4.日常の熱、隠された温度。
昨日の豪華絢爛な光景が嘘だったかのように、日常へと戻った。綺麗にセットしていた髪はヘアクリップで適当に留め、服装もいつもの白衣。次々と入る診察やお産を控えたお母さんたちの様子を見ながら、合間に事務処理も片付けていく。
「……で、今は告白を保留させてもらってます」
「え〜、どうして保留?」
「付き合っちゃえばいいのに!」
「いやいや! この歳でのお付き合いは慎重になりますって! だって結婚も考える年齢じゃないですか!」
食堂でチームメンバーと遅めの昼食をとっていると、自然に“恋バナ”という名の近況報告が始まった。目の前で頭を抱えている彼女は、友人だと思っていた男性に告白されたらしい。惚気かと思いきや、本気で悩んでいるようで、うーんとうなりながら頭を捻っている。
「確かにね〜、三十歳って色々考えちゃうわよね」
「そうなんですよ〜。そういえば、羽多野先生って旦那さんと長いですよね?」
「う、うん。それなりには」
聞き手に回っていたはずなのに、急に話を振られて慌てて口の中のものを飲み込んだ。
「え、今何年ですか?」
「結婚して五年かな」
「出会っては?」
「六年」
「え! 知らなかった!」
驚く彼女たちに、「あんまり言ってなかったからね」と笑って返す。
「あれ? じゃあ付き合ってすぐ結婚した感じですか?」
「うん。半年で付き合って、半年で結婚」
「えっっ!」
目を剥いて驚く彼女たちに、そういう反応になるよね、と内心で同意する。私たちは、いわゆるスピード婚だ。色々あったはずなのに、こうして結婚五年目を迎えているのは、今でも不思議に思う。
え、きっかけは? 決め手は?次々と飛んでくる質問から身を引こうとしたところで、ちょうど内線が動いた。これ幸いと席を立ち、後ろから刺さるような残念そうな視線を感じながら、足早にトレーを返却して指示された病室へ向かった。
*
ぶっ飛んだ初対面から半年が経ち、私たちは友人と呼べる関係になっていた。とはいえ、友人になっても彼からのアプローチが止むことはなく、私自身もそれが心に溶け込んでいくのを感じていた。
決定打はないまま、曖昧な関係が続く日々。仕事はお互いに忙しく、深く考える余裕もなかった。だから今日も、ただ一緒にご飯を食べて終わるのだと思っていた。
「お姉さん、今暇?」
「待ち合わせなので、暇じゃないです」
ドラマや漫画で見る“ナンパ”というものは、いざ自分の身に降りかかると少しパニックになる。頭のどこかでそう感じながら、しつこく声をかけてくる男に拒否の姿勢を示していた。
ここまで拒んでいるのに、なぜこの人は引かないのだろう。目の前では「おすすめのお店があるから〜」と、ぐいぐい話を進めてくる。人の話を聞け。
ため息をつきながら、このあとどうしようか考える。ここは待ち合わせ場所だけれど、一度動いて撒こうか。自信はないけれど、それでもここで話を聞き続けるよりはましだ。そう思って足を動かそうとした瞬間、力強く肩を後ろへ引かれた。
「――ごめんね、お待たせ」
肩を掴んだ大きな手。その持ち主は、待ち合わせ相手の本人だった。長身の彼を見上げるには、かなり顔を上げなければならない。それが少し辛いのに、彼の瞳から目が離せなかった。
……あ、怒ってる?
