第3話 受難
驚いてそちらを見ると、包みの中から、子供の腕のようなものが伸びていた。
小さな悲鳴を上げて、包みを手から離す。
すると、包みだけが落ちて、中身だけが右腕に残った。
それは、人間の子供のような姿をしていた。しかし、そうでないことにはすぐ気付く。
「あ゛あっ!」
その小さな手から繰り出された力によって、声も出せない程の苦痛を味わわされたからだ。
腕を絞り上げられ、生々しい痛みと共に、血管が裂け、温い血液が皮膚の下で広がっていくを感じる。
すると、前方でガシャンと大きな音がした。
余りにも嫌な予感に思わず音のした方向を見ると、そこにいた老婆の胴体が音を立てながら分裂していた。
やがて老婆が衣服を全て脱ぎ捨てたかと思うと、そこには大きな影と小さな影が、それぞれ1つずつあった。
重なるパニックに呆然としていると、無慈悲に次の苦難が襲いにかかる。
今右腕に絡みついている''何か''と同じくらいの背丈をした、その小さな影がこちらに走ってきて、左腕に飛びつく。
パニックの最中、路地裏と雨からなる視認性の悪さも相まって、五感から来るあらゆる情報を脳は処理しきれずにいた。だが、少なくとも今両腕にいるそれが人間でないということだけは理解していた。
「つかまえました!」
左腕に掴まった影は、声変わり前の子供のような声を響かせる。
まだ何が起こっているか理解出来ていなかった。だがこのままでは生きて帰ることが出来ない。そのことだけは察していた。
それさえ認識してしまえば、後は本能に従って、必死に元来た道を走り出すのみだった。
今何が起こっているか、それを考えるのは後だ。
「「うわあっ!」」
両腕に絡まったそれにとっては意外性の高い行動であったのか、悲鳴をあげ始める。
それを走りながら必死に振りほどくと、左腕に重なった影は鈍い音を立てて落ちていった。
一方、右腕を掴むそれの握力は人並み外れており、中々振りほどけない。
「だから腕じゃなくて足を掴まないといけなかったんだよ!」
「じぇねらる様が腕って言ったんだろ!ああ、また失敗しちゃう!」
動揺のあまり真っ白になった頭に、腕の重みがのしかかり、心身ともに動きが鈍ってゆく。
少しでも身体を軽くしようとバッグを降ろそうと試みるも、右腕を掴まれている以上、それは叶わなかった。
「じぇねらる様!早く!」
腕を振り回しながら、徐々に重くなってゆく足を絶えず動かす。
すると、「ぐあっ」と苦しげな呻き声が聞こえた。それと同時に、右腕にあった圧迫感が消える。
ふとそちらを見ると、先程まであった影は消えていた。
どうやら振りほどけたようだ。
微かな安堵感を得つつ、やがて先程曲がった角まで辿り着く。
一旦大通りまで出よう。
人目が着く場所であれば、安全が確保されるだろう。
しかし、そんなことを考えている猶予など与えられていなかったことに気付かされる。
「俺から逃げるのは愚策と考えるが?」
その重厚な声は、まるで身体に圧し掛かるかのようで、途端に動きを止めてしまう。
直後、冷たい手が肩に伸びてくる。
振り向くと、全身を西洋風の鎧で覆った、自分より2回りほど大きな巨体が立っていた。
逃げようにも肩にめり込むほどの力で掴まれ、振り払おうにもあまりに人間離れしたその力の前にはどうすることも出来ない。
「やっちゃおうよ、こいつ!はやく!」
遠くから駆け寄ってくる小さな影が、甲高い声を響かせる。
「そうだな、俺が直接ここで手を下してやっても構わんが?」
目の前の鎧が野太い声でそう発すると、金属が擦れる音と共に引き抜かれたその刃が、喉元に突きつけられる。
無機質な冷たさに、一瞬にして恐怖心が煽られる。
「久々の飯だ!」
「やった、はやくはやく!」
そんな無邪気さに答えるかのように、鎧は一際野太い声を響かせる。
「神よ!我と汝に祝福を与えれば良いが?神もまた我に恵みを施せること、誇りとすると良いが?」
神よりも自分の方が偉いかのような、大層傲慢なその言い草を違和感として捉えられないほどに、焦燥や恐怖に呑まれきっていた。
落ち着け。考えろ。
このままだと死ぬ。死にたくない。
では死なないためにどうすればいいのか。
この状況を打開するしかない。
この状況を打開するにはどうすればいいのか。
こいつを倒す?それは無理だ。あまりにも現実的では無い。
ここから逃げるか?
しかし、この手を振りほどくことはできそうにない。
もし一瞬の隙をついて逃げられたとしても、先程追いつかれたことを考えると、とてもではないが逃げきれたものでは無い。
考えれば考えるほど絶望は重なり、希望の射し込む裂け目は縫い閉じられていく。
「汝、滑稽ぞ。だが愉快でなかったこともないが?汝は我らと神への恵みの肉となるのだ、誇ってもよいが?」
そう言うと、鎧は剣を振りかぶる。
考えろ考えろ考えろ。
だが、この迫りくる雨が焦燥感を掻き立て、思考を霞ませる。
だが、やがて1つの揺るがないであろう事実に辿り着いた。
いまここで死ぬ。
あまりにも突然すぎて、現実味がない。
理解が追いつかないし、理解したいとも思わない。
それでも、いくら考えても辿り着くのはこの事実だけであった。
雨に打たれ続けた体は既に冷えきっていて、全身の筋肉は凍りついたように動かない。
いよいよ抵抗のしようもなく、ただ呆然と前を見つめる。
やがて押し寄せてきた恐怖に耐え切れず、意識は遠のいていく。
「…ワード」
微かに聞こえる少女の声が、ぼやけた意識の中に溶け込む。
それも次第に消え、視界は闇に包まれた。
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