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5.食べて、歩いて、思い出して。




「付き合って半年で入籍なんて、って言われると思ってた」


新居のソファに座り、自分の指にはまっているそれを眺める。普段は出かけるときにしかつけない指輪が、これからはずっと私の肌に触れているのだと思うと、慣れない感触にそわそわする。しばらくは、こうして眺めてしまう日々が続くのだろう。


「そう? 誰かに言われたの?」

「ううん、なんとなく」


ありがとう、と言ってカフェラテを受け取る。渡してくれた彼――旦那さんは私の隣に腰を下ろし、自然に腰へ腕を回した。どんなに広い新居でも、どんなに大きなソファでも、私たちはこうしてくっついて過ごす。大きなベッドを用意したのに、結局いつも身体を寄せ合って眠っているのだ。


「まあ、私もこんなに早く結婚するとは思ってなかったけど」

「ええ〜? 俺は考えてたけどなぁ」

「出会って第一声がアレだったもんね」

「だって、しおちゃんのこと初めて見た日から、絶対手に入れるって決めてたから」


うーん、熱烈。

ちゅ、と目尻に唇を落とされながら思う。この人は、一体私のどこに惚れたのだろう。以前は詐欺か何かじゃないかと疑っていたけれど、今はもうそんな気持ちもない。だってこの人、自分を信じてもらおうとして、すべてを差し出してきたのだから。知り合って二度目の食事のとき、戸籍を含めた経歴証明書一式を持参されたときは、戦慄した。


「ああ……ようやく手に入った。本当に嬉しい……」


噛みしめるように呟く彼に、腕の中で苦笑する。

どうしてこんな平凡な私に、ここまでの愛を注いでくれるのか。


形のいい唇にそっと口づけると、彼は心底幸せそうに目尻を下げて笑った。



ポケットの中でスマホが震える。

でも、今の私にはそれに応じる余裕がなかった。十中八九、彼だと分かっていたから。とにかく走って、来た電車に飛び乗り、そのまま家へ帰った。真っ暗な玄関でうずくまり、荒い息だけが響く。


最悪だ。

絶対に隠し通すつもりだったのに。そのために小野さんに頼んで過去の記録も消して、同期にも根回しをした。あのマンションから引っ越したのも、そのためだったのに。


震える身体をぎゅっと抱きしめる。きっと彼は調べる。どこまで食い止められるか――否か。覚悟を決める時は、もう近いのだろう。それは、この状況の終わりを意味する。


いつのまにか、スマホの振動は止まっていた。




「来たぞ、連絡」

「……あー。やっぱり」


報告を受けて、思わず頭を抱えた。

同期は眉間に皺を寄せて、そんな私を見ている。


「過去の通院歴について?」

「ああ。そのときの担当医に話を聞きたいって言われて、俺に回ってきた」

「ちなみに、それは……」

「夫婦間でも個人情報だ。再度説明するなら、本人の同意が必要だと伝えた」

「ありがとうございます」


深く頭を下げると、彼の眉間の皺はさらに深くなった。どかりと隣に腰を下ろし、コーヒーを一口飲む。

しばしの沈黙を破ったのは、渋々……いや、私を案じるような声だった。


「……夫婦間のことだ。口を挟むつもりはなかったが」


一拍置いて、ぶっきらぼうに続ける。


「何度も向き合ってきたお前に、もう一度向き合えとは言わない。お前が選んだ選択なら、俺は反対しない」


そして、からりと付け加える。


「これからも遠慮せず言え。俺はお前の同期で、担当医で、友人だろ」


同期は滅多に笑わないし、声も低く抑揚がない。感情の波もほとんど見えない。そのせいで、患者さんから「寄り添ってくれない」と言われることもある。


でも私は知っている。

彼は人一倍、温かい人だ。感情を前に出さないのは、それを後回しにして、頭で必死に考えているからだ。見落としはないか、最善の処置は何か。母子ともに安全にお産を終えるために、医師として何ができるか。

だから彼の判断は的確で、チームからも自然と信頼されている。


(……とはいえ、もう少し愛想があってもいいと思うけど)


「……ふっ。ふふっ。あはは」

「……なんだ」

「ごめん……ふふ、ははは!」

「だからなんだ!」


少し赤くなってむっとする顔に、堪えきれなかった笑いがこぼれる。さらに深く刻まれた眉間の皺に、謝りながら大きく息を吸った。


「……ありがとね」


二年前、そして去年。

私は生まれて初めて、どうしようもない絶望を二度、味わった。

 



