第97話『いわゆる鉄道の隠語です』
放課後の寄り道って、ちょっとした冒険ですよね。
行き先はいつもの駅なのに、友達と笑いながら歩くだけで、風景が少し違って見える。
今回は、そんな“女子高生たちの放課後わちゃわちゃ”の中に、少しだけ社会の裏側をのぞく一幕を描きました。
何気ない日常の中にも、たくさんの人が働いていて、支えてくれている。
そんな気づきを、いのりたちと一緒に感じてもらえたら嬉しいです。
放課後の犬井町駅。
ホームに吹き抜ける風が、いのりたちのスカートを揺らした。
夕日がホームを照らし、電車のアナウンスがこだまする。
「ねぇ、今日行こうよ!」
いのりがスマホを掲げながら言った。
「五探田の駅ビルで、雛川区のロゴ入りTシャツが限定発売なんだって!」
「五探田の駅ビルって……あの黒いウニマークの服屋?」
楓が顔をしかめた。
「そう!九紅グループの傘下になったアパレル大手“ウニクロ”。あそこ、今すごいんだよ」
いのりの声はやけに熱がこもっていた。
あずさが半笑いで言う。
「いのり、ほんと好きだね、そういう区のやつ。部活休みの日にまで区政活動?」
「違うもん、今日は純粋に視察だよ」
「その言い方がもう自治会長(笑)」
そんなやり取りを聞きながら、後輩の詩帆はくすりと笑った。
「先輩たち、ほんと仲いいですよね」
彼女は一歩後ろを歩きながら、観察するように三人を見ている。
ボーイッシュな短髪にリュック、口調は明るくハキハキしている。
「詩帆は興味ないの?雛川区のロゴTシャツ」
いのりが聞くと、詩帆はにやりと笑って答えた。
「“区のロゴ”ってやつ、フォントに罠があるんですよ。ああいうデザインって、シンプルすぎて怖いんです」
「出た、ミステリー好きの分析」
楓が笑いながら肩をすくめた。
「でもさ、実際これ、区政協力委員会で正式に採用された雛川区の新ロゴなんだって」
いのりは胸を張る。
「九紅グループとコラボで、雛川区のブランド化を進めるプロジェクト。今日から期間限定で発売開始!」
「なるほど、宣伝効果抜群ってわけですか」
詩帆がメモでも取るようにうなずく。
「でも先輩、それ買うつもりですか? まさか経費で?」
「もちろん。“区政PR用衣料費”として処理できるはず!」
あずさが吹き出す。
「そんな明細あるわけないでしょ」
「なら何でもオッケーな雑費で処理しまーす!」
「いのり先輩、会計係とグルですね!黒幕!」
四人で笑い合っているホームに電車が滑り込み、ドアが開く。
夕方のラッシュ前。ホームにざわめきが走る。
四人は並んで乗り込み、つり革をつかんだ。
---
「うわ、車内広告まで出てるじゃん」
楓が見上げると、吊り広告に「雛川区×ウニクロ コラボフェア」の文字。
黒いウニのシルエットと、“雛川区の未来を着よう”のコピー。
「地元愛ってこういうことだよね!」
いのりは満面の笑みで言った。
「こうやって区の税金が潤沢に回って動いてると思うと、なんかリアル……」
詩帆がつぶやく。
「詩帆、言い方!」
あずさと楓が同時に笑った。
---
五探田駅に着くと、改札前から人が溢れていた。
エスカレーターを上ると、目の前に真新しいウニクロの看板。
白地に紅色の四角、そして中央に黒いウニのロゴマーク。
九紅傘下のアパレルになって、しっかりと九紅もアピールをしている。
「おぉ~、ほんとにあった!」
店頭にズラリと並んだ新発売の雛川区コラボTシャツにいのりが目を輝かせる。
「見て!この緑のロゴ、区の新マークだよ!委員会で正式発表されたやつ!」
「……フォントの形状が絶妙にズレてますね」
詩帆が腕を組んで観察する。
「これ、ちょっと文字の間隔が広すぎる。“自治体が作りました感”が強い」
と、あずさ。
「なんていうか……ちょっとダサいよね」
いのり以外の全員が思っていることを楓がハッキリと言ってしまう。
「それが味なんだってば!」
と慌てながら、いのりは笑ってTシャツを手に取った。
---
店内は学校帰りの学生や仕事を早めに切り上げた会社員で賑わっていた。
