第91話『もう認めよう』
日曜の午後、静かに降り出した雨の中で、いのりはようやく心を緩めます。
午前中の住民総会を終え、責任と緊張から解き放たれたその瞬間、思い浮かんだのは木澤の顔でした。
彼に会えば、強がらずにいられる。
タイトルの意味がわかるとき、きっと読んでくださる皆さんも、いのりの心に静かに寄り添っていただけると思います。
日曜の午前。
役員会を終えたいのりは、重たい書類鞄を抱えて帰宅した。
昼食をとり、家族それぞれが予定に散っていくのを見送りながら、午後は空いた時間になった。
自然に、木澤と約束していたことを思い出す。
空は一面、低い雲に覆われていた。
今にも降り出しそうな灰色で、天気予報士も
「傘を持って出かけましょう」
と繰り返している。
そんな空模様は、午前中の住民総会をやり切ったいのりの胸の中とどこか重なっていた。
壇上では強い自治会長を演じきった。
嫌われる覚悟で正論をぶつけ、会場をまとめた。
その達成感と同じくらい、胸の奥にはまだ震えのような疲れが残っていた。
(……怖かったな)
副会長の哲人やビシ九郎が横にいてくれなかったら、声を出すことすらできなかったかもしれない。
ひとりでは、とても耐えられなかった。
だからこそ、木澤と会う約束が心の支えだった。
この人に会えば、強がりじゃない素の自分でいられる。
そう思える相手がいることが、たまらなく安心だった。
---
午後。
傘を手に取り、いのりは玄関を出る。
向かったのは、旧九潮南小学校の跡地に新設された公営ジム。
かつて地域の子どもたちが学び、走り回っていた校舎。
木澤の母校でもあるその小学校は、校舎の一部を残して改修され、今は地域住民の交流や健康づくりの拠点として生まれ変わっている。
体育館だった場所はトレーニングジムに生まれ変わり、真新しいフローリングと器具の並ぶ光景が広がっていた。
自治会長として最初に視察で訪れたのがきっかけで、その後は木澤と何度も足を運ぶようになった。
フローリングの香りと、空調に混じるオゾンの匂い。
窓の外ではすでに細かな雨粒がガラスを伝い始めている。
すでにトレーニングウェアに着替えていた木澤が、気楽そうに笑いかけてきた。
「お疲れ様、いのりちゃん。雨、大丈夫だった?」
「うん、平気。ちょうど降ってきたみたい。雨で滉平君が来てなかったらどうしようって、入り口の前でちょっとドキドキだった」
冗談めかして言ったが、心臓が速く打ち始めるのは家を出る前からだった。
軽くストレッチをしてから、二人でトレーニングフロアへと歩き出す。
そのとき木澤が、ふと思い出したように口にした。
「二人でここ来るの、もう何度目だろうね」
「……そうだね。なんだか、もう慣れちゃったかも」
いのりは少し照れながら笑った。
でも心の奥では、ただのジム通いとは違う意味を持っていた。
ここは木澤の母校・九潮南小学校。
子どものころの彼が走り、笑い、過ごした校舎が形を変えて残っている。
その空間に一緒に立っていることが、不思議なほど特別に思えた。
(滉平君が“懐かしい”って感じる場所を、私も一緒に歩いてるんだ)
同じマシンに手をかけ、同じ床を踏みしめているだけで、彼の過去と現在に自分が並んでいるような気がする。
それが、いのりにはたまらなく嬉しかった。
「ランニング、どのくらいのペースでいく?」
木澤が軽く笑う。
「え、えっと……あんまり速くしないでね」
冗談めかして答えたつもりが、胸の鼓動はすでに速く打っていた。
軽く汗を流したあと、二人で並んで冷水機の紙コップを手にした。
休憩スペースで冷たい水を飲むいのり。
ひんやりした水が喉を通っていく。
その小さな一瞬さえ、心がじんわり解けていくようだった。
その横顔を盗み見るたび、ただの休日の午後が特別な時間に変わっていく気がした。
「前に比べて、フロアも明るくなったよな」
木澤が感想をもらす。
「うん……前は廊下とかも薄暗かったから、ちょっと怖いくらいだったし」
自然に返事ができた。
