20 イリア、唄う!
数日降り続いた雨も止み、空はすっかり元の青さを取り戻していた。
大樹海は元の静けさを取り戻し、時折吹くそよ風に木々の枝がざわめきが広がり重なっていく。
忘れられた遺跡――その真の名を《ラヴィロディオン》という――の入口近くに作られた真新しい二つの無名の墓石の前で、イリアは死者との別れの唄を謡っていた。
それは参列者が老人一人の小さく簡素な葬式だった。
スケイル、トーカク二人の墓には、レガードが意外な器用さをみせて切り出した二つの正方形の墓石がおかれ、その傍らに生前彼らが命を預けた武具が無造作に突き刺してあった。
イリアが苦労してようやく見つけた森に咲く数輪の花を飾り、酒瓶をおいただけの墓の前で老人は、涙一つ見せることなく黙とうを捧げていた。
《袋》の中にしまっていた神殿巫女の装束を身に纏い、別れゆく生者と死者双方の為に、イリアは簡潔ながらもその葬式を取りしきっていた。
生者が心残りとともに立ち止らぬように――。
死者が心おきなく神の御許へ旅立てるように――。
神殿巫女として精一杯の役割を果たし、イリアは三人の別れを見守った。
盛大という言葉とは対極にありながら、《ぺネロペイヤ》で行ったものにも引けを取らぬ二人だけの葬式を終えると、老人は深々とイリアに頭を下げ、感謝の意を示した。
「ヒョヒョ、お嬢さんは立派な巫女じゃな。ワシの時もお願いしてよいかのう?」
「そんなの、困ります。変な事を言わないでください!」
イリアの看病の甲斐あって、葬式を終えた帰り道でそんな軽口がいえるくらいに老人の体調は回復していた。
遺跡の入口からしばし二人の墓と森の様子を眺めていた老人は、一つ溜息をつくとやがてそれらに背を向けた。
彼らが戦った相手である蛇族の戦士たちは、躯一つ残すことなくマナの光となって消え去った。その様子をイリアは少し離れた場所から目にした訳だが、その死の異常さに嫌悪感と底知れぬ不安を覚えた。
命ある者が死ねば亡骸が残る。残された者達がその亡骸を葬り、その者は思い出となって生きていく。思い出を思い出す者が皆いなくなったとき、その者は本当に死ぬ。
当たり前のことが当たり前にならないことに気づかぬ者達の集団に、まともな未来があるのだろうか?
そんな不安を胸にしつつ、遅れがちな老人の歩幅に合わせて、二人は滅び去った街並みを眺めながら無人の通りをのんびりと歩く。
「ヒョヒョ、これで、本当に一人になったのう」
崩れ落ちそうな建物を見上げながら老人はぽつりと言った。
「御家族はいらっしゃらないのですか?」
イリアの問いに老人は首を横に振った。
「妻と娘は先に逝ったよ。もう随分と前にのう……」
「あの……、もしかして、スフィアさんというのが……」
老人がわずかに驚いた顔をする。
「すみません、うなされている最中、何度も名前を呼んで謝られていらっしゃるようでしたので……」
「そうか……、そうじゃったか。迷惑かけたのう、お嬢さん」
「いえ、すみません、立ち入った事を口にして……」
「いいんじゃよ。そうか、まだ謝っておったか……ワシは……」
老人は寂しげに、悲しげにそして懐かしさを織り交ぜた表情を浮かべた。足をとめ、退廃した街並みをそっと見回す。崩れかけた壁で仕切られただけの風景からかつての街の面影を連想することは難しかった。
ふと、思い立ったイリアは尋ねてみた。
「この街で暮らしていらっしゃったのですか?」
意外な事に老人は首を横に振った。
「ワシはこの街の生まれではない。それどころかこの街はワシが生まれた頃にはもうこうじゃった。兎族は事実上、滅び去っておったんじゃ」
老人の言葉にイリアは驚きを隠せなかった。そんな彼女に小さく微笑むと、老人は通りの傍らに落ちている壁石の一つに腰掛けた。
イリアも並んで腰かける。老人は静かに語り始めた。
「兎族がこの街を捨てたのはワシの祖父の代の事じゃ。獣人族としては短命で非力な我らは、人間と交わりその容姿の片鱗と頭脳を生かすことで種を残す選択をした。その動きは祖父の代よりも数代前から少しずつ始まったという。尤も三代もすれば種は薄まり人とほとんど変わらぬようになるがな……」
遥か遠くを見つめる眼差しで老人は語る。
「二人の純粋種を両親に持つワシは最後の純粋種となった。母はワシを生んですぐに亡くなったためにな。ワシはほとんど名前だけの総族長であった父に連れられ数年に一度、この街を訪れていた。お嬢さん達がいたのは、まだこの街が華やかだったころの代々の総族長の屋敷だったんじゃ」
