拝堂の室内に大きな振動が伝わった。
地震などめったにおこらぬ土地柄ではないが、短く不自然な振動に室内の誰もが身を固くする。
突然、扉が開かれ、一人の若者が飛び込んできた。
威嚇する大蛇達に気圧されながらも、彼は総族長の元へ報告に走った。
「申し上げます。ぼ、冒険者らしき複数の一団が、我らが《首府》に足を踏み入れ、乱暴狼藉を……」
側近たちが色めき立つ。
先日、送り込まれた暗殺部隊は撃退したものの、損害が全くなかったわけではない。
「来ましたか。では、方々、迎え撃つ準備をお願いします」
「はっ、大いなる我らが蛇神様の御加護を……」
「我らが神は貴方方を決してお見捨てにはなりません。例え、命を落とすとも、その勇敢な魂は必ずや喜びの野へと召される事でしょう」
側近たちが壇上から降り、その場を後にする。アシェイトルは周囲の者たちへと意識を向けた。
「皆さんはこの場にて。侵入者があらば排除を」
「承知」
頭上の大蛇達が返答する。
速やかに指示を終え、その場を離れようとしたアシェイトルを、傷だらけの老人が呼び止めた。
「神殿は禁忌を犯した主を決して許さぬし、認めはせぬぞ」
「でしょうね。ならば戦うだけの事」
「世界を敵に回し、数多の命を生贄に捧げてか?」
「神殿とて絶対ではありません。その傲慢な尻尾にかみついて、驚き慌てさせるぐらいはしてみせましょう」
不敵な笑みを浮かべ、彼はその場を歩み出す。
すでに戻る事の出来ぬ場所へと足を踏み入れたかつての弟子の背を、老人は黙って見送るしか出来なかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その日、偶然にも《首府》に侵入したのはいくつかの冒険者の一団だった。
理不尽な召喚状とやらとともに姿を消して以来、音沙汰のない仲間を心配し、遠路はるばるこの不浄な地へと彼らはやってきた。
圧倒的な力量に物を言わせて正門を破り、首府へとなだれ込んだ彼らは、石化やミイラ化し、広場に野ざらしにされ変わり果てた猫族の冒険者達の中に、求める仲間の姿を見つけ、その怒りが爆発した。
非力すぎる蛇族の若者達との抗争を経て、仲間が卑劣な手段で騙し打ちされたに違いないと考えた彼らは、感情の赴くまま報復として周囲の建物を焼き払い、歯向かう者達を圧倒的な力で捻じ伏せ、薙ぎ払った。
逃げまどう庶民もろとも反抗する者達を薙ぎ払うその行為は、いつしか殺戮の様相を呈し始めていた。
そんな彼らの前に奇妙な者達が立ちふさがる。
『我らが偉大なる蛇神に捧ぐ、我こそは正統なる御使いなり』
言葉とともにその身体に怪しく輝く刃を突き立て、その姿を大蛇へと変える。
モンスターまがいの外見に変化し、思考し、言葉を発するその未知の存在に、冒険者達の闘争本能が刺激され、双方が引き起こす闘争は貧しく凡庸な街並みにさらに大きな被害を与えた。
高威力の呪文が引き起こす爆発と振動。方々から黒煙がたなびき、阿鼻叫喚の声が上がる。
激しさを増す戦闘は、さらなる強敵を呼び寄せ、人蛇一体の姿で武器を扱う異形の者達の登場で、冒険者達の側にも損害が出始めていた。
戦場がゆっくりと移動し、大神殿近くにまで及んだとき、彼らは大いなる恐怖に遭遇した。
漆黒の生地に金色の縁取りがなされた僧衣を身にまとった凡庸な男。
立ちふさがる彼が、上級レベルダンジョン内ですらめったに遭遇できぬSSランクの魔獣に匹敵する力を持っていた事に気付いた時、すべてが手遅れだった。
「我らが地で、随分と勝手をなさっておられるようで。貴殿らは我が蛇神の怒りにふれたと心得られよ」
涼やかに宣言する彼に、冒険者達の怒りのボルテージが跳ね上がる。
最速の烈槍が、剛腕の大斧が、巧者の妖剣が、一斉に牙をむいて襲いかかった。
己の身の程もわきまえずに立ちはだかったその男が、倒れる事は無い。
一瞬で間合いを詰め初撃となった槍の穂先はその身体に届かなかった。鈍い手ごたえとともに硬い何かに阻まれる。
驚く冒険者が飛び下ろうした時、その両腕は肘先から消失していた。
