15 神殿巫女、もの思う!
麗らかな春の日差しが差し込む窓を、じゃれ合うようにさえずりながら飛ぶ小鳥たちの影がよぎった。
春真っ盛りの《ペネロペイヤ》大神殿の廊下では、暖かな陽気に似合わぬ渋面を浮かべた一人の神殿巫女がいそいそと歩いている。
クエストの数が増えると同時に、神殿に訪れる冒険者達の数も増える。
当然、彼らの転職の世話をする神殿巫女達の務めも忙しくなる。さらに、訓練所で訓練している新たな冒険者の卵達の為に、冒険者協会と様々な折衝も行わなければならない。
信者や《ペネロペイヤ》住民の生活に関する日々のお務め、武闘訓練、奉神舞謡の稽古、巫女見習い達への教導――只でさえ忙しい彼女達にさらなるオーバーワークを強いるこの時期は、ある意味、神殿巫女の修羅場でもある。
美しく優雅に水面に浮かぶ水鳥が水面下で足を激しくばたつかせるが如く、壮麗な大神殿の裏側では、務めを巡ってドタバタ騒ぎが繰り広げられるのが、ここ暫くの日常だった。
大神殿に所属する総勢三十人強の巫女達の務めのローテーションを切り盛りするのは、上級巫女達の仕事である。
偏らず、負担をかけすぎずを心がけるものの、体調の良し悪しがあり、務めの得手不得手があり、感情的になりやすい女の集団をうまく統率するのは並々ならない。同僚の上級巫女達と共に日々奮戦する彼女だったが、それでも絶対的な人数の不足は如何ともし難い。
常に優雅に微笑を浮かべる神殿巫女らしからぬ表情の彼女――エルシーは頭の中にある仕事のリストの優先順位を組みかえながら、実に憂鬱な気分だった。
中級、初級の神殿巫女ならば与えられた務めをルーチンワークとしてこなせばよいだけである。
だが、日々、様々な人々の訪れる神殿には不測の事態がおこるのが日常であり、『外回り』と呼ばれる飛び入りのお務めに人員を割くための調整は困難を極める。精神的に緊張を強いられる『外回り』に派遣される人員は神殿巫女だけでなく、その警護に必要な神官達にも影響を与え、その折衝に費やされる時間は少なくない。
派遣される側からも色よい返事が常にくる訳ではなく、手持ちの務めに必要以上に時間をかけて『私はこんなに大変なのだ!』とアピールするのだから困りものである。命令される側にありがちな本能的な防衛手段も、度を越せば、組織を腐らせる。時に厳しい態度で接し、恨みを買うことになるのだから、まず割に合わない。
『悪即滅』の武闘派を自認する彼女は、相手をおだて、なだめる交渉事は苦手とするところであり、忙しい務めのせいで足が遠のきがちな鍛錬場の革袋の感触がなつかしい。最近、彼女の行動範囲内での壁穴の修理件数が飛躍的に増加中である事は、神殿の雑務に携わる者達の間で小さな話題になっているようだ。
神官側との折衝に備え、ため息交じりに一つ深呼吸をしようとした瞬間、彼女の背中に声がかけられた。
「あらあら、エルシー姉さま、お顔の色がすぐれませんね……」
少しばかり茶目っ気のあるその台詞の主には、振り向かずとも心当たりがある。否、ありすぎた。幼い頃からよく知るその声の主は、ここ最近、エルシーの悩みの種となりつつあった。
「そうよ、これから神官長様の元に出向かねばならないので、とっても憂鬱なの、マリナ姉さま」
振り返ったその先で優雅に微笑を浮かべているのは、彼女にとって尊敬する姉貴分であり宿敵でもあるマリナだった。そそと歩を進め、エルシーに近寄ったマリナは両の掌でそっとエルシーの両頬を包んだ。よく知る彼女の香りまでもがふわりとエルシーを包み込む。
「そんなお顔では、まとまるものも、まとまりませんよ」
その名を知らぬ者は無いと言われる『元』上級巫女は、これから己がすべきことの困難さを熟知しているのだろう。
その温もりに思わず身を預けそうになる己を戒めるかの如く、彼女はマリナから一歩離れて、その掌からすり抜けた。
「姉さまこそ、今は見習い達の教導の時間じゃなくって?」
微笑を浮かべたまま、マリナが答えた。
「ええ、イリアに代わってもらいました。リシェルとフロエもいますから、今日はあちらは何の問題もありませんよ。代わりに私は、冒険者の御案内に参るところです」
「そう、あの子達が……、ならあっちは安心ね……」
信頼する三人の妹分達の存在のお陰で、彼女の懸案事項の一つがかき消えた。
「それにしても、イリアったら、最近、少し張り切りすぎじゃない?」