Tシャツ、トートバッグ、キャップ。
どれもシンプルな白地に“雛川区”の緑ロゴ。
「この値段、安いね。高校生のお小遣いでも十分手が届くじゃん」
楓がタグを見て言う。
「だよね!チーズ牛丼大盛りと変わらないよ!」
と、あずさが笑う。
「じゃあ団地の夏祭りにも、このロゴTシャツ着たらいいんじゃない?」
あずさの冗談に、いのりが即答する。
「いいね! 統一感出るし!」
「その時は私も行きたい!」
「もちろん楓も一緒!」
同級生の親友三人のワチャワチャした女子高生トークが弾む。
「でも、やっぱ九紅の資本力ですね。宣伝込みの企業コラボで安くしたって感じします。CM打つよりお得な広報部の戦略でしょう」
詩帆は経済アナリストみたいなことを言い始める。
そして詩帆はレジ前の人の列を見ながら、ぼそりと呟いた。
「区のロゴが服になる……なんか事件の匂いがしますね」
「いやいや、平和な経済活動だから!」
いのりが笑って返す。
---
買い物を終えると、外はすっかり夕暮れ。
ビルの谷間から吹く風が少しひんやりしていた。
袋の中のTシャツがかさりと鳴る。
「さ、そろそろ帰ろっか。犬井町駅まで!」
「今の時間帯、混んでそうだね」
「大丈夫大丈夫、すぐ着くって!」
いのりは明るく笑った。
だが詩帆は小声でつぶやいた。
「フラグ立ちましたね」
三人が
「やめて!」
と同時に突っ込み、笑い声が改札へ響いた。
このとき、誰も知らなかった。
帰りの電車が、予想もしないほど止まりまくることを。
---
電車が五探田駅を出て、二駅目に差しかかったころ。
車内はすでにぎゅうぎゅうだった。
吊り革の揺れる音と、ブレーキの軋む音。
押され、寄せられ、誰かの鞄が肩に当たる。
「うわ……この時間、えぐいね」
楓が息を詰めた。
「あと何駅?耐えるしかないよ」
いのりは笑いながら紙袋を抱え直す。
ふと、前方の座席が目に入った。
そこだけぽっかりと空いている。
一人のサラリーマン風の男性が、足を座席に投げ出して横たわり、完全に眠り込んでいた。
スーツのボタンは外れ、襟も曲がっている。
「……え、なにあれ」
あずさが小声で言う。
「寝てる?」
「というか、一人で座席を1列占領してるよね」
楓が眉をしかめた。
周囲の乗客は、ちらちらと見てはすぐに視線をそらす。
座席が埋め尽くされた満員の車内で誰も近寄らず、誰も声をかけない。
ただ、その周囲だけ妙に空気が冷えていた。
いのりも不安そうに言った。
「……白目剥いてるけど大丈夫なのかな」
「顔、真っ赤だよ。なんか呼吸も乱れてるし」
「えっ、まさか病人?」
三人がざわつく中、詩帆だけがじっと観察していた。彼女は少し首を傾けて言った。
「……んー、あの人、気持ちよさそうに寝てるだけですね」
「え、寝てるだけ?」
「はい。ただの酔っぱらいです。これだけの座席を独占できたと考えると……、空席の多い昼過ぎ頃から、すでに循環線を何周もしているんじゃないですか」
「えっ、そんな確信あるの?」
「ネクタイ頭に巻いてるのと、靴。片方脱げてます。あと、めっちゃ酒臭いです。昼間からたらふく飲んでベロベロになったおじさんですね」
「えぇ……」
「さすが、ミステリーマニアの詩帆……。あの人、ちゃんと帰れるかな?」
「うーん……おそらく終電まであのままかと。回送電車になって車庫に入る直前で駅員に声かけられるまで乗るタイプだと思います。」
「どうする?声かける?」
いのりは思わず紙袋をぎゅっと抱きしめた。
誰も注意しないまま、電車は次の駅に滑り込む。
電車が次の駅のホームに到着すると、酔っぱらい男の姿を確認した制服姿の駅員が慌ただしく無線を構えた。
車掌相手に、ひそひそと短くやり取りをしている。
「どうする?声かけてもすぐに起きないと思う」
「このままゲロ吐かれても、車内清掃で長時間の点検タイムになって困るしな。仕方ない。乗客からクレーム入れられる前に……いつも通り“救護扱い”にしよう。」
数秒後、駅員の手がホームに設置された赤い非常通報ボタンを押した。
ジリリリリリ!!!
