第6話 ハレ
俺の声を聞いた彼女の顔は、パッと明るくなる。
「もちろん」
すると、彼女はそっと手をこちらへ伸ばしてきた。その手は、俺の胸元まで来ると動きを止める。
「私はあなたに力を委ねる。代わりにあなたは、私をある神に会わせる。それが契約よ。いい?」
「あ、ああ」
「それじゃ」
彼女はそう言うと、何かを掴むように、胸の辺りで指を折り曲げる。
その途端、視界が虹色の光に満たされる。
それと同時に、体の奥底で火が灯ったような温もりが滲む。
やがて、その熱は指先まで広がっていく。
不思議な感覚だ。
「これで正式に契約完了よ。私の名前はクラリネット。これからよろしく。」
まだ知らなかった彼女の名前を、経験したことの無いこの感覚と共に、頭に刻み込む。
「こちらこそ。俺の名前は殿院宮彰人だ」
「もちろん、これから契約する相手の名前くらい知ってるわよ」
なぜ俺の名前を知っていたのかという疑問を持つより先に、自分の軽薄さを指摘されたようで、いたたまれない気持ちになる。
にしてもなんだろう。今、どうしようもなく胸が高鳴っている。高揚感が押し寄せてきて仕方がない。
自分が何者かになれたような、そんな達成感から来るものなのかもしれない。
そんな風に自分に酔いながら、俺はクラリネットと名乗った天使に話しかけた。
「で、とりあえず俺はどうすればいい…んだ?」
ここで俺はあることに気づく。
そう、目の前からあのクラリネットとかいう天使がいなくなっていた。
まだ契約云々のくだりから、10秒も経っていない。
動揺を隠しきれずにいると、何やら声が聞こえてくる。
「…いるとするならばこの辺りのはずだが?」
かなりはっきりと聞こえる距離だ。
あいつらがすぐそこまで来ているに違いない。
だが、こちらは何が起こったのかもわからないまま1人で、後ろは行き止まりで逃げ場のない路地裏にほっぽり出されているといった状況だ。
力を得たはずではあるが、その内容を聞いておらず、それが分からないままでは手立てがない。
「おいおい嘘だろ…」
思わず不安が口から零れる。
目の前で彼女が消えた理由。
しかし、それらしき理由が思い浮かばない。
とりあえず今自分にあるはずの力が何なのか確かめる、俺に残された道はこれしかない。
いくつかの動作によって、能力が発動するか試してみることにする。
まず、道端に放置してあった、昔は換気扇の役割を果たしていたのであろう、プロペラ付きの黒ずんだ直方体に目星をつける。
脱ぎ捨てていたバッグを退かし、スペースを作ると、勢いよく振りかぶって、その直方体に拳を叩き込む。
すると、それは大きな音をたててへこんだ。
「…これか!」
普段とは威力が格段に違う。
自分の力に興奮を隠せず、思わず笑みがこぼれた。
これは恐らく、身体能力の強化といったところであろう。
だとしたら。試しに、軽く跳ねてみる。
すると、明らかに跳躍力が上昇していた。
感動のあまり、全身に鳥肌が立っているのが分かる。
続いて、どこまで跳べるのか試すため、全力で跳ねようとしたその時だった。
「おーい」
ふと、行方知れずだった彼女の声が聞こえてくる。
「どこだ!?」
不安に押し潰されそうだった心が、奥底から声を発する。
「今私はあなたの心の中にいるわ」
「…?」
「冗談よ」
よく分からない冗談が聞こえてきた方向を見ると、クラリネットが上から羽を広げて舞い降りてくる。
「あなた今全力で跳ぼうとしてなかった?」
「あ、ああ…してたけど」
「何m跳ぶと思ってるのよ。落ちて死ぬわよ」
…なるほど。そのレベルなのか。途端に、クラリネットが現れるタイミングが少しでも遅れていたらと青ざめる。
そういえば。
「お前、どこ行ってたんだよ」
「ちょっとね」
そう言いながらクラリネットは辺りを見渡す。
「さて、まだ悪魔が来てないなら飛んで逃げてもいいんだけど…あ」
そこには、見慣れた3つの影があった。
「ここにいたが?」
「どこー?」
「やっぱさっきの音、あいつだったんだよ!」
俺が能力を試すため、換気扇を殴った時の音が奴らを引き寄せてしまったらしい。
とはいえ、状況は先程とは違う。
今なら勝算があるはずだ。
「やるか」
「そうね、見つかったものは仕方ないわ。じゃあ…おっと」
次の瞬間、小さな影が2つ、目の前に迫ってきた。
「つかまえ…ぎゃぁ!」
一か八か振った両腕は、小さな体にめり込んでいた。
今までとは比べものにならないほどの力だ。
「やるね。じゃあ、説明するから。まず、さっきの換気扇イメージして。殴ってたやつ」
「え?あ、ああ…」
急に何の説明が始まるというのだろうか。
意味もわからないまま、先程の換気扇を頭に思い浮かべる。
改めて考えると、よく素手であの黒ずんだ物体に触れたなと思う。
それほどアドレナリンが出ていて、直情的になっていたのだろう。
すると、鎧がのっそりとこちらへ歩みを進め始める。
「ふん…契約か。しかし、その程度で勝とうなど、滑稽ぞ。その思慮の浅さ、笑止千万と思うが?」
この声を聞くと先程の恐怖を思い出し、あっという間に緊張に染まってしまう。
