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2.知らない顔の彼と久しぶりに囲む食事は。


「三ヶ月なら、持った方じゃないか」

「やっぱりそう思う?」


医局に響くタイピング音が、私たちの多忙さを物語っていると、毎回思う。隣にいる同期とは会話をしていながらも、視線はそれぞれパソコンに向けたまま。それはきっと、相手も同じだ。


「記憶喪失なんて、脳へのダメージが大きいはずだが……予後は平気なのか?」

「それが、小野さん……秘書曰く、ピンピンしてて、次の日にはもうベッドの上で仕事してたって」

「医者泣かせだな。俺なら怒鳴ってる」

「私も」


絶対安静という言葉を守らない患者はいる。それがまさか、自分の夫だとは思わなかったが。凝り固まった体を伸ばしていると、「それで、」と声がかかる。


「どうするんだ? 家、戻るのか」

「戻らないよ。今の方が病院に近いし」

「そうか。……可能なのか?」


にこりと笑った私を見て、同期は面倒そうに眉を顰めた。失礼だな。



「ああ、ようやく退勤? お疲れ様」


寝不足の瞳に、朝日が突き刺さって痛い。

職場である病院を出ると、道脇に見覚えのある高そうな車が停まっていて、嫌な予感はしていた。立ち止まった私を目敏く見つけた運転席の人物――もとい、旦那(記憶喪失中)が、笑顔でこちらに手を振っている。


きっと私は、睡眠不足と夜勤明けの疲労で、脳内のキャパを超えていたのだろう。顰めっ面のまま車へ向かうと、降りてきた旦那が当然のように助手席へ誘導してくる。耳元で何か話しているが、まったく頭に入ってこない。病院を出ると襲ってくるこの睡魔は、一体どうしたらいいのだろう。


促されるまま車内に入ると、なかなか閉まらない扉に首を傾げる。ドアに手をかけたままの彼が、じっとこちらを見つめていた。


「……俺が言うのも何だけど、こんなに簡単に人の車に乗って大丈夫?」

「人って……あなた、だから乗ったのよ。誰にでもホイホイ乗るわけじゃない」


それよりも、早く出発してほしい。いつ誰に見られるかわからない。そのためにサッと乗ったのだから。シートベルトを締めると、ドアが閉まる音がして、直後に彼も運転席へ乗り込んだ。


「目的地に着いたら起こして……」

「ちょっと、本当に無防備すぎない? 行き先は聞かないの?」

「モーニングに行くんでしょ……。あ、私、あそこ行きたい。隣町のカフェのモーニング……」


店名を告げて、バッグを抱え込む。衝撃のない発進と迫る睡魔に身を委ねながら、車内に漂う変わらない香りを、ゆっくりと肺に取り込んだ。



熱いコーヒーとカフェラテ、厚切りトーストに新鮮なサラダとフルーツ。近くの駐車場に車を停めて入った店は、当たりだった。特に、カフェラテが大きなマグで出てきたのが嬉しい。


「君ってさ、俺から離れたのに、こういう時は来てくれるんだね?」

「妻に向かって『誰?』って言う人にしては、寛大な処置だと思うけど」


音を立てずに食事をする彼に、育ちの良さを感じながら、私も口に運ぶ。彼と出会ってから食事マナーを教えられ、私もなんとか人前に出せる程度にはなった。記憶のない彼の前で食べることに、少し緊張したが、まあ、ここは公式な場じゃないし大丈夫だろう。


「あなたこそ、私の記憶をなくしてるのに、どうしてここまで関わってくるの?」

「んー……なんとなく?」

「多忙な社長が、大丈夫なの?」


この人のスケジュールは、確か相当詰まっていたはずだ。半泣きの小野さんの姿が脳裏に浮かび、今度何か差し入れをしようと決める。いや、この人は抜かりないから、必要なことはきっちり終わらせてきていそうだけど。長い指がカップをテーブルに置くのと同時に、言葉が落ちた。


