10 イリア、彷徨う!
目を覚ましたのは、いつもどおりまだ夜明け前の時間帯だった。
いつもならば朝のお勤め前のわずかな時間帯で身支度と自室の清掃をするのが、神殿巫女の日課である。
だがその日の朝、イリアが目覚めた場所は、質素ながらも清潔さと日々の生活の匂いがする自室とは程遠い、うらぶれた空き家、否、空き家という言葉も怪しいほどに朽ち果てた建物の中だった。
固く冷たい石床の感触に心身がすっかりこわばり、目覚めてから起き上がるまでにしばらく時間を要した。
脳裏には己の身に起きた悪夢としか呼べない光景が蘇る。
――これが夢だったらどんなによかったか?
残念ながら彼女の身に起きたことは現実である。慣れ親しんだ神殿内で突如として拉致され、わけもわからぬ場所に転移した彼女は、その場で『放置』された。
彼女を拉致した獅子猫族の男――レガードと名乗った彼は、「俺の仕事はここまでだ」と言うや否や、イリアに己のバッグとナイフの鞘を放り出し、姿を消した。放り出されたバッグを眼前にあっけにとられた彼女だったが、すっかり日が暮れかけたこともあって、その日はどうにか一夜を過ごした。緊迫した状況にずっと置かれ続けたことから解放されて、神経が休息を求めていたのだろう。拉致されたにも拘わらず、ぐっすり眠ってしまった己の神経の太さに呆れつつ、彼女は行動を起こすことにした。
――まず、置かれた状況を把握しよう。
持ち前のポジティブさを発揮しつつ、暴虐な掠奪者から奪い取ったナイフを鞘におさめて冒険者よろしく腰に差す。そのまま一夜を過ごした廃墟から外へ出たイリアだったが、その場でしばし立ち尽くした。
昨夜は暗がりでよくわからなかったが、日の光の下で己がとんでもない状況に置かれていることを再認識する。
そこがかつて街として栄えた場所であろうことは理解できる。ただ、それはずいぶんと昔のことだろう。百年か二百年か、それ以上か。『遺跡』という言葉がこれ以上はないというほどにしっくりと当てはまるその場所には、生活する者などいないということがはっきりとわかるほどに周囲の建物は蔦やコケで覆われている。
広さは小さな自由都市程度くらいはあるだろうか。
街の中央に、用途の分からぬ古ぼけた門のようなものが存在する。かつては近くに大きな建物でもあったのだろうか?
それを取り囲むかのように無数の廃墟群が林立する。高く巨大な石壁が遺跡をぐるりと取り囲み、住人のいなくなった街を外敵から守り続けている。
どうにかこうにか苦労して石壁の上へと上がる階段を上ったイリアは、そこから見える景色を一望してすっかり途方に暮れた。
遺跡の周囲は、地平線の果てまで大樹海が広がっている。
遺跡近くの森の中に石壁を上回る高さの巨大な建築物が鎮座し、不気味な雰囲気を漂わせていた。
広がる大樹海には道らしきものがとぎれとぎれに見えぬこともないが、とても使えるものではない。高いところから見ているからこそ分かるのであって、旅慣れぬイリアが実際に歩けば間違いなく遭難するだろう。
延々と続く緑の海に向かって「わー」と大声で叫んでみても、反応などあろうはずもない。返ってくるのはむなしさだけだった。
物語にある絶海の孤島ってこういうのをいうんだと、変な感慨にふけりながら、イリアは遺跡の中へと引き返した。
皮肉なことに、時折不気味な獣の声が聞こえる大樹海よりも、高い石壁に守られた遺跡の中のほうが安全なようだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
すでに日はとっぷりと暮れていた。
無人の廃墟群の中に一つだけ、奇跡的にあった生活の気配を感じ取れる建物を見つけた彼女は、とりあえずの居所をそこに定めていた。
