07 アルティナ、迷う!
朔の夜――。
日ごとに表情を変えながら夜空に青く輝く月の面影はどこにもなく、漆黒の夜空に煌々と輝くのは満天の星々だった。
その晩、大神殿の建物の屋上の一区画において、一人の少女の運命を見定めんがための神事が執り行われようとしていた。
足首が十分につかる深さの広い貯水場には、マナの力が込められた神聖水がなみなみと満たされ、その四隅に四人の神殿巫女達が位置して、唄の唱和とともに手にした神聖樹の枝で足元の水面を祓っていた。
身体のラインがしっかりと透けて見える薄衣一枚のみを身にまとい、儀式用の葉の生い茂った神聖樹の枝を手にしているのは、マリナ、エルシー、フロエ、そしていつもならイリアがいるはずのその場所に立っていたのは、臨時の別の神殿巫女だった。
厳かな空気に満ちたその場所から少し離れた壁際に立ったアルティナは、一連の儀式を静かに見守っていた。直ぐ傍らには大神殿の巫女長であるルーザと殊勝な表情を浮かべている二人の巫女見習いの姿があった。つい先ほどまで初めて見るエルフのアルティナを興味津々に見上げていた幼い少女達も、現れた姉巫女達の発する只ならぬ空気を敏感に察して、今はルーザの影に隠れるかのように小さな身体をさらに縮めて儀式を見守っている。
かがり火の類いが一切ないその場所は、貯水場の神聖水が放つマナの輝きによってうっすらと青く照らし出され、水面には満天の星々のみが映り込んでいた。
やがて正面の扉が開き、同じように薄衣のみを身を包んだリシェルが現れた。右手に剣を、左手に神聖樹の枝を手にして、暗い足元を気にすることなく、裸足のままで歩いて来た彼女は、そっと貯水場の縁で足を止めた。
『偉大なる創世神に願い奉る。か弱く愚かな人の身にて、その大いなる叡智が導きし運命を覗かんとする無礼を赦し給へ。願わくば大いなる奇跡を以て、その偉大なる御霊を我が身に降ろし給え』
すでに別室で十分に穢れを祓って禊を済ませたリシェルからは、平時の彼女らしい快活さが消えていた。人の領分を越えた世界に身を置き、運命を詠み取るため、体温を失ったかのような冷たい双眸を浮かべたその変貌ぶりに幼い巫女見習い達が息をのむ。
幼いころに資質を見出され、大陸の各地から集められた巫女見習い達は、引き取られると同時に新たな名を与えられ、その出自は抹消される。あくまでも創世神に仕える選ばれし者として扱われんがための措置といえる。
若干の例外がイリアのようなケースであり、リシェルも又、似たような例外であった。
とある有名な星詠みの家系に生まれた彼女は、その資質と能力ゆえに神殿へと引き取られ今日に至る。生まれてこの方、生家とは全く関わりのない彼女であるが、星詠みの力を求められた時には、その神事を取り仕切る。創世神の意思に触れるかどうかはともかく、過去、その神がかり的な力の行使によって、幾つもの運命を正確に読み取っていた。しかし、星詠みを終えた後には酷く体調を崩し、数日寝込むことすらある。人知を超えた世界の理に触れる星詠み士の寿命は、種族を問わず短いという。
それを承知で彼女は愛する妹分の為にこの神事に挑もうとしていた。
不意にその全身をマナの輝きが覆った。
ぼんやりと青く輝く水面に彼女はそっと足を乗せる。水面の上を音もなく滑るように彼女は歩き始めた。儀式を初めて目にする巫女見習い達が、驚愕の表情を浮かべてそれを見守った。
剣の柄につりさげられた鈴を鳴らしてリシェルは朗々と謳う。
『彼の者を守護する星を起点に。一つ、二つ、三つ、そして四つ。日と月が行き還りしその先で、彼の者の道を指し示さん』
水面に浮かぶ無数の星の輝きを見下ろし、リシェルは淡々と続けた。
『彼の者とともにある災いの星もまた表さん。一つ、二つ。周り、巡り、畏れ、抗う。彼の者と共にあり、その災厄をおびき寄せんとする星をここに。影のごとく突き従う凶星をも又指し示さん』
漆黒の闇の中にぼんやりと浮かび上がる神聖水の輝き。その中にただリシェルの声のみが凛と響く。
