12 ザックス、弄ばれる!
歩く事が基本の冒険者からしてみれば、馬車などというものは実に無駄な乗り物のように思える。
街中の通りを闊歩するものの多くは、自由都市指折りの富豪たちの派手に飾り立てられたそれか、《ペネロペイヤ》近郊の農村部から多くの荷駄を運び込む行商人達のものだった。その中を神殿の印がしっかりと刻み込まれた馬車が堂々と行く。
「質素倹約が旨ですから、私達も滅多に乗る事はないのですよ」というマリナの言であるが、さすがに神殿の威光は凄まじく、道行く人々から馬車までが道を譲ってゆく姿は壮観だった。『神殿とは事を構えるな』というガンツの言葉の意味が、つくづく思い知らされる。
北地区にある創世神殿から《旅立ちの広場》まで馬車に揺られた後、転移の門を通って自由都市《トロイヤ》に向かったザックス達一行は、そこから再び馬車に揺られて《トロイヤ》神殿へと向かった。
冒険者の己とはかけ離れた世界に暮らすマリナとのやり取りにはそろそろ慣れつつあった。だが、着なれぬ神官衣を纏ってさほど広いとも思えぬ馬車に揺られる中、ザックスにはさらなる問題があった。
もう一人の道づれにして今回のクエストの正式な依頼人、創世神殿高神官ライアット――先日、神殿からザックスを追い払った張本人である壮年の男は、マリナと並んで座るザックスの対面にドシリと座り込み、一言も話すことなく目を閉じている。それなりに広く造られているはずの車内の空間を、その丸太のような体躯と暑苦しい存在感で、一人で圧迫している。
目の前の男に対して何かと苦手意識が先走るザックスだったが、迂闊にイリアの事を切り出そうものなら、先日の二の舞になりかねない。結局、全く接点が見出せぬまま、言葉を交わさぬ時間に閉口する。彼の警護というのが今回のクエスト内容である。そんな必要なんてどこにもないじゃないか、と店の安寧の為にザックスを売ったマスターのガンツを密かに呪っていた。
様々な不安要素のある中、唯一救いだったのは、イリアの病気が只の風邪であり、すでに全快して、今日からまた務めに励んでいるとマリナに知らされた事くらいだろう。
「もしかしたら、見送りの一団の中に混じっていたかもしれませんね」
馬車が神殿を出てしばらくしてぽつりと呟いたところが、マリナの意地の悪さである。そのようなやり取りにも飽き始めたザックスは、馬車の窓から初めて見る別の自由都市の景色の感想をぽつりと呟いた。
「汚い街だな」
「そうですか?」
「ん、ああ、まあ俺は《ペネロペイヤ》以外はほとんど知らないから、比べようがないんだけどな」
これまで《転移の扉》を幾度も潜り抜けてきたものの、思えば都市とダンジョンの往復ばかりの生活だった。ウルガ達とのことがなければ、《ブルポンズ》についていって見識を深めるのも一つの手だったかな、と残念に思う。
故郷から食糧輸送船に紛れ込んでやってきたザックスにとって、《ペネロペイヤ》以外の都市に来るのはほとんど初めてといえた。故郷の景色に比べればはるかに文明的な街並ではあるが、見慣れた《ペネロペイヤ》のものほど活気があるわけではない。
「多少、活気がないようですが、私にはそのようには感じられませんね」
「まあ、気のせいっていえば気のせいなんだが……、空気が澱んで見えるんだよな……。ところであんた達、暑くないのか?」
季節は夏である。
日中ともなれば気温も上がり、せまい馬車の中もそれなりに暑い。巫女や神官の外出時の正装は、外部のものからすれば相当に暑苦しく見えるものだが、二人は汗一つかく様子もない。
「なんか、オレに隠してないか?」
「まあ、ほほほ、これも日々の修練と信仰の賜ですわ」
「その顔だと神殿独自の暑さ凌ぎの秘伝、みたいなものがありそうだな」
いつも優雅な笑みを浮かべるマリナが一瞬絶句した当たり、的外れではないのだろう。
「あらあら、そろそろ目的地が見えてまいりましたわ。ザックス様、それでは依頼したクエスト、くれぐれもよろしくお願いしますね」
「あんた、絶対いい性格してるよ」
絶妙なタイミングではぐらかされたザックスは、不貞腐れながら馬車を降りた。
馬車を降りた一同を迎え出たのはこの神殿の神官長職にある麦酒樽のような体型の男だった。ライアットと同じく高神官位についている事を示す彼は、神官に不似合いなふくよかな体型に、満面の笑みを浮かべて、挨拶をする。
「これは、これは、ライアット殿、遠路はるばるようこそお越し下さいました。マリナ殿もあいかわらずお美しく。はて、そちらの方は知らぬお顔ですね」
「ブレルモン殿、御無沙汰いたしております。こちらは行儀見習いを兼ねて、我が身の回りの雑務を任せておりますヤハルと申す者。まだまだ不作法者ゆえ、御気分を害する事もあるでしょうが、その時はご容赦を……」