「そうですわね。特に《招春祭》の休みの日あたりから……ってとこかしら。最近は鍛錬場にもよく顔を出しているらしいですしね」
「そうなんだ。でも、相変わらず弓の稽古ばかりで、近接格闘戦には興味ないんでしょう?」
「まあ、エルシー。武闘訓練はあくまでも精神鍛錬の一環であって、神殿巫女の本業ではないのですよ」
「だって、そういう姉さまは武闘訓練は一切なさらないし、イリアはあのおじさまの義娘だっていうのに……。もったいないじゃない」
「武闘訓練ばかり熱心にして、今度は冒険者になりたい、なんて言い出したら、それこそおじさまが卒倒しかねませんわ。第一おじさまの自称一番弟子の貴女がここにいるんですから、もう十分でしょう?」
「『自称』じゃないわ、姉さま、『自他ともに認める』……よ」
「そうでしたわね……」
末の妹分を肴に二人は小さな雑談を交わす。暫く、過密気味な日程のせいで、夜のお茶会も出来ずに務めに励むだけの日々は、互いの心の距離に小さな隙間を作りかけている。
ここ最近、エルシーにとって悩みの種になりつつあるマリナ――中級巫女に格下げされた彼女は、一言で言えば楽をしている、否、楽をしているように『見える』のである。
決して、日々の務めをマリナが怠けているという訳ではない。
むしろ人並み以上に務めに対して真摯に向き合い、周囲の範となっているのは間違いない。普通の者が懸命に励んだ仕事の倍の数をさらりとこなしてしまうのが、彼女である。
とはいえ、客観的に見て、決して楽をしていないと言う訳でもないというところが難しい。
彼女はつい昨秋まで、上級巫女として、《ペネロペイヤ》だけでなく他の神殿も含めた多くの神殿巫女達の範となる立場にあった身である。加えて、神殿巫女でも屈指の舞い手でもある彼女が降格される事で、これまで従事してきた多くの職分から解放された。今年はエルタイヤの《大招春祭》で舞いを舞わずに済んだ事に、当の本人が密かにほっとしていた事を知る者は少ない。
多くの者が憧れる上級巫女という肩書よりも、己の名前の方が有名であり評価されるという、稀有な立場の彼女ならではの悩みがあるのだろう。
兎にも角にも、組織内の事情とはいえ、己よりも十二分以上に能力のある彼女が、己の下で楽をしているように『見える』という事が、エルシーにとって問題だった。同時に、彼女にそのような悩みを抱えさせる原因となった最高神殿にたむろする石頭の狸爺共に向かって、密かに中指を立てる。
――おっと、これは神殿巫女にあるまじき行為ね。
己を戒めるものの、出会ったときから常に先を行く、一つ年上の優秀すぎる姉貴分へ抱く複雑な感情の行き場に苦悩する。
――ああ、革袋が懐かしい。
しみじみと実感する。
人間は不平等であり、人生は理不尽である。
客観的にみれば、エルシーは神殿巫女として、十分すぎる程に優秀な部類に入るのだが、上には上がいるのが世の中である。己が比較対象にすらなりえない余りにも優れた近しい姉貴分の存在は、単純に小さな嫉妬や劣等感の対象というだけでなく、同時に誇りと安らぎの対象でもある。
己の精神衛生上、マリナが楽をしているように見えぬよう、立場を利用し仕事をふんだんに押し付けるという手段もあるのだが、そうはいかぬ事情もある。
マリナ自身が気付いているかどうかは分からぬが、《アテレスタ》から帰って以来、彼女は時折もの想いに耽る事がある。
その小さな変化は、エルシーだけでなく、おそらく他の妹分達も気付いているだろう。慣れぬ様子の彼女の扱いにどうしていいか戸惑っているはずである。
エルシーにとって、そのようなマリナの姿を見るのは、実は初めてではない。
以前にも一度だけ同様な状況があった事を、ふと思い出した。それは最も近しい場所にいた彼女だからこそ気付いたことであり、その時のマリナは自身で折り合いをつけ、いつの間にか日常に戻っていた。
今のマリナ姉さまはそっとしておくべきだ――それが最も身近にいるという自負のあるエルシーの出した結論である。
ふと、雑談を交える中で心にあったトゲトゲしたものが、いつの間にか消え去っている事に気づいたエルシーは、マリナに暫しの別れを告げる。
「もう、行くわ、姉さま。あまり暇つぶししてると、他の娘たちに示しがつかないもの……」
「そうですね、では、ごきげんよう、エルシー」
