6.答え合わせ。
以降、妊娠・中絶・不妊などの話が出てきます。苦手な方はご遠慮ください。
「どうやって調べたの?」
「通院歴と、過去の交友関係。それとSNS」
「通院歴は分かっても、同期が詳細はブロックしてくれてたし、友人にも親族にも何も伝えてない。SNSも、もちろん」
「……過去の自分が残してた記録のデータたち。それから小野に確認した」
「それは、確実だね」
笑う私を、彼はじっと見つめている。きっと、なぜ私が笑っているのか分からないのだろう。現実味もないのかもしれない。記憶を失った彼にとって、これはどこか別次元の話なのだろう。でも――紛れもなく、現実だ。
「答え合わせしようか」
過去の履歴でも、人伝いでもなく。
私たち自身の中で。
*
「おめでとうございます。妊娠しています」
同期の言葉で、確信めいていたものが現実になった。職業柄、そうだろうとは分かっていたけれど、確定した瞬間の感覚は、今まで経験したことのないものだった。
これまで私が伝えてきた言葉は、きっと――お母さんとお父さんに、こんな気持ちを届けていたのだ。
「しおちゃん、しおちゃん!ありがとう」
「う、ううん……。で、でも、まだ油断はできないからっ」
「……確かに、週数的にはまだ慎重な時期だ。ただ、今くらいは素直に喜んでもいいんじゃないか」
そっとお腹に手を当てる。
何の反応もないそこに、新しい命が宿っているなんて、まだ実感は湧かない。
「……しおちゃん。嬉しいね。楽しみだね」
「……うん。うん。すごく、嬉しい」
ありがとう。
私たちのもとに来てくれて。
*
「嬉しくなってさ、性別も分からないうちに洋服まで買っちゃって。スタイとか、肌着とか。止めるの大変だったんだから」
性別が分からないなら色も決められないでしょう、と言っても、「じゃあ両方、全色買えばいい」なんて言い出して。改めて彼の金銭感覚には頭を抱えた。
思い出して、くすりと笑うと、彼も微笑んだ。
「よく周りに話さなかったね」
「職業柄、安定期までのリスクの高さも知ってるから。というか、安定期って言っても、確実に安全ってわけじゃないしね」
「え、そうなの?」
「うん。妊娠も出産も、全部奇跡なの」
だから、しっかり口止めしていた。担当医も同期にしてもらっていたし――真也は話したそうに、そわそわはしてたけど。
せめてと、彼側には小野さんにだけ伝えた。診察にはすべて同行するという彼の方針もあったし、仕事への影響を考えると、誰か一人は知っていた方がいい。
聞いた小野さんは、自分のことのように喜んでくれた。それを見て彼は笑い、私も笑った。
そのあと小野さんは、入籍の時と同じように「安心しました〜!!」と半泣きしていた。なぜ。
「でも、お互いの家のこともあるし、安定期に入ったら伝えようって話してたの」
――でもね。
「安定期に、入らなかったの」
今も心に刺さっている。
胸の奥に残る棘。息が苦しくなるほどの痛み。
*
「……心拍の確認が取れませんでした」
その日は、雲に太陽が隠れてどんよりとしていた。エコーの場には、同期だけでなく先輩医師も来ていた。
その顔色と、ダブルチェックで、なんとなく察してしまった。私だって産科医で、しかもここは職場。普段から使っている機材だから、分かってしまう。
同期の言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。同時に――腑に落ちてしまった。
……分かっていた。
分かっていたけど、分かりたくなかった。
腑に落ちてほしくなかった。
彼も動揺しているのか、いくつか質問をして、必死に冷静さを保とうとしているのが分かった。温かいぬくもりが、私の手の甲に触れる。視線を落とすと、彼の大きな手が私の手を包んでいた。
この言葉を告げる同期の胸中も、痛いほど分かる。
私も何度も、同じ言葉を伝えてきた。
きっとこれから、同期は過去のデータや論文を遡り、原因を探し続けるだろう。私も、そうしてきた。同期も、そうしてきた。
「……前回の検診では心拍は確認できていました。問題もありませんでした。他の医師とも確認しましたが――」
「不育症、だよね」
「……ああ」
「……ふいくしょう?」
彼の言葉に、同期が説明を始める。
それを、どこか第三者のような視点で聞いていた。
現実味が湧かない。
受け止めきれない。
覆らない現実は、こんなにも突然、降りかかってくる。
そんなの、知っていたじゃないか。
初めて授かった子も、突然だったから。
*
「不育症は、妊娠は成立するけど、流産や死産を繰り返してしまうことを言うの」
「……繰り返す」
「うん。私たちのところには二人、来てくれた。でも二人とも、いなくなってしまった」
一人目は、最初の心拍が確認できなかった。
二人目は、もう少しで安定期を迎える頃だった。
複数回繰り返したことで検査をしたけれど、異常は見つからなかった。
「不育症ってね、基本的に原因は不明なの。だから、検査しても分からないことの方が多い。母体じゃなくて、胎児側の問題だって言われることもある」
でも。
「医学的には理解してる。だけど、感情が追いつかなくって」
そんな私を、真也は、ずっと支えてくれた。
「私の体が悪いんだって。もし私のお腹じゃなければ、この子は生まれてこれたんじゃないかって……今でも延々と考えちゃう」