「何をおっしゃられる。ライアット殿程の方が身の回りをお任せになっておられるのなら、きっと将来有望な神官殿でいらっしゃるに違いない」
細い目をさらに細めて、ほめちぎる麦酒樽の姿には、どうにも嫌悪感しか湧かない。マリナに教えられた通りのしきたりにのっとった挨拶をしたザックスは、極力目立たぬように振舞う事を心がけた。
「ささっ、では参りましょうか。面倒なお務めなど早めに済ませて、今夜は大いに飲み明かしましょうぞ」
神官として余りに不謹慎な言葉をさらりと言ってのけながら、ブレルモンは三人を奥へと案内した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「あっ、マリナ姉さまだ。ほんものだ!」
「きれい……」
あどけない笑みを浮かべて中庭で遊んでいた子供たちが、ザックスとマリナの周りに駆け寄ってくる。
「みなさん、お元気ですか?」
『天使の微笑み』を浮かべるマリナの周りに集う子供達は、さながら天使の従者というところだろうか?
「あれ、なにこの人、姉さまのかれし?」
「うわっ、だっせー、姉さま、だまされてんだよ」
「うわーん。姉さまがダメなオトコにひっかかったー」
傍らに立つザックスに、クソガキどもが無邪気に罵倒する。
「あらあら、みなさん。その者は私の従者なのです。お願いすれば、お空も高く飛んでくれますし、素敵な御馳走も運んでくれるのですよ」
「うっわー。すごい、すごい。マリナ姉さま、やってみせてよ」
「お・い! ちょっと待て!」
慌てるザックスの姿をきゃあきゃあと喜ぶ子供達。そのようなやり取りの最中、彼らの元にこの神殿の巫女が現れ、むずかる子供達を屋内へと引き揚げさせた。
「じゃあね、ばいばい、マリナ姉さま。ペットの兄さまも、またね……」
あどけない笑顔で容赦ない言葉を残して、子供達は去ってゆく。その背中を手を振って見送るマリナに、ザックスは何気なく尋ねた。
「あの子達は孤児なのか?」
その問いに僅かに目を伏せたマリナは、さびしげな微笑を浮かべて答えた。
「あの子達は未来の私達の後輩となるべく、幼いころから親元を引き離された子供たちです」
「無理やり……にか?」
その問いに小さく首を振る。
「神殿に仕える者……特に巫女になるものには特別な資質が必要なのです。確かに孤児の中からそういった子供が選ばれる事もありますが、大抵は各地の神殿にて幼いうちにその資質を見出され、かなりの支度金と引き替えに、連れていかれるのです」
「あんた達も……か?」
その問いに彼女は小さく微笑んだ。
「一度巫女になれば、その力を失うか、禁を犯して力を封じられるか、あるいは寿命が尽きない限り巫女を止める事はできません。確かに神殿巫女には様々な特権も与えられていますし、恋愛も結婚も禁止されてはいません。しかし、いかなることがあろうとも、何らかの形で神殿につなぎとめられる事に、変わりはないのです」
淋しげに笑う彼女の視線の先には何が見えるのだろうか? 彼女の話を聞きながら、ザックスはふとイリアの顔を思い出した。
「イリアもそうなのか……」
「あの娘は私達とは違います。例外なのです」
「例外って?」
「あの娘はおじ……いえ、とある高神官様がさる筋から娘としてお引き取りなさり、私達と共に姉妹のように育ちました。私達にとってあの娘は希望だったのです」
「希望?」
「何物にも強制されず、人生を自由に切り開いていく事。それが多くのしきたりに縛られる私達が決して手に入れる事の出来ない、『密かな憧れ』なのです。それなのに、あの娘はその自由をかなぐり捨てて、私達と共にある事を自分から選んだのです。不幸なことにあの娘には類い稀な巫女の資質がありました」
愛しい妹巫女の話をする彼女の表情は穏やかでありながらも淋しかった。
「周りの姉妹が次々に巫女になって行く事が淋しかったのかもしれません。もっと突き放して、彼女と私達は違う人間なのだと幼いうちから教え込んでおくべきでした。それでも可愛いあの娘を手放せなかった……『私』の過ちなのです」
『過ち』という言葉が胸に突き刺さる。彼女達が積み上げてきた時間の重さを他人が理解する事は、おそらく不可能なのだろうと漠然と思った。
「巫女の仕事は時として過酷です。神から冒険者に与えられる理不尽な運命への反発の矢面に立たされることもしばしばです。あの娘の幼さと兎族であるという事は時としてそれを増長させてしまうこともあります。それでもあの娘は弱音を吐くことなど一切せずに、日々の務めを黙々とこなしています」
そう語ったきり、彼女は黙り込む。そのまなじりに小さな輝きが生まれたように見えたのは気のせいだろうか?
