Prologue.0
エンジン音が低く唸っている。
夜間飛行の機内は薄暗い。通路側の非常灯だけが青白く光を落として、乗客の大半は既に眠りについている。
私は手元のコンパクト聖書をペラペラとめくっていた。革張りの表紙は使い込まれて角が丸くなっている。私のものではない。
——これ、持ってきなよ。デンマーク行くんでしょ? キリスト教圏なんだから。
やけに物知りな先輩の顔が浮かぶ。研究室で隣の席に座っている女で、頼んでもいないのに世話を焼いてくる類の人間だ。こちらが断っても「いいからいいから」と押しつけてくる。猫が人間になったらこうなるのかもしれない、と思うほどの図々しさ。その図々しさだけは、少しだけ尊敬できた。
特段プロテスタントでもないんだけどな、と思いながら、私は敬虔な人のように振る舞って聖書を受け取った。断る方が面倒だったからだ。
カートを押すCAが通路を進んでくる。
「お飲み物はいかがですか」
マスク越しの声。目元だけが見える。その目元が、一瞬だけ私の顔で止まった気がした。
「水を」
「かしこまりました」
紙コップを受け取る。CAの指先が、私の手に触れないよう微かに引かれたのは、気のせいだろうか。
自意識過剰だと思いたい。思いたいが、視線がやけに痛い。三列前の白人の男が、こちらを見て何か囁いた。隣の女が頷いて、二人とも目を逸らした。
アジア人。ウイルス。マスク。
言葉にされなくても、空気で分かる。
ふぅ、と息をついて、水を飲んだ。
冷たい水が喉を通っていく。機内は乾燥している。肌が突っ張る。
紙コップを畳んでポケットに押し込もうとした時、指先に固いものが触れた。
「あぁ、そっか。そうだった」
声に出していた。隣の席は空いている。誰にも聞こえていない。
私はその固いものを取り出さず、指先で輪郭をなぞった。小さな金属。鍵の形。
聖書に目を落とす。ペラペラとページをめくって、目当ての箇所を探した。ゴルゴダの丘。イエスの処刑。先輩が「ここは読んどいた方がいいよ」と付箋を貼っていた箇所。
ルカによる福音書、第二十三章。
『「されこうべ」と呼ばれている場所に着くと、そこで人々はイエスを十字架につけた。また、犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。』
『そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」』
ー自分が何をしているのか分からないー
その一節で、目が止まった。
『民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」』
『兵士たちもイエスに近寄り、酢いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」』
『イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。』
札。
烙印。
レッテル。
ページをめくる。指先が少し震えていた。
『十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」』
『すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」』
『そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。』
『するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。』
ー何も悪いことをしていないー
その言葉が、胸に刺さった。
ページをさらにめくる。イエスの死。
『既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。』
『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。』
聖書を閉じた。
目を閉じる。エンジン音だけが響いている。
stigmate。
聖痕。
十字架に磔にされた時の釘の跡。聖人の体に現れるという、神聖な傷。
先輩は「stigmaって元々はギリシャ語で『刺し傷』とか『烙印』って意味なんだよ」と言っていた。「聖痕って訳されるけど、本当は焼き印みたいなニュアンスなの。奴隷とか家畜につける印。所有の証。逃げられないようにするための傷」
逃げられないようにするための傷。
ポケットの中の鍵に、また指が触れる。
小さくて、冷たくて、固い。
「……彼女がそこに居た意味だったかのかな」
陰謀論のようなことを、私は思っていた。
一九九五年。地下鉄サリン事件。
彼女はそこにいた。私はそこにいなかった。
それだけのことが、彼女に傷を刻んだ。stigmate。聖痕。選ばれたわけでも、試されたわけでもない。ただ、そこにいただけで押された烙印。
私は今、彼女の「鍵」を固いものとして持っている。
これからの話は、誰も聞いてこれなかった。
私も気づいているわけではない。
ただ、その場所にいて、ただ、彼女と未来会うことになっていた。
それだけだ。
聖書をもう一度開く。
さっきとは違う箇所。創世記。先輩が「ここも面白いよ」と言っていた箇所。
『主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」』
ー弟の番人でしょうかー
私は彼女の番人でしょうか。
答えは出ない。出す必要もない。
私はただ、この鍵を持っている。彼女がかつて水の底に沈めた鍵を。
窓の外を見る。
夜の闇。雲。何も見えない。
どこかに海があるはずだ。灰色の、冷たい、北の海が。
私はこの鍵を、そこに沈めに行く。
彼女の傷を、彼女だけのものにしないために。
新しい「少女」を生まないための、祈りとして。
約束の鍵として。
機内アナウンスが流れる。
着陸まで、あと一時間。
私は聖書を閉じて、目を閉じた。
エンジン音だけが、低く唸り続けていた




