第5話 盟約
「契約…」
この世界には『契約』と呼ばれる行為が存在する。
ここでいう『契約』とは、単なる約束や取引ではなく、天使と人間間に限った固有の意味合いを持つ。
それは、天使が人間に対し、自分の力を提供するといったものである。
ただ、契約という名前がつくほどだ。
天使もまた、こちらにその対価を要求することができる。
そしてなにより───
「こちらからの条件はそんな大層なもんじゃない。私を…」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。契約は…」
天使の力を人間が手に入れる。
それは、人が天の摂理を逸脱することである。
これが許されてしまえば、世界はたちまちに秩序を失い、滅びの一途を辿ることになる。
もしも人が、好き勝手に殺し、破壊できる力を持つようになったら。想像は容易であろう。
このことから、天使と契約を結ぶ行為は、全世界共通で違法とされている。
「どうしたの?」
とはいえだ。
契約を結ばない限り、生き残る道は残されていないように思われる。
どちらにしろ、その条件とやらを1度聞くしかなさそうだ。
「なんでもない。で、条件っていうのは?」
身長はもちろん、その顔や声の幼さからは想像できないほどの佇まいだ。
正直、気圧されている自分がいる。
彼女の口が開かれるまでの、やけに長い数秒を、じっと静かに待った。
「条件だけど…私をとある神に会わせてほしいの。」
「…は?」
神。多くの宗教で信じられてきた、絶対的な存在。その意味こそ理解はできる。
が、しかし。その神に会いたいと言われても、その存在の有無は長年にわたり議論されてきたものであり、神に出会ったと自称する者こそいても、それが科学的に証明できた例は1度もない。
契約を守ることができなかったらどうなるのだろうか。死が待ち受けているという話も耳にしたことがある。
ならば、どうせ死ぬのだろうか?
なんなら、今からでも逃げれるんじゃないか?契約をしたとしても、連中に勝てる保証はどこにもない。
そもそも、契約をすれば逮捕されてしまう。これは避けられない事実だ。
今まで、真っ当に生きてきたつもりだ。
しかし、契約という行為は違法も違法、重罪である。
もちろん状況は状況だ。情状酌量はあるだろう。
だが、天使と契約した者は野放しにしておくには危険すぎる存在なのだ。
仮に無罪になったとしても、あらゆる自由を奪われ、もうまともに生きていくことはできないだろう。
今まで、普通に勉強をして、普通に部活をして、それなりの努力を重ねてきたつもりだ。
契約してしまえば、その努力が水の泡とまでは言わないが、報われたいと思うことすら高望みになってしまう。
そうして決断を先延ばしにし続けていたその時だった。
結論を急かさんと、あの声が聞こえてきた。
「お腹すいたよ…」
「黙れ。じぇねらる様は大変不快な思いをされてるのだ。ですよね、じぇねらる様」
「ここで食い損ねては本当にまずい。不快だ。不興だ。厭わしい。我は神に誓ったのだ。食わねば神に顔向けできない…と我は考えているが?」
その声は、着実にここへ近付いてきている。
「…悪魔がそこまで来てる。どうするの?」
もうそこまで来ている。
ここで決断をするべきだ。
契約するしかないのだろうか。
しかし…。
なぜ俺はいつも決めきれないのだろう。
いや、理由は分かっている。
ただ、勇気がないのだ。
母さんに言い返せないのも、別にそれを受け入れているわけでもなんでもない。
ただ、勇気がない、それだけだ。
サッカーだって、高校では勇気を出せないままだった。
言いたいことだってやりたいことだって何でもあった。
でも、それをいついかなる状況でも外に出すことはなかった。
それは優しさだとか空気を読んでとかじゃなくて。
ただ勇気がない。本当にそれだけだった。
しかしそんな人間がさっきまでこう考えていたのた。
いままで重ねてきた努力が報われないのは辛いと。
覚悟すら持っていない半端な人間の半端な努力が如何にして報われるのだろうか。
そうだ。こんな覚悟の1つも持っていない人間の努力が報われるはずもない。
変わらなくちゃいけない。そんなことは分かっていた。
ただ、自分が変わる機会なんてものは滅多に巡り会うことはできない。
それに巡り会うことができたとしても、勇気がないから。変わることを恐れて、今の自分に妥協して、先延ばしにして。
やがて目の前に訪れたその機会を、自分が変わるきっかけとして捉えすらせずに受け流し続けていた。
多分俺は、勇気が出ずとも、自分が変われるような、変わらざるを得ないような、そんな出来事をずっと待っていたのだ。
ただ、そんな都合のいいことがあるはずもなかった。
そうして待ち続けて結局何も変われなくて。
だから、ここで覚悟を決めるほかなかった。
「契約…してくれないか。」
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