しばしの沈黙の後に、ザックスはぽつりと呟いた。
「部外者の俺には正直、あんた達の苦しみや想いは分からねえよ。でも、彼女が不幸であるとは俺には思えない」
ザックスの顔をマリナが凝視した。
「自分から選んで巫女になったんだろ。それってあんたのいう『密かな憧れ』って奴をかなえたんじゃないか。それにイリアの周りにはあんたのように彼女を誰よりも想いやり、守ろうとする人たちがいる。だったら、そんな彼女が自分の事を不幸だなんて思うはずないじゃないか」
その言葉にマリナは目を見開いた。
「幸せなんて人それぞれ。実はいつも身近に当たり前のように転がってるのが幸せだ、って言うだろ。あんたが必要以上に重荷を背負う事なんて、これっぽっちもないと思うんだがな?」
己の言葉は軽々しいのかもしれない。だが、ザックスは思うままに心情を吐露した。彼の顔を暫し凝視していたマリナは、再び優しく微笑んだ。それはこれまでに見た中で最も優しい微笑みだった。
「ザックスさん、神殿巫女に説教するなんて……。生意気ですわ」
「……だろ。俺も少しばかり、恥ずかしい」
「有難うございました。少しだけ心が晴れましたわ」
微笑みをもって美しく優雅に神殿礼をするその姿に思わず動揺する。
「そ、そんな大げさなモンじゃないさ。なんとなく思い浮かんだ事を口にしただけで……」
「でも、貴方とイリアの事は別問題です。私達は可愛いあの娘をあなたにお渡しするつもりなど、毛頭ございませんわ」
マリナの不意打ちにザックスは頭を抱えた。
「だーー。オレは何にもしちゃいないよ、まったく、どいつもこいつも……」
夏の昼下がり、柔らかな風が吹く神殿の中庭で、ザックスの小さな叫びが響きわたった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
寝付けない――。
慣れぬ寝具の匂いと氷術魔法による若干冷え過ぎ感のある室内の空気。だが、それ以上に安眠への道を妨害する真の理由とは……。
「ハラ減った!」
こらえきれずザックスは寝台の上に跳ね起きる。
出された夕食の味は絶品だった。
様々な珍味を取りそろえたその夕食は、神殿に仕える者の食事としては分不相応であまりに豪勢過ぎるものだった。
高神官ブレルモンの腹が麦酒樽のようになる理由の推測がつくというものである。給仕をする他の神官たちの羨望の視線の中、ザックスは豪勢な夕食に気圧されることなく堂々と挑んでいた。食べられる時に食べておく――冒険者の流儀である。
とはいえ、一皿の量が圧倒的に少なく、前日にマリナに徹底的に仕込まれたテーブルマナーを気にするあまり、とても満足できる食事ではなかった。同席したライアットとマリナの内心がいかなるものかという事は察しがつくだろう。
起き上がったザックスは、寝台の傍らにある《袋》に手を伸ばす。だが、ここ数日の強行軍がたたり、ダンジョン探索時に必須の携帯食は全て品切れだった。
仕方ない、調理場まで行くか……。
マナー違反は十分承知の上だが、すきっ腹を抱えていては眠れない。
近頃すっかり身体の一部と化した《袋》を腰につけると、その上から神官衣をかぶり、ザックスは扉を開けた。ほの暗い廊下を小さな魔法光の明かりを頼りに進んでいく。
「どちらへ行かれるのですか、ザックスさん」
突然、曲がり角で彼を呼びとめたのは巫女服姿のマリナだった。人の気配が全くしなかった事を十分に確かめていたにもかかわらず、いきなりかけられた声に驚いてザックスは思わず叫びそうになる。その口を、マリナはその柔らかな手のひらで押さえた。ほんのりと漂う甘い香りにどきりとするザックスを、マリナはそのまま傍らの倉庫へと押し込んだ。
「何をしていらっしゃるのですか、こんな時間に……」
マリナの不審げな視線に思わずたじろいだ。悪事をやっている訳ではないのだから、とすぐさま開き直る。
「それはこっちのセリフだよ。あんたこそ何やってんだ? ここでは一応、お客様なんだろ」
「私はまあ、いろいろと、巫女の務めを……」
