表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Lucky & Unlucky  ~アドベクシュ冒険譚~  作者: 暇犬
アドベクシュ冒険譚05章 ~狂乱の蛇神編~
139/157

21 イリア、願う!

 軽い目まいとともに、視界が揺れ、意識が揺れる。

 転移時に特有の現象が治まった直後に襲ってきたのは、腐臭だった。

 室内にうっすらと漂う不快な匂いに、思わずイリアは顔をしかめた。同行者である老人は眉をひそめ、レガードの方は全くの無表情だった。

 ふと前方に人の気配を覚える。立っていたのは一人の女だった。

「お待ちいたしておりました、皆さま。私、総族長アシェイトル様より案内役を仰せつかりましたレヴェラでございます」

 一枚布を体に纏ったその容姿は、まぎれもない蛇族の半獣人。合わせた布の隙間からどす黒く変色した右肩がわずかにのぞく。にやりと平たい笑みを浮かべ、ひたひたと近づいた彼女は、三人を舐るように見回し、じっくりと見定める。

 レガードを、老人を、そして……イリアを。

「お嬢さんはもしかして巫女様でしょうか? 可愛いらしい服着て羨ましいですねえ」

 イリアの巫女装束をちょんと抓んで引っ張るその笑顔に、底知れぬ悪意と薄気味の悪さを感じた。寒気ともに、イリアの全身に鳥肌が立つ。ふんと、小さく鼻をならしたレヴェラと名乗る女は、レガードへと目を移した。

「獅子猫族の戦士様、遠路はるばるよくぞお越しくださいました。我ら偉大なる蛇族一同、歓待いたします」

 レガードは女を一瞥すらしなかった。面倒臭そうに溜息を一つつく。自尊心を傷つけられたのか、レヴェラの表情が憎々しげに歪む。

「おや、随分とお高くとまっていらっしゃる……、戦士様。獅子猫族というのは女性の……」

「ご託はいい。とっとと役目を果たせ!」

 面倒くさそうな言葉にレヴェラが語気を荒げた。

「調子にのるんじゃねえよ、このクソ猫! どうやら痛い目に遭いたいようだね!」

 ぶつかる視線と視線。両者の間の空間に何かが弾けて散った。

 レヴェラが驚愕の表情を浮かべて数歩後ずさり、対してレガードは初めて笑みを浮かべた。

「女、なかなか面白い芸をするな。だが、次にやったらお前の首は飛ぶ。いいな!」

 獰猛な猛獣の笑みにレヴェラは息をのむ。眼前の男は言葉通りに実行するに違いない。そこにいた誰もがそう確信する。

 一瞬のうちに勝者と敗者が決まり、場の支配権が確定した。

 ――この人の辞書に友好的という言葉は存在しないのね。ううん、辞書すらこの人は乱暴に引きちぎってしまうに違いないわ。

 神殿の本棚に並ぶ高価で分厚い蔵書を思いうかべながら、ふと、そんな思いがイリアの脳裏をよぎる。勿論、幼い彼女とその姉妹達がインクまみれに汚して悪戯したことなど露ほども思い出さずに。