微笑をうかべて神殿礼をする姉巫女の優雅な仕草に、不覚にも一瞬、見惚れた。
――まったく、どこまでも扱いに困る姉貴分だこと。
いなければいないで己を不安にさせるマリナを置いて、立ち去ろうとするエルシーの背に、再び声がかけられた。
「そうそう、忘れていました。明日の『外回り』は私が行くようにとルーザ様からお達しがありましたので、よしなに……」
そそと歩き去っていく気配を背中で感じ取り、それが消え去ってようやく、エルシーは振り返る。振り返ったその先には、マリナはおろか誰の姿もない。
――余計な気を回し過ぎよ、姉さま。
マリナが『外回り』に向かうとなれば、警護役の調整はすんなりと決まる。いや、むしろ違った意味で混乱が生じるかもしれないが、それは神官側の問題であり、そこはエルシーの預かり知らぬところである。
「ありがとう、姉さま」
時折、小鳥たちのさえずる声だけが響くがらんとしたその場所で、エルシーはぽつりと呟き、頭を下げたのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
まだ少し肌寒い空気の残る長い廊下の無数の窓からは、麗らかな春の日の光が差し込み、生み出された光と影のコントラストが、その場所にある種の神聖さを見せる。かつて、この場所を作ったのであろう建築士達の細やかな心配りとその工夫を思わず賞賛せずにいられない。
日々、小さな変化に富んだ街の景色とは違って、この窓から見える艶やかな春色に染まりつつある花壇や時折ふらりと散策を楽しむ信者達の姿は、この場所で過ごしてきた幼い時分より全く変わらない。故郷の景色に安堵するというのは、こういう感情なのだろうか、とふと思う。
《アテレスタ》――彼女が昨冬を過ごした激動の街も今は春を迎え、《アテレイヤ》と名を変えて新たな出発を果たしている。全てが決して順調とはいえないが、着実な一歩を踏み出しつつあり、あの街で出会った人々も今は、それぞれの日常の喧騒の中で、過ぎ去っていった騒乱の日々を、時折振り返る程度なのだろう。
だが、その裏側で消えていった一つの無念に思いを馳せる。それはこの街に帰還した彼女の心の内に、大きなしこりとなっていた。
あの日――。
野心的な神官長の協力もあって、大書庫に眠る様々な異端の知識を得たマリナは、警護役の子供達に囲まれて神殿へと帰還した。神官長への心からの感謝の言葉を用意していたマリナを待っていたのは、突然に起きた凶事に大きく動揺する同僚達の姿だった。
うろたえ、泣き叫ぶ彼らを宥め、どうにか事情を聴きだして事態を把握すると、意を決して件の人物の元へと向かった。
創世神に仕える者としてあるまじき大罪を犯した彼をどのように扱えば良いのか、と議論するばかりで動こうとせぬ者達の姿は、ただ目の前の現実から目を逸らさんがための方便にしか思えなかった。
常に几帳面に整頓されていたその部屋は、嵐の過ぎ去ったかのごとく散らかされ、真っ赤な血に染まった神官衣が無造作に投げ捨てられていた。
意外な事に部屋の主の身なりは整えられており、冒険者風の装いを身にまとっている。その傍らにはまるで旅行にでも行くかのように荷物がまとめられいた。訪問したマリナを部屋の主であるアリウスは落ち着いた様子で出迎えた。
「来てくれたのは……、やはり貴女でしたね……ありがとう」
「神官長様……」
「アリウス……とお呼び捨て下さい。マリナ様。私はもはや創世神に仕える資格ある者ではありません」
声も態度も意外なほどに冷静だった。
だが、その瞳には全く覇気が感じられない。今朝方、偶然出会って挨拶を交わした時とは全くの別人に思えた。暫しの沈黙が流れた後で、先に口を開いたのはアリウスだった。
「皆、動揺していますか?」
「はい」
だからと言って今の彼に何かができる訳ではない。《アテレスタ》の地で共に苦難を乗り越えてきた者達との信頼関係が完全に破たんした今、神殿内の誰もが己のすべきことを見失い途方にくれているのが現実である。
マリナが彼の部屋に向かう決心が出来たのは、彼女がアリウスや周囲の者たちと過ごしてきた時間が最も短かった故であろう。
取り返しのつかぬ過ちを犯した彼の元に誰も向かえなかったのは、彼らが仕事上の付き合いだけだからという訳ではない。苦楽をともにしてきた仲間の犯した過ちをどうしても認める事ができず、どうにか擁護の余地を探そうと躍起になっていたからでもある。神に仕える者が犯した許されざる禁忌は、それほどに彼らの心を打ちのめしていた。