口ごもるマリナに一つため息をつく。ここに来て以来、うすうす感じていた事を彼女にぶつけるのはこのタイミングだろうと考え、彼は率直に尋ねた。
「それで……、探し物は見つかったのかい?」
ザックスの不意打ちに彼女は息を呑む。いつも優雅な微笑みを浮かべる彼女が浮かべた驚きの顔は、昨日からなにかとやられっぱなしのザックスに、小さな優越感をもたらした。
「あんた達はここの責任者の不正を暴きにきたんだろ。昼間の査察はあくまで形式的なもの。ライアットのおっさんはどちらかと云えば囮役で、実行部隊があんたってところか……。場合によれば顔の知られてないオレも囮の囮ってところだろう?」
マリナはさらに驚きの顔を見せる。だが、直ぐにいつもの微笑みを取り戻した。
「まったくそのとおりですわ、ザックスさん。おっしゃられるように、実は私達はあの麦……、いえブレルモン高神官の様々な疑惑の解明の為の事前調査を行いに参ったのです」
「事前調査?」
「詳しい事は申し上げられません。ただ神殿の組織内にも様々な人間関係がありまして、それらを刺激しないように事を進めねばなりません。これまでにも私達と同じようにこの神殿に足を運ばれた方々はいらっしゃいましたが、どれも決定的な証拠を手に入れることができず空振り続きでした。正式な査察を入れて空振りという事態になれば神殿関係者の面子が関わってきますので……」
「それも巫女の仕事なのか……」
「いえ、どちらかといえば、これは私の個人的な趣味と云うべき……って、何を言わせますの!」
「あんたが勝手にしゃべったんだろうが……」
「それで囮の囮役のザックスさんは、ここで一体何を……」
「ハラが減ったんだよ」
「はい?」
マリナの目が点になった。貴重な表情である。
「あの晩飯じゃ食った気がしなくってな、携帯食も品切れだったんで、ちょっとばかり調理場に何か残っていないかと夜食を調達に……」
しばし、言葉を失った表情の彼女だったが、徐々にジト目になっていく。
「人が神経をすり減らして仕事をしている最中に、つまみ食いですか……」
「うるさいなあ。だいたい不正の証拠集めなんて、オレのクエスト内容には入ってないだろ」
「それはそうですが……」
「そういう訳だから、お仕事頑張ってな!」
マリナのジト目に耐えられなくなったザックスは、ポンと肩を一つたたくと先に倉庫を出ようとした。そのザックスの襟首をマリナはむんず、と掴んで引きとめた。
「なっ、何すんだよ!」
「仕方がありませんので、私もお付き合いしますわ……」
「なんだ、あんたもハラが減ってたのか?」
「ちっ、違います! 見つかったらどう言い訳するつもりなんですか?」
「どうにかなるさ、見つかった時に考えるよ」
こめかみを押さえながら、マリナはザックスの後を歩く。
彼女も無駄な時間を過ごしてよいわけではないが、ザックスにつき合おうとするところをみると手詰まりなのだろう。見かけによらずブレルモン高神官というのは隙のない男のようだ。
倉庫を出た二人は暗い廊下をゆっくりと進み、夜食の調達ミッションを再開した。鼻歌交じりに廊下を歩むザックスの後頭部に、時折ぽかりと小さな拳がぶつけられる。
「痛ってぇな。何すんだよ?」
「もう少し、静かに行かれてはいかかですか?」
「こういうときは堂々としてる方が、いいんだよ。こそこそしてたら、余計に怪しまれるだろ?」
ザックスの返事にマリナは絶句する。「人選ミスですわ、おじさま」と呟くその言葉を聞こえぬふりして、彼は歩み続けた。
「あれ? 人がいるな……」
長い廊下の先、ドアが僅かに開いた部屋の中から僅かな明かりが漏れ出している。
一瞬、立ち止まり、すぐさま足音を消して再び歩み始めたザックスの後を、マリナは真似するかのようにして続いた。扉に近づいた二人は中の様子を探る。僅かな水音が響くその場所は、この神殿の《洗礼の滝》の部屋だった。かがみこんだザックスの上から覗き込むようにしてマリナが室内の様子を探る。
彼女の吐息がこそばゆく、その豊満な胸のふくらみが巫女服越しにザックスを密かに刺激する。その性格からしてわざとやっているようにも思えるが、ここは素知らぬふりを決め込み、そのみずみずしく柔らかな感触を密かに堪能する。
