8.今までとこれから。
「久しぶり」
「……久しぶり」
「なかなか連絡できなくてごめんね」
「ううん。大きなプロジェクトがあったんでしょ」
場所は病院の脇ーー車の中ではなく、アパートの小さな玄関だった。小さな扉には不釣り合いな、大きな体が目の前に立っている。
「上がっても?」
「……うん、どうぞ」
頭を少し下げてドアを潜る彼。今まで決して入れなかった存在が、私の生活に混じった。
普段、人を招くことがないから、スリッパなんてものはない。靴下のまま上がってもらい、目的の場所へ案内する。案内なんて言えるほどの広さでもないけれど。
「……これが」
「うん。写真と、母子手帳。あと、スタイ」
棚の上には、縦に並べて飾られた二枚の写真と、二つのスタイ。
「母子手帳は一冊だけなの。最初の子は最初の診察で心拍が確認できなかったから」
だから、写真とスタイだけ。写真はどうしてもと頼み込んで貰った。
「本当は、もっと用意してた洋服とかグッズもあったんだけどね……見るのが苦しくて、処分しちゃった。でも、何も残さないのは違う気がして。貴方が用意してくれたものだから。愛だから」
二枚の黄色いスタイ。デザインは違う。
黄色なのは、性別がまだ分からなかったから。どちらが生まれてきてもいいように。彼が、あの子たちのことを考えて選んだものだ。どうしても、これだけは手放せなかった。
「戸籍にも、正式な記録にも残らなくても、この子たちが“いた”ことは事実だって。少しでも証拠を残したかったのかもしれない」
「ありがとう」
思いもしなかった言葉に、心が揺れる。
彼は黙ったまま、棚の上を見つめ続けていた。
「ありがとう。俺の分まで、この子たちがいた証を守ってくれて。忘れてしまって、ごめん……ごめん」
最初の「ごめん」は私に。
最後の「ごめん」はきっと、目の前の子たちに。
こんな、ひとりよがりな私のエゴみたいな証拠を、「ありがとう」なんて言われるなんて。
「……会いに来てくれて、ありがとう」
「会わせてくれて、ありがとう。……この部屋に俺を入れなかったのは、見せないためでしょ?」
「うん。バレるわけにはいかなかったから」
「見事に、気づかなかった」
ふふ。
ここで二人で笑い合うのは、おかしいのかもしれない。それでも、どこか温かい空気が流れていた。
「これ」
そっと机に置いたのは、一枚の用紙。
小野さんから返ってきた、あとは彼の欄を埋めるだけの離婚届。
「何度も人伝いにお願いしてごめん。本当は、私たちで決着をつけるべきだったのに」
「そうだね。でも、その状況を作ったのは俺だ」
「その状況から逃げたのは私。甘えたのも、私」
静寂が落ちる前に、「だからね」と切り出した。
「これは、私が出しに行く」
「出させない」
え――。
軽い音が部屋に響いた。
次の瞬間、あれほど重く感じていた紙は、真っ二つになっていた。
「……ええ?せ、せっかく書いたのに……!」
「ごめんね。でもほら、見て。綺麗に切れたでしょ」
「綺麗な真っ二つ……」
きらきらした笑顔に、思わず頭を抱える。
この男、やりやがった。迷いもなく。
「俺さ、記憶を失ってから、前の記憶をあまり気に留めなかったんだ。仕事にも支障はなかったし。君のことは……これから、前の俺じゃなくて、今の俺で塗り替えればいいって思った」
「ええ……?」
「ごめんね。君の“彼”を、戻してあげられなくて」
顔を上げると、形のいい唇が弧を描いていた。
黒い瞳は、ただまっすぐに私を射抜く。
「でもね。写真を見たとき、焦燥感に駆られた」
「……焦燥感。」
「そう。早く思い出せ、思い出さないと後悔する――そんな感じ。胃がじりじり焼けるみたいな……君が俺の元から離れた時と、同じだ」
喉がこくりと鳴る。
足元から何かが絡みつくような視線。
彼は、記憶の有無に関係なく、同じ瞳をしている。
カチ、と時計の音がした。
「だから、初めて調べた」
「とはいえ、物は君が持ち出してたし、過去のデータは小野が全部管理してた。君の病院に連絡しても、担当医の同期くんに躱されてさ」
だから、過去の自分に頼った。
「俺のパソコンに、君の幼少期から今までの写真を含めた“観察記録”がある」
「……持ってそう。でも、貴方のことだからしっかり隠してたでしょ」
「うん。しっかり。でも俺のことは、俺が一番わかるから」
そして、その記録の中に。
「嬉しそうにお腹を触る君の写真が、たくさんあった」
一枚目は、ただ嬉しそうに。
二枚目は、嬉しさと不安を抱えた顔で。
「検診にも全部ついて行ってたね。記録には、検診内容も全部残ってたよ」
