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Lucky & Unlucky  ~アドベクシュ冒険譚~  作者: 暇犬
アドベクシュ冒険譚05章 ~狂乱の蛇神編~
123/157

05 イリア、さらわれる!

「おイタが過ぎるようだな、青いの」

 既に壮年に達しようかという水牛族の男がレガードに言った。古参の傭兵を思わせるかのような出で立ちから、おそらくこの中で最も戦闘経験が豊富なのだろう。

「元気な奴ってのは嫌いじゃないが、もう少し場所を考えないとな」

「人間、痛い思いをして初めてお行儀が身につくものだってね、おっと、にいちゃんは獣人だったか……」

 前衛の戦士達がプレッシャーをかけ始めると同時に、後方ではリーダー格の男が杖を正面に構えて呪文の詠唱に入っていた。

 呪文の詠唱時間に必要な時間稼ぎの為の小さなやり取りがさりげなく行われる。戦闘はすでに見えぬところで始まっていた。

 その巨体を生かして突撃を仕掛けるつもりなのだろう。腰を落とし、僅かに膝を撓めた水牛族の男とレガードの間の空気の緊張が際限なく高まっていく。

「少しは期待していいんだよな、先輩方?」

 口元に皮肉げに笑みを浮かべたレガードも身構える。戦いが楽しくて仕方が無い。修羅場の経験が少ないイリアでも、そんな彼の内心が手に取る様に分かった。

 リーダー格の男がカツンと一つ杖先を床石に叩きつける。同時に水牛族の男がその巨躯からは想像もできぬ身軽さで、上方へと高く跳躍した。

 縦の動きに一瞬、目を奪われたレガードの視界の先に眩しい光が広がる。リーダー格の男の放った目くらましの光をまともに受け、視界を奪われたレガードに、輝きを背にして飛び出した双剣の男が襲いかかった。懐に飛び込むや否や、容赦のない連撃の嵐が加速する。左右の小剣の刃が息つく間もなくレガードを襲い、鎧の隙間から確実にダメージを与えていく。視界を奪われながらも野生の勘を発揮したレガードは手にした《斧槍》の柄で弾いて防戦する。とはいえ素人ではほとんど見えないスピードで襲いかかる双剣連技に後退を余儀なくされた。

 小さく舌打ちして体勢を立て直そうとしたレガードの動きが突然止まる。同時に双剣の男が大きく飛び下がって距離をとった。

 動きを止めたレガードの表情が豹変する。その足元の石床を流れる大量の血が赤く染め上げた。

「悪いな、これが冒険者の実戦だ!」

 いつの間にか素早くレガードの背後に回り込んだ二人の戦士が、《短槍》でレガードの身体を貫いていた。刃が《魔法銀ミスリル》製の《軽装鎧ライトメイル》をものともせず深々と突き刺さる。普通の人間ならば致命傷。例え上級の冒険者でも完全に戦闘不能となる重傷だった。手にした《斧槍》を取り落とし、レガードの両膝がガクンと崩れた。それでも左右のわき腹にささった短槍に手をかける。

「無茶するな。強引に抜けば死ぬぞ! 薬が効いて動けなくなったらちゃんと処置してやるから大人しくしてな!」

 穂先にはたっぷりとしびれ薬が塗ってあったらしい。

 全く隙のない完璧なコンビネーションと容赦のない戦術。神官相手に猛威をふるったレガードを瞬殺したパーティの凄まじい実力だった。

「口ほどにもなかったようだね」

 出番がなかった狼犬族の女に、双剣の男が答えた。

「そうでもねえさ。視界が利かねえってのに、気配と勘だけでオレの連撃をほぼ完全にガードしやがって……。《双剣乱舞》が牽制にしかならなかった。少しばかり傷ついたぜ」

 勝負がついたのだろう。先ほどまでのしびれるような緊張感が徐々に薄らいでいく。

 両脇の槍の柄を握ったままのレガードの膝が崩れ堕ちそうになる。瞬間、レガードが大きく咆哮した。

「お、おい、止せ!」

 周囲の制止も聞かず身を起こしたレガードが強引に両のわき腹にささった槍を引き抜いた。己の血で真っ赤に染まった槍を両手に握りしめ、歓喜の笑みを浮かべて立ち尽くす。奇妙な事に傷口から吹き出す血の勢いが徐々に収まり始めた。