アリウスと向かい合うマリナの脳裏に、一つの思いがよぎる。
――野心も夢も、全てを失った男はここまで小さく見えるものなのだ……。
弱々しげな顔をしたよく知るはずの見知らぬ男は彼女に告げた。
「あの日の私の申し出は……、どうか忘れてください。所詮、分不相応な叶わぬ夢だったのです」
「神官長様……」
《アテレスタ》が解放される前日、冒険者が新たな出立を迎えるその場所で、彼は静かに、そして力強く己の野心と夢を語った。そしてその実現に彼女の存在が必要なのだ、と熱く説いた。
だが、今、その全てが足元から崩れ落ち、決して実現する事のない幻想と化してしまった。全てを失い、只一人孤独なその現実の前に立ち尽くす――それは、あまりにも理不尽というものであろう。
――私も共に参ります
そのような言葉が一瞬、喉元まで出かかった。口にしなかったのは、それが彼にとって残酷な同情でしかないという事を、経験で知っていたからである。
『同情は時として男の誇りを酷く傷つけるのだよ、巫女マリナ。君は周囲に影響を与え過ぎる君自身の魅力と才覚を自覚するべきだ』
ずっと以前に、似たような場面に立ち会った彼女に、とある人物が告げた言葉が思い浮かぶ。神殿という組織に振り回され、全てを無くしたその姿にアリウスのそれが重なった。その時も又、今と同じく傍観者でしかないのが彼女の立場だった。
「これから、どこに行かれるおつもりですか?」
「分かりません。ただ、私は……」
しばしうつむいて言い淀んだ後で、彼は顔を上げた。
「私は、この身を神殿の処置に任せるつもりはありません。創世神に懺悔する事はあっても、神殿に巣食いその権威をひけらかすだけの醜い老人達の暇つぶしの慰み者になるつもりも、毛頭ありません。そしてこの私の身勝手な言い分と振る舞いは、決して誰にも認められる事も許される事もないでしょう」
その言葉に彼の本心を理解する。
彼も又、神殿の理想と現実の狭間でもがきつづけ、希望と理想を追う改革者を志していた。
だが、その道は断たれ、いずれ追手はかかる。彼の引き起こした事態は、事情はどうあれ、それほどに重大だった。
その上で、全てを失っても尚、彼はまだ負けを認めるつもりはないのだという事に気付く。その彼の振る舞いをマリナは断罪するつもりは毛頭ない。
罪とは神の教えによって定められるもの。あるいは長き人の世の慣習から導き出されたもの。
だが、一人の人間の人生と正面から向き合った時、その行為の善悪を権威なき人の身で断じる事はただの傲慢である。例え、行為そのものが悪だとしても、その内心にいかなるものが秘められているかは、浅はかな人の知性では計り知れるものではない。
言葉を交わす事もなく、只、真っ直ぐに彼女は彼と向き合った。不意にアリウスがぽつりと呟いた。
「最後に一度だけ……、無礼をお許しください」
瞬間、ふわりと嗅ぎなれぬ匂いに包まれる。次いでしっかりと強く抱きしめられた。ほんの一瞬戸惑いの表情を浮かべたマリナだったが、そのなすがままに身を任せる。己の肢体を強く抱きしめる腕の強さに、その強い想いと無念が感じ取られた。
しばらくして、暖かな束縛から解放される。次いで耳元で彼は小さく囁いた。
「ありがとう、どうか、私の事はお忘れください」
己の内心を閉ざすかの如く目を閉じたその言葉に、マリナは無言で答えた。
特別な思いが彼にあった訳ではない。
だが、己に好意を堂々と示してくれたその彼に、今の彼女ができることは、何かないのかと思い馳せる。
浮かび上がったのは唯一つ――それは全てを失った彼にとって暖かな慰めとは程遠いものだった。
それでも――、と。
彼女は意を決し、口を開いた。
「神官長様、せめて最後に皆の者に、今後の道をお示しください」
苦楽を共にしてきた彼の仲間達に、きちんとけじめをつけろ、という厳しい言葉。それはこの神殿に暮らす者達と付き合いの短いマリナであるからこそ言える事だった。アリウスは一瞬、目を見張る。
「貴女は、本当に強く、優しい女性なのですね……。そしてそれ故に……」
マリナが答える事はなかった。胸の中に次々に沸き起こる感情の波を、気付かれぬように押さえつける事が精一杯だった
「ありがとう、マリナ様。貴女に出会えて……、ほんの僅かでしたが共に時を過ごす事ができて、私は本当に幸せでした」
