10 ザックス、再び出会う!
ゆったりとした温もりある空気に包まれながらも、時折、チクリと針でつつかれる――言葉に表現しがたい時間を目の前の巫女の女性と過ごしていたザックスは、扉の向こうから兎耳の少女が現れるのを心のどこかで待ち望んでいた。やがて、パタパタと足音がして扉の向こうでぴたりと立ち止まる気配が感じられると、目の前の巫女は立ちあがってにこりと微笑み、別れを告げた。『どうぞ、ごゆっくり』と云う言葉と共に、軽やかに去っていく彼女が扉の向こうに消えてしばらくの後、顔を真っ赤にした少女がおずおずと部屋の中へと入り、ザックスの前に座った。
「あの……、お久しぶりです」
「ああ……、ご無沙汰……だな」
それきり互いに言葉はない。二人が再び言葉を交わすまでに、それからかなりの時間を要した。
「きょ、今日はどういったご用件でしょうか」
「《中級職》への転職を頼みたいんだが……」
「そ、それではクナ石を……、拝見させていただきます」
極めて事務的な言葉を選びながらも、石を渡す際に僅かに触れた互いの体温にどきりとする。マナLV24――エルシーが言った通りのその事実を静かに心の中で受け止める。
巫女達には裏技と呼ばれる表示以上のクナ石の情報を覗く方法が、代々口伝で伝えられている。様々なデリケートな問題を扱う為、この事実は決して巫女達から外部に洩らされる事は許されず、それを怠ったものには厳しい罰則が加えられる。
イリアのようなまだ経験の浅い巫女には伝えられていないこのやり方で、エルシーが彼女に伝えたのは、ザックスの異常な成長の数値にイリアを動揺させまいと考えたゆえ。その心遣いが理解できたからこそ、自身は神殿巫女であり、眼前の冒険者に不安を与えることなく、其の前途に等しく創世神の祝福を与えねばならない――その一心でイリアは己の役割に徹していた。
一つ深呼吸をした彼女はクナ石をザックスに返すと、格式ばった巫女の仮面をつけ、《転職》についての説明をはじめる。
「《中級職》は《初級職》に比べてその種類がはるかに増えます。一般に戦士の方は剣士、闘士、騎士に、詠唱士の方は魔術士、僧侶、魔法戦士に、技能士の方は盗賊、鍛冶士、その他様々な職に移ります。ただ、これらはあくまでも一般論であり、必ずしも確実にそうなるとは限りません」
「どういう事だ?」
「転職の際、これまで成長してきた冒険者の方々の各パラメータの値や特殊スキルなどによって変則的な転職がおこりうるという事です。たとえば戦士から魔法戦士へ、あるいは詠唱士から騎士へといった具合です」
「当然、それは冒険者の望み通りにならないってことだよな」
「はい、あくまでも創世神の御意志のままに……、という事です」
「分かった」
端的に、事務的に、それでいて丁寧に。
高鳴る胸の鼓動を無理やり押さえつける。
今の自分はとても怖い顔をしているのではないだろうか?――そんな不安をひた隠しにして、イリアは己の職務を全うする。
「経験値の寄進はいかがされますか」
「じゃあ、マナLV20までで……」
「分かりました。それではこちらに手を……」
言いかけてどきり、と心臓が音を立てた。その行為の先にあるものに自身の心は耐えられるのだろうか?
