7.選択は今も続いているのだろうか。
*
「しおちゃん、少し食べないと」
そっと視線を移すと、真也が立っていた。手には器が乗ったトレー。くん、と香りを嗅ぐと、お粥のようだった。……前までは、お米の匂いを受け付けなかったのに。
ひしひしと現実を感じて、また涙が溢れそうになる。いや、意外ともう枯れてしまったのかもしれない。散々泣いた。それとも、この痛みに慣れてしまったのだろうか。
「……食欲、ない」
「そう言って、ずっと食べてないでしょ。職場でもそうだって聞いたよ」
「……同期か」
伏せていた体を起こすと、真也は微笑んだ。「はい」と渡されたレンゲとお茶碗を受け取る。
食欲はない。食べたいという気持ちも、気力も、すべて消え失せていた。進まない私の手に、そっと綺麗な指が重なる。
「食べて」
「……どうして。こんな時に、食べたくないよ」
「こんな時だから。しっかり食べて、寝よう」
「こんな時だから……?」
「うん。生きるために」
生きるために。
生きるのか、私は。
子どもたちがいなくなってしまっても。
そんな資格が、私にあるのだろうか。
そう思っていても、体は正直だったらしい。ぐう、とお腹が鳴った。
生きる。戸籍にも残らないあの子たちを、せめて覚えていくために。愛している人を、ひとりにしないために。私は、生きる。
「……美味しい」
ああ。あんなに食べたくても食べられなかったお米。
悔しいなぁ……。
……美味しいなぁ。
*
「こちら、お返しします」
「……はい」
渡されたのは、記入済みの離婚届だった。私の欄だけが記入され、残りは空欄のまま。
それを見た瞬間、どくりと心臓が動き出すのを感じた。この期に及んで湧き上がるこの感情は、一体何なのだろう。小野さんから受け取ったそれを封筒に戻し、バッグにしまう。
「……ご期待に応えられず、申し訳ありません」
「いえ。むしろ、こんな役目をお任せしてしまって、こちらこそ申し訳ありません。それに、彼の身の回りのことまで……ありがとう」
「いえ、私の業務でもありますから。……奥様、どうか頭を上げてください」
まだそう呼んでくれる彼に、胸が詰まる。とはいえ、ずっと下げ続けているわけにもいかず、周囲の視線を感じて、ゆっくりと顔を上げた。
「彼は、元気ですか?」
「ええ。今、大きなプロジェクトが動いておりまして。なかなか自由な時間が取れず、苛立ってはいますが……元気に過ごされていますよ」
「そうですか……大変そうですね」
「自由な時間がないと、奥様にお会いできませんからね」
その言葉に、思わず苦笑が漏れた。手元の紅茶は湯気を立てていて、カップに添えた指先が温くなっていった。
「話をした日から、会えてませんから」
「ひと月前ですね」
「はい」
カップを机に戻し、もう一度口を開く。
「てっきり、あの話をしたから音沙汰がないのかと」
「……社長は、いつも奥様のことを気にされていますよ」
「記憶を失う前なら分かるんですけど。まさか、失ってからも、こんなに気にかけてもらえるとは思いませんでした」
届ければ、すぐにこれも書かれると思っていたんですけどね。そう笑うと、小野さんは眉根をぎゅっと寄せて、「奥様はそれでよろしいのですか」と言った。その問いに笑みが溢れる。
「……あの人のこと、まだ愛してます。本当は、一緒にいたい」
「なら――」
「でも、それじゃダメ。あの人の家、大きいでしょう。後継の問題もあって、ご両親も気にされてますから」
強張った顔に、そっと笑みを向ける。彼に一番近い場所にいる小野さんなら、きっと知っているはずだ。後継を催促されていたことも。私を守るために、彼が常にそれに対応していたことも。
「もう結婚して五年です。私も彼も、いい歳ですし。潮時ってやつです。……彼には、幸せになってほしいんです」
その瞬間、ポケットの中が振動した。小野さんに断って確認すると、オンコールだった。
「すみません、行かないと」
「もちろんです。お送りしますよ」
「……すみません、助かります」
職場までは微妙な距離があり、タクシーを拾う時間を考えると、願ってもない提案だった。小野さんの言葉に甘え、早々にカフェを出て車に乗り込む。書類の入ったバッグを、胸にしっかりと抱えながら。
「ここで大丈夫ですか?」
「はい、ありがとうございます」
車が止まると同時に、シートベルトを外そうと手を伸ばす。その時、小野さんが「あの……」と声をかけた。
「社長は、記憶を失った後も、ずっと奥様の写真を眺めていました」
それは――と口を開きかけたところで、小野さんが続ける。
「“幸せになってほしい”という言葉……ご本人が、一番嫌がりますよ」
「あの方は、選べない人じゃない。選んだ結果が、奥様なんです」
昔も、それから今も。
小野さんは、そう言った。
▲▽
「齋藤さん、随分早いな」
「予定日よりかなりね。仲さん、連絡くれてありがとう」
「いえ! むしろお休みの日にすみません……」
「いやいや、オンコールの日だから。大丈夫」
三人でモニターを見ながら、今後の治療方針について話していく。どうすれば母体と赤ちゃんが安全にお産を迎えられるか。それを考え続けるのが、私たちの仕事だ。
「NICUにも共有した方がいいな」
「ええ。会議でも伝えるけど……念のため、これから言いに行く」
「よろしく」
医局を出て、NICUへ向かう。整然と並ぶ保育器の中には、たくさんの赤ちゃんたち。小さな体で、それでも力強く生きようとする命がそこにあった。
「この歳になるとさ、仕事モードと私生活モードの切り替えが早くなるよね」
「もはや、モードなんてものすら無くなる」
「確かに……」
珍しく休憩時間が重なり、二人で食事を取ることになった。とはいえ、人のいない医局で、おにぎりや栄養ゼリーを口に運びながら、視線はそれぞれパソコンの画面に向けたままだ。
「まだ書かれてないのか」
「うん。記憶、無くしてるのにね」
キーボードを打つ音が一つ減る。不思議に思って隣のデスクを見ると、鋭い視線とぶつかった。
「……関係ないんじゃないか」
「え?」
「記憶が無いからじゃない。記憶が無くても、あの人はまだお前を選んでる。それだけだろ」
記憶が無くても、私を。
「……うん」
そうなのかな。
そうなのかもしれない。
私への愛が深い、あの人なら。
でも、それだとしても。溢れ出しそうになる気持ちと言葉を隠すように、私は大きく口を開けておにぎりを頬張った。
……こんな時でも、ご飯は美味しいなぁ。
先ほどの小野さんの言葉が脳裏によぎりながら、嫌になるくらいにそう思った。