わずかに遅れた二撃目の大斧も同様に、壁のようなものに阻まれ、その首は一瞬にして消えた。
己の戦技に絶対の自信を誇るはずの三人目の冒険者は、立ちはだかる男の背後にあるものに気付き、呆然とする。
背後の空間から生えるようにして現れていたのは三つの大蛇の首。
巨大な蛇の眼に睨みつけられ、思わず立ちすくんでしまった彼は、両腕と首を失った二人とともに一瞬のうちにズタズタに引き裂かれ、身体の大半を失って、肉塊と化して転がった。
怒りが恐怖へと変わる――。
前衛職の無残な結末を目の当たりにして、怯えかけた魔法職の冒険者達が続けざまに高位呪文を連発する。
並みのボスモンスターならひん死は免れない圧倒的な火力を、蛇族の男はその身で受けたはずだった。
もうもうと湧きあがる黒煙とともに砕けた石が舞い散った。
その中にぼんやりとした輝きが浮かぶ。
暫しの時を経て黒煙が晴れ渡ったその場所で、身にまとった衣にほころび一つない男が、穏やかに笑みを浮かべて立っていた。
巨大な蛇の頭は消え去り、代わりにぼんやり輝く結晶が三つ、その身の周りに浮かび、徐々に輪郭をぼやけさせ、やがて消失した。
「ネタが尽きたようだな!」
勢いを取り戻しかけた冒険者達が、一斉に襲いかかる。
だが、僧衣の男に動揺は全く無かった。ほんのわずかに目を細めた瞬間、再び背後から三つの蛇の頭が鎌首をもたげた。
交互にあるいは、一斉に――。
襲いかかるそれらをどうにかあしらう冒険者たちの頭上から、ついに四つ目の大蛇の頭が現れ、襲いかかった。
一人、また一人と犠牲は増え、彼らの全滅は時間の問題だった。
恐慌する彼らを前に、僧衣の男は微笑みを崩すことなく、その命を無慈悲に刈り取り続けた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
名前 レガード
マナLV 40
体力 MAX 攻撃力 275 守備力 174
魔力 MAX 魔法攻撃 0 魔法防御 163
智力 142
技能 183
特殊スキル 駿速 爆力 全身強化 獣戦士化
斧撃術 斧閃乱舞 一刀両断 魔眼 再生能力
称号 上級冒険者
職業 覇戦鬼
敏捷 160
魅力 140
総運値 ― 幸運度 103 悪運度 MAX
状態 呪い(詳細不明)
備考 協会指定案件6―129号にて生還
武器 オリハルコンスタッフ
防具 ミスリルメイル エレメンタルフォースガード ブレイブベルト
ハイランダーブーツ
その他 電光石火の腕輪
クナ石に映る表示は、己の力量が以前よりも弱体化している事を示していた。
スタッフモードの《光刃斧》を手に、その場で軽く素振りをする。
イリアによって《転職》に不要なマナが身体から解放され、弱体化しているはずであったが、身体感覚は以前より研ぎ澄まされている。体内の無駄なものが綺麗に取り払われ、身体の隅々まで清いマナの流れがいきわたっているように感じられた。
今の状態に比べれば、転職前は数値こそ上回っていたものの、なんとなく淀みがあったような気がする。
鋭く、軽く、それでいて力強く――。
表示上の数値は明らかに落ちているものの、戦闘力が以前よりも上がっている事を実感した。なによりもさらなる伸びしろを得たことで、己の力がさらに向上する可能性というものが嬉しかった。
たかが数字やステータス表示ごときで、人の全てが示せるわけではない――己の持論が確かなものであった事を身を以て納得する。
圧倒的な力量差を感じ取り背を向けて撤退せざるをえなかったアシェイトルの顔とともに、彼との対決をイメージする。
先ほどは、一撃を入れることすら想像だにできなかったが、今の彼ならその尻尾にかみつくぐらいの事はできそうだった。
一度喰らいつけば、そこからは我慢比べの戦いであり、戦士としての力量が問われることになるだろう。
――小娘に感謝すべきか。
神殿巫女として見事な務めを果たした少女の力を見直した。
それゆえにヒュディウスにつけ狙われ、神殿に植え付けられた自己犠牲の精神に何の疑いも持たぬ振る舞いが少々、気の毒に思えた。
