表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/9

6.答え合わせ。

以降、妊娠・中絶・不妊などの話が出てきます。苦手な方はご遠慮ください。



「どうやって調べたの?」

「通院歴と、過去の交友関係。それとSNS」

「通院歴は分かっても、同期が詳細はブロックしてくれてたし、友人にも親族にも何も伝えてない。SNSも、もちろん」

「……過去の自分が残してた記録のデータたち。それから小野に確認した」

「それは、確実だね」


笑う私を、彼はじっと見つめている。きっと、なぜ私が笑っているのか分からないのだろう。現実味もないのかもしれない。記憶を失った彼にとって、これはどこか別次元の話なのだろう。でも――紛れもなく、現実だ。


「答え合わせしようか」


過去の履歴でも、人伝いでもなく。

私たち自身の中で。





「おめでとうございます。妊娠しています」


同期の言葉で、確信めいていたものが現実になった。職業柄、そうだろうとは分かっていたけれど、確定した瞬間の感覚は、今まで経験したことのないものだった。


これまで私が伝えてきた言葉は、きっと――お母さんとお父さんに、こんな気持ちを届けていたのだ。


「しおちゃん、しおちゃん!ありがとう」

「う、ううん……。で、でも、まだ油断はできないからっ」

「……確かに、週数的にはまだ慎重な時期だ。ただ、今くらいは素直に喜んでもいいんじゃないか」


そっとお腹に手を当てる。

何の反応もないそこに、新しい命が宿っているなんて、まだ実感は湧かない。


「……しおちゃん。嬉しいね。楽しみだね」

「……うん。うん。すごく、嬉しい」


ありがとう。

私たちのもとに来てくれて。






「嬉しくなってさ、性別も分からないうちに洋服まで買っちゃって。スタイとか、肌着とか。止めるの大変だったんだから」


性別が分からないなら色も決められないでしょう、と言っても、「じゃあ両方、全色買えばいい」なんて言い出して。改めて彼の金銭感覚には頭を抱えた。


思い出して、くすりと笑うと、彼も微笑んだ。


「よく周りに話さなかったね」

「職業柄、安定期までのリスクの高さも知ってるから。というか、安定期って言っても、確実に安全ってわけじゃないしね」

「え、そうなの?」

「うん。妊娠も出産も、全部奇跡なの」


だから、しっかり口止めしていた。担当医も同期にしてもらっていたし――真也は話したそうに、そわそわはしてたけど。


せめてと、彼側には小野さんにだけ伝えた。診察にはすべて同行するという彼の方針もあったし、仕事への影響を考えると、誰か一人は知っていた方がいい。


聞いた小野さんは、自分のことのように喜んでくれた。それを見て彼は笑い、私も笑った。

そのあと小野さんは、入籍の時と同じように「安心しました〜!!」と半泣きしていた。なぜ。


「でも、お互いの家のこともあるし、安定期に入ったら伝えようって話してたの」


――でもね。


「安定期に、入らなかったの」


今も心に刺さっている。

胸の奥に残る棘。息が苦しくなるほどの痛み。





「……心拍の確認が取れませんでした」


その日は、雲に太陽が隠れてどんよりとしていた。エコーの場には、同期だけでなく先輩医師も来ていた。


その顔色と、ダブルチェックで、なんとなく察してしまった。私だって産科医で、しかもここは職場。普段から使っている機材だから、分かってしまう。


同期の言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。同時に――腑に落ちてしまった。


……分かっていた。

分かっていたけど、分かりたくなかった。

腑に落ちてほしくなかった。


彼も動揺しているのか、いくつか質問をして、必死に冷静さを保とうとしているのが分かった。温かいぬくもりが、私の手の甲に触れる。視線を落とすと、彼の大きな手が私の手を包んでいた。


この言葉を告げる同期の胸中も、痛いほど分かる。

私も何度も、同じ言葉を伝えてきた。


きっとこれから、同期は過去のデータや論文を遡り、原因を探し続けるだろう。私も、そうしてきた。同期も、そうしてきた。


「……前回の検診では心拍は確認できていました。問題もありませんでした。他の医師とも確認しましたが――」

「不育症、だよね」

「……ああ」

「……ふいくしょう?」


彼の言葉に、同期が説明を始める。

それを、どこか第三者のような視点で聞いていた。


現実味が湧かない。

受け止めきれない。


覆らない現実は、こんなにも突然、降りかかってくる。


そんなの、知っていたじゃないか。

初めて授かった子も、突然だったから。







「不育症は、妊娠は成立するけど、流産や死産を繰り返してしまうことを言うの」

「……繰り返す」

「うん。私たちのところには二人、来てくれた。でも二人とも、いなくなってしまった」


一人目は、最初の心拍が確認できなかった。

二人目は、もう少しで安定期を迎える頃だった。


複数回繰り返したことで検査をしたけれど、異常は見つからなかった。


「不育症ってね、基本的に原因は不明なの。だから、検査しても分からないことの方が多い。母体じゃなくて、胎児側の問題だって言われることもある」


でも。


「医学的には理解してる。だけど、感情が追いつかなくって」


そんな私を、真也は、ずっと支えてくれた。


「私の体が悪いんだって。もし私のお腹じゃなければ、この子は生まれてこれたんじゃないかって……今でも延々と考えちゃう」


仕事中だけは、頭を空っぽにしてがむしゃらに働いた。それが一番、楽だった。それでも、患者さんや赤ちゃんを前にすると、涙が止まらなくなることもあった。家に帰れば、食欲も眠気もなく、ただベッドで天井や空をぼんやり眺めていた。