『彼の者を救い出さんとする者達の歩むべき道を指し示し給え。その困難たるであろう道筋に希望の灯を照らし給え』
剣が振られ鈴の音が優しく転がった。一瞬、アルティナには水面の表情が固まったかのように見えた。ただ世界のあるがままをそこに写さんとする鏡のように。
水面に映る夜空そのものに変化があったようには見えない。それはアルティナだけでなく周りの四人の神殿巫女達も同じであろう。だが、只一人、水面の上を歩くリシェルだけが、そこに映る星空とは違うものを読み取ろうとしていた。
『北へ、そして東へ……。それから……』
相変わらずその冷たい双眸に変化はない。常人には決して見えぬ何かが指し示す道に導かれながら、数歩足を運んでは剣先を水面に突き刺して、枝で祓う。僅かなマナの輝きのみの世界の中でリシェルは淡々と星を詠み続けた。
やがて、全てが終わり彼女の動きが止まる。周囲の誰もがその言葉に耳を済ませた。
『彼の者は北へ……、蛇の里のさらに先、彼の者に所縁ある最果ての忘れられた遺跡にその身を置く。だが、心せよ。よこしまなる願いと絶望の果ての妄念が彼の者とその周囲に満ち至る時、世界はその理を変じよう。そして……』
息をついだ彼女は厳かに言い渡した。
『彼の者を求めし者達よ、汝らは愛しき者との永遠の別れを迎えることとなるであろう……』
突然、リシェルの全身を覆っていたマナの輝きが消え、彼女の身体がその場に崩れおちる。周囲の巫女達が慌てて駆け寄り、力なく水面に横たわる彼女の身体を抱き上げた。
速やかに明かりが灯され、真っ青な顔色のまま意識を失ったリシェルの身体が、貯水場の縁に横たえられた。マリナ達がその身を介抱する姿を目の前にして、告げられた星詠みの衝撃的な言葉を反芻したアルティナは、その身を大きく震わせていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
《ガンツ=ハミッシュ》の酒場――。
営業時間を終え、時計の針がそろそろ深夜を指そうかという頃になっても、店の明かりが消える事はなかった。
既に店先に閉店の看板が出された広い店内に、まばらに散った冒険者達の姿があった。
初級、中級、上級。あるいは一階席と二階席。様々な基準で隔てられる彼らではあるが、今、この店内にいる者達はそのような垣根を乗り越えて、この店を己の居場所とする者たちだった。一階席中ほどの定位置にはクロルとリュウガの姿もある。
一階席の一角にある広いテーブルをはさんで二人の男が睨み合う。
「俺達は行く。もう決めたことだ!」
「考え直せ。お前達が行ってもどうにもならねえ」
「店には迷惑かけねえよ。頭でっかち共に目ぇつけられるのが嫌だってんなら、俺達はこの店を抜ける」
「バカ野郎、そんなくだらねえ事、気にしてんじゃねえ!」
声を荒げているのは、店主のガンツと二階席の筆頭冒険者にしてこの店の顔ともいえる冒険者バンガスだった。
事の起こりはおよそ一月以上前のある日、バンガスの仲間である狼犬族ブラッドンのもとに犬族総族長から召喚状が届いた事からだった。その二日後、ブラッドンは、パーティを抜けるという内容の短い書き置きを残して店から姿を消した。
同じ頃、《ペネロペイヤ》の情報通の間では、とある不気味な噂が広まっていた。
『獣人族総族長会議が、蛇族の里に暗殺部隊を差し向けた』
しばらくして、ブラッドンと同じような獣人族の上級冒険者が各部族長によって次々に召集され、その仲間だった冒険者パーティのメンバー達のリークによって、その噂が真であった事が明らかになった。
脅威的な戦闘能力を有する三十人以上の上級冒険者が暗殺部隊として編成されるという事態は、様々な憶測を呼んだ。
協会の管理の下、本来、あらゆる政治的紛争に中立を義務づけられるはずの冒険者が招集されたことに、神殿が何も言わなかったところをみると、すでにしっかりと根回しされていたのだろう。あるいは状況を何かに利用すべく静観しているといったところだろうか?