押しつけられた《袋》の中にあった携帯食糧をカリコリとかじりながら、その日一日、足を棒にして歩きまわった遺跡内の探検の結果を脳内でまとめてみる。といっても、大したことはほとんど分からずじまいだったが……。
日の長さと星の位置取りでこの場所が《ぺネロペイヤ》よりもずっと北、おそらく大陸の北側に位置する大樹海の一角であろうことは想像できた。
だが正確な位置は分からない上に、ほとんど絶海の孤島。万に一つの奇跡でも起きぬ限り人がやってくることなどないだろうから、偶然誰かに助けられるなどという状況を期待することはできない。となるとレガードを使ってここに彼女を連れてきた何者か――おそらく神殿に突如として現れた《魔将》と呼ばれる魔人が再び彼女の前に現れ、その目的を知るのを待つしかないだろう。
それまでどうにか生き延びねばならないのだが、今の彼女にとってはそれが最大の懸案事項だった。
携帯食糧はおよそ一月分程度のストックしかない。持ち主のレガードがどのような意図を持っているかは分からないが、おそらく二人で分けるならばずっと短くなるだろう。火晶石のストックも決して多いほうではないから大事に使わねばならない。
さすがに冒険者らしく、塩や香辛料は薬品類とともにたっぷりと《袋》の中に入っていた。
遺跡の地下に魔法による浄化施設でもあるのか、水は飲料として適したものを裏手の井戸で確保できた。すぐ近くの水路にも清流があり、身を清めることもどうにか可能だった。
イリアが今いる建物は、遺跡の中心にある寺院風の建物より南側の一角だった。
あらゆるものが朽ち果てているものの、建物一つ一つの間取りは大きい。《ぺネロペイヤ》で言えば、西地区の北側にある裕福な者たちが暮らす高級住宅地といったところだろう。
――不思議なところ。
地下で稼働しているだろう浄水施設だけでなく、遺跡全体が何らかの魔法的な結界で守られているようだった。周囲の劣化具合には劣るものの、今いる建物自体もそれが発する強い魔法的な効果で、廃墟にお約束の蛇やネズミなどの小動物すら寄せ付けない。
真夏の太陽と大樹海から発せられる蒸せるような湿気すらも緩和していた。何かの文献で呼んだ保存の魔法というのはこういうものだろうかと考える。
大樹海にポツンと浮かぶ孤島のごとき遺跡。今日一日歩きまわったその場所で彼女は不思議な懐かしさを覚えた。
――一体どんな人たちがここに住んでいたんだろう?
目を閉じて昼間歩いたいくつもの廃墟の光景に《ぺネロペイヤ(故郷)》の日常の光景を重ねてみた。
――帰りたいよ……。
決して華美ではないものの住み慣れた巫女寮とそこで暮らす家族同然といってもよい人々。
いつも当たり前のようにあったものから、理不尽に切り離された彼女の未来には一筋の光明も見出せない。
ホームシックになりかけ、胸に熱いものがこみあげそうになったイリアだったが、それを遮ったのは、ぐうとなってしまう彼女の腹の虫だった。
――台無しだよ……。
悲劇のヒロインの立場に酔う暇もなく、現実は容赦なく襲ってくる。
食糧と水、そして身の安全の確保。
創世神殿、あるいは《ぺネロペイヤ》という人の輪から外れてしまった今のイリアは、それらをすべて自分で補わねばならなかった。
イリアが発見した建物内には、かなり傷んではいるものの鍋や釜などの生活用品が残されていた。倉庫らしき場所で発見した薪のストックを持ち出し、朽ち果てた庭園の真ん中でナイフで削った火晶石の粉じんを使って火をつける。
闇夜の中で燃える炎の熱さは、真夏の暑さを助長するものの、未知の場所で緊張しきったイリアの心を安堵させ、一時の安らぎを与えた。
煌々と燃えさかる焚火の前で、レガードに押しつけられた《袋》の中身をひっくり返し、使えるものを物色する。
ふと、幼いころに義父であるライアットによく連れられていったキャンプのことを思い出す。
