表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/9

7.選択は今も続いているのだろうか。



「しおちゃん、少し食べないと」


そっと視線を移すと、真也が立っていた。手には器が乗ったトレー。くん、と香りを嗅ぐと、お粥のようだった。……前までは、お米の匂いを受け付けなかったのに。


ひしひしと現実を感じて、また涙が溢れそうになる。いや、意外ともう枯れてしまったのかもしれない。散々泣いた。それとも、この痛みに慣れてしまったのだろうか。


「……食欲、ない」

「そう言って、ずっと食べてないでしょ。職場でもそうだって聞いたよ」

「……同期か」


伏せていた体を起こすと、真也は微笑んだ。「はい」と渡されたレンゲとお茶碗を受け取る。


食欲はない。食べたいという気持ちも、気力も、すべて消え失せていた。進まない私の手に、そっと綺麗な指が重なる。


「食べて」

「……どうして。こんな時に、食べたくないよ」

「こんな時だから。しっかり食べて、寝よう」

「こんな時だから……?」

「うん。生きるために」


生きるために。

生きるのか、私は。

子どもたちがいなくなってしまっても。

そんな資格が、私にあるのだろうか。


そう思っていても、体は正直だったらしい。ぐう、とお腹が鳴った。


生きる。戸籍にも残らないあの子たちを、せめて覚えていくために。愛している人を、ひとりにしないために。私は、生きる。


「……美味しい」


ああ。あんなに食べたくても食べられなかったお米。

悔しいなぁ……。

……美味しいなぁ。






「こちら、お返しします」

「……はい」


渡されたのは、記入済みの離婚届だった。私の欄だけが記入され、残りは空欄のまま。


それを見た瞬間、どくりと心臓が動き出すのを感じた。この期に及んで湧き上がるこの感情は、一体何なのだろう。小野さんから受け取ったそれを封筒に戻し、バッグにしまう。


「……ご期待に応えられず、申し訳ありません」

「いえ。むしろ、こんな役目をお任せしてしまって、こちらこそ申し訳ありません。それに、彼の身の回りのことまで……ありがとう」

「いえ、私の業務でもありますから。……奥様、どうか頭を上げてください」


まだそう呼んでくれる彼に、胸が詰まる。とはいえ、ずっと下げ続けているわけにもいかず、周囲の視線を感じて、ゆっくりと顔を上げた。


「彼は、元気ですか?」

「ええ。今、大きなプロジェクトが動いておりまして。なかなか自由な時間が取れず、苛立ってはいますが……元気に過ごされていますよ」

「そうですか……大変そうですね」

「自由な時間がないと、奥様にお会いできませんからね」

その言葉に、思わず苦笑が漏れた。手元の紅茶は湯気を立てていて、カップに添えた指先が温くなっていった。


「話をした日から、会えてませんから」

「ひと月前ですね」

「はい」


カップを机に戻し、もう一度口を開く。


「てっきり、あの話をしたから音沙汰がないのかと」

「……社長は、いつも奥様のことを気にされていますよ」

「記憶を失う前なら分かるんですけど。まさか、失ってからも、こんなに気にかけてもらえるとは思いませんでした」


届ければ、すぐにこれも書かれると思っていたんですけどね。そう笑うと、小野さんは眉根をぎゅっと寄せて、「奥様はそれでよろしいのですか」と言った。その問いに笑みが溢れる。


「……あの人のこと、まだ愛してます。本当は、一緒にいたい」

「なら――」

「でも、それじゃダメ。あの人の家、大きいでしょう。後継の問題もあって、ご両親も気にされてますから」


強張った顔に、そっと笑みを向ける。彼に一番近い場所にいる小野さんなら、きっと知っているはずだ。後継を催促されていたことも。私を守るために、彼が常にそれに対応していたことも。


「もう結婚して五年です。私も彼も、いい歳ですし。潮時ってやつです。……彼には、幸せになってほしいんです」


その瞬間、ポケットの中が振動した。小野さんに断って確認すると、オンコールだった。


「すみません、行かないと」

「もちろんです。お送りしますよ」

「……すみません、助かります」


職場までは微妙な距離があり、タクシーを拾う時間を考えると、願ってもない提案だった。小野さんの言葉に甘え、早々にカフェを出て車に乗り込む。書類の入ったバッグを、胸にしっかりと抱えながら。


「ここで大丈夫ですか?」

「はい、ありがとうございます」


車が止まると同時に、シートベルトを外そうと手を伸ばす。その時、小野さんが「あの……」と声をかけた。


「社長は、記憶を失った後も、ずっと奥様の写真を眺めていました」


それは――と口を開きかけたところで、小野さんが続ける。


「“幸せになってほしい”という言葉……ご本人が、一番嫌がりますよ」


「あの方は、選べない人じゃない。選んだ結果が、奥様なんです」



昔も、それから今も。

小野さんは、そう言った。



▲▽



「齋藤さん、随分早いな」

「予定日よりかなりね。仲さん、連絡くれてありがとう」

「いえ! むしろお休みの日にすみません……」

「いやいや、オンコールの日だから。大丈夫」


三人でモニターを見ながら、今後の治療方針について話していく。どうすれば母体と赤ちゃんが安全にお産を迎えられるか。それを考え続けるのが、私たちの仕事だ。


「NICUにも共有した方がいいな」

「ええ。会議でも伝えるけど……念のため、これから言いに行く」

「よろしく」


医局を出て、NICUへ向かう。整然と並ぶ保育器の中には、たくさんの赤ちゃんたち。小さな体で、それでも力強く生きようとする命がそこにあった。






「この歳になるとさ、仕事モードと私生活モードの切り替えが早くなるよね」

「もはや、モードなんてものすら無くなる」

「確かに……」


珍しく休憩時間が重なり、二人で食事を取ることになった。とはいえ、人のいない医局で、おにぎりや栄養ゼリーを口に運びながら、視線はそれぞれパソコンの画面に向けたままだ。


「まだ書かれてないのか」

「うん。記憶、無くしてるのにね」


キーボードを打つ音が一つ減る。不思議に思って隣のデスクを見ると、鋭い視線とぶつかった。


「……関係ないんじゃないか」

「え?」

「記憶が無いからじゃない。記憶が無くても、あの人はまだお前を選んでる。それだけだろ」


記憶が無くても、私を。


「……うん」


そうなのかな。

そうなのかもしれない。

私への愛が深い、あの人なら。


でも、それだとしても。溢れ出しそうになる気持ちと言葉を隠すように、私は大きく口を開けておにぎりを頬張った。


……こんな時でも、ご飯は美味しいなぁ。


先ほどの小野さんの言葉が脳裏によぎりながら、嫌になるくらいにそう思った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