半月もすれば結果は出るはずの事態に、すでに一月近く経って全く音沙汰がない。断片的な情報のみが交錯し、様々な憶測を呼んでいた。
総族長会議なる良く分からぬ代物に大切な仲間を突然引き抜かれたパーティの多くが、バンガス達と同様に名の知れた者達が多かったため、その不満は各酒場の店主を通じて冒険者協会へと訴えられていた。だが、一向に要領を得ない相変わらずの協会の体質にもはや諦めムードが漂い、己の力で問題を解決しようという者達も現れ始めていた。 バンガスも又その一人だった。
「アイツは本気で俺達から離れたかったわけじゃねえ。その証拠にノキル酒を飲んではいかなかった」
バンガスがガンツを正面から見据えた。
「長い付き合いだ。アイツの行動がその本意じゃねえってことくらい、単純な俺でも分かってる。あの律儀な奴が筋を通さなかったんだから、その事に意味だってあるんだろうよ」
暫しの沈黙の後で口を開いたのはバンガスの傍らに座るルメーユだった。
「ガンツ、貴方は知っていたのでしょう? ブラッドンはおそらく貴方だけにはきちんと話をしていった筈です」
厳しい視線にガンツは僅かに表情を歪める。ルメーユは続けた。
「別に貴方を責めているわけではありません。状況を考えれば彼の行動は最善のものだったはずです。召喚状の一件を知っていれば私達は全力で彼を止めたはずですし、例え、彼を引き止められたとしても、その事はいずれ大きなしこりとなったはず。あの律儀者には部族長の命令を無視するという選択肢は絶対にとれない筈ですから。でもね……」
ルメーユが口を閉じる。代わりにレンディが続けた。
「私達だってね、はいそうですか、さようなら、で済ませられる訳ないでしょ? 私達は互いに背を預け合ってずっと五人でやってきた。そんな私達の繋がりを忘れた訳じゃないでしょ、ガンツ?」
もともと五人だったバンガスのパーティは、およそ一年前、仲間を一人失って以来、新しい正規メンバーを迎えることなく今に至っている。彼らクラスの知名度なら臨時の協力者など引く手数多であり、日々のミッションに全く影響はなかった。この一年でいくつもの難関迷宮を攻略し、不動たる地位を築いている。大陸一という看板にはまだまだ遠いが、それでもウルガのパーティの後継者となりうる者達の一つとして、冒険者の世界で名を知らぬ者はいない。
バンガス達の追及にガンツは身じろぎ一つしなかった。黙ったままで、手元のジョッキに愛用のボトルの中身を手酌で注いだ。
その一挙手一投足に注目が集まり、店内に重苦しい沈黙が生まれた。注いだジョッキの中身をぼんやりと見つめながら、ガンツはやがて重々しく口を開いた。
「俺も色々と思う事があってな。ちっとばかり調べてみた。調べりゃ調べる程、気に入らないことだらけだった訳だが……」
一つ大きくため息をつくと、ガンツは愛用の酒のジョッキを傾けた。
「まず気になるのが噂の足の速さだ。僅か二、三日でほとんどすべての自由都市の情報通がその内容を知っている。奴らが全然カネにならねえなんて嘆いてるくらいにな。だが、その情報には重みも深みも繋がりも見えねえ。『暗殺』なんて、物騒極まりない内容なのに、背景が全く見えねえんだ。只言葉だけが隠そうともせずに公然と垂れ流されている。まるで特定の誰かに知らしめるため、あるいは既成事実化する為。そんな意図が見え見えなんだよ」
バンガスとレンディが僅かに首をかしげる。ルメーユは黙ったままだった。
「さらに組合からの情報を合わせるとだ……。今回召喚された獣人族は全部で三十六人。そのどれもが名のある奴らで、おまけに全員が純粋種。半獣には全くお呼びがかかってねえ。どんなにレベルが高くてもな……」
ガンツが上げた数人の名前に店内にどよめきが湧いた。そのどれもがいわゆる『奥の手』のある通り名持ちだった。