まったく何もない場所で、ナイフ一本を使って次々にいろいろな道具を作り出してしていく義父の魔法のような手さばきが思い出された。冒険者として生きてきた不器用な彼に教えられた数少ない技術。その記憶を頼りに彼女はどうにか現状を切り開こうとしていた。
どうみても巨躯のレガードの身の丈に合わぬ女性冒険者風の装束が出てきたときには思わず噴き出したものだった。と同時に、彼女の拉致が思った以上に計画的だったことに気づき、身を震わせた。
それでもなれぬ環境に悪戦苦闘しつつ、どうにかこうにか生存のための格好を整え、一息つこうとした矢先だった。暗がりから力強い足音が聞こえた。一瞬身を震わせたものの、すぐにその主の正体は理解できた。彼女を拉致した張本人だった。
――そういえば。
この場所は彼女が夕べ一晩過ごした場所からはずいぶんと離れている。
――勝手にあの場所を離れて怒っているかも……。
ふとそんな不安が生まれたが、相手は神殿から自分を身勝手に連れ出した張本人。そのような相手の機嫌を伺うことが馬鹿馬鹿しくなったイリアは開き直ることにした。
「ほう、ここにこんな場所があったとはな……」
暗がりの中から炎の光に浮かび上がったレガードは担いでいた何かをその場に放り出す。ドスンと重たい音を立てて放り出されたのはイリアの身の丈よりも大きな鹿の死骸だった。
その正体に思わず身震いするものの、すぐにそれが食糧として調達されたものであることに彼女は気づいた。
獲物を放り出したレガードはその場にドウと音を立てて倒れ、そのまま目を閉じる。疲れていたのかそのまま寝息をたて始めた。
夏の満天の星空の下で焚火を挟んだ二人は、視線も言葉も交わさずにそれぞれの時間を過ごす。
初めのうちこそ緊張していたイリアだったが、相手がまったく己に興味を示さないことで奇妙な安心感が生まれた。
広げた道具を手早く片付けると、いつしか焚火の前で膝を抱きうつらうつらとし始めていた。遺跡の中を一日中、まるで冒険者のように探索した疲れが出始めていた。
しばらくして、人の気配ではっと目を覚ます。小さくなりかけた火種に傍らに置いてあった新たな薪をくべるレガードの姿が視界に入った。
先に声をかけたのはイリアだった。
「……どうして……」
聞きたいことは山ほどあるが何から聞けばよいのか分からない。ジレンマを感じながらも彼女はどうにかそれを口にした。
「なぜ、こんなことを……?」
レガードは《魔将》と手を組み、幾人もの人々を傷つけて神殿から巫女を連れ出した。
彼は確実に冒険者の世界を敵に回した。いや、それだけではない。神殿、自由都市、あるいは世界のほとんどすべてを敵に回したといっても過言ではないだろう。
――恐ろしくないのだろうか?
人と和することを旨として生きる世界で育ったイリアにはとても理解できない行為だった。緊張と不安の中、やっとの思いで尋ねたイリアの問いにレガードは即答しなかった。
時間とともに濃くなっていく宵闇の中、まるで生き物のように焔が音を立てて燃え上がる。時折パチリと薪がはじける音以外、何も聞こえぬその場所でレガードが口を開いたのは、ずいぶんと時間が経ってからだった。
「必要だから奪った。何か問題があるか?」
ためらいもなく放たれた言葉は己の価値観の外にあるものだった。
「必要? 一体、何のために?」
「さあな、お前を最も必要としているのは俺じゃない。ヒュディウスだ。俺の望みはついでだ。聞きたいことがあれば奴に聞け」
「あなたは恥ずかしくないんですか? 《魔将》なんかと手を組んで?」
問い尋ねるイリアの顔をしばし不思議そうに眺めていたレガードは、やがて破顔した
「そういえば、そうだった。世界の破壊者たる魔王のパシリ。神殿が御大層に語る創世神話とやらだったな。ヒュディウスの奴、聞いたら泣いて喜ぶに違いない」
腹の底からバカにした口調で大笑いするレガードの姿に、イリアは怒りを覚えた。