「この神殿にも《洗礼の滝》があるんだな」
「ええ、《洗礼の滝》はどの神殿にも必ずあります。私どもがお務めする《ペネロペイヤ》神殿は正確には大神殿と呼ばれるもので、この神殿より規模も大きく格式も高いものです。そして、この神殿で洗礼を受けずに私達の神殿にやってくる冒険者の方々が、なぜかここ暫く急激に増えてきているのです」
「理由はあれ、かな?」
《洗礼の滝》――その場所に満ちているはずの神聖水の輝きは鈍かった。おそらく効力が落ちているのだろう。問題はなぜそうなったかと云う事だが、これはマリナ達の問題だろう。
それよりもザックスが気になるのは中にいる人影の方だった。水勢の悪い滝の下でぼそぼそと呟く声が聞こえる。それはブレルモンの姿だった。すぐ側にもう一つの人影がある。
『はい、資材は全て別の場所へ……。ええ、ここにはもう何もございません。査察官もボンクラ……で、この場所についてすら興味を………せんでした。先ほどまで酒精をた……ましたので今…………すり眠っているでしょう。明日に…………急用を思い……ので、直ぐにでも…………』
とぎれとぎれに聞こえる言葉を、マリナが読唇術で補って小さく呟いた。
「なあ、ふん捕まえなくていいのか……」
「いえ、今の彼を捕まえても意味はありません。ここにはもう証拠になりそうなものはないようですから、後はもう一人のフードの方の正体を調べて、その線から追うしかないでしょう。いずれにしても、今すぐどうにかできることではないようです」
「そうか、面倒くさいんだな、神殿ってのは……」
その言葉にマリナは苦笑いを浮かべた。部外者にとって組織内のごたごたほど、馬鹿馬鹿しいものはない。もう一人の姿が見えたところでそれはザックスには関係のない人物であろう。己には預かり知らぬ事とその場所をマリナに譲って、離れようとする。不意に彼の目の片隅にフードをかぶったもう一人の男の顔がチラリと映ったような気がした。
「どうされました、ザックスさん」
一度はそこから離れようとしたものの、再び熱心に扉の隙間に張り付いて覗きこむザックスの姿に、マリナは違和感を覚えた。返事もせずにしばらく室内を凝視していた彼は、やがてそっと後ずさり、扉から離れた。その顔は真っ青だった。
「ザックスさん?」
「あいつだ、間違いない……」
険しい表情を浮かべ、ザックスは小さく呟いた。その手が大きく震えている。
「お知り合いの方なのですか?」
返答はなかった。代わりに心を落ち着けるかのように、目を閉じて深く呼吸する姿に、マリナはさらなる違和感を覚えた。声をかけようとした刹那、再び見開かれた彼の目を見て、マリナの心音が跳ね上がる。いつも陽気でどこか抜けた様子の普段のザックスとは大きくかけ離れた、冷たい目だった。
やおら立ちあがったザックスは着ていた神官衣を脱ぎ捨てると、冒険者用の装備を身につけた。すらりと抜き放たれた《ミスリルセイバー》の刀身が扉から漏れる光を受けて冷たく輝いた。
「ザ、ザックスさん、一体どうなされたのです?」
慌てて彼の身体を掴もうとするマリナの手をとると、ザックスは先ほどよりもさらに冷たい目をして、彼女に告げた。
「マリナさん、悪いが契約はここまでだ。あんたは直ぐにここを離れて、おっさんと神殿内の人を外に誘導してくれ」
「どうなさったのです、訳を教えてください」
「早く行ってくれ。子供達を巻き込む訳にはいかないだろう。悪いが、ここからはオレの喧嘩だ。あいつだけは絶対に許せない」
口元に僅かな笑みを無理やり張り付け、マリナの身体を押し出した。と同時に、眼前の扉を勢いよく蹴り飛ばす。勢いよく差し込む室内の光の中で、ザックスの姿が眩しく映った。
待ってください、と呼び止めようとして、ふとマリナは気付いた。彼が心底怒っているという事に……。
そして、それは己の力では絶対に止められないのだ、と彼女は直感した。
2011/07/26 初稿
2013/11/23 改稿