第3話 恥ずかしそうな、その顔がすきだ。
期間限定の恋人という肩書きは、始めてみると想像以上に面倒だった。朝のあいさつ一つで店先の魚屋が口笛を吹き、荷を受け取るだけで隣の乾物屋が「手、つながなくていいの?」と茶々を入れる。
「トラモアの人たち、そんなに暇なんでしょうか」
「港が平和な証拠です」
「あなた、そういうところだけ妙に前向きですね」
夕凪染房の裏庭で、ルラとアルカディウスは“それらしく見える振る舞い”の練習をしていた。提案したのはボンカである。
「並んで歩くときの距離が他人なのよ」
「他人ですし」
「今だけ恋人! 設定を守って!」
ボンカに腕組みを強要され、ルラは耳まで赤くなった。アルカディウスも普段の落ち着きをどこかへ落としてきたようで、視線がやたらと空を泳ぐ。
「もっと自然に」
「これ以上近いと、歩きにくいです」
「恋人って歩きにくいものなの?」
「知りません」
「知らないで引き受けたんですか」
「店を守るためです」
そう答えた声が少し硬くて、ルラは可笑しくなった。つい肩が揺れた瞬間、腕が触れ合い、ふたりとも同時に黙る。そんな空気を面白がるために生まれてきたみたいな顔で、ボンカはにやにやしていた。
「はい次。見つめ合って」
「却下」
「即答しないで」
「必要性が見当たりません」
「町の人は見るわよ?」
「見せ物じゃないんですけど」
ぶつぶつ言いながら、ルラはしぶしぶ顔を上げた。目の前にあるのは、整った顔立ちなのに妙なところで不器用な男の、落ち着かない視線だった。真面目な人が照れると、こんなにも行き場がなくなるのかと、少しだけおかしくなる。
「……そんなに見られると困ります」
「見ろと言ったのはボンカでしょう」
「その通り!」
言い返しかけたルラが、ふっと視線を落とした。頬が赤い。照れたときの彼女は、視線を伏せるくせに、口もとだけは少しやわらかくなる。
その瞬間、アルカディウスの口から、考えるより先に言葉が滑った。
「恥ずかしそうな、その顔がすきだ」
潮風が止まったような静けさが落ちた。
「……え?」
「いえ、違います、違うわけではありませんが、今のは、その、見た目の話で」
「見た目の話でも充分だめですよ!」
「申し訳ありません」
「謝ると余計に変です!」
慌てたルラが手もとを誤り、染料の小瓶を落とした。ぱしゃり、と石畳に藍が飛び散る。ふたり同時にしゃがみ込み、額がぶつかりそうになってまた離れる。その一連を見て、ボンカは膝を叩いて笑い転げた。
「もうそれでいいよ! 練習しなくても本物より本物っぽい!」
夕方、練習を切り上げたあとも、ルラの耳は赤いままだった。アルカディウスは帳場の端で伝票を揃えながら、何度も同じ紙の順番を入れ替えている。
「……さっきの、忘れてください」
「無理です」
「でしょうね」
「あなたは、ああいうことを急に言う人ではないと思っていました」
「私もそう思っていました」
ルラは戸口に掛けた布を直しながら、ふいに小さく笑った。
「でも、すきと言われて嫌ではありませんでした」
「それは……」
「ただし、次は心臓に悪くない言い方でお願いします」
背を向けたままの彼女の首すじまで赤くて、アルカディウスは返事を失った。たった一言が、染料のように胸の奥へ落ちる。乾けば消えると思ったのに、むしろ時間がたつほど色を深くしていくのだと、その日のふたりはまだ知らなかった。