わずかに躊躇う彼女を救ったのはザックスの手だった。二人の傍らに置かれたケル石の結晶の上に彼が手をかざす。躊躇いながらもその手の甲にイリアは自身の手のひらを重ね合わせた。自身の手のひらよりもはるかに大きなそれに重ね合わせた時、不意に彼の方からよりしっかりと繋がりを求められたかのような錯覚を起こす。動揺する心を押さえつけ、呪文とともに精神を集中し、マナを活性化する。彼の体内のマナを自身のそれと同調させて解放する。
「お身体は大丈夫ですか」
「ん、ああ、なんか頭がすっきりした感じだな」
先日と全く同じやりとりがなされた後、クナ石を確認したザックスが小さく微笑んだ。どうして、こんな事で嬉しくなるのだろうか?――そんな想いがイリアの胸をよぎる。
「それではこれから洗礼に参ります。準備はよろしいでしょうか」
「あ、ああ……、そう……だったな」
躊躇いがちなザックスの言葉。
瞬間、それまで全てがスムーズに行われていた二人のやり取りに、小さな不協和音が生まれた。
「あの、どうか、なされましたか?」
どことなく煮え切らぬ彼の姿に、イリアの内心は大きく動揺する。
どこか、間違えたのだろうか? 彼を不快にさせてしまったのだろうか?――そんな焦りがイリアの心を大きく揺るがせた。
「あの、なにか落ち度があったなら、はっきり言って下さい!」
思わず強い言葉で内なる想いを吐露して、はっと我に返る。相手を決して不安にさせてはならない――そんな巫女の戒めを思わず破ってしまったのは、焦りゆえだった。
「ごめんなさい」
小さく呟いた。
――なんて愚かなんだろう。
己の間抜けさにいら立ちを覚え、同時に涙が浮かび上がりそうになる。だが、ここで泣いてはならない――そう少女は思い直した。それは甘えであり巫女の務めに対する冒涜である。ただ、その一心で歯を食いしばって溢れそうな想いを腹の底へと呑み込んだ。 そのようなイリアを救ったのは、ザックスの言葉だった。
「そうじゃないんだ。君のせいじゃない」
顔を上げたその先にあったのは、彼女を心配そうに見つめるザックスの少し困ったような顔だった。
「その、情けない話なんだが……、洗礼を受けるのが、実はちょっとばかり不安でね」
彼ぐらいの年齢ならば自分よりも年下の少女に弱さをみせてしまうのは恥ずかしいのだろう。だが、それでも言わざるを得ないほど不安なのだ、とイリアは理解した。
何をやっているのだろう、目の前で困っている彼の姿に気付かずに己の事ばかり考えている――そんな己に小さくダメ出しすると、彼女は気持ちを切り替えるきっかけを見出した。ザックスは語り続ける。
「オレ、どうもマナ酔いしやすい体質みたいでね」
「マナ酔い……ですか?」
「ああ、今はこいつのおかげで大きな問題はないんだけどね」
自身の額の額環を指さして彼は恥ずかしそうに語った。先日つけていなかったその額環にそんな意味があった事を理解した彼女は、彼が言わんとする事を瞬時に把握した。
「神聖水による影響が心配なのですね」
「ああ」
「大丈夫です。私が側にいます」
下心ない無心の言葉に、ザックスは顔を僅かに赤く染めた。
「その事なんだけど、いいのか?」
「えっ?」
「詳しくは分からないんだけど、あれはとても特別な行為なんだろう。君に迷惑をかけてしまってるんじゃないかって……」
ザックスとて馬鹿ではない。
エルメラの忠告が気になって、ここ数日酒場で知り合った冒険者達に何気なく『職』や洗礼について話を聞いているうちに、自分と彼女との行為が他のそれとは逸脱している事に彼は気付いた。
『場合によっちゃ、あんた、命を狙われることになりかねないよ……』
エルメラの言葉の意味をようやく理解して、ザックスはイリアに無理をさせてしまったのではないかと思ったのだった。
ああ、この人は気付いているんだ、とわずかに顔を赤らめたイリアは、恐る恐る尋ねた。
「あの、御迷惑だったでしょうか」
だが、その言葉にザックスはかぶりを振った。
「迷惑どころか、君にはとても感謝してる」
「感謝……ですか」
意外な言葉だった。