いつも通りとは決していえぬが、僅かばかり神官長としての顔を取り戻した彼はそう言い残し、部屋を後にする。
開いた扉がそっと閉じられ、立ち去っていくアリウスの足音が遠ざかり、やがて消え去った時……。
一人ぽつりと取り残されたその一室で、マリナは己の中から湧き出した感情をついに抑えきれずに吐き出し、とめどなく溢れる涙とともにその場に崩れ落ちたのだった。
あの後――。
アリウスはマリナの言葉通りに苦楽を共にした神殿の者達と向かいあい、己を卑怯な咎人と位置付け、周囲の者たちにその処罰を求めたという。咎人を処罰すべき神官達は、誰も彼を拘束しようとはせず、アリウスは後事についての指示をいくつか残すと闇の中へ消え、そのまま行方をくらませたという。
それは冬の終わりに、希望に満ち溢れる《アテレスタ》の裏側で起きた、小さな無念の物語の一つである。
事実を知る者は皆、口を閉ざし、それぞれ違う空の下で、煩わしい日常の中に身を窶しているのだろう。今のマリナと同じように……。
人の集団が織りなすことで生まれる理不尽な歪みに、目を瞑り、耳を閉じて、そっとやり過ごす。それは、神殿という巨大な集団の中において責任ある立場に置かれる者の義務である。
胸の中に澱のようにたまる忸怩たる思いを溜息と共に吐き出して、彼女はのどかな日の光の差し込む窓から、よく知る中庭の光景に目をやった。見覚えのある植え込みの陰にちらほらと見え隠れする小さな二つの姿が目に入った。
――あらあら、今日はあんなところで悪巧みですか。
ふと、子供の頃を思い出し、悪戯っぽい笑みを浮かべたマリナは、そっと窓際を離れるのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
大神殿の中庭には、彩り豊かな春の花が咲き、ひらひらと舞う蝶がそこかしこで、求愛のダンスを踊っている。ひとえに寒い冬の間にひっそりと重ねられた庭師達の労力の賜物である。
《招春祭》前に丁寧に刈り込まれた植え込みの陰では、そのような裏方達の目立たぬ確かな仕事に、まだ気付く事もない幼い二人の子供達が、隠れるように座り込んで、互いを責め合っていた。
「どうして、決めた通りにできないのよ!」
「仕方ないよ。鍵の置き場が毎日変わってるなんて思いもしなかったんだから! 第一、先に調べておくのはお前の役目だろ」
「そんなのイイワケよ! リンキオウヘンができない奴をムノウっていうのよ!」
「なにを!」
すぐさま組んず解れずの取っ組み合いが始まる。だが、止める者のいないその場所では虚しいだけである。やがてそれにも飽きてしまった二人は互いに背を向けあい、すっかり黙りこんでしまった。
件の二人は、冬の半ばにこの大神殿にやってきた、札付き問題児の巫女見習いである。
その言語道断な悪戯ぶりに手を焼いたとある神殿が、新たな引き取り手を探して他の神殿と掛け合い、様々な協議を経て、ついにこの《ペネロペイヤ》へとやってきたのだった。
当初は二人を別々の場所に引き取り、引き離すことが考えられたという。しかし、悪戯を通して結びつきの強い二人を無理に引き離す事は、将来においての人格形成に大きな負の要素を与えかねない。それ故に、二人を引き離すことなく屈服させ、神殿という場所にその自らの居場所を見出させ、その一員としての責任を自覚させることこそが最良であると考えられ、白羽の矢が立ったのがこの《ペネロペイヤ》大神殿だった。
新天地を求めて意気揚々と現れた二人は、やってきたその日に、挨拶代わりとばかりに派手なイタズラを仕掛けようとした。
だが、あっさりと周囲の大人たちに看破され、何事もなかったかのようにすんなりと反省房へと放り込まれた。反省房連行最短記録を更新した瞬間である。
その借りを返さんと、以来、それまでに培った技術と経験の粋を駆使して、彼女達は大神殿の大人達に敢然と挑んだものの、その全てが何故か不発に終わった。
これまでとは全く勝手の違う状況に思いどおりの成果が挙げられず、いつもなら、余裕を浮かべた顔をくしゃくしゃにして怒るはずの大人たちに、逆ににこやかな笑顔で《反省房》へと放りこまれる日々が続いた。欲求不満だけが溜まりに溜まり、とうとう二人のチームワークにひびが入りかけていた。
――ここにいる大人達はタダモノじゃない!