「それで懐かしの我が家と……」
「めったに来ることはなかったが、それでも幼い頃より共に過ごした父や周囲の者たちとの思い出がいくつも残った場所ではあるがの……」
「すみません、そんな場所とは知らずに勝手にいろいろと……」
頭を下げるイリアに老人は笑った。
「ヒョヒョ、気にする事はないよ、お嬢さん。直に、最後の主もこの世から去る。そして本当にこの場所は誰からも忘れさられることになるんじゃから……」
それが老人の未来を暗に示していることにイリアは気づいた。すでに己の死を覚悟しているようなその口ぶりに、イリアはどう答えてよいか分からず戸惑った。老人は相変わらずヒョヒョヒョと笑う。
「お嬢さんを初めて見た時は驚いたぞ。死んだはずのスフィアが化けて出てきたかと思うほどにのう」
イリアを見て死んだ娘の名を呼んだのは、偶然ではなかったようだ。
「そんなに似ていましたか?」
「耳の大きさこそ小ぶりじゃが、お嬢さんはあの頃の娘によう似ておる」
「そ、そうでしたか?」
思わず頭の上の己の両耳に手をやった。
「ヒョヒョ、気にするでないぞ。年頃になると兎族の耳は伸び始める。すらりと伸びた長い耳は大人となった証であると同時に美しさの証明じゃ」
「は、はあ……」
わずかに頬を赤らめつつ、そっと両の耳をなでてみる。今のイリアは兎族の評価基準から見てもまだ子供らしい。
イリアの姿を、暫し目を細めてみていた老人の顔にふっと暗い影がさした。
「じゃが、そんな娘をワシはワシのエゴで不幸にしてしまった、ワシ自身がこの手で殺してしまった」
ぽつりと言うと、そっと目を閉じ、大きくため息をつく。両の手を膝の上に戻すとイリアは、老人の傍らで次の言葉を待った。
「人間族と交わり同化する――言葉にするのは簡単じゃが、その過程での種族間の軋轢は並々ならぬものがあった。幾世代もの間に様々な混乱と衝突が生まれ、元の兎族を復興しよう、そんな事を言い出す者もおった。そのような者達にとって最後の純粋種たるワシは体の良い神輿じゃった。ワシもまた、そのような者達に担がれその気になってしもうてな……、今考えれば真に愚かな事じゃった」
イリアには老人の背中がとても小さく見えた。
「種族とは血縁のつながりだけが生み出すものではない。集団が持つ価値観、規範、語り継がれた伝統、文化、そういったものを共有できてこそ種族は成り立つ。様々な価値観を持つ人間族に同化し、広がり薄まってしまった種族を元に戻すことは不可能なのじゃ。ワシを担ぎあげようとした者達も、所詮は皆半獣人、結局のところ新たな生き方を見いだせずに行き詰った者達の集まりでしかなかった。そんな者達に唆され、ワシはスフィアをとある小国の王族へと嫁に出した。兎族の血縁を持つその国の王族ならば、ワシの娘を娶るにふさわしい、そう考えてな。娘の、スフィアの気持ちをまったく考えることなしに……」
深く大きく老人はため息をつく。溜息となって吐き出されたのは老人の抱え込んだ苦しみのほんの一部でしかないようにイリアには思えた。
「名ばかりとはいえ、父より兎族総族長の役割を引き継いだワシは、常に大陸のあちらこちらを旅し、獣人族の総族長だけでなく、各地の兎族の血をひく有力者とも交流しておった。人間族の妻や娘と顔を合わせるのも年に数度。悪い時には一度も顔を見ぬこともあった。だが、嫌われても見放されても当然なはずのワシの身勝手な願いを娘はすんなりと引き受けてくれた……、いや、違うのう」
老人の表情に苦しみが浮かんだ。
「スフィアの苦悩などあの頃のワシの目にはまったく映らなんだ。あの娘が心から愛した男との未来すら放り捨ててしまったことにも気づかなんだ……。あの娘の選択は、顔すらめったに見せぬ身勝手な父へのたった一つの愛情表現だったのじゃ。やさしすぎる娘じゃった。じゃが、そんなことすら思い及ばぬワシは……最後の純粋種として、総族長として……、すこしでも兎族の存在を後世に伝えよう、刷り込まれた義務感にしゃにむにとりつかれ、一人空回りしただけじゃった。そして、創世神は、そんなワシの傲慢さと愚かさを許さず、罰を与えた。ワシはスフィアと妻を失った、殺してしまった……」
「何が……あったのですか?」
イリアはごくりと息をのんだ。老人は淡々と語り続けた。