「な、なんなんだ、この野郎……」

 そこに立つ誰もが驚愕する。レガードの身体から薄く陽炎のようなものが立ち昇り、足元に広がる血だまりが消滅していく。

 呪文で回復するのとはまったく異なる奇怪な現象に誰もが言葉を失った。

 動揺する彼らにレガードが仕掛ける。

 反応の遅れたドワーフの戦士に回転しながら左手の槍の柄を叩きつける。耳障りな音と共に槍の柄が砕け散り、小柄なドワーフの身体が勢いよく転がった。砕けたのはおそらく槍の柄だけではないだろう。

 さらに身体の回転を利用して体勢を入れ替えるとレガードは右手の短槍を持ち替えた。一瞬、右腕の筋肉が異常な膨張をしたように見えた。

「返すぜ、しっかり受け取りな!」

 言葉と同時に投げ付ける。

 穂先をまともに腹で受け、槍の持ち主だった男は串刺しのまま壁面に叩きつけられた。

「テメエ、よくも!」

 双剣の男が逆上する。今にも飛びかからんとする男の眼前に水牛族の男が立ちはだかった。手にした大斧を放り捨てる。その行動で双剣の男が瞬時に冷静さを取り戻した。

 水牛族の男が深く腰を落とし、右手の拳を床につく。瞬間、体内のマナが爆発的に増加した。全身の筋肉の量が増加し、頭部に生えた角が大きく伸びる。獣人族の戦士が『奥の手』と呼ぶ獣戦士化だった。圧倒的な暴力を匂わせる水牛族の男の豹変した姿にイリアは総毛だった。

「悪いな、こうなったら、もう止められねえ。あの世で後悔しな!」

 理性を捨て爛々と殺意に輝く瞳の獣戦士が床石を蹴って、レガードに襲いかかる。衝撃で石造りの室内が小さく揺れた。

 砲弾のように襲いかかる獣戦士の両角をレガードはしっかりと押さえこんだものの、勢いは止まらない。そのまま両者の身体が石壁に激突する。巻き添えを食らった石像が砕け散り、周囲に濛々と煙が立ち込めた。

「やったか?」

 双剣の男とリーダー格の男が駆け出した。だが直ぐに足を止める。二人の表情は驚愕に満ちていた。

 壁面に叩きつけられながらもレガードはしっかりと獣戦士の両角を押さえつけ、攻撃を防いでいた。それどころかそのまま一歩一歩押し返し始める。不自然に盛り上がったレガードの腕部と脚部の筋肉の様子にリーダー格の男が驚きの声を上げた。

「部分獣化……だと。その若さで獣戦士化のコントロールができるのか……、お前……」

 力と力がぶつかり合い、二頭の猛獣の咆哮が木霊する。もはや神殿内でこの異常に気付かぬ者はいないだろう。

 さらにレガードが咆哮し、獣戦士の両角を手掛かりに、その巨体を持ち上げた。常軌を逸した力技に誰もが言葉を失った。

 そのまま持ちあげた獣戦士の身体をレガードは振りまわす。仲間を助けに入ろうとした双剣士の小柄な身体を軽々と薙ぎ払い、一回、二回、三回と加速をつけてそのままリーダー格の男に向かって放り投げる。逃げ遅れたリーダー格の身体を巻き込んで二人の身体がゴロゴロと転がり、壁面に叩きつけられた。壁石が崩れ落ち二人を生き埋めにする。

 鬼の如き形相で勝利の咆哮を上げたレガードは、大きく息をつくと目を閉じた。膨れ上がっていた腕と足の筋肉が徐々に元へと戻り、ギラギラとした殺気がその身に収まっていく。

 室内を見回し、もはや反撃する力が残っていない事を確認すると悠然とイリア達に向かって歩き出した。

「来るな、止まれ!」

 イリアを庇っていた狼犬族の女がメイスと盾を手に立ちはだかる。だが、その身体は小刻みに震えていた。

 ――怖いのだ。

 眼前で圧倒的な力を見せつけられて仲間を蹂躙され、獣人の、あるいは女としての本能が、眼前の男に敵わぬ事を理解したうえで尚、彼女は果敢にイリアを守るべく立ちはだかろうとしていた。

