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この日々を愛と呼ぼう 寅印港町交易ギルドとオレンジ色の染布帖  作者: 乾為天女


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第1話 契約更新は見送りです

 初秋の潮風は、夏の名残を抱えたまま、港町トラモアの路地に乾いた塩気を残していた。夕凪染房の軒先では、洗い上げた布がやわらかく揺れ、橙、藍、灰桜の色が朝の光を細く返している。


 その布の下をくぐってきた男は、戸口の前で一度だけ呼吸を整えた。寅印港町交易ギルドの調整係、アルカディウス。きちんと磨かれた靴先に海砂が一粒つくのも気にするような身なりなのに、彼の目だけは、ここへ来る前から少し曇っていた。


 「ルラさん。契約更新の件で、正式な通達をお持ちしました」


 染め桶のそばにいたルラは、手をぬるま湯で流し、布巾で指先を拭いてから封書を受け取った。封を切る手つきは落ち着いていたが、文面を目で追った瞬間、まつげがわずかに震えた。


 「冬前の更新審査は、保留……ですか」

 「はい。区画整理に伴う再査定という名目です。ただ、実際には売上と回転率を見られています」


 アルカディウスの言葉には無駄がなかった。余計な飾りがないぶん、薄紙みたいな冷たさがあった。だが、彼自身がその冷たさを好んでいないことも、ルラにはわかった。


 「つまり、ここを残す理由が弱い、と」

 「帳票の上では、そう見られています」


 店の奥から、幼い笑い声が聞こえた。近所の子どもが二人、ほころびた上着を抱えて待っている。祖父の仕事着を染め直してほしいと、昨日頼みに来た兄妹だ。ルラはアルカディウスに一礼すると、「少しだけ」と言って奥へ引っ込んだ。


 アルカディウスは帰るつもりで半歩下がったが、そこで足を止めた。戸の隙間から見えたのは、売り物ではない古着を、丁寧に補修しながら染め直すルラの姿だった。兄の袖口を揃え、妹の襟もとに余った糸で小さな波模様を入れる。代金を払おうとした子どもに、ルラは首を振って笑った。


 「今度、浜で貝を拾ったら見せて。きれいな色の参考になるから」


 兄妹は顔を見合わせ、宝物を授かったように頷いた。


 数字だけでは切れないものがある。


 その言葉は、誰に聞かせるでもなく、アルカディウスの胸の内に落ちた。彼は書面を渡す役目を果たしただけのはずだった。それなのに、店先の布の色が、さっきより重く見えた。


 帰り際、ルラが戸口まで見送りに出る。


 「通達を持ってくるのは、気持ちのいい仕事ではなかったでしょう」

 「……わかりますか」

 「顔に書いてありました」

 「私は、そんなにわかりやすいでしょうか」

 「少しだけ」


 彼女はそう言って、ほんの少し笑った。強がりを混ぜた笑みだった。店を失えば、自分だけではなく、ここに出入りする年寄りや子どもたちの居場所も薄くなる。そのことを、彼女はもう計算している顔だった。


 アルカディウスは帽子を取り、深く一礼した。


 「冬までに、数字の上でも残す理由を作れれば、話は変わります」

 「なら、まだ終わりではありませんね」

 「はい。終わりではありません」


 店を出て坂を下りながら、アルカディウスは何度も振り返りそうになる自分を抑えた。潮の匂いの中に、染料を煮る甘い香りが混ざる。その小さな店が、帳簿の一行で消されていいはずがないと、彼はもう思い始めていた。



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