「アンタ、タダじゃ、済まさないよ!」

「安心しろ、お前のようなヤツの結末は自滅と相場は決っている」

 レガードに軽くあしらわれ、何かを言いたげだったレヴェラは悔しそうに顔を歪め、背を向けた。

「ついてきな!」

 歩み出したその背中は怒気にあふれていた。

 涼しげな顔でレガードがそれに続き、イリアと老人が後に続く。

 転移門のあった室内から外へ出たところで腐臭の密度が一気に増す。軽い吐き気を覚え、イリアは思わず袖口で口元を覆った。

 その場所が見慣れた《ペネロペイヤ》大神殿に似た作りである事にようやく気づく。だが、漂う匂いは全く異質な物だった。

 秩序とは無縁の底知れぬ悪意と無秩序な死の匂い。

 そこが自分の常識とはあまりにかけ離れた場所である事を痛感する。


 長い回廊から中庭へ――。


 ところどころに放置されている見慣れぬ物体の正体に気付き、イリアの嫌悪感はますます募った。

 夏の強い日差しの中、腐臭の原因となっているそれらには、小さな虫がたかっている。

 そのような場所がさも当然の居場所であるかのような蛇族の若者達。

 どことなくトロンとした目つきでぼんやりと佇む者。

 逆にギラギラとした目でこちらを見つめている者。

 誰もが普通の精神状態とは全く異なる様子だった。

 神聖なはずの大神殿の建物に全く似つかわしくない光景。イリアの中の何かが侮辱され踏みにじられたように感じられ、ただ怒りだけが心に湧きあがる。

「お嬢さん、大丈夫かね?」

「はい」

 心配した老人が声を掛ける。気を取り直そうと深呼吸をしかけ、うっかり濃い腐臭を吸い込んで気分が悪くなる。その空気があたかも当然のような顔で女とレガードは先を行く。

「狂っておるの……」

 周囲に目をやっての老人の何気ないつぶやきにほっと胸をなでおろす。やはり、ここは異常な場所だという己の感覚がまともである事に安どした。

 ふと一人の男が一行に近付いた。

 饐えた体臭をふりまき、その身だしなみはだらしない。

 不穏な空気をまき散らしてよたよたと近づいてきた彼は、突然イリアに襲いかかろうとした。

 とっさの事にイリアは思わず、すくみあがる。

 瞬間、イリアの頭上でブンという風切り音が聞こえ、近づいてきた男はレガードにしたたかに叩きのめされた。

 ゴロゴロと転がって石壁に激突し、男は動かなくなる。周囲にいた者達はその醜態をヒャヒャヒャと笑い飛ばしていた。

「あ、あの、ありがとうございました……」

 動転しながらも如何にか礼を述べたイリアだったが、抜き放ったスタッフを背に戻し、レガードは視線も合わさず再び先を行く。

 その先を行く女の横顔に確かな悪意が見えた。

 己の常識が全く通じぬ場所で悠々と先を行くレガードの背が、なぜか頼もしく見えた。

 思わずかぶりを振る。

 元はと言えば、彼がイリアをさらったが故に始まった事である。原因を作った彼と《魔将》ヒュディウスに非こそあれ、頭を下げる道理などないわけだが……。

 胸を張って姿勢を正し、下腹に力を入れる。

「私は神殿巫女なのだ」

 ――それが今の彼女を支えるたった一つの矜持だった。



 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 回廊から回廊へ――。

 どこもかしこも不快な臭いであふれかえっているその場所は、間違いなく彼女のよく知る場所だった。

 物心つくときから育った《ペネロペイヤ》の……。

 寒空に凍えた《アテレスタ》の……。

 似たような構造の建物の様子から、どこに何があるかなんとなく想像できた。

 ふと、イリアは足を止めた。

 曲がり角のその先へと続く回廊。

 進行方向と反対側へと続くその場所は、きっと彼女のよく知る場所に違いない。

 ――ということは、おそらく今、私達が向かっているのは。

「何してんだい、お嬢ちゃん。迷子になっても知らないよ」

 挑発的な笑みを向けるレヴェラの言葉に思わず睨み返す。

 ――神殿巫女の私がこんなところで迷子になる訳ないのに!

 言い返してやりたかったが言葉にはできなかった。彼女のよく知るその場所では、はぐれた途端に襲いかかってくる者達はいない。短い時を過ごした《ラヴィロディオン》の外の樹海のような不気味さを覚えた。

