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1.初対面の夫はなぜか追ってきました。

必ず、あらすじに記載している注意事項をご覧いただけますと幸いです。



「……君、どちらさま?」


目の前にいる、私の人生を狂わせた男はそう言った。まるで初対面の人間を見るような瞳で。


さて、ここで少し過去を振り返ろうと思う。

あれは桜が風に舞い、吹雪くように散っていた春の出来事だ。咲き乱れる花に、私は顔を上げてうっとりと見惚れ――るのではなく、花粉症に苦しむ私はそれを睨みつけていた。花粉め。毎年毎年、人を苦しめやがって。


そんな時、背後からかけられた一言が、すべての始まりだった。


「俺と結婚しよ」

「……は?」


腕を掴まれ、ぐいと引き寄せられる。

無理やり視界に飛び込んできた男は、初対面にもかかわらず意味不明なことを言い放った。


羽多野真也。

後に、私の夫になる男である。


「満開の桜の中に君が立ってるのを見て、妖精がいるって思った」

「妖精」

「そう、妖精」


言葉の意味を考えようとするが、脳が理解を拒否している。厳つい見た目に反して、ずいぶんとメルヘンなことを言う人だ。


ちらりと彼を見る。黒の仕立ての良いスーツに、きっちり整えられた髪。彫りの深い顔立ちは、彫刻のように整っている。


どう考えても、最上級の男。

それが、どうしてごく平凡な私に――。


混乱した頭が導き出した、ひとつの結論。


(……揶揄われてるのか、これ)


なるほど、と妙に納得する。暇だったのだろう。たまたま近くにいた私で、暇つぶしをしているだけだ。


それなら、付き合う義理はない。


「あの、私用事があるので。ここで失礼します」

「ちょっと待って。用事って何? もしかして恋人?彼氏とか」

「違いますけど…。というか、あなたに関係ないですよね」

「“あなた”じゃなくて、羽多野真也。真也でいいよ」

「はぁ……」


差し出されたスマホに、思わず首を傾げる。あ、新機種だ。いいな。確かカメラの性能が段違いだったはず。現実逃避をしていると、美形の男がにこりと笑った。


「名前と連絡先、教えて」


じゃなきゃ帰さないよ、とでも言いたげな笑顔。満面の笑みで恐ろしいことを言う謎の男に、くらりと目眩を覚えた。


なぜ、ここから私たちが結婚に至ったのか。

正直、今でも不思議である。


ただ、猪突猛進なアプローチを続ける男――真也に、私が少しずつ絆されていったのだろう。


ちなみに、付き合うことになった翌日から、鞄や携帯にはGPSが仕込まれ、家には盗聴器入りのぬいぐるみが置かれた。さすがに引いたが、ぬいぐるみの前で欲しいものを呟くと、しれっと買ってきてくれるので、まあ良しとした。