「支配下の、それも顔ともいえる奴らをいきなり引っこ抜かれる事にはあちこちの酒場でも反発があったらしくてな……。ところが遂行中のクエストの違約金やら何やら、全て、総族長会議があっさりと色付けて支払いやがった。そのなりふり構わぬやり方に大手の酒場の主人共は逆にビビっちまってな、すっかりだんまりを決め込む有様だ」
小さく忌々しそうに舌打ちをする。メンツとカネを天秤にかけるのが上手なやつらだ、と小さくガンツは吐き捨てた。
「知っていると思うが、蛇族の冒険者なんてのは滅多にいねえ。自由都市にやってくる旅人ですら稀だからな。まあ、理由は推して知るべしってところだ。そんな奴らの本拠地に一国の軍隊に匹敵しようかって最高の戦力を放りこむんだ。絶対に失敗なんてありえないし、その要素もねえ。総族長共もめでたしめでたしと胸をなでおろす……筈だった。ところが肝心の行った奴らの音沙汰が全くねえ。あれほど垂れ流されてた情報がぴたりと止まって、逆に箝口令まで敷かれつつある。まあ人の口に戸は立てられないもんだが……。とにかく新しいネタが全く出ずに、勝手気ままな推測ばかりが氾濫してる有様だ」
店内の数人の者達の顔色が変わる。勘のいい者は、その意味に気づいたのだろう。代弁するかのようにルメーユが尋ねた。
「つまり、失敗した……と?」
「まあ、そう考えるのが妥当だな」
バンガスの顔色が変わった。暗殺部隊の失敗はすなわち、その部隊に参加したであろうブラッドンの身にも不測の事態が起きた事に他ならない。
「いいか、バンガス。今回の事はあらゆることが普通じゃねえ。クエストの内容に裏稼業の要素が強いとしてもだ。そんな事態にお前達を軽々しく放りこむ訳にはいかねえんだよ……。それに神殿も……」
そこでガンツは口を閉じる。失言とばかりにジョッキの中身とともに言葉を飲み込んだ。相変わらず重苦しい空気が店内に充満する。不意にガランと音を立てて入口の扉が勢いよく開いた。
現れたのはいずれこの店の顔として名を馳せるであろうと期待される若者達。ザックスとアルティナだった。
重苦しい空気を察して僅かに躊躇うアルティナに対して、ザックスは臆する事なくずかずかと店内に足を踏み入れた。
「首尾はどうだった? ザックス」
行き詰まりかけた話題を逸らすかのように、ガンツ達の近くのテーブルに座っていたクロルが彼に尋ねた。
「ああ、どうにかなりそうだ」
その言葉通り、出かけた時とはうって変わるかのようにザックスの表情に明るさが戻っていた。クロルとリュウガに小さく手を上げるとザックスはガンツ達の下へと向かった。
「悪かったな、ガンツ、色々と……」
「気にすんな。こっちももう少し気を効かせてりゃ、どうにかなった……かもしれねえ事だからな……。それで、これからどうする?」
にっちもさっちもいかぬ己の状況に少しばかり頭を冷やそうと、バンガス達も話題を譲った。クロル達のテーブルにアルティナが座り、ガンツ達のテーブルにザックスが座った。まだ残っていた店員の一人が彼らの下に冷たいグラスを運んだ。
「星詠みは上手くいったんですね?」
ルメーユの問いにザックスは一つ首肯する。
「ああ。イリアは《忘れられた遺跡》ってところにいるらしい」
その無事を知り、店内の誰もが安堵した。レガードの事ではこの店の多くの者が小さくない責任を感じていた。ルメーユが首をかしげた。
「聞いた事のない場所ですね。一体どこにあるんです?」
「北の最果ての地らしい。《蛇族の里》ってところのさらに向こう側だとさ」
店内の空気が凍った。ザックスの言葉に誰もが青ざめた。気づくことなくザックスは続けた。
「まずは《蛇族の里》に行って、そこで情報を集めて……。そういう訳でガンツ、《蛇族の里》について知ってるヤツを紹介……って、どうしたんだよ、皆?」
苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべる者。頭を抱える者。諦めの溜息をつく者。ガンツとバンガス達も例外ではない。