 イリアをフンと一つ鼻で笑い飛ばしたレヴェラの後をレガードが続く。老人とともに再び彼女は歩き出した。

 しばらくして、一行は目的地へと到着した。


 大礼拝堂――。


 大神殿内で最も広く、厳かにして権威あるその場所へと続く扉の前にイリア達は案内された。

「皆さま、どうぞ、お入りくださいませ、我らが司教にして総族長アシェイトル様がお待ちです」

 すました様子で取り繕ったレヴェラの言葉と同時に、重い鉄の扉がゆっくりと開いた。

 一歩足を踏み入れたその場所で総毛立つ。

 不思議な事にその場所に不快な臭いは全くなかった。

 神殿ならば当然のはずのその事実は、逆に違和感ばかりを募らせる。

 最奥部に位置するはずの巨大な創世神を示す意匠は取り除かれ、代わりにあったのは、まがまがしい七つ頭の巨大な蛇の絵だった。

 長椅子はすべて取り除かれ、むき出しの石床の上に粗末な布を外套のように纏った多くの信者と思しき男女が平伏する。

 突然、イリアの眼前に立っていたレガードが「チッ」と低く舌打ちし、背負っていたスタッフを手に、部屋の上方部に視線をやる。

 その背中からすぐに戦闘でもするかのようなマナの猛りを感じとり、イリアもつられてそちらに視線をやった。


 思わず息を飲む。


 大礼拝堂の天井を支える複数の柱。その一柱一柱に巨大な蛇が巻きついている。オブジェではない。まぎれもない本物だった。

 ちろちろと舌をのばし、その視線は全てイリア達に向けられていた。

「戦士殿、ここは我らが偉大なる蛇神様の御前であり、神聖な場所。けがれは不要にございます。武器をお納めを……」

 余裕の笑みを浮かべて、レヴェラがレガードをたしなめる。柱に巻きつく蛇たちを暫し睨みつけていたレガードだったが、彼にしては珍しく、その言葉に素直に従い武器を背に戻した。尤も体内のマナはさらに猛り狂い、とてつもない怒気とともに今にも噴出しそうだった。

 その不穏な空気を感じ取ったのか、平伏する信者達の間に小さなどよめきがさざ波のように広がった。

 壇上には漆黒の僧衣を身にまとった数人の男女が立っており、その中心に漆黒の布地に金色で装飾された僧衣を来た若い男が一人。

「アシェイトル……」

 老人がその名を小さくつぶやいた。その横顔に表情は無く、その内心は窺い知れない。


 突然、鐘が一つなった――。


 礼拝堂内に響き渡るそれを合図に、信者達がするすると左右に分かれ中央に道ができる。

「方々、こちらへ……」

 低く、理知的な声。アシェイトルと呼ばれたその男が一行を呼び寄せた。

 さらに歩を進める。壇上までの距離が異様に長く感じられた。緊張のせいか、なんとなく足元がふわふわする。己の心の鼓動が速くなっている事にイリアは気付いた。

「ようこそ、遠路はるばるお越しくださいました。戦士殿、巫女殿。そして先生、御懐かしゅうございます」

 七つ頭の大蛇の絵を背にして、アシェイトルが彼らに挨拶をした。先生という言葉に、老人と彼が顔見知りである事に気付きイリアはわずかに驚いた。

 老人が進み出る。壇上にて、かつての弟子と相対する。

「久しぶりじゃな、アシェイトル。最後に会ってから、もう、十年を軽く超えておるか……」

 言葉どおりの懐かしさや温かさは感じられなかった。

「アシェイトルよ、禁忌を犯した事でいまさら、主を咎め立てるつもりはない。主はもう、とうに取り返しのつかぬ場所に足を踏み入れておったのじゃな」

 彼の背後に佇む者達がその言葉に気色ばむ。だが、アシェイトルが動ずる事はなかった。

「破門され、私は独自の道を歩むしかありませんでした。いまさら、それをとやかく責める資格は貴方にないはずです、先生」

「そうか……、そうじゃったの……」

 さびしげな声だった。

「アシェイトルよ、一つ聞きたい」

「なんでしょうか?」

「アシャリム殿を殺したのか」

「はい」

「何故じゃ?」

「我ら、蛇族の未来の為に……」

 信者たちに動揺する様子はない。それは彼らにとって周知の事実なのだろう。

「主は、アシャリム殿に後継として認められたのではなかったのか?」

「ええ、始めはそうでした。でもいつしかその父も年老いた。忍び寄る老いの不安が己の生きざまに背を向けさせ、ついには愚かな小者たちの換言に惑わされた。故にわれら蛇族を導く者としてふさわしくない、そう判断したのです」