口元は弧を描いているのに、瞳の奥は冷え切っている。肌が粟立ち、ぞくりと背筋が震えた。
「仕事が長引いちゃって。車で来たから、そこまで来てもらってもいい?」
そう言いながら、真也は視線を逸らし、目の前の男をじっと見据える。長身の美形が放つ威圧感に、男だけでなく私まで慄いていた。妙な仲間意識が芽生え、彼の服を引いて「あの」と声をかける。
「……お腹空いたので、もう行きましょう」
「あ、うん。ごめんね。行こっか」
肩を抱かれたままUターンして歩き出す。彼は一瞬だけ後ろを振り返り、すぐに私へ視線を戻した。
「待たせちゃって、本当にごめんね」
先ほどの威圧感は、もう影を潜めている。
「大丈夫ですけど……羽多野さん、だいぶ怖かったですよ」
「え、そう? まぁ、好きな子が男に絡まれてたら、いい気はしないよ」
「……本当に、私のこと好きなんですね」
思わず漏れたその感想に、彼は「今頃?」とおかしそうに笑った。けれど、ふと私の顔を見て、真剣な表情になる。
「君を独り占めしたいくらい、愛してるよ」
胸の奥に、すとんと何かが落ちた気がした。
――あ、今だ。
「それじゃあ、付き合いましょうか」
固まった綺麗な顔を見て、思わず笑ってしまった。
*
決め手。
そう聞かれたら、私はこう答えるだろう。
『彼ほど、私のことを愛してくれる人はいないと思ったから』
それに尽きる。見せかけではなく、瞳や態度や心で示してくれた。その深い愛が、何より嬉しかった。呆れるほど愛が深く、独占欲も強い。他人に話せば引かれそうな言動も、私の中では「可愛い」に変換されてしまう。それくらい、私も彼に惚れ込んでいる。
時々衝突はあったけれど、彼はいつも最後まで私の話を聞いてくれた。「もういい」と切り捨てることなく、最後まで。
人生で一番絶望したあの時も、彼は何も言わず、ただ寄り添ってくれた。否定も共感もせず、手を握り、抱きしめてくれた。
この人を、どうやって幸せにすればいいのか。
いつしか、そんなことを考えるようになっていた。
「お母さん、お父さん。赤ちゃん元気ですよ」
「よかったです……! ふふ、動いてる」
「随分大きくなったな」
「きっと、お腹の中が気持ちいいんですね。伸び伸びしてます」
そうですね、きっと。
目の前の二人は、愛おしそうに笑っている。新しい家族の形。その最前線に、私はいつも立ち会っている。美しい瞬間ばかりではないけれど、それでもこの仕事を選んで後悔はなかった。
立て続けのお産が終わり、ようやく取れた休憩時間。中庭に出ると、冷たい風が肌を撫で、自然と肩の力が抜けた。
「お疲れ」
「……お疲れ様」
振り返ると、仏頂面の同期が立っていた。隣に腰を下ろし、コーヒーを飲み始める。それ、今日三杯目じゃなかった?
「今入れておかないと、夜に効かないからな」
「それは分かる」
私は野菜ジュースを飲み干し、彼の掠れた声に意識を戻す。
「あれからどうなんだ」
「……変わらずだよ、本当に」
予想通りだな、といった声に頷く。
「久しぶりに希望休入れてたな」
「あれは会社関係のパーティ」
「それはお疲れ」
「ヒール久しぶりで、靴擦れした」
患者の話をぽつぽつ交わし、時計を見て立ち上がる。
室内に戻る前、ふと振り返った。嗅ぎ慣れた香りがした気がしたけれど、きっと気のせいだ。
▲▽
「職場の人と仲、良いんだね」
肉を咀嚼する私を眺める、そのじっとりとした視線。そこに何が含まれているのか。以前の彼であれば見当がついたけれど、今は少し難しい。――と思う。
今日は焼肉だ。目の前では、網の上で肉がじゅうじゅうと音を立てて焼けている。空腹感が一気に刺激され、思わず箸が進む。厚切りの肉は食べ応えがあって美味しい。ここは絶対また来よう、と内心で決めながら、黙々と口を動かしていた。