「あの時君が手をつないでいてくれたから……、君のぬくもりを感じ取れたから……、俺はマナの奔流の中で自分を見失わずにいられた。もしできる事なら……」
そういって僅かに顔を赤らめる。イリアは彼の望みを知った。
「大丈夫。私が貴方の側にいます。貴方を必ず守ります。だから安心して、大船に乗ったつもりで洗礼を受けてください」
言葉にした後でその内容に赤面する。
ずいぶんと大胆な事を口走ったような気がするが、些細な事は後で振り返ればよい。姉さま達にはあとで徹底的にからかわれるんだろうなと思いながらも、今は巫女として眼前の彼の為にできる事を全力で行うだけだった。
「行きましょう、貴方がこれから見出すであろう何かの為に、私にお手伝いさせてください」
以前にも彼女がそういった事を、彼も又覚えていたのであろう。
「前と同じだな」
そういってクスリと微笑みながら、差し伸べられたイリアの手をザックスはしっかりと握った。
二人の想いが確かに繋がった瞬間だった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
青白い輝きの神聖水が上階層から流れ落ちる。
同じように輝く泉の中で、ザックスとイリアは先日と全く同じように膝まで水につかって立っていた。水しぶきによって湿った薄手の洗礼着が、白磁のような滑らかな輝きのイリアの肌に張り付き、透ける様は神々しかった。先日の時のような不埒な妄想を思い浮かべることもなく、その美しい姿にザックスの心はただ圧倒された。
彼女は今、ザックスの腕をしっかりと両手でつかんで立っている。ザックスの腕に押し付けられた彼女の淡い胸のふくらみとあたたかなぬくもりが、彼の心に安らぎを与えていた。
「少しだけ待っていて下さい」
ザックスの腕から手を離し、滝の水を両手ですくい取って自身の口に含んだ。次いで、同様にザックスの口にそれを含ませると、再び彼の腕をとり、しっかりと己の胸にかき抱いた。
流れ落ちる滝の前でただ寄り添うように立っていた二人だったが、彼の腕をとったイリアは体内のマナを活性化させて神聖水を通じてザックスのそれに同調させていた。彼女の暖かな存在感がマナを通してザックスの中に流れ込んでくるような錯覚を覚える。
「行きましょう」
小さな微笑みと共にイリアは先に歩み出す。マナを同調させたことによる安心感からか、ザックスは自然に足を踏み出し、滝の中へ身を投じた。
瞬間、再び周囲は青い世界へと変貌した。
圧倒的な力の奔流だった。
攻撃的に――。
暴力的に――。
破壊的に――。
その世界にあるのは只、力のみ。溢れんばかりの力の奔流が重圧となって彼にのしかかる。
対する彼はその世界であまりにも儚げな存在だった。
全ての事象が揺らぎ続ける青い世界の真っただ中において、その存在は消滅寸前だった。
――ああ、オレは一人なのだ。
いや直に存在すら無くなって一人と数えることすらできなくなるだろう。
そう感じられるほどの圧倒的な意思が彼を襲った。
聞いた事のない強力な意思を持った言葉が力の塊となってぶつけられ、彼の存在をずたずたに切り裂いていく。
悪意も敵意も感じられない。
ただ力が力を呑み込むだけのあまりにも単純な図式の世界で、彼は今、確実に消え去ろうとしていた。
なにかに縋るべく、つい先ほどまで自身の手であったものを必死に伸ばそうとする。
ふと、その先に温かな懐かしいぬくもりを感じた。
僅かな記憶を頼りにそれを確かめる。それは徐々に形をなして彼を包んでゆく。
――ああ、オレは一人ではなかった。
思い出したのは少女の香りとぬくもり、そしてその言葉……。
それを手繰って、小さく輝く出口へと導かれる。そこから伸ばされた手を握って、青く揺れる世界を後にする。
『直にお前を喰らってやる。だから、しばらくそこで指を咥えて待ってるんだな』
薄れて行く意識の片隅で、彼はそんな物騒な言葉を聞いたような気がした……。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……様、ザックス様!」
ふと気づけば、泉の傍に彼は寝かされていた。目覚めて直ぐに視界に入ったのは、泣きそうな顔のイリアだった。
