3.夫婦という形式。
「それじゃあ、また次回の診察で」
「はい、ありがとうございました!」
「お気をつけて」と声をかけると、女性は微笑んだ。丸いお腹に手を当てながら、ゆっくりと診察室を出ていく。その背中を見送ってから、カルテに追加事項を入力する。
「今日は混みますね〜」
「そうですね……筒井さんもお疲れさまでした」
「いえいえ! 先生こそお疲れさまです。ご指名の方も多いですもんね〜」
会話をしながらも、片付けの手を止めない助産師の彼女は優秀だ。テキパキと器具や家具を片付けていく。
「やっぱり女医希望は多いですからね。仕方ないです」
「それだけじゃないですよ〜。先生の診察、丁寧だからご指名されるんですよ!」
「褒めても何も出ませんよ〜?」
どちらかといえば、同期のほうが細かく診るタイプだと思う。とはいえ、私も注意深く診察に臨んでいるつもりなので、そう言ってもらえるのは素直に嬉しかった。お礼を伝えると、筒井さんはにこりと笑った。
「ところで先生、最近、旦那さんのお迎え多いですね」
「えっ。どうしてそれを……?」
「勤務後に、他の子が見たって言ってました! 立派な車に先生が乗っていくところ!」
確かに、病院の横に車を停めているのだから、見られていてもおかしくはない。彼女は声を上ずらせ、興奮気味だ。きっと、他の職員の間でも話題になっているのだろう。苦笑しながら「見られてましたか」と返した。
「いや〜、相変わらずラブラブですよね。羨ましいです!」「あ! それじゃあ次の方、呼びますね!」
パタパタと足音を立てて出ていく背中を見送りながら、まだそう見えているのか、と内心で思った。
それは諦めなのか、安堵なのか、それとも別の感情なのか。自分でもよくわからない。
「あれ、そっちも今日で終わり?」
「ああ。お前もか」
「うん。案の定、残業だったけど……お疲れさま」
「同じく。お疲れ」
更衣室を出ると、ちょうどエレベーター前で私服姿の同期と鉢合わせた。この仕事に、もはや定時という概念はないに等しい。その分、退勤時間が重なるのはかなり珍しい。ちなみに、休みが重なることはほとんどない。
エレベーターを待ちながら、ぽつぽつと会話を交わす。お互い目を擦りながら――同期は目頭を押さえながら。今日はお産も重なり、かなりハードな一日だった。体を動かすたび、ごきん、と音が鳴りそうなほどだ。
「あー、早く寝たい」
「その前にシャワーだな」
「熱いお湯でね」
「そのあとはビール」
ああ、最高。
エレベーターの中で声が重なり、一拍置いてから笑い声が響いた。研修医や新人時代にはよく飲みに行ったものだけど、シフトが合わなくなるにつれて、それもなくなった。職業柄、全員が揃う飲み会も少ない。
「今日、飲みに行く?」と誘うと、同期は顔を顰めた。
「お前と二人は面倒だからやめておく」
「は? なんでよ」
「旦那だよ。俺のこと、警戒してるだろ」
「ああ……」
脳裏に浮かぶ真也の顔は、得体の知れない笑みを浮かべていた。記憶を失う前の彼は、私の周囲をとにかく警戒していた。独占欲が強いのか、異性どころか同性であっても、私の近くに人がいること自体に強い抵抗を示していた。その苛烈さを知っている同期が、そう言うのも無理はない。
とはいえ今は、そんな真也はいない。正確に言えば、今の真也は、私に対しての独占欲を持ち合わせていない。
「……だから大丈夫。たまには付き合ってよ」
「……少しだけだからな」
冷たい物言いのわりに、彼が人一倍優しい性格だということを私は知っている。それに今日は、事務処理を切り上げて、わざと退勤時間を合わせてくれたことも。研修医時代から今まで、苦楽を共にしてきた彼のことは、よくわかっているつもりだ。
「お前、今どこ住んでるんだっけ」
「ここから歩いて十五分くらい」
「送ってく」
その言葉に甘えて、居酒屋を出た。
「ありがとうございましたー!」という店員の声を背中に浴びながら、並んで歩き出す。少しのつもりが、すっかり話し込んでしまい、気づけば日付も少し回っていた。早足で帰路につく。同期の家も、この辺りだったはずだ。