「え、何事!?」
乗客達が慌てふためく。
けたたましく 甲高い非常ベルの音が車内に鳴り響いた。
「なに!?」
「人身事故!?」
「えっ、まさか……!」
ざわつく乗客たちの中で、誰もが息をのむ。
そして次の瞬間、放送が入った。
『ただいま、急病のお客様の救護のため、当駅で停車しております。安全確認が取れ次第、運転を再開いたします』
ざわつく乗客。
車内の空気が一瞬、張り詰めた。
いのりたちは顔を見合わせる。
ホームから乗り込んできた駅員たちが、酔ってぐったりした男を引きずり出している。
男は寝ぼけたまま
「俺、まだ飲み足りないのに……」
と口を動かしていた。
もちろん自分が電車を止めてしまったなんて、当の本人は微塵も思っていない。
あずさがぽつりと言った。
「……“急病人の救護”って、もしかして……」
楓が振り向く。
「え?」
「つまり、“酔っぱらい搬出”ってこと?」
いのりは目を丸くした。
「うそ、そんな言い方……」
「本当のことです。“酔っぱらい”も“急病人”にまとめて処理するらしいですから。いわゆる鉄道の隠語です」
詩帆の声は静かだった。
「え、それって隠語なの?」
「はい。“急病人=酔っぱらい”って意味もあるようです。表向きは“お客様を助ける”だけど、実際は“運ぶ”の方が近いですね」
三人は黙り込んだ。
「車内点検終了後、まもなく発車いたします」
ホームに響くアナウンスが、どこか遠くに感じられた。
「これは嘔吐物や汚染被害が無いか確認しているってことでしょうか」
「車内点検ってそういうことなんだ……」
詩帆の考察は説得力しかない。
電車は停車から十数分後、再び動き出した。
吊り革がゆっくり揺れ始める。
いのりは小さく息をついて言った。
「……急病のお客様の“救護”って、そういう意味もあったんだ」
「ね。急いでいる人が割りを食うって、なんかちょっと切ない」
あずさが頷く。
獣医志望の楓は紙袋を見つめながら言った。
「人の命を守るための言葉が、酔っぱらいの処理にも使われるなんて……」
詩帆は淡々とまとめた。
「まぁ、どっちも“社会の現実”ってことで」
「詩帆、言い方……」
いのりが苦笑した。
電車が再び動き出した。
ホームのざわめきが遠ざかり、ようやく揺れが落ち着く。
いのりは胸をなでおろした。
「はぁ……やっと動いた」
「ね、もうこれで大丈夫だよね」
あずさが笑う。
だが、その願いは三分ももたなかった。
――ガタン。
電車が急ブレーキをかけた。
そのまま徐行して駅のホームに入ると、扉が開かないまま、車内アナウンスが流れた。
車内の空気が、また一瞬で緊張に変わる。
『お客様にお知らせいたします。車両点検のため、当駅にて、しばらく停車いたします』
「え、また!?」
楓が声を上げた。
「今度は何!?」
詩帆が前方の窓を覗き込む。
ホームでは、小さな子どもが泣いていた。 母親が慌ててホームの隙間を覗き込み、ヘルメットを被った若い駅員が懐中電灯を線路に照らしている。
「……靴、落としたみたいだね」
いのりが小さく呟く。
すると長い掴み棒を持った若い女性駅員が、同じヘルメットをかぶって線路をのぞき込んだ。
掴んだ棒の先には小さなスニーカー。
慎重にすくい上げると、ホームにいた親子から拍手が起きた。
「よかったぁ……」
いのりの声には安堵が混じっていた。
楓が微笑む。
若い女性駅員が子供に靴を履かせると、母親は何度も頭を下げていた。
子供に手を振ると、そのまま駅員達は何事もなかったように戻っていった。
「“車両点検”ってそういう意味もあるんだね。もっと大事かと思ってた」
楓がつぶやく。
「“車両点検”=線路の落とし物対応。これでひとつ学びましたね」
「勝手に授業にしないの」
詩帆の講義にあずさが笑った。
車両の扉が開いて乗客が一気に降りると、雪崩のように待っていた乗客が乗り込んできた。
停車から十数分後、再びドアが閉まる。
満員になった電車がゆっくりと動き出した。
だが、ほんの一駅先。
「やめてください…誰か助けて!」
「あんた、次の駅で降りろ。」
「な、なんだよ!離せよ!!」
「あんた、この娘の胸触ってたろ!」
いのりたちの乗る車両の前方から怒鳴り声が聞こえた。
一瞬、空気が凍る。
「な、なに!?」
いのりが顔を上げると、次の駅で停車した車両のドアが開き、車内の騒ぎを聞いて駅員が数人駆け込んできた。
周囲の乗客たちは息をのむ。
「……痴漢ですね」
詩帆が静かに言った。
「多分、揉めてます」
ホームに引きずり降ろされた男の怒号が響く。
駅員の腕を振り払おうと必死に抵抗する男。
それを全力で止める駅員と、男の手を掴んだサラリーマン。
その近くで女子大生風の女の子が泣いていた。