「大丈夫ですか、ザックス様」
「オレ、どうなった?」
「覚えておいでではないのですか?」
「ごめん……」
「あなたは真っ青になって滝から出られた後、私に支えられてここまでやってきて、横になられたのです」
「どのくらいだ?」
「ほんの僅かな時間です」
「本当に? ずいぶん長く違う場所にいたような気がするな」
起き上がろうとして強い目眩に襲われる。思わずうなり声を上げて頭を抱え込む。その姿にイリアは大きく動揺した。
「ごめんなさい。ごめんなさい。あんなに偉そうな事を言ったのに……。ちっともお役に立てなくて」
濡れた銀の髪と洗礼着を細身の姿態に張り付けた少女が、涙と共に詫びの言葉を口にする。ザックスは横になったまま傍らに座る少女のほっそりとした腰をやさしく抱いた。
「そんなことはないさ。君は十分にオレを助けてくれた。君が導いてくれたんだろ。だからオレは戻ってこれたんだ。自信を持っていい」
「ごめんなさい。もっとうまくできると思ったのに……」
「しかたないさ、あんなのはオレ達にはどうしようもないんだから。それよりもう少しだけこうしていてもいいかな?」
「はい、気休め程度ですが、貴方の身体のマナの流れを鎮めてみます」
彼女の手からぬくもりが溢れ、身体の中の熱がゆっくりと拡散する。心地良いその感触に身をまかせながら、ザックスは水にぬれたイリアの愛らしい顔立ちとそのほのかな胸のふくらみをうっすらと見上げていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
すでに日はどっぷりと暮れていた。
暗くなりすっかり人気のなくなった中庭を歩いて、二人は神殿の通用門に向かって並んで歩いていた。
決して触れず、それでいて離れない。そんな距離を保ちながら歩み続ける。
互いに言葉はなかった。
ただ静かに歩を進め、気付けば二人の前に年季の入った鉄製の小さな通用門が外部へと口を開いていた。
「それじゃ、今日はどうもありがとう」
「はい、あの……」
「ん?」
少しだけ心が近づいたような気がした眼前の彼に、イリアは僅かな願いを口にした。
「どうか、無茶はなさらないでください」
互いの視線が絡み合う。
それは小さなたった一つの願いだった。もし少女が願うなら今の自分はどんな事でもかなえようとするのではないか? 共に歩みながらそんな事を考えていたザックスだったが、彼女の言葉で夢が覚めた。
おそらく自分はその小さな願いすらかなえてあげる事はできないだろう。己の背負った物ゆえに。
己に被さる現実ゆえに生まれた迷いが、彼女の真摯な瞳から視線をそらさせた。
「分かった、そうするよ……」
背を向け、宵闇の中に歩みを進めた。消えて行くその背をイリアはただ見送るだけだった。立ち尽くす彼女の傍らにそっと一人の巫女の姿が現れた。
「マリナ姉さま」
言葉と同時にその豊かな胸に飛び込んだ。破裂したように泣きだす小さな妹分をマリナは優しく抱きしめた。
「嘘をつかせてしまいました……」
「そう……」
「胸がとても苦しいです。姉さま」
まだ幼い彼女の手に余る彼への想いだけでなく、敬愛し尊敬する姉巫女にすら語れぬ秘密を持った彼女は、その重さに苦しむことになるのだろう。激しく嗚咽する妹分を優しく抱きしめながら、マリナはもはや見える事はないだろう冒険者の背を闇の中に求めた。
――奇運は奇運を呼び寄せるというけれど……。
周囲から人払いしたうえで彼女は只一人、洗礼所の中で二人の起した奇跡を目の当たりにしていた。
二人が滝の中へと身を置いた瞬間、青白い水がさらに輝き、滝の中の二人の姿が一瞬大きく揺らいで消えた。神殿巫女としてこれまで何度も洗礼に立ち会ってきたが、そんな場面に出くわした事は一度たりとてない。彼女自身に経験はないが、正しい作法で行う最上級洗礼の場面に幾度か立ち会った際にも、それは人の手によってただ厳かに行われるだけの、神の奇跡とは程遠い行為だった。
奇異な運命を抱えた二人の行く末を案じながら、マリナは己の腕の中で泣きじゃくる妹分をただ黙って抱きしめていた。
2011/07/24 初稿
2013/11/23 改稿