第3回
3
僕たちは廃病院の中を当てもなく歩く。
廃病院とは言え、あたりに散らばる医療機器や車椅子、ひっくり返されたゴミ箱を除けば綺麗なものだ。
うっすら見える足跡は果たして参加者のものか、それともかつてここに居たものの痕跡か。
そんななか、プロムナードを抜けて西棟に向かい、動かないエスカレーターを2階まで上がったときのことだった。
タタタタッ――
目の前を左右に伸びる廊下の右側から、こちらに向かって駆けてくる足音が聞こえてきたのである。
僕は拳銃を構え、美月とともにエスカレーターの陰に身を潜める。息を抑え、なるべく音を立てないように注意を払う僕らに、荒々しい息遣いがだんだんと近づいてきた。
警戒しながらその息遣いの主を伺い見れば、1組の男女が何かから逃れるようにこちらに向かって走ってくるのが見えた。
殺人者から逃げているのだろうか、と拳銃のセーフティーを確認し、目を細めて彼らの後ろを注視してみれば――
『……っ!』
その瞬間、僕は思わず目を見張った。
美月の息を飲む声が一瞬聴こえる。
そこには腕が二対、脚が二対の蜘蛛のような医者と思しき上半身の化け物の姿があったのである。
下半身は完全に蜘蛛と同化しており、まるで妖怪である絡新婦を、狂気を帯びた禿げた医者と化したような姿だ。
目を大きく剥き出して笑い声をあげながら、その二対の手にはそれぞれ注射器やメス、医療用のドリルなどを握り締め、ねっとりとした体液を撒き散らせながら迫り来ている。
そんな化け物から全力疾走で逃げてくる男と女は、もはや叫ぶことすらできないほどに必死の形相を浮かべ、僕らの姿に気付くことなく目の前を駆け抜けていった。
僕はその瞬間、先ほどアプリで見た参加者のリストから、そのふたりが神辺ゆかり、下崎紀夫のふたりだと理解する。
そのふたりの後ろをドタドタと追いかけていた蜘蛛医者が通り過ぎるのを待つべく、僕は美月に、絶対に声や音を出さないように口元に人指し指を立ててそれを示した。
美月も緊張したような、引き攣ったような表情でこくりと頷く。
やがて僕らの目の前を蜘蛛医者が駆け抜けていこうとした――そのときだった。
蜘蛛医者が突如ピタリとその動きを止め、ギロリとこちらに顔を向けてきたのである。
「――っ!」
目が合った、と思った瞬間、そいつは狂喜の叫び声をあげたかと思うや否や、医療器具を手にした四本の腕を大きく振りかざし、僕らに向かって襲い掛かってきた。
僕は銃を構え、迷わずトリガーを引いた。
――パンッ! パンッ!
その反動に耐えながら二発撃ちこめば、的がデカいぶん、僕の放った弾丸は見事に蜘蛛医者の胸部を貫き、どす黒い血が辺りに飛び散った。
蜘蛛医者の勢いが急に弱まり、苦悶の叫び声とともに、その不気味な身体が左右に揺らめく。
「今のうちに逃げよう、美月!」
「――あ、あぁ……う、うん!」
恐怖に怯える美月の手を強く掴んで、僕は再び階下へ向かってエスカレーターを駆け下った。
その後ろから、蜘蛛医者が再び態勢を立て直し、こちらに向かって駆け出す地響きが伝わってくる。
「ど、どうするのっ?」
そんなこと聞かれたって、僕にも解るはずがない。
確かに篠原さんは「殺人者だけが敵とは限らない」と言っていたけど、あんな化け物が出てくるだなんて思ってもいなかった。
昨日の密林のステージにも偃月刀を手に襲い掛かってくる竜人たちが現れたけれども、さすがにこれはシャレにならない。
「と、とにかく、どこかに隠れてやり過ごさないと……!」
「どこかって、どこにっ……?」
僕らはそのまま西棟から再びプロムナードを抜けて、東棟に駆け抜ける。
背後からは設備を蹴散らしながら絶叫し、追いかけ続けてくる蜘蛛医者の足音が迫っていた。
僕は背後に向かって銃口を向け、狙いを定めることなく二発、発砲する。
――パンッ! パンッ!
それが蜘蛛医者に当たったか否かなんて確認することなく、今度は東棟のエスカレーターを駆け上がった。
「ま、待って――息――息が、息が――」
美月の苦し気な声が後ろから聞こえて、握った手がずんと重くなった。
見れば、美月が顔を真っ青にしながら、今にも窒息してしまいそうなほど過呼吸になっている。
さらに後方に視線をやれば、身体中からどす黒い血を撒き散らして追いかけてくる蜘蛛医者の姿もあった。
しかし、その速度は確実に遅くなっており、僕の放った弾丸が奴の動きを鈍らせているのが見てとれた。
僕はすぐ手近にあったスライドドアに手をかけ、そこに駆けこんで急いでドアを閉める。
そのドアの向こう側は両側に十ほどの扉が並んでおり、それぞれに診察室1から10まで数字が振られていた。
そのうちの診察室8のドアに手をかけて一気に開くと、そこにはベッドとふたつの事務机があり、机の上には診断書と壊れたパソコンが置かれていた。
僕らはそこに身を潜めるとドアを閉め、息をひそめる。
美月は僕の隣で胸を押さえながら、何とか息を整えようと必死だった。
そんな僕らの耳に、ドタドタドタッと遠くからあの蜘蛛医者の足音が近づいてきて――かと思えば、僕らを完全に見失ったらしく、そのままどこか遠くへとその足音は消え去っていったのだった。
僕はそれを、耳を澄ませていま一度確認してから、
「――大丈夫? 美月」
美月は、はぁはぁ、ふぅふぅと静かに何度も息を吐いては吸ってを繰り返し、やがて顔色も落ち着いてきた頃、長い息を吐いてから、申し訳なさそうな声で、
「――うん、大丈夫。ごめんね」
それに対して、僕は左右に首を振る。
「気にしないで。僕も、ごめん。こんなに走らせちゃって」
「なんで謝るの? 悠真くんのせいじゃないでしょ?」
「それは――そうかも知れないけど……」
少なくとも、他に方法があった気もする。あそこに隠れるんじゃなくて、いっそ足音が近づいていた時点で引き返しておけば、こんなことにはならなかったのではないか、と。
けど、そんなものは結果論でしかない。
だから僕は、できるだけ笑顔で「そうだね」と微笑んだ。
美月も笑顔で頷いて、それから口元に指先を当てながら、
「それにしてもあれ、いったいなんだったのかな……? お医者さんみたいな姿だったけど、完全にモンスターだったよ?」
「何かのゲームか、それとも映画のクリーチャーか。何にしても、殺人者の記憶や過去に由来する何かではあるんだろうけど……」
しかし、今この時点でそれが何なのか、考えたって解るはずもない。
「とにかく、もう一度あのふたりを、神辺ゆかりと下崎紀夫を探し出して、接触してみたほうがいいかも知れない」
何か情報が欲しい。あのクリーチャーが何なのか、誰が殺人者なのか、考えるのはそれからだ。
僕の言葉に、美月は少しばかり考えてから、
「……うん、そうだね」
こくりと小さく、頷いたのだった。