「俺の周りのパスワードさ、全部君に関することなんだよね」

「……それ、ここで言って大丈夫?」

「支障ないよ」


店内は人もまばらで、静かな空間だ。声も抑えているし、まあ大丈夫だろう。トーストを頬張ると、ざくりと小気味いい音がした。


「それくらい、記憶をなくす前の俺にとって、君は大切な存在だったんだなって」

「……はぁ。」

「そんな存在をさ、手放すのって、惜しいじゃん?」


薄く笑う彼の心境は、相変わらず読めない。確かに旦那であるはずなのに、記憶が抜け落ちただけで、少し別人のようにも思えた。――けれど、執着だけは変わっていないらしい。


「ご馳走様でした」

「はーい」


少し眠り、空腹も満たされた私は、帰りの車内では外の景色を眺めていた。運転は相変わらず滑らかで、揺れひとつ感じさせない。その変わらない気遣いが、胸に刺さる。


私とたくさんの記憶を重ねたあの人は、もういない。その事実が、どうしようもなく悲しくて、胸の奥を締めつけた。



▲▽




あの日をきっかけに、変わったものがふたつある。


ひとつは、定期的に届く連絡だ。メッセージだけでなく電話もある。電話は決まって、私が退勤した後や休みの日、その前夜で家にいる時間帯。まるで私のシフトを把握しているかのような、絶妙なタイミングでかかってくる。


ふたつめは、食事に行くようになったこと。相手は――旦那さん(記憶喪失中)である。たいてい前日に連絡が来て、彼のマイカーで迎えが来る。食事を終えると、そのまま私の家まで送ってもらう。そんな日々が続いていた。……これはもはや夫婦というより、飯フレというやつではないだろうか。


「沙織は何にするの?」

「麻婆麺定食」

「え、麻婆豆腐じゃなくて?」


少し驚いた様子で、彼がメニュー表から顔を上げる。今日は私の夜勤明けに合わせて、ランチに来ていた。中華料理店はガヤガヤとしていて、ちょうど会社員の昼休憩と重なっているらしい。待ち時間なく入れたのは幸運だった。


「じゃなくて、麻婆麺定食」

「ラーメンと麻婆豆腐を単品で頼んでもいいけど?」

「それじゃ違うでしょ。麻婆麺が食べたいの」

「ならいいけど……麻婆麺って初めて見た」


そう言うなり、運ばれてきた料理を彼は凝視していた。艶々の麻婆豆腐がラーメンの上にかかっていて、見るからに美味しそうだ。セットには餃子と小さめのチャーハン。どれも出来立てなのか、湯気を立てている。


そばに置かれていた割り箸を手に取る。パキン、と音を立てて割れたそれは、片方に余分な木片がくっついていた。


「……失敗した」

「意外。そういうの、得意そうなのに」

「こういうのは得手不得手じゃないの。運だよ」


別に、この箸でも食べられないわけじゃない。麻婆の下に眠っている麺をひっくり返すと、一気に湯気が立ち上り、視界が曇った。その瞬間、眼鏡をかけていたことを思い出す。……また失敗した。


「夜勤明けは眼鏡なんだ。」

「長時間勤務の後は、目が乾燥するから。」

「ふぅん。」


そう言いながら、彼はレバニラを口に運ぶ。レバニラ定食にはご飯とスープ、餃子まで付いているが、食べ切れるのだろうか。以前の彼は、あまり量を食べる人ではなかった気がする。


けれど、その心配は杞憂だった。彼は淡々と、しかし綺麗に、確実に皿の上の料理を消していく。


「……お腹、空いてたの?」

「ん? どうして?」

「結構な量だったのに、全部食べてたから」

「そう? いつもこのくらいだよ」


“いつも”。

それは記憶をなくしてから――つまり、今の彼の人生が始まってから、ということだろうか。あの人は、もともと食に強い関心を持つタイプではなかった。生活の中での優先順位は低く、私が作れば嬉しそうに食べるけれど、それ以外は最低限で済ませる人だった。