暫くの沈黙の後でガンツが口を開いた。
「ザックス、お前達は《蛇族の里》に行くんだな?」
「あ、ああ」
「今、おそらくは紛争中の、行けば確実に帰ってこれないだろうと思われる、厄介極まりない場所に……」
「はい?」
目が点になるザックスの前で、ガンツはこれ以上はないというほどに盛大な溜息をつく。
「なんだってこう、どいつもこいつも……」
文字通り両手で頭を抱えて両肘をテーブルについた姿勢のままで、ガンツは黙りこんだ。いつも冷静なガンツがこのような姿を見せるのは珍しい。
「一体、どういう事?」
アルティナの問いに傍らのクロルが手短に事情を説明した。事態の険悪さにその美しい顔が青ざめ、視線がふらふらとザックスへと向かう。その先には彼女と同様、思わぬ事態の成り行きに絶句するザックスの姿があった。
本日最大級の重苦しい空気の広がる中で、バンガスがぽつりとザックスに尋ねた。
「で……、どうすんだ、お前?」
バンガスに問われ、ザックスははっと我に返ると一つ深呼吸をして返答した。
「行くさ。他に手はない。神殿からも一人、同行者がつくしな」
この場でその詳細を論ずるのはいろいろと問題があるので、それ以上は触れずにおく事にする。
「行かない、という選択肢はお前にはないのか?」
「ねえよ。もしもそれを選んじまったら、冒険者なんて即刻廃業だ」
「仲間達を巻き込んでか?」
ザックスはアルティナ、クロル、リュウガと順に視線を送るとしっかりと頷いた。
「これは俺達自身の問題だからだな。イリアの事は私事かもしれない。でもハオウとヒュディウスは別だ。オレ達にとって絶対に避けられない問題だ。リュウガもそれを承知している」
ザックスの言葉にリュウガが一つ首肯する。
「そうか……」
「だったら、決まりですね」
「そうね……」
バンガス達が互いに頷き合う。彼らの表情に明るさが増した。
「お前達の旅に俺達が付き合う事にしよう」
意外な申し出にザックスは驚いた。店内が大きくどよめいた。おい、ちょっと待て、と言わんばかりにガンツが顔を上げる。
「いいのか?」
「別にお前達の為ってわけじゃねえ。俺達はかけがえのない仲間を取り戻しに行く、お前と同じようにな」
彼らの利益が自分達の利益と合致する事にザックスは気づいた。
「そうか、じゃあ、よろしく頼むよ……。ただ……」
バンガスと握手を交わしながら、ふと頭に浮かんだ大問題に眉を曇らせる。
「えーと、言いにくいんだが……、オレ達帰ってきたばかりで、実は今、スカンピンなんだ。だからアンタ達の協力に見合うクエスト報酬が支払えない……んだけど……」
徐々に消え入るかのようなザックスの言葉に、一瞬虚をつかれた店内の空気が固まった。すかさず苦笑があちこちから湧き上がる。
「大丈夫ですよ、ザックス君。それなら私達がキミ達のパーティに依頼する事にしましょう。『さらわれたブラッドン姫救出クエスト』という事でどうですか」
ルメーユの言葉に店内が爆笑する。
「それに神殿巫女さんの奪還もあるんでしょう。神殿からのクエスト依頼にもなるはずよね」
「場合によっては、魔将討伐、あるいは神殿に押し入った賞金首確保もクエスト内容になるでしょうから、かなりの報酬額になるはずですよ。ガンツ、交渉をお任せしてもいいでしょうか」
「魔将討伐って、アンタ達も協力してくれるのかよ?」
「大丈夫、いざという時はすたこらさっさと逃げ出します。逃げ時を心得るのも一流の冒険者なのですから」
顰蹙気味の空気の中、悪びれもせずにルメーユが胸を張り、ザックス達は苦笑する。もはや制止など聞く耳もたずの冒険者達の姿に、ガンツはすっかり諦めモードで了解の意思を示した。
「そうか……、そういう手があるのか」
