第2話 彼氏記念日、まさかの発生
保留の知らせから三日後、夕凪染房に不似合いなほど艶のある馬車が止まった。扉から降りてきたのは、大手海運商会の視察役と名乗る男で、靴の泥一つ気にせず店の中へ入ってきた。
「率直に申しますと、この立地で小さな染物屋を続けるのは無理があります。商会が買い取り、倉庫に建て替えれば、あなたにも悪い話ではありません」
言い方は丁寧でも、視線には相手の返事を待つ気がなかった。染め上がった布を見ても色のことなど興味がないらしく、ただ壁の寸法と搬入口の位置ばかりを見ている。
ルラは桶の火加減を落とし、静かに答えた。
「売るつもりはありません」
「感情で商売はできませんよ」
「ここで布を受け取る人たちは、感情で生きています」
男が笑った。侮る笑いだった。
「でしたら、あなたも誰か有力な後ろ盾でもお作りになることです。恋人でも夫でも。独りで店を抱えるには、少々心細いでしょう」
そのとき、背後の戸が開いた。帳面と封筒を抱えたアルカディウスが、ちょうど配達の確認に来たところだった。視察役は彼の身なりを見るなり、態度を少しだけ改めた。
「おや、ギルドの方でしたか」
「寅印港町交易ギルド、調整係のアルカディウスです。こちらで何を」
「将来の相談ですよ。もっと効率の良い形を――」
ルラの顔色を見た瞬間、アルカディウスの中で何かが決まった。彼は視察役の言葉を最後まで聞かず、ルラの隣へ立った。
「彼女は私の大切な人です。店の扱いについては、今後、私を通してください」
店内が静まり返った。
言った本人がいちばん驚いていた。ルラは瞬きを忘れ、視察役は一拍遅れて「ああ、そうでしたか」と薄く笑った。だが、さすがにそれ以上の押し込みはできず、名刺だけ置いて退いた。
問題は、そのあとだった。
向かいの茶屋兼湯屋から一部始終を見ていたボンカが、夕方までに港町の半分へ話を広めたのである。
「聞いた? 夕凪染房のルラちゃんに、ギルドの堅物さんが『大切な人です』って!」
「しかもあの顔、半分本気だったよ」
「今度の彼氏記念日、絶対なにかあるって!」
港町トラモアには、交際を始めた日に布を贈り合う妙な風習がある。古い船乗り言葉の名残らしく、なぜかその日を皆「彼氏記念日」と呼ぶ。恋人に限らず、大切な相手へ布を渡す口実にもなっていて、祝う理由さえあれば商いの種になる。
そしてボンカは、その種に豪快に水をやった。
「夕凪染房、彼氏記念日用の記念染布、予約受付中!」
「受け付けてません!」
「今から受け付けるの!」
叫ぶルラの前で、茶屋の客たちは面白がって注文を書き込んでいく。港の若い船員は恋人に、魚屋の女将は亭主に、隣家の老夫婦は五十年目の贈り物に。ひどく雑な始まりだったのに、気づけば帳面が埋まり始めていた。
アルカディウスは額に手を当てたまま、しばらく黙っていた。やがて顔を上げる。
「……この注文、試験販売として扱えます」
「は?」
「冬の大市まで継続できれば、夕凪染房の売上実績になります。審査猶予を取れるかもしれません」
「でも、恋人のふりを前提にした売り方ですよ」
「店が残るなら、一時の体裁くらい」
「その一時がいちばん厄介なんですけど」
ルラがむくれる横で、ボンカは腹を抱えて笑った。
「やるしかないでしょ。どうせもう町じゅう、付き合ってるって思ってるんだから」
夕暮れが店先の布を赤く染める。アルカディウスは真面目な顔のまま、少しだけ声を落とした。
「冬の大市までです。店を守るための、期間限定です」
「……その言い方だと、契約書みたいです」
「感情より先に条件を整える癖がありまして」
「知っています」
ルラは深く息を吐き、染料の匂いの中で小さく頷いた。
「わかりました。冬の大市まで。恋人のふり、引き受けます」
「ありがとうございます」
「ただし、変な芝居はしないでください」
「善処します」
「今の間で、ぜんぜん善処できないってわかりました」
ボンカの笑い声が、店先の布を揺らした。こうして始まったのは、恋ではなく存続のための約束だった。けれどその約束は、ふたりが思うよりずっと深いところへ、静かに染み込んでいくことになる。