言葉には出さずとも二人はうすうす気付いている。だが、それを認める事は、《悪戯士》として悪名をとどろかせた者としての誇りが許さない。これは少女達の存在意義とその尊厳をかけた闘いなのである。
とはいえ、状況は一向に改善すべき目処がたたない。戦況は不利そのものだった。
それもそのはず――。
数年前、この大神殿では、『暴風五姉妹』と呼ばれた恐るべき五人の巫女見習いの姉妹達と、その健やかな成長を見守る大人たちとの間で、悪戯を巡る仁義なき戦が勃発していた。
厳かな儀式の執り行われる大神殿の裏側では、両陣営の智略の限りを尽くした激しい攻防戦が繰り広げられ、その一部始終は伝説と化し、自称、神殿の語り部たちによって今もひそやかに語り継がれている。
大神殿の建物構造の裏の裏まで知り尽くした少女達の手にかかれば、厳粛な儀式の最中に、天井から信者のカツラを釣り竿で釣り上げる、程度のイタズラは朝飯前であり、その抜群のチームワークの良さにいいように翻弄された大人たちは、団結力なる言葉の真の意味を初めて理解した。以来、彼らも又、一致団結し、立ちはだかる脅威に敢然と立ち向かい、平穏な日常の防衛者としての戦いの日々を送ることになった。
長期に渡る幾つもの仕込みによる謀略戦が密やかに進行する裏側で、小柄な遊撃実行部隊の鮮やかな電撃戦が同時に展開されるという大胆不敵な二正面作戦に、大人たちは翻弄されつつも抵抗を重ねた。
だが、そんなある日の事、ついに一人の少女が神殿巫女となり、責任ある立場につくこととなった。
多くの先達が重んじてきた神殿の伝統を守護する一員となったことを彼女は自覚し、他の少女達もこれに倣い、大神殿に吹き荒れた大嵐はぴたりと収まり、危難はようやく過ぎ去った。
長く苦しい戦いについに終止符が打たれ、終戦と勝利を実感した大人たちはその夜、祝杯をあげ、神殿の酒蔵にあった酒を全て飲み干したという。
今、この神殿に携わる大人達は、その当時の修羅場を乗り越えてきた猛者達ばかりである。
退屈な日常の息抜きとばかりに、久々に現れた強敵の挑戦を嬉々として受け止め、何かと煩わしい事の多い日常の中で、暫し忘れかけていた団結力を再び蘇らせると、その全てを事前に見抜き、完封した。かつての『暴風五姉妹』がやり尽くしたあらゆる悪戯への対抗策を以てすれば、二人の少女の悪巧みなど物の数ではなかったのである。
丁寧に刈り込まれた植え込みの陰で、ついに喧嘩にも飽きて互いに不貞腐れて黙りこんでしまった少女達。と、その背後に突然一人の神殿巫女が現れた。
「あらあら、いけませんね。お二人とも。仲間割れなどしていては、良い悪戯はできませんよ」
予期せぬ大人の襲撃に、慌てて立ち上がろうとするものの身動きが取れない。見た目に似合わず頑丈な作りの見習い巫女服の裾を、現れたマリナにしっかりと抑えられていた。
「ひ、卑怯だぞ!」
「は、離せよ!」
悪戯によって培われた様々な攻撃術を得意とする二人であるが、それに反して防御面には脆さが多い。それを見抜いたマリナにより、更なる攻撃が加えられる。
「お二人とも、気を取り直して、お一ついかかですか?」
懐から取り出したのは紙に包まれた飴玉が三つ。
「い、いらないよ!」
「大人のホドコシなんて……、受けるもんか!」
言葉とは裏腹に、二人の視線は飴玉にくぎ付けである。だが、けっして手を伸ばそうとはしない。
二人の前に現れたのはつい最近、そのテリトリー内に現れた新たな要注意人物であり、二人が密かに警戒する只ならぬ大人リストの堂々上位にランクされる人物である。
警戒感をあらわにする彼女達ににこりと微笑み、マリナは二人の眼前で、飴玉を一つ頬張って見せる。
「まあ、美味しいこと……」
いつも粗末な神殿の食事に閉口し、なかなか縁のない甘いお菓子を目の前にして、多くの者を魅了する微笑みでそのような事を言われれば、少女達の心が揺れぬはずもない。包みを差し出したマリナが、わざと視線を逸らした隙に一人の少女が、次いで別の少女が、かっさらうようにそれを口に放りこんだ。
植え込みの陰で飴玉を口にした三人の間に、暫しの沈黙の時が流れる。
口の中の飴玉が消えてなくなる頃には、少女達の逃亡の意思も消え、三人は奇妙な連帯感に包まれていた。
――懐かしい場所ですね。