その時、クラリネットが声をかけてくる。
「…あいつ、ぎりぎりまで引き寄せて」
「わ、わかった。」
「そしたら、さっきの換気扇をイメージしながら、鎧の頭の方向に片手をかざして''フロント''って言って」
「は?」
あまりにも意味が分からない方向に話が進んでいくので、つい疑問が声に出てしまう。
「いいから。''フロント''ね」
なんだそれは。
しかし、それを疑問に持つ猶予すら残されていない。
「軟弱な童めが…こそこそと何を話しているか?我が直々に終わりにしてくれるが?」
じりじりと距離を詰めてくる相手を、ギリギリまで待つ。
命が懸かっている。
そのせいか、今までにないほどに神経が研ぎ澄まされている。
集中のあまりスローモーションにすら見えてしまうその足取りを捉え続ける。
・・・まだ。あと1歩。
相手がこちらに1つ歩みを進め、刀に手をかける。
それを確認すると、自ら相手の眼前にまで躍り出る。
されから、換気扇を思い浮かべたまま左手を相手の頭にかざす。
そして。
「ふろんとぉ!」
「ふふっ」
集中と緊張が極限にまで達していたために、思わず腑抜けた声が出てしまった。
クラリネットの馬鹿にするような笑い声が、嘲るように響く中。
その左手の数センチ先に、先程の換気扇が現れる。そして、それは前方へ勢いよく放たれた。
「があああっ!」
その大きな影は、換気扇が頭に直撃したことで、大きく後ろに吹き飛ぶ。
「なんだこれ…」
目の前で起きた意味の分からない現象に呆然としていると、クラリネットが話しかけてくる。
「次も換気扇をイメージしながら、倒れた相手の方向に右手を伸ばして''フォワード''って言って。」
「わ、分かった。フォワード」
言われた通りに、今度は右手を差し出す。
すると、鎧にぶつかり転がっていた換気扇が消えたかと思うと、右手の数センチ先に出現し、とてつもない速度で敵へと向かっていく。
「ぐああっ!」
その換気扇は鎧に当たると、音をたててバラバラになる。
「今のうち!逃げよう!」
「え?…お、おう、分かった」
勝手に倒しきる気になっていたが、そりゃ逃げれるのであれば逃げるのが最優先だ。
「逃げ…うお!」
逃げようと身を翻したところで、今度は小さい2つの影が脚にしがみついてくる。
「フロント!」
反射的にその言葉を発すると、バラバラになった無数の換気扇の破片が現れ、2体を吹き飛ばす。
「わあっ!」
「ぐええっ!」
「ほら早く、こっち!」
少し余裕があると判断して、脱ぎ捨てていたバッグを素早く拾いあげてから、クラリネットの後を追う。
そのまま走っていると、いつの間にか路地裏を出て大通りにいた。
「助かったのか…?」
「うん、多分ね。」
「そうか…」
命懸けの状況も、こんな風に戦ったのも、すべて初めての経験だった。
その緊張と興奮から解放された瞬間、安堵のあまりのせいでまともに立てなくなり、道にへたり込んでしまった。
「そうだ、通報しないと…」
「ダメよ。私と契約したことがバレたら逮捕なのよ」
「あんなのを野放しにしてもいけないだろ」
「いい?私を神と会わせるって契約したでしょう。捕まってたんじゃどうしようもないわ」
そう答えられてしまうと、何も言えなくなる。
「それで…これからの話をしようか」
「おう…あ!ちょっと待ってくれ!」
「何?」
「すまん、早く帰らないとまずかったんだ」
すっかり忘れていた。
もう時間を確認するのも恐ろしい。
そのまま立ち上がって、駅へと歩みを進める。
「ちょ、ちょっと待って!」
「なんだ、今度にしてくれ」
「いやあの…もう!」
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「あ、やっと見つけた」
仄暗い路地裏に、青い灯が瞬く。
静寂に溶け込むような透き通る声が、路地裏に響いた。
「誰だ!?名乗るのが礼儀と考えるが?」
「おい!じぇねらる様に近寄るな!」
「食べちゃうぞ!」
「堤です、通報のあった場所で容疑者と思われる悪魔を発見しました」
「貴様…''Daisy''と見受けるが?」
「分かってるなら話が早いね。君たち、昨晩何してた?」
「ふん。貴様に答える筋合いはない」
「うーん、じゃあ一旦署まで来て…くれそうにないね」
鎧を纏った大きな影は、刀を引き抜き、それを彼女に向ける。
女は、それを見つめながらその刀に近付いていく。
「何のつもりか?」
「戦うんじゃないの?」
すると、3人衆は蔑むような笑い声をあげる。
「馬鹿め!貴様のような華奢な女に何ができるか?」
「やっちゃいましょう!」
「さっきも食いそこねたから…おれもう腹へったよ…」
その数秒後、体を打ちつけるような鈍い音が響き渡る。
「我は貴女様について行くことが懸命と考えるが?」
「おれも…」
「はらへった…」
「じゃあ着いてきて。にしても…」
「ねーちゃん、名前なんて言うの?」
「え?ああ、堤琴音よ」
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