「この世は常に争いが耐えず、大陸各地で勃興を繰り返す人間族の国々のそれは、他の種族よりも激しい。隣国であるとある古王国の脅威に常にさらされ続ける状況に活路を見出すべく、その小国の王と側近たちは禁忌の魔法儀式に手を出した。ワシもまた図らずもその企みに知恵を貸してしまった。そして禁忌を犯したその小国は周囲の国々をも巻き込んで一夜にして地上から消え去った」
「《ユフタル》の悲劇……」
「知っておったか……。さすがじゃのう」
それはイリアが生まれた頃に起きた出来事だったといわれる。
巫女見習いの座学でそれを学んだ夜、怖くて姉たちにしがみついて眠ったことを覚えている。創世神の理に逆らい、禁忌を犯した人々の悲惨な末路を語る指導士の口調が、一晩中耳にこびりついて離れなかった。
かつて《ユフタル》という小国があったその場所には、未だに命の気配が蘇らないという。満月の夜には数々の不可解な現象が生じ、偶然通りがかった旅人を未知の世界へと引きずりこみ、そこから帰ってくることはできないという噂すらある。
「あの一件でワシは思い知った。ワシ自身だけでなく人と名のつく種の救い難い愚かさを……。そして、ワシは虚飾に満ちたあらゆるものを切り捨てた。漂泊の語り部として、己が過ぎたる欲望に身を焦がし、世代を通じて繰り返される愚行を戒めるべく、多くの者達に語り聞かせることにした。ワシが知る様々な伝承や歴史を……。二度と愚行を繰り返させまいと願って……」
彼の言葉をイリアは理解はできる。だがそれは知識として……、頭でのみである。その重みと苦しみを実感として共有はできない。《ペネロペイヤ》で一人の神殿巫女として育てられた彼女には、あまりにも遠い世界の話であった。
「ヒョヒョ、それで、これからどうするんじゃ、お嬢さん。もしも主がここから逃げ出したいというのなら、非力な身なれどワシもどうにか協力しよう。ただし、主とワシとで抜け出すには外の樹海は、少々厄介じゃがな……」
老人の顔をイリアはじっと見つめた。シミとしわだらけのその顔には強い決意の色が見て取れた。
それは家族同然の二人の従者に先立たれ、世を儚んで自暴自棄になった……とは正反対の、何かとても重い役割を背負い、自身の命の炎の輝きを全て使って全うせんとする、強い意志のように思えた。そこに義父ライアットが持つものと同種の厳しさを、感じ取る。
この老人の厚意に甘えてはならない。己の道は己のやり方で探し求めねばならない。イリアはそう決意した。
そっと老人に笑いかける。
「いいえ、私はここから逃げ出すつもりはありません。ここで、助けが来るのを待ちます」
言葉にした瞬間、イリアの心がふっと軽くなる。何かが吹っ切れたようだった。老人が彼女に問うた。
「この北の最果ての地、かつての住人の末裔たちすら忘れさったこの場所に、お嬢さんを迎えに来るものがいると信じておるのかい?」
「はい」
老人の問いにイリアは迷いなく微笑んだ。脳裏に浮かんだのは一人の冒険者、そして一人の神殿巫女。
「大切な人たちと約束をしました。だから、私は……」
姿勢を正し彼女は大きく深呼吸する。そして決意とともに口にする。
「待ちます」
幼いながらも神殿巫女の装束に恥じぬその振る舞いと決意の言葉に、老人は目を細めた。
ふと、その脳裏にかつて目にした同じような光景が蘇りそうな気がした。だが、それはぼんやりと霞がかったように広がっただけで、老人はわずかに苛立った。年老いた己の身のやるせなさに小さく憤る。
けれども老人は不意に小さく笑った。
――これでよい……。
現世での己の役割がとうに終わっている事を自覚する。
はるか古から受け継がれた呪いともいえる運命に思い悩み、多くの若い命を散らしてでも守り通さんとする旅はもう終わりなのだと。
大陸の各地へと散っていた同族の末裔たちは、新たなる場所でそれぞれの人生を生き、他者と交わり、命をつないでいる。眼前の少女のように。
この少女との出会いは創世神が与えたもうた運命なのだろう。後はその審判をしかるべき時に仰ぐだけ……。
「そうか、ではもう何も言うまい。お嬢さんの行く道の先に幸運がある事を祈って、わしらも行くとしようかの……」
ヒョヒョ、と笑って老人は立ち上がる。
何かがイリアの中でひっかかった。老人が行こうとする場所が、いつも自分たちが拠点とするあばら家ではないように思えた。