仕事中だけは、頭を空っぽにしてがむしゃらに働いた。それが一番、楽だった。それでも、患者さんや赤ちゃんを前にすると、涙が止まらなくなることもあった。家に帰れば、食欲も眠気もなく、ただベッドで天井や空をぼんやり眺めていた。
そんな私に彼は言った。
子どもが必ずしも欲しいわけじゃない。
二人で生きよう。
私がいればいい――と。
それが嬉しかったのは、確かだ。
でも、それでも。
「……嫌悪感?」
「うん。愛してる人に、子どもを抱かせてあげられないこと」
以前は、家族連れを見て「可愛いね」とか、「前抱っこ、実は憧れてる」とか話していたのに。
いつの間にか、そんな話題をお互いに出さなくなっていた。
「この歳になるとね、SNSにも子どもの写真が溢れるの。家族でピクニック、旅行。旦那さんが子どもを抱っこしてるのを見て、ああ、私はこの人にその経験をさせてあげられないんだって……勝手に、思っちゃうの」
分かってる。
SNSは良いところしか映らない。
それが全てじゃないことも。
それでも。祝福したい気持ちはあるのに、胸の奥に黒いものが渦巻く。これから先も、この気持ちを抱えて生きていくのか。私は、人として、女性として、産科医として――新しい命を、もう心から祝福できないのか。
「貴方への罪悪感と、自分への自己嫌悪で、潰れそうだった」
「そんな時に、貴方が事故にあった」
子どもだけじゃなく、愛しい人まで失うのか。
もう、これ以上失いたくなかった。
ただ、愛しい人と「美味しいね」ってご飯を食べて、
「おやすみ」って言い合いたかっただけ。
「……生きてて良かった。本当に」
「……記憶を失くしてたのに?」
「それでも」
生きていてくれた。
それだけで、よかった。
そして――
「貴方が私のことを忘れてるって分かって……安心したと同時に、チャンスだとも思った」
そんな自分に吐き気を覚えながら。
▲▽
「私がいなければ、別の女性とやり直して、子どもだってまた望める。貴方の人生を、もっと軽くできる」
一度そう伝えたとき、貴方は決して首を縦に振らなかった。あんなにも私に甘いのに、そのときばかりは怒られてしまった。怒られるようなことを言った自覚はあったから、それ以降、その言葉を口にすることはなかった。
「だけど、貴方が記憶を失ったから。……チャンスだと思って、いなくなったの」
それに、少し安心してしまった。
「これでもう、妊娠のことを考えなくていいって」
そう安堵してしまった自分への嫌悪感が、さらに増していった。それを掻き消すように、私はただ行動していた。マンションに残していた私や子どもに関するものをすべて回収し、新しい場所へ引っ越した。
同期は私の行動に驚いていたけれど、何も言わなかった。きっと彼は、真也の次に私のことを近くで見ていたから。小野さんは渋い顔をしていたけれど、それでも私を案じてくれていた。
彼の周囲に残っていた、子どもに関する過去のデータをすべて削除してほしいなんて、とんでもないお願いをしてしまったのに。
「……それで、記憶のない貴方なら、知らない女との離婚にも応じてくれると思ってたのに」
「何度か、小野に渡されたよ。……離婚届」
「記入済みで渡したから、あとはそっちが書くだけだったのに……。小野さんから謝られるたび、申し訳なかった」
今日も書いてもらえなくて……すみません。
そう電話口からでも伝わってくる、小野さんのしおしおとした声色に、何度も胸が痛んだ。
「この前のは、」
「エコー写真。まだ小さかったから、見づらかったでしょ」
バッグを落とした日。
手帳に挟んでいた二枚のエコー写真を、彼は呆然と見つめていた。隠し通すために住居も移し、離婚までしようとしていたのに。勘のいい彼のことだ、きっかけがあれば、きっとすべてを把握するために調べるだろう。
ばれるのも時間の問題だと思っていた。ああ、最初から、アパートに彼が来た日から、強く拒絶するべきだった。
「……ごめんね」
彼の肩が、小さく揺れた。
「貴方が事故にあって、記憶を失ったとき。そばで支えられなくて、逃げ出してごめん」
本当は、そばにいたかった。
支えたかった。
逃げ出さずに向き合えばよかった。
それをしなかった――それが、私の弱さ。
「あのね」
そして、息を吸う。
「私たち、離婚しよう」
季節はもうすぐ冬。
奇しくもそれは、私が――いや、私たちが、どうにもならない現実を突きつけられた、あの日々を呼び起こす季節だった。
「送ってくれてありがとう」
「いえ。体、冷えたでしょ。ちゃんと温めてね」
「そっちも」
私が部屋に入るまで、車は発車しないらしい。
思えば、記憶を失う前も、失ってからも、ずっとそうだった。この辺りが車通りや人の多い場所じゃなくて、よかった。
部屋の前に立ち、振り返る。私に気づいた彼は、いつもと変わらない笑みで手を振っていた。大きくて、綺麗な手がひらりと揺れる。それに返すことなく、私は軽く頭を下げて、部屋に入った。
「……はぁ……」
ずるりと、体から力が抜ける。
今日――いや、先ほどまで。今まで抱え込んできた思いや考えを吐き出しただけで、こんなにも体力と気力を持っていかれるのか。
今は、指一本動かすのさえ億劫だった。
それでも、いつまでもベッドに横になっているわけにもいかない。ごそりと体を起こし、棚へ向かう。
「……ただいま。」
二枚の写真と、母子手帳。
そっと撫でて、声をかけるのは、いつしか習慣になっていた。