 女の制止をものともせず、レガードは二人の眼前に立ちはだかる。

 レガードの圧力を真正面から受けて呼吸を荒げた狼犬族の女の怯えは、もはや隠しようがなかった。女を見下ろし、レガードは冷静な口調で尋ねた。

「いいのか? 今ならまだかろうじて息があるぞ。大事な仲間とやらを助けるのが先だろう?」

 悪魔の選択肢を突きつける。イリアを見捨てて仲間を助けろというその選択肢は、彼女の冒険者としての矜持を破壊しかねない。

「どこまでも、バカにして……」

 怯えからの震えが怒りと恥辱のそれへと変わる。だが、それを攻撃へと転化する事は出来なかった。その一撃は必ず己への死撃となって返ってくる。冒険者としての本能がそれを理解させた。

 これ以上の犠牲は出すべきではない。この戦闘でのレガードの勝利はもはや揺るぎなかった。イリアは、そっと背後から、自分を守ろうとしてくれた彼女の身体に両手で触れた。

「行ってあげて下さい」

「あんた……」

「お願いします。貴女の力で一人でも多くの人達を助けて下さい」

 イリアの言葉に狼犬族の女は暫し愕然とした表情を浮かべる。やがて悔しげな表情へと代わり、その瞳に涙を浮かべた。

「ゴメンね……」

 その言葉を残して彼女はその場を去っていく。

 去っていくその背をレガードは一瞥すらしなかった。倒れてうめき声を上げる負傷者達に背を向け、彼らがもはや存在せぬかのように、レガードは振舞った。

「洗礼の部屋に案内してもらおう」

 一人立ち尽くすイリアにレガードは声をかける。戦う術を持たぬイリアにもはや抗う事は出来なかった。

「汚い手でその子に触らないでくれるかしら、冒険者(おバカ)さん?」

 不意に洗礼の部屋へと続く扉が開き、二人の神殿巫女が現れる。

 マリナとエルシー。対象的な美貌の二人の神殿巫女の登場で、荒廃した室内に眩しい光が差し込んだようだった。

「姉さま……」

 僅かに安堵を浮かべたイリアだったが、直ぐに冷静さを取り戻す。熟練の冒険者パーティですらかなわなかったこの状況を、例え優秀な姉巫女達とはいえ、打開できようはずもない。

 だが、イリアの無言の制止はエルシーには通じなかった。

 マリナをその場に残し彼女は、華やかな神殿巫女の装束に似合わぬ無骨な拳甲を両手に装着すると、洗礼用の杯を手にして厳しい表情のまま、すたすたと二人に向かって歩いていく。

「何の真似だ、たかがお飾りの巫女ごときが?」

 圧倒的な力を見せつけ、案内所を破壊し尽くしたレガードが嘲笑する。

 エルシーは無言のまま、口元に小さく笑みを浮かべた。僅か数歩のところまで間合いをつめると手にした杯の中の水をレガードに向かって投げ付ける。まともに浴びてもその全身をうっすらと濡らす程度でしかない無意味な行為をレガードは鼻で笑った。

「悪いが無力な女とじゃれ合うつもりはない。どけ!」

 レガードの周囲の空気が揺れる。びくりとエルシーの身体が動きを止めた。彼女はそっと目を伏せる。

「ふーん、《魔眼使い》……か。確かに厄介だけど……魔眼自体はそれほどたいした力ではないわね……」

 僅かに彼女の全身が輝いたように見えた。体内のマナを活性化させたのだろう。そのまま何事もなかったかのようにすたすたとレガードの懐へと入りこんだ。傍若無人な侵入者に息でもするかのようにするすると近づく姉巫女の大胆な行為に、イリアは息をのむ。

 頭二つ分は優にあるレガードを見上げながらエルシーは、反身に構えてそっと両の掌をレガードの腹部へと当てた。まるでレガードを押しのけようかとでもいうその姿は、はたから見て滑稽だった。

「無意味な事はやめろ。女を殴る拳は持ち合わせていないが、障害物なら排除する」

 いら立ったように見せるレガードの言葉にエルシーは微笑んだ。

「同感よ、気が合うわね……、本意じゃないけど」

 瞬間、レガードに振りかけられた杯の水――神聖水が輝き、レガードの身体に染み込むように消えていく。同時に両の踵が僅かな時間差で踏みこまれ、撓めた腕を伸ばして、鋭い両の掌打が突き込まれる。

 何かがつき抜けるかのような衝撃が二発連続してレガードの身体を貫通し、背後の空間へと広がり消えていった。

 一拍の間を置いてレガードの表情が豹変する。膝を落としかけながらもどうにかこらえ、爛々と瞳を輝かせてエルシーに襲いかかる。眼前の神殿巫女を身の程知らずな獲物ではなく、己を脅かすに十分な強者として認識したようだった。だが、その動きに全く冴えはない。