持つべきものは経験豊かな先達であるといったところだろうか? 己の目的実現と利益を合致させる熟練冒険者ならではの鮮やかな手並みにすっかり感心するザックスの姿を眼前にして、バンガス達が意味ありげににやりと笑う。
「な、なんだよ?」
動揺するザックスの前でバンガス達は顔を見合わせる。
「いや、変われば変わるもんだ、と思ってな」
「まったくです、去年の今頃はたった一人で尖がっていたザックス君が、いっぱしのリーダーらしくなって……」
「うう、すっかり立派になっちゃって、お姉さんは嬉しいわ……」
「まるで子育てを終えた母親みたいですよ、レンディ」
「失礼ね、まだそんな歳じゃないわ!」
三人の先達の悪ふさげに乗っかるかのように店内からヤジが飛ぶ。つい先ほどまでこれ以上はないというほどに重苦しかった店内の空気がいつの間にか一掃されていた。
「う、うるせーな。色々と苦労してんだよ、オレも……」
そこはかとない居心地の悪さを感じたザックスはその場を離れ、アルティナ達の座るテーブルへと足を運ぶ。
「悪いな、リュウガ、帰って早々、厄介事に付き合わせる事になっちまった……」
「構わぬさ。相手は強いのだろう? 久しぶりに我が槍の冴えを見せてやろう」
「頼りにしてるぜ」
「もっとも、まだまだお前達の世界では、駆け出しでしかないがな……」
不敵に笑うその姿に、ザックスは頼もしさを覚えた。
「知っておるでござるか、リュウガ殿。昨夏以来、この店での駆け出し冒険者の動向というのは要注意なのでござるよ」
ザックス達の隣のテーブルに座っていたイーブイの言葉に、いくつもの口笛が飛んだ。
それを皮切りに慣れ親しんだ《ガンツ=ハミッシュ》の明るい空気がすっかり戻ったことで、ザックスは《ペネロペイヤ》帰還以来、ようやくそこに己の居場所を見出したような気がした。
「アルティナ、何か心配事?」
明るく騒ぎ始めた冒険者達の傍らで、どこか浮かぬ表情を浮かべたまま座っているアルティナにクロルが尋ねた。突然声をかけられ一瞬、ぴくりと身を振わせたアルティナだったが、すぐにいつもの微笑を浮かべた。
「なんでもないわ、クロル。きっと相手が相手だから少し、緊張してるのよ」
「そっか……、そうだよね」
クロルの指摘をやんわりとかわして、アルティナは騒ぎ始めた冒険者達の中にいるザックスの姿に目をやった。
『彼の者を求めし者達よ、汝らは愛しき者との永遠の別れを迎えることとなるであろう……』
神殿で得られた不気味な星詠みの最後の一節については、彼女は巫女達と申し合わせてザックスに伝える事はしなかった。彼女と神殿からこのクエストに同行する予定の人物の胸の内にのみ秘する事を互いに約束していた。余計な不安や迷いを共有することは、混迷極まる事態の解決への成否に影響を与えかねぬと考えた故である。
アルティナの胸中など気にも留めず、深夜をとっくに過ぎていながらバカ騒ぎを始める一階席の冒険者達の姿の傍らで、バンガスが対面のガンツに尋ねた。
「この期に及んで『行くな』とか言い出さねえだろうな?」
「言わねえよ、もう冒険者の領分だからな。酒場の店主がどうこう言える訳ねえだろ」
数え切れぬ程の冒険者達を送り出してきた店主であるからこそ、越えてはならぬ冒険者達との境界線を見誤ることはない。
「ただ……、俺からの忠告はたった一つ……」
ガンツは周囲に聞こえぬように声を潜めた。
「何があろうとも、最高神殿には逆らうな」
それはガンツがよく言う今更ながらの言葉だが、いつもとは違う別のニュアンスを嗅ぎ取り、バンガス達三人が眉を潜めた。
「何か……あったんですか?」
ルメーユの問いにガンツは首を縦にも横にも振る事はなかった。
「ちょっとばかり、嫌な噂話を耳にした。旅先で出会ったとしても、とにかく奴らには関わるな。任せたぞ、ルメーユ」
「肝に銘じておきましょう」
《ガンツ=ハミッシュ》最高の頭脳を誇る魔導士はそう言って、小さく微笑んだ。
2016/04/15 初稿