――不憫な奴だ。
火晶石を媒介にした魔法で濡れた長い銀髪と服を乾かし、仕掛けを作動させて神聖水の滝を止めた彼女の気配が背後に現れた。
「お身体に問題はありませんか?」
本音は違うはずだろうに、彼女はあくまでも神殿巫女としての振る舞いを忘れない。
「問題ない。聞いてもいいか?」
「なんでしょう」
小首をかしげる少女にクナ石を見せる。
「《覇戦鬼》……とはなんだ?」
職業欄に表示された見慣れぬ言葉について問うた。
暫し、その表示を眺めた後でイリアは首を横にふる。
「分かりません。私の知る限りにおいても初めて聞く職種です。神殿に残された資料をひっくり返せば、詳細は分かるかもしれませんが……」
「おい……」
「ただ上級職への転職においては、時折、創世神の御意志によってその人の特性に合った特別な職種が現れるそうです。おそらくそういった類のものではないのでしょうか……」
「フン」
創世神とやらの御意志というのは気にくわないが、己しかいないというのは悪くない。
返却されたクナ石を胸元に戻すと、レガードは封じられた状態の扉へと向かった。ここから先は立ちふさがるものをなぎ倒して前進するのみである。
躊躇いがちな足取りで、イリアが続く。
扉の前で大きく深呼吸し、全身のマナを集中する。
扉の向こうでずるずると歩き回る気配が複数捉えられた。《転職》したばかりで力量試しにはちょうどよいだろう。幸先のよいスタートに思わずにやりと笑みを浮かべる。
振り返る事なく、レガードは背後の少女に声をかけた。
「覚悟はいいか、この先はどうなるか分からない。命の保証はないと思え」
「は、はい」
「まず、扉の向こうの奴らを始末する。この部屋から外へは出るな」
「……わかりました」
不安げな声だった。
「それが終われば、あのクソジジイの回収だ。大礼拝堂まで引き返すぞ」
「あ、ありがとうございます」
それまでと打って変わって、声に明るさが戻る。約束を反故にされる事が不安だったのかもしれない。
この約束は決して違える事は出来なかった。ここから先、いつでも彼女の存在を切り捨てることを躊躇わぬために。
少女が扉に手を添え、解錠の呪文を唱えようとした。
「何が起きても後悔はするなよ。これはお前がお前の意思で選んだ道なのだから……」
一瞬、イリアの背中が緊張する。しばしの後で彼女は一つ無言でうなずき、扉を解錠した。
外の気配が一斉にこちらを向く。
重い扉を引き開け、レガードは一人、次の間へと侵入した。
その場所は《ペネロペイヤ》の大神殿であれば、数多の冒険者達が不安と期待に身を震わせるはずの待合所であった。
その場にいたのは、敵意をむき出しにする十人近い集団。しばらく前に似たような場所で大暴れした事を思い出すレガードに蛇族の若者が襲いかかる。
目の焦点を失い、アンデッドのごとく振る舞うその顔面に容赦なく拳を見舞った。一撃をまともにうけた若者は石壁に激突し、ぴくりとも動かなくなる。
さらに手近な者達を蹴りつけ殴り飛ばし、腕を掴んで放り出した。
まだ、三割程の力も出していないはずだが、それまでとは段違いの切れのよい動きと速やかなマナの流れによって強化された補助魔法のおかげで、彼の戦いは全く危なげなかった。
半数の雑魚集団を一息に薙ぎ払ったレガードの周囲を大蛇に変化した若者達が取り囲んだ。身体の大きさこそ段違いではあるが、その動きはどこかぎこちない。得た力に振り回されているようだった。
《ラヴィロディオン》の樹海で交戦した者たちの力を下回るようだった。
この程度の奴らに時間をかけるのは惜しいと判断したレガードは、背のスタッフを引きぬき、右手にだらりと下げる。
レガードの四方をふさぎ、逃げ場をなくした獲物に勝ち誇るかのような表情を浮かべる大蛇達。
三匹が争うように一斉に襲いかかる。
強化した脚力で、その場を跳躍したレガードは空中で体を入れ替え、《光刃斧》を展開すると大蛇達の頭部を一閃した。