 伸ばされた右腕の勢いを両腕の拳甲でしっかりずらして受け止めるたエルシーは、入り身をとるや否や、小手を極めて巻きこんだ。レガードの巨躯が空中で一回転してドウと音を立て、仰向けに叩きつけられる。即座に一歩踏み込んでうつぶせに返すと、再度小手を極める。

 そのままエルシーは右のかかとでその後背部を踏みつけた。倒れたレガードの体表面で神聖水が輝き、再び衝撃がエルシーの足から発せられレガードの身体を貫通して石床を割った。

 ぴくりとも動かなくなったレガードの様子をみてとると、小手を極めた右腕をさらにねじって右肩を脱臼させて放りだした。

「三発か。少しやり過ぎたかしら。でも……、仕方ないわよね……」

 両腰に手をあて、動かなくなったレガードを見下ろしながらぽつりと呟いた。

 あざやかな姉巫女の技にあっけにとられるイリアの眼前で、完全に事態を掌握したエルシーは、イリアを振り返った。少し遅れてマリナが駆け寄ってくる。

「いつも言ってるでしょ? きちんと近接格闘術の稽古もしておきなさいって……」

「あんな事、姉さま以外に出来ません」

 自称、自他共に認めるライアットの一番弟子であるエルシーがレガードに対して放ったのは、ライアット直伝の《寸勁》だった。

 直前に振りかけた神聖水を媒介にして、相手のマナをコントロールする神殿巫女の力をのせた《寸勁》を僅かな時間差で二発放つ。これで、レガードの体内のマナの流れは混乱した。さらに引き摺り倒して踏みつけると同時に右足で放った《寸勁》をもう一発打ち抜く事で、混乱する体内のマナの通り道が完全に破壊され、レガードは沈黙した。

 右肩の脱臼以外の外傷はほとんどないものの、体内のリズムを狂わされた今のレガードは、呼吸一つ満足にできないはずだった。

 マナの流れを操る力を防御不能の《寸勁》の衝撃に乗せて相手の体内に強引にねじ込むというその荒技は、エルシーのちょっとした思いつきから生まれたものだった。その技の破壊力は、過去、鍛錬の最中のライアットすらもたじろがせ、禁じ手に指定されたものだった。

 怪我はないかと問う姉巫女達に、イリアは無事だと答えた。だが、それまで抑えていた全身の震えが止まらなくなっていた。

 そっとその小さな肩を抱くマリナの温もりと香りに包まれ、涙が湧きあがる。

「さて、仕上げをしておくわね……」

 マリナからケル石を受け取ったエルシーが倒れたままのレガードの左手に握らせる。体内の大量のマナを強制的に抜き取る事でレガードを完全に無力化するつもりなのだろう。他人の体内のマナを操作することのできる神殿巫女だからこそできる容赦ない処置だった。

 身動きできぬレガードの手に己の手を重ねるとエルシーは精神を集中する。

 突然、うつぶせに倒れていたはずのレガードが握らされた左手のケル石を放りだし、エルシーの右手首を掴んだ。そのまま掴んだ手を離すことなく勢いよく立ち上がる。高々と掲げた左手で腕を掴まれたエルシーは宙吊りになったまま、驚きの表情を浮かべた。

「ウソ、動けるはずなんて……」

 意識がまだ混濁しているようなレガードの隙をついて、エルシーはどうにか逃げ出そうともがくが、その強力な力からは逃れられない。エルシーを高々と宙刷りにしたままのレガードの全身から、そして外されたはずの右肩からうっすらと何かが立ち昇る。右肩関節が修復していく様子を目の当たりにして、三人の巫女が言葉を失った。

「再生能力者……」

 ぽつりとマリナが呟いた。

 再生を果たし、意識を取り戻したレガードの視線と宙づりにされたエルシーの視線が交差する。にやりと笑みを浮かべたレガードがエルシーに言った。

「今日、一番ひやりとさせられたぜ。お前、面白い技を使うな。これだから人間相手は面白い」

 歓喜の笑みを浮かべたレガードは次の瞬間、右の踵を踏みならして無防備なエルシーの鳩尾を、再生を果たしたばかりの右拳で軽く突きこんだ。

 殴るのではなく、拳を当てる。右腕の重さそのものを放り出し、全身の力で加速させる。そんな感覚で放たれた一見軽く見える一撃の衝撃が、エルシーの身体を鋭く突き抜けた。

 例え釣りあげられていても並の攻撃なら対処のしようがあるが、エルシーが受けたのは彼女がレガードに打ち込んだ《寸勁》に酷似した純粋な力の集約された一撃だった。

「いい攻撃だったぜ。だが、修羅場での経験値が足りない、故に心が甘い。三発目で俺の頭を踏みつぶして即座に止めを刺すべきだった。それでも結果は同じだったろうがな……」