「話は駅員室で聞くから!」
「俺じゃねぇって言ってんだろ!!」
すると、男は駅員とサラリーマンの手を振り払って、ホームから改札階へと向かう階段目掛けて走り出した。
だが、階段前で他の駅員たちにあっさりと取り押さえられる。
「だから違うんだって!!」
「わかったから逃げるな!とりあえず一緒に車両カメラを確認しにいこうか」
男は両手足を抑え込まれたまま、複数の駅員たちに連行されていった。
やがて、車内アナウンスが流れた。
『ただいま、線路内へ人の立ち入りがあったため、安全確認を行っております』
楓が呆れたように言う。
「……出た、“線路の立ち入り”」
いのりが首を傾げる。
「え、さっきの人、線路に入ったの?」
「いえ、入っていなくても線路の立ち入りになるんです。これも隠語ですよ。“トラブル発生中”の意味です。今回は痴漢の確保で電車が止まったってことですね」
詩帆がまるで刑事ドラマの解説のように言った。
「なるほど、現場の言葉か……」
あずさが感心したように頷く。
停車中の車内は静まり返っていた。
誰もスマホを見ず、息を潜めるようにしている。
車窓の外には、非常灯のオレンジ色の光。
いのりはぼそりと呟いた。
「……人が多い駅って、こういうこともあるんだね」
「うん。誰も悪くないのに、全員が足止めされる」
楓が苦笑した。
「でも、こういうときに対応する駅員さん、すごいと思う」
「“救護”“点検”“立ち入り”……全部、誰かが現場で動いてるってことですよね」
詩帆が静かに言った。
いのりは頷いた。
「そうだね。こういう人たちが、毎日この都市を動かしてるんだ」
しばらくして、電車は再び動き出した。
ドアの隙間から流れ込む夜風が、少しだけ涼しかった。
「とりあえず雛川区のTシャツ買えてよかったね」
駅に降り立ったいのりが苦笑する。
「ねぇ、これ、今日のタイトル“帰宅ラッシュ地獄編”にしていい?」
楓が笑う。
詩帆はスマホのメモを開きながら、さらりと言った。
「本日のまとめ。“救護=酔っぱらい”、“点検=落とし物”、“立ち入り=痴漢”。」
「……どこの授業ノート!?」
あずさが突っ込み、四人は顔を見合わせて笑った。
---
犬井町駅。
乗り換えを経て改札を抜けた瞬間、四人はそろって深いため息をついた。
「……帰りの電車で一時間半って、もはや小旅行だよね」
楓がうなだれる。
「立ちっぱなしで足痛い……」
あずさがペットボトルのお茶を飲み干す。
「なんか、心まで疲れましたね」
詩帆が苦笑いしながら言った。
いのりは、紙袋を抱えたまま夜空を見上げた。
電車の高架を、まだ次の列車が走っている。
窓の明かりが流れ、さっきまでの喧騒を遠くに感じた。
「……でも、今日ちょっと思った」
いのりがぽつりと言った。
「“救護”も“点検”も“立ち入り”も、全部あの人たちが現場で動いてた。見えないところで、ちゃんと誰かが支えてくれてるんだね」
楓が頷く。
「駅員さん、ほんと大変だよね。電車が遅れて乗客が文句言ってる間も走り回ってた」
「“酔っぱらい救護”も、“落とし物回収点検”も、“線路立ち入り”も……全部、仕事のうちですね」
詩帆が腕を組んで言った。
「電車と一緒に働いている人が回してる。社会って現場でできてるんだ」
あずさの気づきに、いのりは少し笑った。
「……それ、自治会も同じかも」
「え?」
「住民の前で“防災訓練やります”って言うけど、裏では誰かがポスター貼って、机運んで、テント立てて……。結局、誰かが“動いてる”から成り立ってる。そういう意味じゃ、駅員さんと私たち、似てるかもしれない」
詩帆がにやりと笑った。
「じゃあ、今日のまとめ。“自治会長=公共交通インフラ”でどうです?」
「どんな例えよ!」
あずさが即座に突っ込む。
楓も吹き出した。
「まぁ、たまにはいいじゃん。こういう社会見学みたいな日も」
「ね。地元ロゴTシャツも買えたし!」
いのりが笑うと、三人もつられて笑った。
遠くで電車の発車ベルが鳴る。
あの混雑と騒動が嘘みたいに、夜風は穏やかだった。
「次に五探田行くときは、平和だといいね」
楓の言葉に、みんなで頷いた。
そしていのりは、紙袋を抱え直しながら、静かに心の中でつぶやいた。
“公共”って、誰かの努力の上に成り立ってる。
それを知れただけで、今日はいい日だった。
電車が止まったり、駅でトラブルがあったり。
都会では当たり前のように流れるアナウンスにも、実は人の汗と努力が詰まっています。
今回のお話は、そんな“現場の言葉”をきっかけに、社会の仕組みや支える人たちに目を向けてみたいという思いで書きました。
笑って、驚いて、少しだけ考える。
そんな放課後があることも、青春の一部だと思います。