「ごめんね、わざわざ送ってもらって」
「気にするな。俺の家も近いし、ついでだよ」
本当に優しい人だ。普段は表情も乏しく、突き放すような言い方をするせいで怖がられているけれど、こんな静かで穏やかな優しさを持つ人を、私は他に知らない。
しんと静まった空気の中、隣を歩く彼がぽつりと言った。
「……もう、お前の体は大丈夫なのか」
「……うん。おかげさまで」
「そうか」
そして、少し間を置いて続ける。
「……旦那が記憶を失ったのは……あの時のことも含めて、か」
気まずそうに、恐る恐る問いかけるその様子に、
「……うん。忘れてるよ。全部」
そう答えた自分が、どんな顔をしていたのかはわからない。ざあ、と風が二人の間を駆け抜ける。
「そうか」
落とされた静かな声は、そのまま夜に溶けて消えた。
「送ってくれてありがとね」
「構わない。それじゃあな」
「うん。また明日」
同期の背中をぼんやりと見送る。すぐに角を曲がって姿が消えたのを確認してから、私もアパートへと向かった。
部屋の前まで来ると、大きな影が扉の前に立っている。一瞬体が震えたが、その正体に気づいてすぐに力が抜けた。
黒いブルゾンに珍しく白いロンT。いつも上げている前髪は下ろされている。いつから、ここに。扉に体を預けていた彼は、私を見つけると体を起こし、軽く手を振った。その笑顔は、貼り付けたようだった。
「こんばんは」
「……こんばんは。いつからここに?」
「一時間前くらいかな〜。一応連絡したんだけど、返信なかったから」
ポケットに入れっぱなしだったスマホを取り出すと、確かにメッセージと着信履歴が残っていた。気づかなかった。そう伝えると、「どこか行ってたの?」と聞かれる。
「職場の人と食事に」
「こんな時間まで? 今日、夕方までだったよね」
「どうして私のシフトを知ってるの……。残業してて、帰りが同じになったから、ついでに」
「今の人と?」
ふと、ドアとは反対側へ向けられた視線の先には、さきほどまで私たちが立っていた場所があった。きっと、送ってもらうところを見ていたのだろう。
「……うん」
頷くと、「へ〜〜」と間延びした声が返ってきた。
「同じ病院の人?」
「同じ科の医師。……記憶を失う前のあなたも知ってる人」
「あ、俺も? うわぁ、全然思い出せないわ」
「それより、何しに来たの?」
「家、入れて」
「無理」
むっと眉間に皺が寄る。きっと、望んでいた答えではなかったのだろう。でも、こちらも譲れない。ため息をついた彼は、不服そうに言った。
「……玄関まででいいから」
背後から階段を上る足音が聞こえる。きっと、住人の誰かだ。近隣に迷惑をかけるわけにもいかず、「玄関までだからね」と念を押して、ドアを開けた。
「それで、どうしたの。」
朝や昼に顔を合わせることは続いていたが、夜に会うのは久しぶりだった。彼がこの部屋を訪れた、あの時以来だ。その時も、こうして玄関で話していた。靴を脱ぎ、荷物を床に置く。上着も脱ぎたかったが、ひとまず諦めた。それよりも、早く話を終わらせたかった。
ワンルームの玄関に立つ長身の男は、やはり少し窮屈そうだ。仕方ない。以前一緒に暮らしていた家とは違うのだから。
「来月の第一木曜日、空いてる?」
「なんで?」
「仕事関係のパーティ。大きなものじゃないけど、パートナー同伴だから来てほしいんだよね」
なるほど。確か小野さんからも連絡が来ていたはずだ。仕事関係は基本的に彼と小野さんで進めているから、私はあまり干渉しない。ただ、こういったパートナー同伴の集まりは定期的にあった。そのたび、できるだけ一緒に出席していた。
来月のシフトはすでに出ている。確認しようとスマホを手に取ると、
「その日、休みでしょ」
なぜ、そこまで把握しているのか。
じっと見つめると、にこりと微笑み返される。その表情は、説明する気がないという合図だった。そういうところは変わらない。シフト表を開くと、確かに休みだった。オンコールでもない。