以前よりもさらに濃い輝きを秘めたその刃によって、同時に頭を潰された大蛇達の胴体がドウと音を立ててその場に転がった。
すでにレガードの姿はその場にない。
一瞬のうちに只一匹、レガードに襲いかからなかった最後の大蛇の背後をとっていた。
レガードの処理を周囲に任せ、扉の隙間から恐る恐る戦闘の様子をのぞき見るイリアに飛びかかろうとした大蛇は、背後に詰め寄ったレガードによってあっさりと胴体を切断された。
四匹の大蛇の姿はマナの輝きとなって消えていき、代わりに結晶が浮かび上がる。
その一つをむんずと捕まえたレガードは、それを圧倒的な膂力で握りつぶした。粉々になって砕け散る結晶が悲鳴を上げたように、イリアには感じられた。
三つの結晶がいずこかへ転送され、戦場となった待合所に静けさが戻る。
砕け散ってマナの輝きとなって消滅していく結晶をしばし見入っていたレガードだったが、すぐに興味を失くしたらしい。
「行くぞ、小娘」
おそるおそる部屋から出てきたイリアを促した。
「ちょ、ちょっと待ってください」
先へ進もうとするレガードを呼び止め、イリアは扉をそっと閉じる。
――次にこの扉が開くとき、どうか、この場所が清浄なものでありますように。
願いを込め、封印の呪文を唱えた。
ガチャリという施錠の音とともに、扉は壁面と一体化する。
「お待たせしました。行きましょう」
レガードに緊張した笑みを浮かべ、その背に続く。
目的地は大礼拝堂。
囚われ傷つけられているであろう老人を救わんがために、二人は歩みを速めた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
相変わらず腐臭漂う大神殿の回廊に、人気はほとんどなかった。すでに臭いが気にならなくなっていたイリア達の前に、時折、警護の若者達が立ちふさがる。
それらを一瞬で蹴散らし、二人は瞬く間に、大礼拝堂へとかけ戻っていた。
大神殿の外では戦闘が行われているらしく、時折、高位呪文がさく裂したかのような大きな振動が、神殿内を揺らした。
鋭敏に研ぎ澄まされた全身の感覚で周囲に敵の気配がない事を確認すると、レガードはイリアをその場に待たせ、扉を蹴り開ける。
突然の乱入に室内の誰もが驚いた。
手近にいた男を一撃で無力化し、さらに次の獲物へ。三人目を葬ったところで、柱上の大蛇達の反撃の態勢がようやく整った。
周囲の雑魚に目もくれず、飛び降りた大蛇が態勢を整える前に飛びかかって一刀両断し、機先を制する。
真っ二つになって消滅した大蛇の姿に、柱上の他の大蛇達は身動きが取れなくなった。
室内にいた全ての者達の注意は部屋の中央で青白い刃を輝かせた《光刃斧》を肩に担ぎ、仁王立ちするレガードに注がれる。
「どうした、雑魚共。できるのは、弱い者いじめだけか?」
堂々と挑発するレガードに殺意を向けるものの、一向に襲いかかる様子はない。
変化できぬ者達はすっかり腰が引け、大蛇達は最初に飛び降りようとして無残な結末を迎えた仲間の姿が脳裏にちらついているらしい。
『お前、行けよ!』
『そういうお前が行け!』
猫に……否、獰猛な獅子に鈴をつけるのは誰かという争いが、頭上で繰り広げられる。
一つ溜息をつき輝く刃をおさめて彼らに背中を見せたその瞬間、一匹が飛びかかり、わずかに遅れて残りが襲いかかる。
にやりと笑みを浮かべつつ、振り返るや否や再び殺戮劇が始まった。
青白い刃を噴出させると、レガードは当たるを幸いに大蛇達の胴体を力任せに薙ぎ払った。
この場の守りを任されただけあって、大蛇達は決して弱いわけではない。《ラヴィロディオン》の森で戦った者達よりもその実力は数段上だった。新たに得た力でそれらを軽く蹴散らして、最後の大蛇を薙ぎ払いマナの輝きに変える頃には、警護役の若者達は慌てふためきその場から逃げ出していた。暴風のごとく暴れまわるレガードに気をとられ、その死角をついて室内に侵入し扉の影に隠れていたイリアに気付く事なく、彼らは一目散という言葉を体現する見事な逃げっぷりを見せていた。