そして、入籍して五年が経った頃。


本日、真也の部下から、彼の乗った車が事故に遭ったと連絡を受けた。慌てて病院へ駆けつけた私に、彼は冷め切った瞳で、そう言ったのだ。


「……え?」

「小野。何で勝手に入れてるの? 俺、許可してないけど」

「……は、羽多野社長。それ、本気でおっしゃってるんですか?」

「は?」


呆然と二人のやり取りを眺める私は、きっと間抜けな顔をしている。


個室のベッドで上半身を起こした真也の頭には包帯が巻かれ、頬にはガーゼが貼られていた。せっかくの綺麗な顔なのだから、跡が残らないといいけれど。

訝しげにこちらを見るその表情が、なぜか新鮮で、笑いそうになる。初めて会った日から、最後に会った日まで。彼はずっと、優しい瞳で私を見ていたから。


他人に向けるような薄い笑みを向けられる日が来るなんて。


「こちらの方は、社長の――」

「初めまして」


小野さんの言葉を遮って、私は口を開いた。これ以上、言わせるわけにはいかなかった。


「会社の者です。勝手にお邪魔してしまい、申し訳ございません」


目を見開く小野さん。内心で謝りながら、薄く笑う真也に、こちらも笑顔を返す。


……あ、私。今、ちゃんと笑えてる。


視界の端で、小野さんの顔色が青ざめていくのが見えた。


「事故に遭われたと伺いましたが、お元気そうで何よりです。小野さん、私はこれで失礼しますね」

「え、ちょ、沙織さん」


ぺこりと頭を下げ、部屋を出る。扉が閉まった瞬間、上げていた口角が落ちた。


ふう、と息を吐き、歩き出す。こつん、と音を立てるヒールは、真也からの贈り物のひとつだ。バッグも、服も、すべて彼からのもの。彼はプレゼントを贈るのが好きで、際限なく買ってくるから困った。

止めると、眉を下げて悲しむ姿が、大型犬みたいで可愛い、なんて思ったのは秘密だ。見た目は猟犬なのに。


「すみません、乗れますか?」

「はい、大丈夫ですよ。どちらまで?」

「沙織さん! 待ってください!」


タクシーに乗り込もうとすると、病院から慌てた様子で小野さんが駆けてきた。運転手に一言断り、少し待ってもらう。


「大丈夫ですか?」

「それは別にいいんです!」


即答だった。


「あれ、何言ってるんですか!? “初めまして”って」

「だって、真也は私のことを忘れてるから。あれはもう、初対面も同然よ」

「あ、あの……その件ですが。医師から話がありまして……日常生活には問題ないようですが、少し意識が混濁している状態で……詳しい検査はこれからで」

「うん。結果が分かったら教えて」

「もちろんです。でも……あんな嘘、すぐバレますよ」

「バレてもいいの」


タクシーに乗り込み、小野さんを見上げる。これからも迷惑をかけるだろうな、と思うと、胸が痛んだ。


「今のあの人が私の存在を知っても、記憶を取り戻さない限り、きっと私を手放すから」


小野さんが息を呑む。何も言わない。その沈黙が、答えだった。


「私が関わることで、何かあったら連絡してもらっていい?」

「……はい」

「ありがとう。迷惑かけるね」

「この後の場所、僕の方で用意します」

「大丈夫。連絡だけする」

「……絶対ですよ」


真剣な表情に苦笑して、タクシーの扉を閉める。運転手に行き先を告げ、小野さんに手を振った。バックミラーに映る彼は、深く頭を下げていた。本当に、良い人だ。


さて、この後どうしようか。

早鐘を打つ心臓を抱えたまま、スマホを起動した。都内の高級マンション。階層は中ほどより下。高所恐怖症の私のために、真也が選んでくれた部屋だ。


靴を脱ぎ、スリッパに履き替えると、リビングではなく、いったん自室へ向かう。我が家には、それぞれ仕事部屋がある。寝室は一緒。以前、仮眠用のベッドを仕事部屋に置こうとしたら、涙目で反対された。だから私の部屋には、デスクと本棚、それにクローゼットだけ。


衣装部屋を作ろうと言われた時は、必死で止めたっけ。それでも諦めていなかった彼を思い出し、思わず笑みがこぼれる。


考え事をしながらも、手は止まらない。キャリーケースに衣類や書類を詰め、データのある書類はシュレッダーへ。大きめのバッグには、パソコンや財布など必要最低限のものを入れる。真也から渡されていたクレジットカードや服は、すべて置いていった。仕事関係しか入っていない荷物を見て、苦笑する。


メモ帳に小野さんの電話番号を書き留める。スマホは置いていくから、忘れないように。


リビングと寝室を確認し、忘れ物がないか見回る。冷蔵庫の中も、特に問題なさそうだ。


チェストに置かれていたのは、しっかりとバッグの中に入っている。だから今は何も置かれていない。暖かな日の光が、何もないチェストを照らしていた。


「…よし、行こっか。」


一瞥して、部屋を出た。



▲▽




「あら。沙織ちゃーん、買い物中?」

「佐藤のおばちゃん、こんばんは。そうです〜」

「だったら、うちの惣菜はどう? 今日のは力作なのよぉ〜」


わぁ、本当に美味しそう。秋刀魚の煮付けに、ひじきの白和え。込み上げてくる涎を抑えながら、惹かれたものをいくつか注文する。包んでくれたおばちゃんから受け取り、手を振って別れた。