そんな私に彼は言った。

子どもが必ずしも欲しいわけじゃない。

二人で生きよう。

私がいればいい――と。


それが嬉しかったのは、確かだ。

でも、それでも。


「……嫌悪感?」

「うん。愛してる人に、子どもを抱かせてあげられないこと」


以前は、家族連れを見て「可愛いね」とか、「前抱っこ、実は憧れてる」とか話していたのに。

いつの間にか、そんな話題をお互いに出さなくなっていた。


「この歳になるとね、SNSにも子どもの写真が溢れるの。家族でピクニック、旅行。旦那さんが子どもを抱っこしてるのを見て、ああ、私はこの人にその経験をさせてあげられないんだって……勝手に、思っちゃうの」


分かってる。

SNSは良いところしか映らない。

それが全てじゃないことも。


それでも。祝福したい気持ちはあるのに、胸の奥に黒いものが渦巻く。これから先も、この気持ちを抱えて生きていくのか。私は、人として、女性として、産科医として――新しい命を、もう心から祝福できないのか。


「貴方への罪悪感と、自分への自己嫌悪で、潰れそうだった」


「そんな時に、貴方が事故にあった」


子どもだけじゃなく、愛しい人まで失うのか。

もう、これ以上失いたくなかった。


ただ、愛しい人と「美味しいね」ってご飯を食べて、

「おやすみ」って言い合いたかっただけ。


「……生きてて良かった。本当に」

「……記憶を失くしてたのに?」

「それでも」


生きていてくれた。

それだけで、よかった。


そして――


「貴方が私のことを忘れてるって分かって……安心したと同時に、チャンスだとも思った」



そんな自分に吐き気を覚えながら。




▲▽




「私がいなければ、別の女性とやり直して、子どもだってまた望める。貴方の人生を、もっと軽くできる」


一度そう伝えたとき、貴方は決して首を縦に振らなかった。あんなにも私に甘いのに、そのときばかりは怒られてしまった。怒られるようなことを言った自覚はあったから、それ以降、その言葉を口にすることはなかった。


「だけど、貴方が記憶を失ったから。……チャンスだと思って、いなくなったの」


それに、少し安心してしまった。


「これでもう、妊娠のことを考えなくていいって」


そう安堵してしまった自分への嫌悪感が、さらに増していった。それを掻き消すように、私はただ行動していた。マンションに残していた私や子どもに関するものをすべて回収し、新しい場所へ引っ越した。


同期は私の行動に驚いていたけれど、何も言わなかった。きっと彼は、真也の次に私のことを近くで見ていたから。小野さんは渋い顔をしていたけれど、それでも私を案じてくれていた。

彼の周囲に残っていた、子どもに関する過去のデータをすべて削除してほしいなんて、とんでもないお願いをしてしまったのに。


「……それで、記憶のない貴方なら、知らない女との離婚にも応じてくれると思ってたのに」

「何度か、小野に渡されたよ。……離婚届」

「記入済みで渡したから、あとはそっちが書くだけだったのに……。小野さんから謝られるたび、申し訳なかった」


今日も書いてもらえなくて……すみません。

そう電話口からでも伝わってくる、小野さんのしおしおとした声色に、何度も胸が痛んだ。


「この前のは、」

「エコー写真。まだ小さかったから、見づらかったでしょ」


バッグを落とした日。

手帳に挟んでいた二枚のエコー写真を、彼は呆然と見つめていた。隠し通すために住居も移し、離婚までしようとしていたのに。勘のいい彼のことだ、きっかけがあれば、きっとすべてを把握するために調べるだろう。

ばれるのも時間の問題だと思っていた。ああ、最初から、アパートに彼が来た日から、強く拒絶するべきだった。


「……ごめんね」


彼の肩が、小さく揺れた。


「貴方が事故にあって、記憶を失ったとき。そばで支えられなくて、逃げ出してごめん」


本当は、そばにいたかった。

支えたかった。

逃げ出さずに向き合えばよかった。

それをしなかった――それが、私の弱さ。


「あのね」


そして、息を吸う。


「私たち、離婚しよう」




季節はもうすぐ冬。

奇しくもそれは、私が――いや、私たちが、どうにもならない現実を突きつけられた、あの日々を呼び起こす季節だった。







「送ってくれてありがとう」

「いえ。体、冷えたでしょ。ちゃんと温めてね」

「そっちも」


私が部屋に入るまで、車は発車しないらしい。

思えば、記憶を失う前も、失ってからも、ずっとそうだった。この辺りが車通りや人の多い場所じゃなくて、よかった。


部屋の前に立ち、振り返る。私に気づいた彼は、いつもと変わらない笑みで手を振っていた。大きくて、綺麗な手がひらりと揺れる。それに返すことなく、私は軽く頭を下げて、部屋に入った。


「……はぁ……」


ずるりと、体から力が抜ける。

今日――いや、先ほどまで。今まで抱え込んできた思いや考えを吐き出しただけで、こんなにも体力と気力を持っていかれるのか。


今は、指一本動かすのさえ億劫だった。


それでも、いつまでもベッドに横になっているわけにもいかない。ごそりと体を起こし、棚へ向かう。


「……ただいま。」


二枚の写真と、母子手帳。

そっと撫でて、声をかけるのは、いつしか習慣になっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