がらんとした大礼拝堂に残されたのは、壇上で鎖につながれいた老人只一人だった。
傷だらけの老人の姿を目にして、イリアが慌てて駆け寄った。
「バカ者、なぜ戻ってきた!」
それは大丈夫かと声をかけようとしたイリアにではなく、その背後で勝利の余韻に浸るレガードに対してであった。
鎖と手枷に拘束される老人を前に、イリアはレガードに助けを求めようとした。レガードは老人を一瞥すらしなかった。
「無用じゃ、お嬢さん、早く、その男とともにここから立ち去りなさい」
「お爺さんを残してはいけません」
拘束具をどうにかしようと周囲を見回すものの、鍵は見当たらず、いつ増援が来てもおかしくない状況に、ぐずぐずしている時間はなかった。半泣きになりそうになるイリアを説得する事を諦め、老人はレガードに呼びかけた。
「獅子猫族の若者、レガードよ、このお嬢さんを連れて、早くこの場を離れるのじゃ」
その時初めて、レガードは老人を正視した。
「生憎とそいつとの約束でね、俺はあんたを助けなければならない事になっている」
実に面倒くさそうな声での回答だった。
「無用じゃ、ワシはここでやらねばならん事がある!」
「だったら、この小娘を説得しろ!」
「そんな悠長な事を言っている暇などなかろうが!」
怒りと懇願が混じったような叫びだった。
それを裏付けるかのように、開け放たれた扉の向こう側から、数人の足音がこちらに向かってきているようだった。さすがのレガードでも、二人を守りながら、この状況を切り抜ける事はできぬだろう。
「若者よ、頼むから、そのお嬢さんを連れて逃げてくれ!」
「レガードさん、お爺さんを早く助けてください!」
相反する二つの願いではあったが、彼の取るべき行動は既に決まっていた。
一つ大きくため息をつき、レガードは老人の傍らに屈みこもうとした。一瞬、レガードから注意がそれたところを狙って、イリアのほっそりとした首筋に手刀を軽くたたき込む。不意をつかれた少女はあっけなくその場に崩れ落ち、気絶した。
「いいんだな、ジジイ」
答えは既に分かっていたが、それでも彼に問う。この老人はとっくに己の命を捨てていた。
「断絶種の長としてワシにはやるべき事がある。主たちがそれに付き合う必要は、どこにもありはせん」
「承知した」
倒れ伏したイリアを小脇に抱え、その場を離脱する。大礼拝堂から飛び出したところで、回廊の向こうに追手の影が現れた。
その中の一人に黒衣を着た者がいるのに気付き、舌打ちする。転職して新たな力を得たとはいえ、イリアを抱えての状態で相手をするには、幹部クラスは少々厄介な相手である。ぐずぐずしているうちにアシャリムまでが戻ってくれば、脱出は不可能となるだろう。
刃をおさめた《光刃斧》を背に戻し、イリアを両手で抱きかかえると、彼は一目散に反対方向へと駆けだした。大神殿から外へ脱出する手段がない以上、《ラヴィロディオン》に戻るしかなかった。
ほとんど無人の回廊を疾風の如く駆け抜け、中庭から隠し門のある間へと向かい、ぼんやりとしたマナの輝きを放つ門へと飛び込もうとしたその時だった。
「レガードさん、どちらへ行かれるので?」
空中から降ってきた聞き覚えのある声。反射的に足を止め、そちらを振り返る。
もう一つやっておかねばならなかった事を、レガードは思い出した。
「何の用だ、ヒュディウス?」
現れた《魔将》は相変わらずの幻像だった。
「どうやら、目的は果たされたようですね」
「おかげさまでな」
「ではそちらのお嬢さんを、この場に置いていっていただけませんか?」
「悪いな、断る」
ヒュディウスが目を細めた。
「はて、もう貴方に彼女は必要ないはずですが……」
「気にするな。こっちの事情だ」
気絶したイリアを両腕で抱え、レガードは不敵に笑った。不愉快そうな表情でヒュディウスが問う。
「成程、私は裏切られるという訳ですか?」
「当然、お前はもう用済みだ。なんだったら《現世》に出てきて力づくで奪ってみたらどうだ?」
ふてぶてしく挑発するレガードに、《魔将》は忌々しげに舌打ちする。