以前、小野さんが「プロテインか、必要最低限の栄養食材しか食べません」と嘆いていたのを思い出す。だから私は、作れる時は栄養を意識して料理をしていたのだ。


目の前の彼は、一口食べるごとにほんの少しだけ目尻を下げる。きっと他人には気づかれない変化。いつも一緒にいる小野さんでさえ、無表情だと言うだろう。けれど、私には分かった。


(……そう、あなたは食べることが好きなのね)


この気持ちは、なんだろう。

彼の新しい一面を知れた嬉しさか。

それとも、前の彼がもういないという喪失感か。


「ごちそうさまでした」


二人で手のひらを合わせる。そのタイミングが重なるのは、以前と変わらなかった。




「君は、子どもが好きなの?」


帰りの車内、信号待ちの間に、彼が何気なく問いかけた。


「……どうして、そう思ったの」

「だって君、産婦人科だろ。子どもが好きだから希望したのかと思って」


「あ、産婦人科なら赤ちゃんか」と独り言のように言いながら、彼は変わりゆく信号を見つめている。その端正な横顔は確かに私の旦那だけれど、中身は私との記憶を持たない人だ。


動き出した車に身を委ねながら、私は答える。


「……さあね」


そう言って、そっと瞳を閉じた。






「――へぇ、君、今研修医なんだ」

「後期のね。だから、まだまだペーペー」


押されるように交換した連絡先から、怒涛の勢いで連絡が来ていた。

次第に無視するのも申し訳なくなり、そしてハードな研修の日々に息抜きを求めていた私は、気まぐれに真也の誘いに乗った。


リクエストしたのは、焼き鳥の美味しい居酒屋。彼が予約してくれていたその店は半個室で、料理も雰囲気も申し分なかった。


挨拶から始まり、互いの話になる。真也が私について質問することが多かったが、私もできるだけ彼に質問を返していた。この時、決して彼に興味があったわけではない。ただ、社会人としてのコミュニケーションの一環だった。


「それでも毎日、命と向き合ってるんだろ? すごいことじゃないか」

「……あなたこそ。あの医療メーカーの社長だなんて、びっくりした」

「はは。俺は親の後を継いだだけだよ」


初対面で「結婚しよ」なんて言うから、ぶっ飛んだ人だとは思っていた。けれど、まさか自分の病院とも関わりのある医療メーカーのトップだなんて、想像もしなかった。


食べ方や、ふとした仕草に育ちの良さを感じる。

毎日、髪を振り乱しておにぎりを頬張る自分とは、違う世界の人だと思った。


彼は、にこにこと微笑みながら焼酎のグラスを傾けている。


「私には、分からないけれど」

「うん?」

「後を継いだだけ、って言葉では簡単だけど……相当なプレッシャーや重圧があるでしょう。過ぎない、なんてことは絶対にない。……あなたは、とても立派だと思います」


自分より年上の人に、いち研修医の自分が何を言っているのか。恥ずかしくなって俯き、そっと真也の様子を窺う。


ちらりと見えた彼の顔は――どんな表情をしていたのだろう。







――ブーッ、ブーッ、ブーッ。


「……夢、か」


スマホのバイブレーションで目を覚ますと、新しい部屋の天井が視界に入る。前に彼と住んでいた部屋とは違う天井。口にした言葉は、静かな空間に溶けて消えた。


随分と、懐かしい夢を見たものだ。


寝返りを打つと、視界の端に紙袋が映る。先ほどまで一緒にいた彼から受け取った手土産。取引先からもらったものらしい。食べ物に罪はないので、有難く受け取ったそれは、テーブルの上に鎮座している。


部屋の中で異色を放つその紙袋が、つい先ほどまで一緒にいた存在を、強く主張していた。


「……子ども」


好きなの、と聞いた彼。

その問いかけで、改めて――彼に記憶がないという事実を、突きつけられた。



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