「愚かな事をしたのう」

「断絶種の形ばかりの長には決して分からぬ事ですよ。無数の人の集団が生み出すあやふやな不安と不満。それらが引き起こす、滑稽で愚かな振る舞いの数々は……」

老人が顔を歪めた。短い沈黙が訪れる。

「で、主は何故、ワシを求める?」

 アシェイトルは微笑んだ。

「誤解ですよ。先生。確かにずっと貴方にお会いしたくはありましたが、私が求めているのは貴方ではありません。貴方が背負っていらっしゃるものです」

 老人は首を静かに横に振った。

「無理じゃよ。主にそれを受け止める事は出来ん。かつての主でもそのくらい理解できたはずじゃ」

「確かにかつての私ならばそうだったでしょう。ですが、今の私ならばその片鱗を扱うことはできる……」

 老人が眉をひそめた。

「主、何を考えておる」

「あるべきものをあるべきように……」

 その言葉に老人は目を細める。同じ言葉を別の者から聞いた事をイリアは思い出した。

「主はその戯言に蛇族全体を巻き込むつもりか?」

「我らもまた、変わらねばならぬのですよ、先生」

「詭弁じゃよ、それは。愚か者に居心地の良い夢を見せて踊らせるためのな。人にも種族にも決して変えてはならぬもの、捨ててはならぬものがあるのじゃ!」

「そんなもの、我らにとって幻想である事は御承知でしょう、先生? 右も左も、上も下も、どこを向いても希望を持てぬ者にとっては、他者を踏みつけ全てを壊すか、その場所からどうにか逃げ出す事だけが解決策なのですよ」

「だから禁忌を犯したのか?」

 それは神殿の教えに疑義を唱える事にも通じる。二人のやり取りをイリアは固唾をのんで見守った。

 かつて老人の弟子であったというアシェイトル。ふと、そのあり方に違和感を覚える。

 イリアの目から見てその振る舞いと言動は正常に、理性的に見えた。

 この全てが狂気に支配された場所で只一人、正常にふるまう彼の存在はあまりにも異常だった。

 そのような彼が犯した禁忌とは一体何なのか?

 創世神に仕える神殿巫女として、一つ思い当たらぬ節もないが、それが必ずしも正解ではないような気がした。

「先生、もう一度だけお願いします。私にお譲りいただきたい」

「くどいな……」

「そうですか……」

 その言葉が合図だったかのように、周囲の者達が老人を取り囲む。

 背後に立つ者がいきなり老人を殴りつけた。小柄な老人の身体はあっけなく崩れ落ちる。さらに数人が踏みつけた。

「やめてください、何をなさっているんですか」

 眼前で起きた突然の暴行劇にイリアは驚き、飛び出そうとした。

 その腕をレガードが掴んで制止する。

 引きとめるレガードを振り返り、イリアは叫んだ。

「あの人達を止めてください、レガードさん。お爺さんが……」

「動くな、小娘……」

 視線が合わさり、一瞬、奇妙な束縛感をイリアは覚えた。

 彼の魔眼の力である事を悟り、イリアは反射的に全身のマナを使ってその力に抵抗する。だが、以前は簡単に振りほどけたはずの彼の束縛は思った以上に強かった。

 きっと睨みつけるイリアに、レガードは続けた。

「そこで、大人しくしていろ!」

「あなたという人は……」

 その時ふと、己の腕をつかむレガードの手が少し汗ばんでいる事に気付いた。全身のマナが活性化し、怒気とともに今すぐにも爆発しそうな状態は相変わらずで、彼は壇上の一点を睨みつけている。

 その視線の先にあるのは冷静な表情のままのアシェイトルだった。

 いつも傲慢なほどに己の力量に絶対の自信をもってふるまうレガードに、全く余裕がなかった。そのような彼を見るのは初めてだった。

 大礼拝堂に入った時から、彼の意識は頭上で牽制する大蛇達ではなく、アシェイトルにのみ向けられていた事に初めて気付いた。

 倒れ伏した老人にリンチを加える側近達を放置し、アシェイトルが壇上から降りてきた。

 穏やかな物腰で振る舞う彼は、レガードとイリアの前に立った。

 氷柱を前にした時のような冷気を、そして得体のしれぬ禍々しさがその身から発せられる。動揺していたイリアは冷静さを取り戻した。

「戦士殿、巫女殿。ヒュディウス殿より聞いております。暫しの滞在と行動の自由を許しましょう。速やかに目的を果たされますように……」

 レガードの身体から発せられる怒気が強くなる。そんな彼を前にアシェイトルは涼やかに微笑んだ。

 ギリリとレガードの歯ぎしりがイリアの耳に聞こえたような気がした。

 イリアを引きずるようにその場を数歩後退すると、レガードはそのまま背を向け大股に歩きだす。

「ま、待ってください」

 制止しようとするイリアの重さをものともせず、背中にあったはずのスタッフを手に、レガードはずんずんと歩みを進める。

 尻尾を巻いて逃げだすかのような獅子猫族の戦士の姿に、信者達から嘲笑が向けられる。それらを気にせず、イリアを引きずるようにして大礼拝堂を背にしたレガードは、そのまま回廊を歩み進んだ。