「俺達はお互い利用し合うだけの関係だったはずだ。それとも仲間だと思っていたのか?」
「いえいえ、そういう訳ではありませんが……」
不快な表情を消し去ると、ヒュディウスはわずかに肩をすくめた。
「私としては貴方と末長くお付き合いしたかったのですが……」
「まっぴらだな……」
空中のヒュディウスを見上げ、冷たくレガードは言い放つ。
「前々から気にはなっていたんだがな……、どうもお前からはここの奴らと同じ『負け犬』の臭いがぷんぷんする」
「なんですって……」
感情を隠す事を忘れた《魔将》にレガードは続けた。
「己が弱者であること、あるいは敗北者であることから目をそらし、それでも分不相応な望みにしがみつき続ける……。心当たり……ないか、お前?」
挑発ともいえるレガードの言葉に、ヒュディウスは顔を歪めた。
「成程、では現時点をもって、我々の同盟は解消という事ですね?」
「ああ、次に会うときは敵同士だ。遠慮はいらん。いつでも相手してやろう」
「そうですか、ではご機嫌よう、レガードさん」
不快な表情とともになじみのない仕草で一礼すると、ヒュディウスは姿を消した。
「じゃあな……、ヒュディウス」
そのままレガードは隠し門へと飛び込んだ。その姿が輝きとなって消えた頃、ようやく追手達が現れ、無人の室内で呆然と立ちつくした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
古ぼけた門がマナの輝きとともに作動する。
一拍の呼吸をおいて、その場に転移したのはイリアを抱えたレガードの姿だった。
《ラヴィロディオン》の遺跡中心部にある門へと転移したレガードは、休む間もなく次の行動へと移る。気絶したイリアを横たえ周囲の景色を見渡し、これから起こるであろう戦闘に最も有利な場所と戦術を模索する。すでに周囲の地形は頭に入っていた。いくつかの戦術パターンを脳裏に描きながら、レガードは気絶したままのイリアの元に戻ってきた。
一向に目を覚ます様子のない彼女に業を煮やし、若干の悪意をマナにのせてその小さな額を指ではじく。
乱暴なやり方で目を覚まさせられたイリアは、身を起こし額を押さえ、暫しぼんやりとした表情で周囲を見回した。
やがて思考と視点の焦点が合うや否や、彼女は慌てて飛び起きた。
周囲に望むべき人物の姿はない。
「レガードさん、あのお爺さんはどちらに?」
「見て分からないか? 捨ててきた」
その言葉を耳にすると、彼女は転移門に向って駆け出そうとした。
背後からその襟首をひっつかみ、レガードはイリアの小柄な体を軽々と反対側へと放り投げた。
大地に放り出され、受け身を取り損ねた彼女は暫し、痛みに顔をしかめた。どうにかそれをこらえて立ち上がり、レガードをきっと睨みつける。
「邪魔しないでください。もう貴方には頼みません! 私が一人でお爺さんを助けにいきます!」
「邪魔をしてるのはお前だ、小娘。俺だけでなく、あのジジイのな!」
「どうして私が!」
「あのジジイを助けたいってのはお前の自己満足だろ? あのジジイが本当にそれを望んでいたか? あいつは己の命と引き換えに、己が人生でやり残したことに決着をつけるつもりだって事がまだ分からないのか。お前のやってる事は大きなお世話だ!」
レガードの強い口調にイリアは言葉を失った。
「神殿巫女だかなんだか知らんがな、自己犠牲なんてのは度が過ぎるとうざったいだけだ! 己の分を弁えぬ願いを、チンケな同情で振りかざすのは、いい加減にやめろ!」
唇をかみしめるイリアの肩が小さく震え始めた。突然、足元にあった小石を拾い上げ、レガードに向かって投げつける。
「嘘つき!」
次々に投げつけられる小石を、レガードはよけようともしなかった。
「約束を守るといったじゃないですか、嘘つき!」
「約束は守ったさ。わざわざ遠回りしてジジイの回収につきあったはずだ!」
「だったらどうして最後まできちんと……」