心拍、エコー、処置、検査――
胸が躍る記憶も、張り裂けそうな記憶も、すべて。
……それなら。
「……どうして、最初にここに来た日、間違えたの?」
「間違えた?」
「プロポーズの返事」
「ああ。それは書いてなかった」
不思議だった。
彼なら、私の言葉をすべて記録していそうなのに。
すると、少し拗ねた声がした。
「……本当は、前の俺のことなんて、教えたくなかったんだけど」
「一時期、俺の周りで縁談が殺到してたみたいだね」
「……貴方の両親でしょ」
「うん。余計なことしかしない」
「心配と親心よ」
「あと、経営絡み」
「それ、あの時の俺、全部断ってた」
「……どうして」
「もう、選んでたから」
彼は椅子から立ち上がった。
甘くて、少しスパイシーなウッドの香りが近づく。
「俺は――」
いけない。
咄嗟に、その香りから逃げた。
「お願い。別れて。真也、私と一緒にいると、ずっと苦しいままよ。真也も、私も。……愛しているなら、私を楽にさせて」
「駄目だ。別れない。俺は、君が楽になるために俺を捨てるなんて、許さない」
「それは……エゴじゃないの」
「そう、俺のエゴ。でも君も、自分のエゴで逃げようとしてる」
徐々に、彼の香りが私を包み込んでいく。足に、手に、髪に——私のすべてを。
「君は“幸せにしてあげたい”って顔で、俺から選ぶ権利を奪ってる」
「そんなこと、」
はくりと切り出そうとした言葉は、宙に消えた。——無い、とは言えなかった。だって、その通りだったから。小野さんが言っていた。私は彼の気持ちを無視して、見て見ぬふりをしていたのだと。
「過去の俺が何を選んだかなんて知らない。でも、俺は“今の俺”で選ぶ」
そして悔しいことに過去の俺も、きっと同じ選択をしただろうね。そう言って笑う表情は、何ひとつ変わっていなかった。
「君が俺の隣にいない人生なんて、考えたくもない。好きでもない女性と子どもを授かって、家庭を築く幸せを味わうくらいなら——君と一緒に、苦しみ続ける道を選ぶ」
視界を遮っていた髪を耳にかけ、そのまま頬をなぞる。指先が私を捉え、彼は静かに、そしてうっすらと笑った。
「ごめんね。君を楽にしてあげられなくて。でも俺も、自分勝手だから……離してあげられない。これから、死ぬまで一緒に俺の隣で苦しもう。」
「……私、あなたに子どもを抱かせてあげられない」
「抱くことはできなくても、俺たちの間に来てくれたあの子たちを、想い続けることはできる」
「跡取りだって……ずっとご両親に言われるのは、あなたで」
「血に縛られなくてもいい。無理なら、親族の中で優秀な人に譲ればいい」
「でも……でも……」
ふわりと、温かなぬくもりが身体を包み込む。久しぶりの温度は、じんわりと染み込むようで、私の身体はそれを喜んで受け入れていた。
「……私、弱いから。また逃げてしまうかもしれない。
強くありたいのに、弱さを捨てられなくて。すぐに閉じこもって、悲劇のヒロインみたいに振る舞って、楽になれる道を選ぼうとする。……それでも、捕まえに来てくれる?」
「頼まれなくても。君は俺のすべてだから。必ず、追いかける」
その言葉を聞くのは、二度目だった。プロポーズの返事の時と同じ言葉が帰ってきたことに、思わず笑い声がこぼれ、止まらなくなる。驚いて少し目を見開いた彼が、次の瞬間には不思議そうにこちらを見るものだから、余計に可笑しくなってしまった。
ごめんね、子どもたち。
あなたたちの前で、こんな姿を見せてしまって。でもどうしてだろう。あなたたちが、私たちをもう一度引き合わせて、繋いでくれたような気がしてしまう。
ひとりで楽になろうとしたのに、こんなふうに思うなんて。それもきっと、私のエゴで、都合のいい解釈なのだろう。
苦しい記憶だけが、すべてじゃない。確かに、幸せな記憶もあった。それを、他でもない私が“悲劇”の一色に塗り潰してしまってはいけない。子どもたちにも、この人にも、そして自分自身にも失礼だ。
そう思っても、思い続けることは難しい。きっと私は、また逃げたくなる。これから先、自分の妊娠に踏み切れないかもしれない。たとえ再び授かれたとしても、あの時の恐ろしさや悲しみは消えない。
そんな時には、この温もりに包まれたい。
この人の隣にいたい。
一緒に選び、苦しみ、それでも幸せを感じながら、生きていきたい。
この人と、一緒に。
ねえ、真也。
記憶を失う前のあなた。
きっとあなたも、同じ選択をしていたのでしょう。
笑い声の中に、鼻をすする音が混じった。