「放してください!」

 ようやく、魔眼の束縛から逃れたイリアは、どうにか彼の腕を振りほどいた。細い腕に彼が握りしめた指の跡がくっきりと残る。

 痛みに顔をしかめながらも、今は自身の心配をしている場合ではなかった。

 老人の事を思い出し慌てて、大礼拝堂へと引き返そうとする。

「どこへ行くつもりだ?」

「決っているでしょう? あの御老人を……」

「お前が行ってどうにかなるのか。代わりに奴らのリンチを受けるのか? まあ、小娘とはいえお前も女だ。奴らを楽しませる方法ならいくらでもあるだろうがな」

 おぞましい言葉に背筋が凍った。そしてそれが現実になりかねぬ事は理解できた。

「だ、だったら、どうして貴方が助けないのですか、貴方ならば……」

「無理だな……。第一、そんな義理もない」

「無理って……」

「百回やって、百回負ける。千回やって、千回負ける。確実にな……」

 あっさりとレガードは言い放つ。自分の眼前で傲岸不遜に数多の猛者を蹴散らした彼のためらいのない敗北宣言に、イリアは言葉を失った。

「お前、何も感じなかったのか、あのアシェイトルという奴に……」

「それは……」

 誰もが狂気を隠さぬその場所で、只一人、理性的にふるまい続けるその姿を思い出す。

「あれだけイカレタ奴らの集団を、邪教とはいえ道理や理念で制御できると本当に思っているのか、めでたいな」

「どういうことですか?」

「強いんだよ、奴は。化け物のように、いや、いうなら壇上の絵のごとき化け物そのものだ。どんな禁忌とやらを犯したかはしらんが、奴に比べればあの間にいた奴らなど皆、有象無象の雑魚。反抗の意思を示そうものなら軽く薙ぎ払うだろうよ。眉ひとつ動かさずにな……」

 悔しげな表情を浮かべるレガードの姿に、イリアは息を飲む。

「世界は広い。想像だにせぬ化け物やイカレタ奴らっていうのはごまんといる。そんな奴らを踏みにじるためにも……」

 レガードはイリアをまっすぐに見つめた。

「小娘、いや、神殿巫女イリア。俺に上級冒険者への洗礼を施せ!」

 己の欲望に忠実で全く迷いのない瞳。

 魔眼を使ってはいないはずなのに、その言葉には何かしらの強制力が感じられた。それは神殿巫女の義務感ゆえであろう。

 だが、イリアのイリアたるものが、断固それを拒絶する。

「その話はお断りしたはずです!」

 イリアもまたレガードをまっすぐに見つめた。イリアにとっても決して譲れぬところだった。

 互いの視線がぶつかり沈黙が支配する。厳しい表情を崩すことなく、先に口を開いたのはレガードだった。

「ここにいる奴らを見たはずだ。蛇族というイカレタ集団の中で、誰もが狂いかけている。中には狂ったふりをしてるやつもいるはずだ。弱い己を守るためにな……」

 レガードの的確な指摘にイリアは口をつぐむ。

「この臭い、自由都市という場所で育ったお前には不快そのものだろう?」

 回廊には相変わらず吐き気を催す死臭が漂っている。

「誰かが死ねば、誰かがその亡骸を葬ってくれる。人のつながりによってこの不快な臭いとは縁遠く、それが当り前なのが秩序に守られた世界だ。だが、そこから一歩でも外れれば、この臭いは当たり前。つながりと秩序が失われた場所では、人の命とその死はどうしようもなく軽くなる。たとえば盗賊に襲われ全滅した村。片付け手のない死骸の山は疫病の元となってさらに災厄を広げていく。この臭いは旅人に危険を知らせるサインであり、腹をすかせた獣達にとっては己の命をつなぐための獲物があるというサインでもある。そして、まともな神経の者ならば、無残に引きちぎられ朽ち果てる人の形だったものを前にして、そうなりたくないが故に強者に従い、あっさりと誇りを捨てる。ここにいる蛇共のようにな。夢想的な正義も偉大なる神の教えとやらも、現実の前には所詮、儚くもろい幻想だ。そんな狂った場所でも生き延び、己の意思を通すための絶対的な力。それが冒険者という存在だ。俺はそれを望む」

