9.今日も明日も、私たちは生きていく。
「ありがとうございました!」
「また次回、お待ちしてますね」
外来最後の患者を見送り、深く息を吐いた。必要な入力を終えて支度を整え、診察室を出ると、廊下のざわめきが少し遠くなったように感じられた。今日は大きな問題はなく終わりそうだ。
「お疲れ」
声をかけてきた同期は、医局の入り口に立っていた。手には無造作に持ったコーヒーが二つ。
「もう終わりか」
「うん。今日はね」
受け取ったコーヒーは少しぬるかった。それでも、以前より苦く感じない。世間的にはもう十分大人なのに、ふと「大人になったな」と思う瞬間がある。そんな感覚だった。
「……元気そうだな」
独り言のようなその言葉に、一瞬考えてから答える。
「元気っていうより……ようやく立てた、って感じかな」
同期はそれ以上何も聞かなかった。ただ、安心したように「そうか」と頷く。
窓の外では、夕暮れが病院の壁をゆっくりと染めていた。白衣を脱ぎ、チームに声をかけながら帰り支度を進める。私には帰る場所がある。もう、それを疑わずにいられた。
「お待たせ」
「お疲れ様。今日は定時で上がれたんだね」
「穏やかだったからね。夜は少し忙しくなりそうだけど。」
首を傾げた彼に、スマホを見せる。画面いっぱいに映る、丸い満月。
「これって本当なの?」
「迷信かと思いきや、ね」
シートベルトをつけたのを確認して、彼は静かに車を走らせた。景色を眺めながら、たわいない会話が車内を満たしていく。夕暮れに染まった空のグラデーションが綺麗で、自然と目が癒されていくのを感じた。
「そういえば、荷物の受け取りありがとう」
「いーえ。ちょうど出社の予定もなかったし」
「全部届いた?」
「うん、ばっちり」
以前、アパートへ向かったときのように、ナビの案内はもう動いていない。それでも、ハンドルを握る彼の手に迷いはなく、私もそれを自然に受け入れていた。そう、今日からまた、帰る場所は一緒になる。
エレベーターに乗り、中階層より少し下で扉が開く。ひとつしかないドアへ向かい、久しぶりに手元へ戻ってきたカードキーを、迷いなくかざした。
一歩踏み入れると、ふわりと懐かしい香りが鼻をくすぐる。お気に入りのルームフレグランスだ。いつもこれを買い替えていた。瓶の中で揺れる液体は、私が家を出たときよりも減っている。私がいない間も、使っていたのだろう。
「沙織」
「うん?」
「おかえりなさい」
「さおちゃん」と呼ばれることはなかった。それは、あの頃の彼だけの呼び方だった。あの日々を共に重ねた彼のもの。今の彼は、「沙織」を選んだ。
「……ただいま」
真也も、おかえりなさい。
……うん、ただいま。
久しぶりに帰ってきた場所は、あの頃と変わらず、そこにあった。
「やっぱり、ここだったんだ」
「え?」
気配を感じて顔を上げると、真也が微笑んでこちらを見ていた。意味が掴めず声を返すと、彼の視線が私の手元へ落ちる。そこには、子どもたちがいた。
「事故のあと、初めてここに帰ってきたときさ。変な感じがしたんだよね。何かが足りないって」
「私の荷物がなかったから?」
「それもある。でもね、特にここ。他の場所には物が置いてあるのに、ここだけ何もなかった。変だなって」
長い指が、そっと写真を撫でる。目尻を下げたその瞳は、愛おしむようで。記憶がなくても、彼がこの瞳を向けてくれることに、私は何度も安堵する。
「それにさ」
彼は続けた。
「ここが一番、日当たりがいい場所だから。日向ぼっこ、できるじゃん」
『ここにしよう。リビングにいるとき、必ず目に入るし。なにより一番、日当たりがいいから。この子たちも日向ぼっこできるでしょ』
記憶を失って、あの頃の彼がいなくなったとしても、本質的なものは失われていなかった。
彼は変わらず、そこにいる。
最後まで日の光に当たることのなかったこの子たちに向けられた言葉も、瞳も、温もりも変わらない。
傷はこれからも癒えないし、消えることもない。それでも私は今日も崩れずに、愛しい人に支えられながら、自分の足で立っている。それで十分だ。そんな私を、彼は選んでくれたのだから。
「さ、ご飯食べよ〜」
「うん。支度ありがとう」
食卓に並ぶ、肉じゃがと卵焼き、白米にお味噌汁。いい香りにつられて、思わずお腹が鳴った。今日は穏やかだったとはいえ、昼食から随分時間が空いている。お茶碗には、ご飯がしっかりと盛られていた。もちろん、真也のも。
向かい合って座り、自然と目が合い、そして声が重なった。
「「いただきます。」」
どれだけ日々が辛くても、食べて、眠って、朝を迎える。
それを二人で、繰り返していこう。
二人で、時間を重ねていこう。
だって私たちが、それを選んだから。
衝動的に書いたので、拙い文章でしたが、最後まで読んでくださりありがとうございました!