「……予定もないから大丈夫」
「よかった。ドレスとかはこっちで用意するから、詳細はまた連絡するよ」
「わかった」
「あとさ」
スケジュールアプリに入力していると、ふと手元に影が落ちた。ふわりと香るのは、昔から変わらず彼が愛用している香水。
顔を上げると、目の前に彼の顔があった。真っ暗な瞳と、弧を描く唇。
「キミの旦那は、俺だから」
それ、忘れないでね。奥さん。
そう言い残して、彼はドアを開けて帰っていった。スパイシーな強い存在感のある香りだけを、私の部屋に残して。
▲▽
*
「麻婆麺?」
「麻婆豆腐じゃなくて?」
指された先を視線で追うと、たしかに《麻婆麺定食》と書かれていた。どういうこと?と首を傾げると、店員のお姉さんが「文字通りのやつです!」と接客スマイルで教えてくれる。そうか、文字通りのやつなのね。
「じゃあ、それ食べてみようかな。単品でひとつお願いします」
普通に餃子定食を頼んだ私のあとで、彼はそう言った。え、頼むんだ?と驚いていると、「気になるじゃん」と笑う。
運ばれてきた料理は、湯気を立てていて見るからに美味しそうだった。件の麻婆麺は、器いっぱいに麻婆豆腐がかけられている。
「わ、すごい湯気」
「ね。熱そう」
挨拶をして箸をつける。麻婆豆腐の下から中華麺が現れると、さらに湯気が立ち上り、見た目以上に熱そうだ。ふぅ、と息を吹きかけて口に運ぶ彼の横顔を横目に、私は定食についてきたスープを一口飲んだ。
「え、美味しい」
「ほら、食べてみて」と器を寄せられ、私も箸を恐る恐る伸ばす。
「……美味しい!」
「でしょ。いけるよね、これ」
米に合うんだから、麺にも合うはずだ。そう言って笑う彼につられて、私も笑った。
*
髪は緩く巻いてシニヨンにまとめ、ドレスは深いネイビーカラー。露出は控えめなデザインで、メイクも上品に、しっかりと施されている。
「今回もありがとうございます、篠原さん」
「いえいえ。今回も最高の仕上がりです。さ、こちらもつけましょう」
差し出されたパールのネックレスとピアスを身につけながら、篠原さんが言った。
「今回のオーダーは露出控えめでしたね。」
「今回“も”、ですね」
「随分と嫉妬深いようですね、羽多野社長は」
二人で苦笑していると、ノックの音がして会話が止まった。ドアを開けて現れたのは、話題の中心人物――真也だった。仕立ての良いスーツに身を包んだ彼は、「終わった?」と柔らかく笑う。
「ええ。お待たせ」
「今回も綺麗だよ。とても可愛い」
「ありがとう」
スタイリング担当の篠原さんと、その部下たちが、微笑ましそうにこちらを見ている。まるで、いつもの私たちを見ているかのように。彼からのハグも、当たり前のように受け止めた。
「篠原さん、いつもありがとうございます」
「とんでもございません。奥様が素敵なので、こちらも毎回楽しませていただいております」
「お、よくわかってますね」
「ちょっと」
何を同意しているのだ。お世辞に決まっているでしょう。恥ずかしいからやめてほしい。
「それじゃあ、向かおうか」
「はい」
「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
見送る彼女たちに、スタイリングが崩れない程度に会釈をして、真也の手を取る。廊下で待っていた小野さんと合流し、駐車場へ向かった。
「まさか、受け止めてくれるとは思わなかった」
「突き飛ばしてよかった?」
「やだなぁ。そんなことしたら、さすがにバレちゃうでしょ」
へらりと笑う彼に、思わずため息が漏れる。
「あなたの記憶がないことを悟られないようにしてるんだから、当たり前でしょ。ね、小野さん」
「くれぐれも、よろしくお願いいたします」