そしてその予想は間違いではなかったことは思わぬ形で証明された。
「さて、わしらの覚悟は決まったようじゃ。で、主らはどうするんじゃ?」
老人の視線がイリアの背後へと向けられる。驚いて振り返ったその先にはレガードと《魔将》ヒュディウスの姿があった。
「ヒョヒョ、主が近頃何かと現世にちょっかいをかけておるという《魔将》とやらか?」
幻像のまま宙にふわりと浮かぶ魔人に怖じる事なく老人は尋ねた。魔人もまた、イリアの全く知らぬ作法で一礼し返答する。
老人の視線がわずかに厳しくなる。
「はじめまして、兎族総族長フェディクス殿。御賢察恐れ入ります。ヒュディウスと申します」
「フン、この世ならざるものでありながら現世にそのような形で顕現するとは……。随分と思い切った事をするもんじゃのう……。主、何が望みじゃ……」
老人の問いにヒュディウスはわずかに微笑んで見せる。
「さて……、あえて言うなら、『あるべきものをあるべきように……』といったところでしょうか」
老人の垂れた耳がわずかにピクリと動いた。互いの視線が交錯する。暫しの無言が場を支配した。先にそれを破ったのは老人だった。
「まあ良い、で、ワシらをどうするつもりじゃ?」
「これよりお二人を待ち人の元へと送り届けさせていただきます」
「ヒョヒョ、ワシらが素直に従うとでも? こちらのお嬢さんをいずこかへ逃がすくらいの事ならまだワシにもできそうじゃがの?」
「いえいえ、御謙遜を……。御老」
ヒュディウスは笑う。
「貴方が本気になられたならば、辺り一帯塵一つ残さず消滅させる事など容易いでしょう? 勿論、このお二人をも巻き込んでしまいますが……」
二人の様子から、どちらの選択をしても多分、老人がその命と引き換えにというのが前提なのだろう、とイリアは感じ取った。
「おい、ヒュディウス」
レガードが厳しい声で傍らの魔人をなじる。そんな話は聞いてねえ、とでも言いたげだった。
「ほう、随分と詳しいようじゃのう、主……」
「《魔将》……などと呼ばれるものですから……」
どことなくおどけた調子で魔人は笑う。
「じゃが、どうやってここからワシらを移すつもりじゃ? 今の主が、媒介もなしにわしら三人まとめて飛ばすのは、さすがに無理があるのではないか?」
「御心配には及びません、御老。門はすでに開いております」
「なんじゃと……」
それまで、余裕のあった老人の顔色が変った。街の中央へと視線を送り、続いて遺跡の外の三角形の巨大建築物と向けられる。
「開いたのは街の中央の門ですよ、御老」
「ほう、では開いたのはやはり……」
「ええ、貴方のお弟子さんです。尤も昔の、と言うべきでしょうか。かつての師の到着を首を長ーくして待っていらっしゃるようですが……」
「巫女殿はどうするつもりじゃ?」
「当然、同行していただきます。彼女もまた、舞台の役者の一人なのですから……」
「《神》にでもなったつもりか、主は」
「いえいえ、只のしがない《魔将》ですよ……」
互いの視線が交錯し、火花を散らすかのように見えた。しばしの沈黙ののちに老人は首を縦に振る。
「よかろう。だが、その前に巫女殿の身の安全だけは保証してもらおうか」
「口約束でよいのなら、いくらでも……」
「誇りはないのか、主よ……」
「所詮、しがない《魔将》ですから……」
ヒュディウスは悪びれる事なく笑う。老人がイリアを振り返った。
「お嬢さん、どうやらただ待っているわけにはいかなくなったようじゃ。構わぬかの?」
悲しげに、寂しげに……、それは、神殿でイリアを守れなかった女冒険者の浮かべたものと同種の、守るべきものを守れぬ非力な者の悔しさの表れであることにイリアは気づいた。
「私は……大丈夫です。ですから、お爺さん、そのようなお顔をなさらないでください」
自身のおかれた状況を儚む事なく、毅然と微笑むイリアの言葉に老人はわずかに目を見はる。
「ヒョヒョ、そうか、そうか。ではいたしかたないの。わしらはともに運命に身を委ねることとしよう」
レガードがついて来いとばかりに顎をしゃくる。老人とイリアはそれに従った。
神殿巫女の装束を身にまとったイリアは、無意識に腰に差した《魔法銀》のナイフの柄を握っていた。
――いざとなったら……。
密かな決意を胸に秘めるイリアの姿を視界の端に捕らえつつ、レガードは二人を連れて街の中央の門へと歩き始めた……。
2017/07/21 初稿