▲▽




「お疲れ様。」


仕事を終えて職場を出ると、脇に見覚えのある車が停まっていた。その横には、見覚えがありすぎる男性。視線が合った瞬間、反射的に身体が強張る。


久しぶりに会う旦那さんは、いつも通りの笑顔を浮かべていた。隙のない、完璧な表情。同時に、記憶を失う前の屈託のない笑顔が脳裏をよぎる。


「…そっちもお疲れ様」

「随分、残業したね」

「だからどうしてシフトを把握して……もういいや。早まったお産があったの」


「はい、どうぞ」


開かれた助手席のドア。

重たい気持ちのせいで動かない足に、彼は「ん?」と笑みを深める。その笑顔で、どれだけの契約や商談をまとめてきたのだろう。渋々、助手席に身を収めた。


走り出した車内は静まり返っていて、呼吸すら気を遣う。気まずい。いつも饒舌な彼が黙っている分、余計に。手のひらにじんわりと熱が集まった、そのときだった。


ぐうぅぅ。


「……ごめん」


最悪だ。可愛らしい音とは程遠い、腹の底から響く轟音。羞恥心が一気に押し寄せる。すると隣から、堪えきれない笑い声が漏れた。


「ははっ! ドラマみたいだね。すごいタイミング。……本当に君って面白い」

「……私からしたら、シフトも住所も把握してるあなたの方が面白いけど」

「ありがと〜。」


片手でピースする彼に、思わず冷たい視線を向けてしまう。


「今日、何も食べてないの?」

「お産が立て込んで…書類の締切もあったし」

「じゃあ、ランチ行こうか。何がいい?」

「……中華」


空っぽの胃袋は、麻婆麺を求めていた。





「それにしてもさ、どうしてあの返事だったの?」

「あの返事?」

「プロポーズのときの」

「ああ……」


指輪にもすっかり慣れて、久しぶりに二人で過ごす休日の夜。並んで食卓を囲んでいた。


「変だった?」

「変とは思ってないよ。面白いなって」

「あの返事でそう思えるの、すごいわ」

「君への愛だね」

「ありがとー」


ピースした瞬間、シャッター音。いつのまにか向けられていたスマホに苦笑する。驚きが日常に変わっていくのは、少しだけ嬉しい。


「……ねえ、真也」

「なにー?」

「話があるの。とびきり嬉しい話」





「はぁ〜、お腹いっぱい」

「美味しかったね、あそこ」

「八宝菜も美味しいの。あとエビマヨ」

「そうなんだ。随分詳しいね」

「好きで、何回か通ってるから」


店員の挨拶に会釈をしながら店を出る。今日はなんとか、彼の分も私が支払わせてもらった。油断せずに遂行できたミッションに、思わず胸を撫で下ろす。


食後の身体は、内側からじんわりと温かい。やっぱり人間は、どんなことがあっても食べなければ何もできなくなる。どんなに辛くても、食べて、眠る。それが私が生きてきて学んだことのひとつだった。



「あら! あなたたち、来てくれてたの?」

「あっ。お久しぶりです」

「最近見かけなかったから、どうしたのかしらって思ってたのよ〜」



買い物袋を腕にかけ、にこにこと笑う女性は、先ほどまでいた中華店の店主の奥様だった。何を食べたの?と聞かれて麻婆麺だと答える。彼女はとてもフレンドリーで、よく話しかけてくれる。他のお客さんとも気さくに会話していて、この辺りでは少し顔が広いらしい。


「あら、旦那さんもお久しぶりね」

「どうも」

「最後に二人が来てくれたのは……ああ、そうね。去年の今頃だったかしら」


確か、そのとき写真も見せてくれて――。


言いかけた言葉は、店から出てきた店主のおじさんで途切れた。


「帰ってきたなら早く入れ」

「あら、ごめんなさい。ただいま」

「おかえり」


それじゃあね、と手を振って店へ戻っていく後ろ姿を見送る。ドアが閉まった途端、隣から声がした。


「俺と通ってたんだね」

「まあね。美味しくて、提供も早くて、近いから」

「最高の三拍子」


「さ、車に戻ろうか」


黒いコートが翻り、歩き出そうとする彼の手を引き留めた。


「少し、時間ある?」


散歩しない?と笑うと、彼は驚いたように目を丸くした。





「電話もメールも無視してごめん。今さらだけど、勝手にマンションを出て行ってごめんなさい」


一拍置いて、付け加える。


「……あ、でも、私を忘れて“誰?”って言ったこととか、アパートに来たときに記憶が戻ったふりをしたのは、許してないから」


ここは大事だ。

根に持っているところは、しっかり強調しておく。すると彼は苦笑して、「こちらこそ、ごめん」と言った。記憶を失ったこと自体は、彼のせいじゃない。少し八つ当たりも混じっているし、理不尽なことを言っている自覚もある。それでも彼は、全部わかった上で受け止めてくれる。


変わらないな、この人。

……甘えてるな、私。

内心でそう思って、少しだけ笑ってしまった。


散歩といっても人目は避けたくて、結局、駐車場近くの小さな公園に寄った。平日の昼間だからか、遊具がないからか。人影はなく、都合のいい静けさだった。


「……なにか、私に聞きたいことがあるんでしょ」


いや、違うか。


「……もう、知ってるんでしょ?」






私たちに、子どもがいたこと。






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