 レガードの確信的な言葉が、強かにイリアのイリアたるものを打ちのめした。神殿巫女として己がとるべき選択肢はたった一つしかない事を痛感する。

 ――ほかに何もできないの?

 非力さを思い知らされて《アテレスタ》を彷徨ったあの頃が脳裏に浮かぶ。今もまた、どうしようもない現実の前で状況に押し流されようとしている己が歯がゆかった。

 ――本当に何もできないの?

 己の理性を総動員してこの追い詰められつつある状況で、とりうる手段を模索する。

 それは神殿の退屈な座学で押しつけられる知識からは決してえられない、自分だけの答えの探し方だった。

 ――創世神も、神殿巫女も、こんな時には無力だな。

 なんとなく自嘲しかけた時だった。一つの考えが脳裏に浮かんだ。

 それは彼女が神殿巫女であるからこそ思いついた選択肢。

 彼女が年齢通りの平凡な一人の少女であれば、それは思い浮かぶ事は無かっただろう。

 だが、今の彼女にはそれ以外に選択肢はなかった。それを口にする勇気を得るため、彼女は腰のナイフの柄に手をやった。

 己よりもはるかに高い身長のレガードをまっすぐに見あげる。身体のわずかな震えが収まった。

「条件があります!」

「なんだ?」

 迷いの消えたイリアの瞳と強い意思の籠められたその言葉に、レガードはわずかに目を見張る。

「神殿巫女として、貴方の洗礼を執り行う事を責任を持ってお約束します。その代わりに……」

 一つ大きく息を吐く。

「あの方を……、あの御老人を助けてください! それが私の条件です」

 その言葉にレガードは眉をひそめた。しばしの沈黙の後で彼は答えた。

「あのジジイがそれを望まなくともか?」

「そんな事あるわけないでしょう!」

「そうか」

 レガードは一つ溜息をつく。

 イリアの条件にレガードはイエスと答えざるを得なかった。

 状況は刻々と変わる。

 ここで下らぬ押し問答をしている時間は無いし、ノーと答えれば、彼女は己の腰のナイフを引きぬき、その結果、無意味に死体が一つ増えるに違いない。

 約束を守るかどうかはレガードの胸三寸といったところだが、もし、約束を交わせば彼がそれを破る事が出来ないことを、彼女は直感しているかもしれない。

 相手との約束をどう履行するのか?

 破ってよいものとそうでないものを見極め、それを順守ないし、反故にするする時、人は器を試される。破ってはならぬ約束を一つ破るごとに己の誇りが剥がれおちていく。その事を肌で知っているのだろう。

 しばし、瞑目したレガードはやがて、彼女に『是』と答えた。

 答えを聞くや否や、彼女はその場を駆けだした。一歩遅れてレガードが後へ続く。

 先ほど立ち止った曲がり角を右へと曲がり、イリアは神殿巫女の本来の居場所を目指した。

 突き当りの扉を身体をぶつけるかのようにして押し開く。

 多くの冒険者を受け入れるはずのその場所は、今やすっかり荒れ果てていた。その光景に胸を痛めながらも、彼女はさらにその先にある扉を目指した。

 洗礼の間へと続く三つの扉。

 何者かが無理にこじ開けようとしたのか、酷く傷だらけではあったが、中へと侵入した形跡は見当たらなかった。真中の扉を押し開こうとしたものの、やはりびくともしなかった。それはここで命を落とした神殿巫女達の最後の義務感の表れなのだろう。

「壊すか?」

 レガードの問いに首を横に振る。

「無用です」

 傷だらけの扉に手を押しあて、彼女はそっと解錠の呪文である教書の一節を唱えた。

 壁の中に埋没し、一体化していた扉が浮き上がり、ガチャリという大きな音ともに内側へと開く。

 もはや決して出会う事のない神殿巫女達に感謝と敬意の念を示して、イリアはレガードを室内に導き入れると封印の言葉で扉を施錠した。

 塵と埃がうっすらとつもるその場所には、まぎれもない大神殿の厳かな空気が残っていた。

 天井から滔々と流れるはずの神聖水の滝は止まっている。

 ――お願い。動いて!