今日は早めに上がれたから、まだ空が明るい。こんな時間に帰れるのは久しぶりかもしれない。最近は病院に缶詰だったからなぁ。

うーん、と大きく伸びをすると、肩甲骨のあたりがボゴンッと音を立てた。そうそう。体が固まった時にここを鳴らすのが、たまらないのよ。


勤務先の病院から徒歩十五分のマンション。二階にある私の部屋はワンルームで、ひとり暮らしには十分な広さだ。もっとも、ほとんど病院にいる生活なので、部屋で過ごす時間は少ないのだけれど。


購入した惣菜をキッチンに置き、そのままシャワーへ直行する。短く整えた髪だと、シャンプーも少量で済む。最近まで長かったせいで、今でも癖で多めに出してしまうけれど。


泡だらけになった髪を丁寧に洗い流し、風呂を終える。ドライヤーもすぐ終わるし、スキンケアも楽だ。部屋着に着替えてリビングに戻ると、まだ外は夕暮れ時。気分が良くなって、ビールを一本開けた。――うまい。


惣菜を温めながら、ぼんやりとキッチンに立つ。この家に引っ越してきて三ヶ月。少しずつ揃った家電や家具に経過した時間を感じる一方で、相変わらず生活感の薄いキッチンとの落差に苦笑が浮かぶ。


料理はできる。というか、好きだった。でもそれは、真也が嬉しそうに食べてくれたからだ。適当に作った炒め物でさえ、まるでご馳走のように大切そうに口に運んでいた。


あの姿を見るのが好きで、作っていた。だけど、もうそんな機会はない。作る理由もない。仕事も忙しく、すっかりキッチンから遠ざかった生活になっていた。


レンジから惣菜を取り出し、テーブルに並べる。ひとり分の「いただきます」は、思ったよりも響かなかった。おばちゃんお手製の惣菜は、相変わらず美味しい。疲れ切った体に、じんわりと染み渡る。


ここに引っ越してきて良かった。そう思える味だった。


「……ん?」


テーブル脇に置いていたスマホが振動する。画面には小野さんからの着信。普段はメールが多い彼からの電話は珍しい。何か急用だろうか。


通話に出て、挨拶をしたその時。


――ピンポーン


同時にインターホンが鳴った。ここはオートロックではない。つまり、扉一枚隔てた向こうに、すでに来客がいる。


声のボリュームを落とし、「すみません、今インターホンが鳴っていて。後で折り返してもいい?」と告げる。


「えっ……それって、あの……社長じゃないですか?」

「違うけど……。どうしてあの人……? あ、一旦切りますね」


インターホンの画面には宅配便の配達員。一昨日頼んでいた荷物があったのを思い出す。着信をオフにしてスマホを棚に置き、扉を開けると、待たせてしまったのか、少し安堵した表情の配達員が立っていた。謝罪をしてサインをし、荷物を受け取る。思ったより重い。


「ありがとうございましたー」

「お世話さまでした」


配達員が階段へ駆けていく背中を見送った、その瞬間。呼吸が止まった。


通路に、男が立っていた。


配達員は彼に軽く会釈し、そのまま階段を下りていく。カン、カン、と足音が響く中、私の頭の中は完全にパニックだった。


ただ、こちらをじっと見つめる男。上質な黒のスーツに身を包み、長身の体躯がいやでも目を引く。――そういえば、この人、面倒がって黒ばかり着ていたっけ。以前はとろりと甘かった瞳は、今は何を考えているのか分からない。


カツン、と革靴の音が響く。長い脚で歩み寄り、あっという間に目の前まで来る。大きな手が扉にかけられた。身長差は……三十センチくらい、あったはず。


遥か上にある顔を見上げながら、ぼんやりと思う。

……これ、もしかして現実逃避ってやつ?