「言ったはずだ。何が起きても後悔はするなと。お前はあのジジイを助けようと望み、その結果、お前だけがあの場所から逃げおおせた。それが今の無力なお前が、お前の意思で選んだ道を歩いた結果だ!」
レガードに突き付けられる現実は、己の非力さだけを浮き彫りにする。それでもイリアは叫び続けた。
「どうして、貴方はいつもそうなんですか? たくさんの人を傷つけて、勝手に私をさらって、自分の願いをかなえさせておいて、約束を違えて! 身勝手です! 嘘吐き! 最低!」
《ペネロペイヤ》でさらわれて以来、抑えに抑えていた感情が爆発した。黙ってその場に立ちつくすレガードに、感情の爆ぜるままにイリアは小石を投げ続けた。やがて、投げつける石が足元から無くなったところで、彼女は息を切らせ、肩で呼吸する。黙ってされるがままだったレガードが口を開いた。
「小娘、覚えとけ。約束ってのはな、それを相手に守らせるなんらかの力の裏付けがあってこそ、成立するものだ。信頼なんて幻想で相手が都合よく動いてくれるなんてのは、所詮、子供の夢。踏み倒されて当然だ!」
この世は所詮『力』である。強者の欲望が全てを喰らい、弱者は搾取され、その糧となる。
いつしかイリアの視界はぼやけていた。ジワリとあふれる悔し涙はやがて、すすり泣きへと変わる。
レガードは彼女に背を向け、歩み出した。
「どこへ……、行くのですか?」
目を赤くして、すすり泣きしながらも彼女は問う。
「どこかへ行くのは俺じゃない、お前だ、小娘」
足を止め、背を向けたまま、彼はイリアに答えた。
「すぐにここは戦場になる。役割を終えた以上、お前はもう用済みだ。どこか、安全なところを見つけて隠れていろ」
「貴方は……どうするんですか?」
「冒険者がやることなど決っているだろう。戦うだけさ」
背負ったスタッフを手に取り、その先端を大地に叩きつける。
「そうやって、また多くの人達を傷つけるのですか?」
「当然だ。そうしなければ奴らはどんどん増え続けるからな」
レガードはイリアを振り返った。
「これからここにやってくる奴らは、負け犬の匂いをぷんぷんさせて、身の程知らずな夢に踊り続ける弱者の集団だ。一匹一匹は無力だが、徒党を組むと奴らはどんどんつけ上がる。弱者にとって都合よく耳あたりのよい言葉をまき散らし、さらなる弱者を呼び寄せて迎合し、やがては世界を汚染する。これから先の世界は俺の物。そんな奴らの存在は、俺の邪魔。故にここでまとめて処分する」
その考え方はイリアの理解の範疇をとうに越えていた。そして、レガードとともに過ごす時間が終わりを迎えた事を、彼女自身に悟らせた。
「失せろ、小娘。ここはもう俺の縄張りだ。お前の居場所はここにはない!」
イリアはすでに彼にかける言葉を失っていた。そしてこの先の己がどう振る舞うべきかも見失いかけていた。立ちつくすイリアにレガードはわずかに表情を緩めた。
「迎えを待っていたのだろう? まだ優しく甘い幻想を信じているのなら、お前はお前のやるべき事が分かるはずだ」
脳裏に蘇ったのは、敬愛する姉巫女の言葉と小指の温もり、そして厳しい義父の大きな背中だった。
――そうだ、帰らなくちゃ。
大切な人達の元へ。住みなれたあの場所に。
帰り着くために今、彼女ができる事は一つしかなかった。
全力で逃げ出す事――それが戦うすべを持たぬ彼女にできるたった一つの戦い方だった。
黙ってレガードに背を向け、彼女はその場を駆け出そうとした。
「ヒュディウスはまだ、お前を狙っている。気をつけろ」
レガードの忠告に足を止める。振り返るとレガードは既にイリアに背をむけ、転移門へと歩き出していた。
その背に向かって、イリアは神殿礼をする。
「冒険者レガード様。御武運をお祈り申し上げます」
最後に神殿巫女の誇りを取り戻し、イリアはその場を後にした。
足早に去っていく少女の足音からそれを察したレガードは、イリアや老人とともに過ごしたわずかな時間を脳裏から消し去った。
他人という枷から解き放たれ、久々に身軽になった喜びをかみしめつつ、彼は哀れな獲物達の登場を胸を躍らせ待っていた。
2017/08/02 初稿