改めて周囲を見回したマリナはそのような感慨を抱く。
そこはマリナにとって大切な妹分と初めて出会った場所である。この場所から全てが始まったといっても過言ではない。
植え込みの高さは、子供の姿を十分に隠し、自分だけの場所を求める子供にとって一時の隠れ家となる。
神殿巫女となってからは決して近づかなかったこの場所を目ざとく見つけ、己の隠れ家とした頼もしい後輩達の行く末に大きく期待する。ふと、先程、己がこの場所を見下ろしていた窓を見上げたマリナは、そこに映ったなじみの人影に小さく微笑むと、二人の巫女見習いに尋ねた。
「お二人とも、もう仲直りは、出来そうですか?」
微笑むマリナの言葉に、互いに顔を合わせるものの、すぐさま目を逸らし合い、明後日の方角を向く。
「私は謝らないよ。悪いのはルッテだもん!」
「先に手を出したのはメモルじゃない!」
互いに平行線の主張をし合って押し黙る。間に立ったマリナは、そっと小さく微笑んだ。
「お二人とも、このようなお話をご存知ですか?」
二人に返事はない。ただその好奇心を刺激したらしく、明後日の方角を向いたままそわそわとした態度を見せる。マリナは気にせず語り始めた。
「むかしむかし、あるところに二人の仲の良い冒険者がいました。仲の良い二人はいつも一緒で、どんな困難な冒険でも力を合わせて乗り越えたそうです」
相変わらず背を向けあったまま、少女たちは聞き耳を立てる。
「でも、ある時、二人は些細なことで喧嘩になってしまいました。喧嘩は少しずつエスカレートし、互いに酷い言葉でお互いを傷つけあっていました。しばらくして、お互いに言いすぎた事に気づいたのですが、彼らはどうしても謝る事ができなかったのです。いつも余りに身近にいるからこそ、照れくさくて甘えてしまったのでしょうね……」
ゆったりとした語り口調のマリナの話に、少女たちはいつしか聞き入っている。
「それから、二人はしばらく口を利かぬ日々が続き、やがて、些細なアラを探しては互いにけなし合うようになってしまいました。互いを許しあえずに徒に過ぎた日々は、良かったはずの二人の仲を本当に壊し始めたのです。そして、ある日の事……」
マリナが僅かに息をひそめ、少女たちはごくりと唾を飲み込む。
「とある迷宮へ冒険に出かけた二人は、そこで危機に陥りました。一人の冒険者が危険な罠に踏み入りそうになった事に気づいたもう一人の冒険者は慌てて忠告しようとしました。でも、その時、彼はいつも自分に酷い事をいう相棒の言葉を思い出し、ためらってしまったのです。もし、今、彼を助けたとしても、帰ってくるのは、『ありがとう』という感謝の言葉ではなく、冷たい皮肉なんだろう。そう考えた彼の僅かなためらいによって、彼の相棒は罠にはまってしまったのです。これまでどんな困難も二人で仲よく乗り切ってきたはずなのに、一人ぼっちになってしまえば助け合えません。結局、二人とも、迷宮から帰ってくることはできませんでした」
「そんなぁー」
少女たちが落胆の声を上げる。
「『ごめんなさい』『いいよ、許してあげる』ただ、それだけの言葉を互いに言い合えなかったばかりに、二人は取り返しのつかない過ちを犯してしまったのですね。お二人とも、この話を聞いてどう思われますか?」
それは創世神殿に伝わる説話の一節を、少女達にも理解しやすいようにアレンジしたものである。マリナの目論見通り、二人の冒険者の姿に己の姿を重ねたのだろう。躊躇いながらも互いに目を合わせようと試みる。とはいえ、やはり照れくさいらしい。しばし、無言だった二人は、やがて、どちらともなく声をかけようとする。けれども……。
「えっとさ……、ルッテがどうしても謝りたいってんだったら、その……、許してあげてもいいよ!」
「どうしてさ? 謝るのはメモルのほうだろ。そしたらアタシは許してあげるから……」
「あらあら……」
それを皮切りに再び口喧嘩を始める二人の姿を、マリナは微笑んで見守る。
小さく狭い世界しか見えぬ子供達は、それゆえに幾度も同じ失敗を繰り返し続け、ある日突然、真理を理解し、成長する。たかが一度や、二度、有り難い話を聞いたくらいで心を入れ替える程、彼女達は殊勝な存在ではない。様々な失敗を重ね続ける彼女達が、気長にじっくりと周囲の多くの大人達に見守られるからこそ、いずれは、長く受け継がれてきた伝統やしきたりを受け継ぐ未来の後継者となりうるのである。