形の良い唇が動く。心臓が早鐘を打つ。


「さおちゃん、久しぶり。どっか行くなんて、ひどいんじゃない?」


――さおちゃん。

それは、真也が私を呼ぶときの名前。


自分だけの呼び方が欲しい、と言って、彼がつけたものだった。


その呼び名を口にする彼を、私はただ呆然と見つめる。にこにこと見下ろすその表情に、手が震えそうになるのを必死で堪えた。


「……私がいない方が、混乱しないでしょ?」

「そんなことないよ。記憶なくして、心細かったんだから」

「そう……ねぇ、聞いてもいい?」

「ん? なんでもどうぞ」


記憶の引き出しを、ゆっくりと開ける。


「初めて会った日、私たちはどこで会った?」

「公園」

「最初に、あなたは私に何て声をかけた?」

「『俺と結婚しよ』、だよね」


淡々と、笑顔で答える彼。

確信めいたものが、胸に広がっていく。


「じゃあ――私が、あなたのプロポーズに返した言葉は?」


一瞬、口角が揺れた。短い沈黙のあと、掠れた低い声。


「……『幸せになろうね』」


嗚呼。


「――残念、はずれ」


この男は、ずいぶんと私を舐めているらしい。


「……なぁんだ、違ったか」


すっと細められた瞳。消えた笑顔。整った顔立ちは、まるで能面のようだ。その変化の速さに、逆に笑いが出そうになる。


そろそろ荷物を持つ手が限界だった。靴を脱ぎ、廊下のキッチンシンクに荷物を置く。視界の端で、彼は勝手に部屋へ入り、ドアを閉めようとしていた。


「そこから中には入らないで」

「なんで」

「自分以外の異性は入れるなって、言われてるの」

「それ、俺? ならいいじゃん」

「だめ」


つまらなそうに、彼はドアにもたれた。大柄な体には、うちの玄関は少し狭そうだ。私はシンクにもたれ、「で?」と切り出す。


「記憶あるフリして、何のつもり?」

「んー。周りがうるさいんだよ。君がいなくなってから、追いかけろとか、後悔するぞとか」

「そう」

「そこまで言われたら、気になるでしょ。一応、俺の妻らしいし。……ていうか、病院でなんで嘘ついたの?」

「……あそこで関係を話しても、信じなかったでしょ」

「まあね。でも、すぐ帰ると思ってたんだよ。そしたらいなくなってるし」


意味わからない、とため息。


「仕事は? さっき小野さんから連絡あったけど」

「連絡取ってるんだ。急ぎは片付けたし、メッセージは送った」

「事故後に上司がいなくなったら怖いでしょ。……その様子だと、返信してないわね」


愛想笑い。それが答えだ。スマホを手に取る。


「それ、新しいの?」

「前のは置いていったでしょ」

「番号、教えて」

「必要ない」

「夫婦なのに変でしょ」

「小野さんが知ってるから、経由して」


一瞬、空気が張り詰めた。

彼は変わらない笑顔で、私を見下ろす。


「今は、ここでひとり暮らし?」

「……そう」

「仕事は?」

「もう調べてるでしょ」

「本人の口からも聞きたいじゃん」


ため息が漏れる。


「……とりあえず、今日は帰って」


仕事終わりだし、昨日は寝れなかったから睡魔もある。アルコールも入れてしまったから、今すぐにでも横になりたいのだ。彼は考える仕草で唇をなぞり、部屋の奥をちらりと見た。


「連絡先。もらえないと、動かない」

「そうきたか…」


部屋に入るのを許してしまったのが間違いだった。とはいえ扉を押さえられてしまったから、諦めるしかなかった。あと、引っ越したばかりであまり近所に迷惑をかけたくない気持ちもある。アパートの玄関での会話は思いのほか響きやすいのだ。…仕方ない。むしろ3ヶ月もよく見逃されてたと思う。


観念した私の新しいスマホにひとつ名前が増える。それを満足そうに眺めた彼は、どこか上機嫌で帰っていった。ああ、計画が早々に狂ってしまった。

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