 防御不能の衝撃で腹部を打ち抜かれたショックで意識を失ったエルシーには、その言葉は届かなかった。

「少し強かったか……」

 意識を失ったままのエルシーの身体を左肩に抱え上げ、レガードは右の拳を軽く振って呟いた。

 身を以て受けた技の本質を瞬時に捉えて己のものにする――その驚異的な戦闘センスを備えたこの男を止める事は、もはや誰にも出来なかった。

 呆然とするイリアとマリナを見下ろしたレガードは再び命令した。

「イリアだったな……。この女を殺されたくなければ、ついて来い」

 そのまま振り向くことなくエルシーを左肩に抱え上げたままつかつかと歩き始め、洗礼所へと向かった。二人の巫女がその後を慌てて追った。

「ま、待って下さい」

 レガードが洗礼所に入ろうとしたところで、マリナが追い越し、その行く手に立ち塞がった。

「どけ、同じ事を二度も言わせるな……」

 エルシーを抱えたままレガードが見下ろした。迫力と重みのある言葉だったが、マリナに動揺のそぶりはない。魔眼はおそらく効かなかったのだろう。

「どきません。エルシーとイリアを自由にしてください。人質ならば私がなります」

 真っ直ぐにレガードを見据えてマリナが答えた。レガードが笑った。

「お前が何者であれ、その価値はない。必要とするのはそこの小娘だ。邪魔をするなら排除する。嫌ならそこをどけ!」

 マリナの眼前の獅子猫族の男は己の言葉を曲げる事は決してしないだろう。

「ならば、私を殺してお通り下さい。私にはその娘と違って貴方に立ち向かう力はありません。いかようになさって結構です」

 エルシーがレガードの肉体を封じようとしたのに対して、マリナはレガードの心を封じようとしているのだろう。視線を合わせたままの無抵抗の相手を迷わず手にかけるのは、殺しに慣れた者でも抵抗を覚える。

「小賢しいな、お前……」

 僅かに眉を潜めたレガードは、拳を振り上げる。両手を広げて立ちはだかるマリナは微動だにせず、視線すら逸らさなかった。瞬間、レガードは右腰に軽い衝撃を覚えた。振り返ればレガードの背後のイリアが、彼の腰から奪った短剣を手にしていた。

 その姿に一つため息をつく。

「小娘、お前がそれでこの状況をどうにかできると思っているのか? どいつもこいつもいい加減にしろ。弱者は黙って強者に従え!」

 レガードの怒声にイリアの身体はびくりと震えた。だが、彼女が短剣を手放す事はなかった。レガードを睨みつけるように見上げると手にした短剣の刃先を己の首筋に当てた。

 レガードの目つきが険しくなる。

「姉さま達から離れて下さい。私が貴方についていきます。貴方の目的は『最初から私だけ』なのでしょう?」

「イリア!」

 マリナの悲鳴にも近い叫びにも動ぜず、イリアは己の要求を突きつけた。

「レガード様……でしたね。もう一度言わねばなりませんか? 私はこれ以上の犠牲を見たくありません。二人から離れて私をどこへなりとお連れください、もしそれができぬというのなら、私の一命でもって事態を決着させましょう」