ふと遠くから、パタパタと駆け足の音がする。足音はそのまま一直線に三人の元へと向かっていた。
ガサガサと茂みを掻きわける音とともに現れたウサミミ神殿巫女の顔を目にして、二人の巫女見習いの顔が小さく引きつった。
「イリア姉ちゃん!」
「二人とも、こんな所にいたのですね。探しました。教導の時間はもうとっくに始まってますよ」
「そんな……、今日は姉ちゃんの担当じゃ、なかっただろう?」
「ダメですよ、二人とも。神殿巫女になる為に学ぶことはとても多いのです。常日頃からのたゆまぬ研鑽こそが明日の貴女達の糧となるのです」
エヘン、と発展途上の胸をしっかり張って、イリアは先達としての心構えを説き、件の少女たちはシュンと項垂れている。
冬の間、反省房に長く放りこまれ、夜毎に先輩巫女を呼びつけて身の回りの世話をさせていたイリアは、反省房の常連と化した二人にとって彼女たち以上の『ワル』であり、二人は一目、置いていた。
――いつも反省房にいるあの姉ちゃんは、きっと、何かとんでもなくヤバい人にちがいない。
巫女見習いの教導に初めてイリアが現れた時以来、彼女の教導がある時だけは、二人は必ず時間厳守で机について待っている。今日の教導には予め彼女がいない事を十分に調べた上でのサボリだったのだが、事態は二人の想定外の展開を迎えていた。
「それでは、二人とも、未来の神殿巫女を目指し、張り切って参りましょう!」
イリアがやってくる事を見越した上での、マリナの足止め策は功を奏し、問題児二人は、無事、本来いるべき場所へと連行されるようだ。五人姉妹の中で、いつも末の妹分扱いだったイリアにも、妹分と呼べる存在ができて嬉しいのだろう。二人を立ち上がらせると、その手をしっかり掴み、すたすたと歩き始める。
「ね、姉ちゃん、そっちは教導館じゃないよ」
少女達の小さな疑問に、振り向いたイリアはにこりと微笑んだ。
「何をするにもまず体力です。教導館に行く前にまずは鍛錬場にいくことにしましょう!」
少女達は暫し唖然とした後で、真っ青になる。
――コレハ、トテモ、マズイ、パターンダ……。
だが、選択の余地はない。
「知っていますか? 皆さんの先輩のとある神殿巫女は常に優雅さと微笑みを欠かすことはありません。そして又、別の先輩神殿巫女は、常に気合と根性で、日々の難局を乗り切っていらっしゃいます。そして……」
握った手を離し、片手を腰に当て、もう一方の人差し指を立てるとイリアは続けた。
「つい最近、私の友人となった方々はこう、おっしゃられました。困難なことの連続である人生を乗り越えるには、人はいつも楽しく明るくあらねばならないと……」
両手を腰に当て、胸をはると、イリアは少女たちに止めを刺す。
「これから神殿巫女として、『体力』と『微笑み』と『根性』と『明るさ』を同時に身につけるため、貴女方は、まず鍛錬場において、私と一緒に『笑顔での腕立て伏せ』です!」
「ひー」
「やだよ、そんなの!」
逃げ出そうとした二人の腕が素早くがっしりと捕まえられる。最近、身につけた《加速》をイリアが用いたのだが、少女たちには預かり知らぬことである。
「た、助けて……」
「へるぷ、みー」
つい先ほど飴玉の共犯者となった神殿巫女の存在を思い出し、その助力を得ようと、必死で振り返る。だが、二人の目に映ったのは非情な現実だった。
「まあまあ、イリア、すっかり神殿巫女らしくなって……」
そこにあったのは、幼い巫女見習い達の理不尽な犠牲の上に成り立つ、妹分の成長に目を細める姉巫女の姿だった。
「う、うらぎりもの……」
「オトナなんて……、ダイッキライだ!」
世界は自分達に都合よく回ってくれるものではない。世の無常をしっかり噛みしめつつ、少女達はついに観念する。
目の前の神殿巫女にだけは決して逆らってはならぬという、偶然から生まれた刷り込みが、その運命を決めた。項垂れる彼女達を連れ、意気揚々と鍛錬場に向かうイリアの背を、マリナは微笑みながら手を振って見送る。
それは――。
暖かな春の日差しに優しく照らされた、《ペネロペイヤ》のとある昼下がりの風景だった。
2013/10/19 初稿