ごくんと飲み込んでから、黒烏龍茶を口に運ぶ。最近、焼肉のときはビールよりこちらを選ぶようになったのはなぜだろう。少しの間が空いても、真也は私から目を逸らさなかった。
「確かに、良い人たちが多いかな」
「それは良かったね。昼食も一緒に食べてるの?」
「基本は別。時間が合えば、たまに」
「ふーん。休憩は?」
「空いた時間に取るから、大体はひとりかな。ぼーっとするくらいだし。急にどうしたの?」
「なんでもなーい」
そう言って、私は網の上へ視線を落とし、トングを手に取った。返されていく肉を眺めながら、自分の皿に乗ったものを口に運ぶ。ああ、美味しい。肉汁がじんわりと広がる。
「ところでさ、そろそろマンションに帰ってきたら?」
「帰らない」
「え〜、どうして」
「というか、真也は帰ってるの?」
「モチローン」
貼り付けたような笑みが、背筋に冷たいものを走らせた。そんな私に気づいているのか、いないのか分からないその表情のまま、「はい、どーぞ」と、私の皿に焼けた肉を乗せる。
「そういえば、結婚式に職場の人も来てたよね」
「そうね。数人だけど」
「写真に写ってたこの人たちって、どういう関係?」
「……調べてるでしょ。」
「キミの口から聞きたいんだよ」
写真には、ドレス姿の私と参列者が写っている。その上を、ささくれひとつない綺麗な指がなぞる。ぴたりと止まり、「この人は?」と問われた。
「……大学時代の先輩」
「隣の人」
「大学時代の友達」
いくつかやり取りを重ね、最後の一人を指さす。
「大学からの友人で、同期」
「この前、飲みに行ってた人だ?」
「そう」
「随分仲がいいよね」
「同期で同僚だもん」
「俺も知ってるって言ってたけど……仲良かった?」
その一言で、箸が止まった。動揺を悟られないよう、すぐに肉を口に運びながら答える。
「……普通」
「そっか」
写真を戻す彼の皿に、私は肉を乗せる。これ以上踏み込まれたら、何を口走るか分からない。網の上の肉を、次々と彼の皿へ移した。
「……払うって言ったのに」
「まあまあ」
財布を出す間もなく会計を済ませてしまった彼を見て、頬を膨らませそうになるのを慌てて抑える。この歳でそれはさすがに恥ずかしい。そんな仕草は、若くて可愛らしい女の子がするものだ、という偏見が私の中にはある。年齢を重ねるほど、自分自身にだけ妙に厳しくなるのはどうしてだろう。
ご馳走してくれたお礼を言おうとした、その瞬間。体が大きく揺れ、頭が真っ白になる。同時に、大きな手が私の体を支えた。
「……あっぶな」
低く掠れた声。それは唸りにも似ていて、思わず顔を上げる。高い位置にある横顔は、向こう側――おそらく、私にぶつかって去っていった人物を見ていたのだろう。
視線に気づいたのか、偶然か。彼の瞳が私を捉えた。すべての思考を奪い去るような、その瞳。次の瞬間、私の唇に温かい感触が触れていた。
「……させてくれるんだ?」
「……完全に油断した」
私の言葉に、彼はにやりと口角を上げると、ぱっと離れて地面に落ちたバッグを拾い上げた。マグネットボタンのバッグは衝撃で開いてしまったらしく、中身が地面に広がっている。とはいえ、ポーチにまとめていたのが幸いだった。細々したものが散乱せずに済んだ。
私も近くに落ちたポーチを拾い、しまおうと顔を上げる。
「拾ってくれて、ありが――」
言葉が、途中で途切れた。
彼の背中越しに見えた手元には、クリーム色の革の手帳。それは間違いなく、私のものだった。そして、その中にあるのは――。
私の声で肩を揺らした彼の動きに、少しだけ見えたそれ。手帳に挟んでいたもの。いつでも見られるように。いつでもそばに置けるように。
私の、宝物。
二枚の写真。
「――――君、これって」
その瞬間、私は彼の手からバッグと手帳、そして写真を奪い取り、駆け出していた。