 言葉と同時にイリアは笑顔を浮かべた。覚悟を決めた者のみが浮かべる事のできるそれに、マリナだけでなくレガードまでが飲み込まれる。

「イリア、やめて、それだけは……」

「マリナ姉さま、エルシー姉さまをお願いします。今はこれが最善の手段です」

 神殿巫女としての妹分の決断にマリナが大きく動揺する。

「私もそれがもっとも正しい選択だと思いますよ」

 不意にマリナの背後から聞き覚えのある声が響いた。洗礼所には誰もいないはずだった。驚いて振り返るマリナの目にありえない再会劇が起きた。

 宙に浮かぶ怪しい人影。世界で最も恐れられる創世神への反逆者の一人であるその者は、かつて《アテレスタ》の地で出会った魔人だった。

「《魔将》ヒュディウス……」

 美しい唇から紡がれた忌まわしき名の主が笑みを浮かべた。嫌みたらしく中空で神殿礼をすると《魔将》はマリナに答えた。

「また、お会いしましたね。お美しい神殿巫女殿。先日も御忠告申し上げた筈です。さかしくては長生きできませんよ……と」

「これは、あなたの差し金ですか?」

 マリナの問いにヒュディウスは一つ首肯する。

「そうです、私は以前からそちらの兎族の巫女殿の存在に少々興味がありましてね。丁重なエスコートをレガードさんに頼んだのですが……、ずいぶんと元気に振舞われたようですね」

 言葉に棘はあったが、さほど気分を害した様子はなかった。ほぼ予定通りに事が運んでいるのだろう。

 余裕を見せる《魔将》。意識のないエルシーを担ぎあげたレガード。そして己のほっそりとした首筋にナイフを当てたままのイリア。

 もしここでレガードを通してしまえば、取り返しのつかない事になる――マリナはそう直感した。

 だが、マリナが犠牲になったところで結果は変わらない。最悪イリアまでもが己の首筋のナイフで自らを……。

 理性的な判断と己の感情の板挟みとなったマリナは渋面を浮かべる。

 不意に案内所前の廊下が慌ただしくなった。崩れた石壁に出来た大穴から具足の音に混じって男達の叫び声が聞こえる。ようやく異変に気付いて駆けつけてきた神官達だろう。

「仕方ありません。もう少しばかり犠牲者を出す事にしますか……」

 溜息をつくかのような《魔将》の言葉に慄然とする。レガードが小さく鼻で笑った。

 駆けつけてきた彼らは頼もしい増援ではない。新たな犠牲者となりうるのだ――《魔将》ヒュディウスと暴虐の侵入者レガードの前では、同じ事が繰り返される可能性が高かった。

 苦しげな表情を浮かべて目を閉じたマリナは、逡巡の後に黙って身を引いた。レガードがエルシーを肩から下ろし、そっとその場に横たえた。道を譲ったマリナの眼前をレガードとイリアが歩いて行く。

 二人の視線が交錯する。

「姉さま……」

「必ず迎えに行きます。例え地の果てでも……」

 イリアの顔に小さく微笑みが浮かんだ。

「では、お二人はあちらへ」

《魔将》が指し示したのは勢いよく上階から水の流れ落ちる洗礼の滝だった。よく見れば滝の中に奇妙な輝きが見える。

 滝の前で右手に短剣を握りしめたままのイリアが振り返った。室内をぐるりと見回し、もう一度マリナの顔を見つめる。

 ――行ってきます。

 声をかけて引き留めようとしたマリナに笑いかけると背を向ける。洗礼の泉に足を踏み入れた時、ふと懐かしい光景が思い浮かんだ。

『キミが困った時には、どこからでもすぐに駆けつけるよ』

 ザックスの言葉がふと思い浮かんだ。彼と最初に出会ったのは奇しくもこの場所だった。

 目を閉じて短剣を握ったままの右手の小指に左手を重ね合わせた。

 ――きっと来てくれると……信じています。

 顔を上げて決意を固めたイリアの姿は輝きの中に消えていく。レガードがそれに続いた。思わず後を追おうとしたマリナの眼前で、滝の中の輝きが消えていった。

 傍らに立つヒュディウスを睨むかのようにして、マリナは尋ねた。

「貴方達はイリアをどこへ連れていったのですか?」

 その問いにヒュディウスは答えなかった。

「巫女とは古より、傲慢なる世界の犠牲となる存在。彼女も又、運命に導かれることでしょう、あの……」

 冷酷な表情を浮かべて《魔将》は付け加えた。

「創世神とやらの導きの果てに……」

 その姿が徐々に薄らぎ始める。

「それでは巫女殿、ごきげんよう。そうそう、こちらに戻られたザックスさんにもよろしくお伝えください。最果ての地での再会を心よりお待ち申し上げております……と」

「待って……、イリアの行き先を……」

 その問いに答える事もなく、《魔将》の姿はかき消えた。崩れ落ちるようにその場に膝をついたマリナの両の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、その泣き声が上階から流れ落ちる滝の水音でかき消される事はなかった。



2016/04/05 初稿


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