真也の“私に関する記憶喪失”は、トップシークレット扱いだ。把握しているのは、私と小野さん、病院の担当医――そして、秘密だけれど私の同期。仕事に関する記憶は失われておらず、私以外の日常生活も問題ない。そのため、小野さんのフォローと彼自身の高いポテンシャルで、今のところ支障なく回っている。
真也のエスコートで車に乗り込み、隣に彼、運転席に運転手、助手席に小野さん。車内では仕事の話が流れ、私は静かに窓の外へ視線を向けた。
病院、何事もありませんように。
今日は同期がいるから大丈夫だと思うけれど。
ざわざわと交錯する話し声と、豪華絢爛な会場。
有名ホテルの一室で開かれたパーティに、私と真也は参加していた。
小野さんは常に一歩後ろに控え、主催者や参加者と次々に言葉を交わしていく。こちらから声をかけなくても、人が途切れなく近づいてくる状況に、内心うんざりしながらも、私は笑顔で対応した。
深くは踏み込まず、微笑みながら相槌を打つ。反応に困ったときは、ちらりと真也にアイコンタクト。それらはすべて、彼に教わった振る舞いだった。
その所作は、記憶を失った今の彼にも通じたらしく、以前と変わらず自然にフォローしてくれる。
「ずいぶん慣れているね」
「おかげさまで。参加するようになって、もう五年は経ちますから」
声量を落として答えると、ふぅん、と頭上から返ってきた。その声色に微かな違和感を覚え、顔を上げようとしたとき、背後から小野さんの声がかかる。
「お二人とも、清水夫妻がいらっしゃっています」
人の流れを縫ってこちらへ向かってくる二人――
有名な大学病院の院長夫妻で、真也の会社の取引先でもある。視線が合うと、手を振ってくる二人に、私も微笑み返した。
「お久しぶりです、清水院長」
「久しぶりですね、羽多野社長。お変わりありませんか?」
「ええ。院長もお元気そうで何よりです」
挨拶を交わしたあと、奥様が私の姿を見て目を輝かせた。院長も奥様も元々医師として勤務をしていたからか、私に親近感を持ってくださっているらしい。
「お仕事は、変わりありませんか?」
「はい。産婦人科で勤めております」
「周産期医療センターですよね。忙しいでしょうけれど、体に気をつけてくださいね」
「医者こそ不摂生になりがちですからね」
「気をつけます」
苦笑しながら答える。最近は、帰宅するとそのまま眠ってしまうことも多く、耳が痛い。会話の流れで、院長が切り出した。
「実はひとつ、羽多野先生にお願いがありまして」
「……私に、ですか?」
「ええ。実は娘が授かりましてね。まだ初期なのですが、設備の整った病院を探していまして。ぜひ、羽多野先生の病院で診ていただけないかと」
「もちろん、特別扱いは結構ですよ。普通に予約させますから」と奥様が笑って補足する。
それなら、と私は微笑んだ。
「おめでとうございます。お待ちしております」
真也も、穏やかな笑顔で祝福の言葉を添える。
「赤ちゃん、楽しみですね。」
その横顔を、私は見ることができなかった。小野さんの視線を感じながら、私もまた、笑った。
「今日はお疲れさま。」
帰りは、彼の運転で家まで送ってもらう。ドレスはホテルで脱ぎ、今は私服。メイクもその場で落としてもらい、スキンケアだけを済ませた、すっぴんの状態だ。
小野さんが送ろうとしてくれたが、なぜか彼がそれを断り、気づけば準備されていた彼の車に案内されていた。真也も疲れているはずなのに、それを一切見せない。その姿に、眉をひそめたくなる。
「明日は?」
「午後から仕事」
「本当に多忙だね」
「そっちもね。明日は午前から会議でしょ」
「まあね」と言って、彼はハンドルを切る。窓の外を流れる夜景は、速度に引き伸ばされて、どこか現実味がない。それを眺めていると、頭が空っぽになる気がして、昔から好きだった。
「ねぇ」
「ん?」
「ひとつ、聞きたかったんだけど」
「リビングの棚の一番上……何が置いてあったの?」
息が、詰まりそうになる。
「……どうして?」
「なんか、変な感じがして。……そこだけ、何も置いてなくて」
「……何も。」
私たちの視線は、交わらない。
交わらせない。