「何がおかしいんですか。創世神を信じ、日々つつがなく暮らす人々を守り導くのが私たち神殿に携わる者の役目です」
「その御立派な神殿様が、たかが冒険者一人に引っかき回されたという間抜けな事実を嫌というほど目の当たりにしただろう?」
「そ、それは……」
「結局のところ、権威を笠に着て生ぬるい日常にどっぷりと漬かっていた、それがお前たちの真実の姿だ。自由都市から一歩外に出れば、お前たち神殿の人間が思っているほど、神殿の力なんて大したことはない。居心地のいい世界に閉じこもって都合のいいことばかり夢見ているからそうなっちまうのさ」
焚火にくべられた薪がパチンとはじけた。
「そんな事はありません!」
レガードの言葉に強く反論する。脳裏に浮かんだのは《アテレスタ》で過ごした冬の日々だった。先行きのまったく見えぬその場所で生きる人々は神殿に集い、創世神の奇跡をよりどころに未来を信じていた。神殿の絶対的な力におそれおののく貴族もまたしかり。それらはイリアがその身をもって経験してきたまぎれもない現実だった。
だが、そのようなイリアをレガードは鼻で笑う。
「だったら、今のお前はどうだ。創世神とやらに仕える巫女なのだろう。お前たちの信じる神とやらは敬虔で従順なお前達に、奇跡とかいう救いの手を差し伸べてはくれないのか?」
「私は巫女です。創世神にお仕えし、その意思を人々に伝えるものであって決して見返りを求めるのではありません」
「建前だな、くだらん」
レガードは馬鹿にしたように笑う。
「それはお前自身の本当の言葉ではないだろう。帰りたいとは思わないのか。お前を無理やり連れ去った俺が憎くはないか? それともこれも神が与えた試練だとでも嘯いてみるか?」
レガードの言葉はイリアが身に付けたナイフの刃のごとくその心を抉った。
帰りたい――まぎれもないその本心を言い当てられ、彼女の顔に迷いが浮かぶ。
ふと思い出されたのはあの日重ねた小指の感触だった。そして別れ際の姉巫女の言葉だった。真っ暗になりそうなイリアの心にわずかな光が差し込んだ。
「来ます。きっと来てくれます。姉さまが、そしてザックス様が……。そして必ずあなた達を倒して私を《ぺネロペイヤ》に連れ戻してくれます」
一瞬、目を細めたレガードは、しばし、イリアを注視する。
「お前、ザックスを知ってるのか?」
凄むのでもなく怒鳴りつけるでもなく、ただ静かに言い放たれた言葉には重い殺気が込められていた。レガードが無意識に放つ気迫にイリアは思わずごくりと息をのんだ。
「あなたもザックス様のことを……ご存じ……なのですか?」
返事の代わりに青い輝きの放物線が焚火の上に一瞬生まれた。
放り出されたクナ石を受け取ったイリアは、わずかに首をかしげつつその内容に目をとおした。
映し出される表示に一瞬、息をのむ。それはかつてザックス達のクナ石に映し出された内容に酷似したものだった。
レガードがザックスと同じく、魔将ヒュディウスの引き起こした事件の渦中に身を投じた彼の同期の冒険者であることを、ようやく理解する。
野獣のごとき獅子猫族の男と焚火を挟んで対峙する兎族の少女。
身体の大きさも修羅場の数もまったく叶わぬはずの相手に、彼女は気丈に立ち向かおうとした。
「ザックス様は私の大切な……」
だが、その先の言葉は続かなかった。言葉にして初めて気づく一方通行の想い。妄想の中の彼と現実の彼との間には彼岸ともいえる距離があることを思い知らされる。
――それでもきっと来てくれる。
決して親密とはいえぬものの、それでも赤の他人よりは近くにいるはずだ。重ねた二人の時間がそれを思い出させた。
未熟ながらも確かな重さとなって存在するほんのりと温かな想い。それが彼女を勇気づける。
「大切な友人です!」
彼女の想いにふさわしい言葉ではなかったが、それでも今はそれが精一杯だった。
2016/04/29 初稿