 苦しむ老人の姿が脳裏にちらつき、祈るような思いで仕掛けを操作する。

 ゴトンという音ともに、仕掛けが動き、水が流れ始めた。長い間せき止められていたせいか、水は酷く濁り、臭っていた。

 始めはゆっくりと……、やがてその勢いは徐々に増していく。

 地下の浄化設備はまだ生きているらしく、どろりと濁っていた汚水は徐々にその透明度を増していき、やがて、神聖水特有の輝きを取り戻し始めた。室内に蘇った洗礼の滝は、それでもまだ《ペネロペイヤ》のものと比べれば、ずっと輝きは鈍かった。

 ――このままではうまくいかないかもしれない。

 一瞬、不安になったものの、すぐに良案を思いつく。

「ケル石をください」

 イリアの要求に一瞬、首をかしげたレガードだったが、すぐにその言わんとする事を理解し、己の《バッグ》からそれを取り出した。大神殿でエルシーから奪い取ったままのそれは、鈍い輝きとともにイリアの手に戻った。

 先ほどから封印された扉の向こうで、何者かの気配が感じられる。入ってくる事はできぬだろうが、それでも何が起きるか分からない。

「マナをいただきます。貴方の力は大きく後退しますが、構いませんか」

ほんの一瞬、ためらいの表情を浮かべた後で、レガードは首を縦に振った。

「かまわん。好きにしろ。一切合財をお前に任せる」

「それでは……」

 神殿礼とともにレガードの手に《ケル石》を置き、その上に自らの手を重ねる。

 ぼんやりとした翡翠の輝きが二人の間に生まれ、さほどの時をかけずにそれは治まった。

力を失ったはずのレガードの様子に大きな変化はない。その姿に初めて出会った時のザックスの姿が重なった。

 懐かしさを覚えながらも、《ケル石》を手にイリアは泉に足を踏み入れる。

 すっかり浄化されているとはいえ、未だ、その場にあふれる神聖水の輝きは鈍い。

 ――うまくいって、お願い!

 祈るような思いで彼女は《ケル石》を水につけ、解放の言葉によって石に内包される全てのマナを開放する。先ほどとは比べ物にならぬ眩しい翡翠の輝きを放って、石は水底に沈んでいく。

 滝となって流れ落ちる神聖水が輝きを増し、それは《ぺネロペイヤ》のものに勝るとも劣らぬまでに回復した。その光景に、「ほう」とレガードが感嘆の溜息をついた。

 ――よかった。

 ほっと胸をなでおろすと、その場で振り返り、イリアはレガードに手を差し伸べる。

「参りましょう」

 小さく頷いたレガードは泉に踏み入り、イリアの手をとった。その手から彼の緊張を感じ取る。

 ――この人でも不安になることがあるんだ。

 再びザックスの事が脳裏をよぎる。あの時の彼と、そしてその仲間達と同じように、レガードもまた不安なのだろう。

「神殿巫女として責任をもって、私が貴方を導きます!」

 無意識のイリアの笑顔とその言葉にレガードはわずかに目を見張る。その顔にすぐに不敵な笑みが蘇った。

「ふん、大口叩いてしくじるなよ、小娘!」

「大丈夫、大船に乗ったつもりでいてください」

 春先にザックスとクロルに洗礼を施した事を思い出した。今の自分ならば大丈夫だという確信が彼女にはあった。

 レガードを滝へと導き彼女はつぶやいた。

「創世神よ、かの冒険者に大いなる祝福を与えたまえ!」

 イリアが先導し、レガードが後へと続く。

 二人の姿が滝の中へと消えるや否や、神聖水がさらに輝きを増しやがて滝全体が輝いた。



2017/07/27 初稿



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