ほんのささいな会話。
だけど、ただ隣にいるだけで不思議と呼吸が楽になる。
午前中に張り詰めた気持ちは、少しずつ和らいでいった。
(……言いたいこと、たくさんあるのに)
喉元までせり上がっては飲み込んでしまう。
怖かったこと、不安だったこと。
言えるのはきっと、この人だけ。
でも、まだ言葉にはできない。
だから、いのりはただ隣にいる木澤の横顔を見つめて、静かに心を落ち着けていた。
---
ジムを出ると、外は小雨に煙っていた。
濡れたアスファルトが光を返し、街路樹の葉から雫がぽとりと落ちる。
「……あれ? 私の傘が……」
置いたはずの場所に影も形もない。
「困ったね。誰かが間違えて持って行ってしまったのかも」
木澤が言うと、
「ビニール傘ってどれも同じように見えるもんね。どうしよう…」
いのりが困惑の表情を浮かべる。
すると、木澤が自分の傘を開き、当然のように差し出した。
自然に肩を寄せられ、彼の片方の肩はあえて濡れていた。
「いのりちゃん、よかったら入って。」
「え?」
「風邪ひいたら大変でしょ?」
(……どうして、こんなに優しいの)
胸が熱を帯びていく。
雨に濡れた緑道は静かで、街路樹の葉から水滴がぽつぽつと落ちていた。
肩が触れそうなほどの距離で、一本の傘の下を二人が並んで歩く。
土とアスファルトの匂いが混じり合い、しっとりとした空気が漂っている。
しばらく歩いたところで、木澤がふと立ち止まった。
「…せっかくだし…少し歩かない? 団地の外まで」
「え?」
「敗島橋まで行こうよ。あそこからの景色、いいんだ」
自然体の誘いに、いのりは胸が熱くなる。
「……うん」
自分でも驚くほど素直に返事をしていた。
並んで歩く緑道は、雨粒を含んだ葉がきらきらと光り、土とアスファルトの匂いが立ちのぼっている。
その景色を眺めながら、木澤がふいに口を開いた。
「そういえば……今日、117・119号棟の総会だったんだよな。どうだった?」
いのりの胸の奥がずきりと痛む。
ほんの少し間を置いて、ぽつりとこぼした。
「……怖かった」
「そっか」
木澤は頷く。
否定も追及もしない。
ただ静かに耳を傾ける。
「壇上に立って……たくさんの人の前で、言いたくないことを言わなきゃいけなくて。嫌われるの覚悟で。足が震えて止まらなくて……」
言葉を重ねるごとに、張り詰めていた糸がほぐれていく。
「怖かったね」
木澤は静かに言った。
その声は柔らかく、雨音に溶けていった。
「でも、副会長が隣にいてくれて、ビシ九郎も……。だから乗り切れただけ。私一人だったら、きっと何もできなかった」
「そうだね。ひとりじゃ大変だったよな」
「……私、誰かに支えてもらわないと、生きていけないんだなって思った」
「うん……わかるよ」
静かな返事。
それだけなのに、胸がじんわり熱くなる。
いのりは気づけば、ぽろぽろと涙を流していた。
「……っ、ごめん……」
慌てて袖で拭おうとした瞬間、木澤の指がそっと伸びて、涙の雫を拭ってくれた。
「いのりちゃんは、十分頑張ってるよ。……怖かったね。その場にいて守ってあげられなくて、ごめん」
言葉と同時に、ふわりと抱き寄せられた。
木澤の胸板に頬が触れ、鼓動が直に伝わってくる。
雨音と混ざり合って、世界の全てがその音で満たされた。
いのりは抵抗するどころか、ただその腕の中に身を委ねた。
(……守られてる。大事にされてる……)
そのぬくもりに包まれながら、心が張り裂けそうになっていた。
「あ、ごめん…。つい、何もできない俺が不甲斐なくて」
「ううん。いいの。ありがとう。滉平君がこうしてくれて嬉しかった」
「いのりちゃん…」
その瞬間、胸の奥がじんわり熱を帯びる。
いのりは木澤の横顔を見上げた。
何も否定せず、説教もせず、ただ受け止めてくれる木澤の温かさが胸を包んだ。
(この人には……言える。何でも話せる。怖かったことも、悲しかったことも。弱い自分だって見せられる)
雨上がりの匂いの中で、心が静かに解けていった。
雨脚は次第に弱まり、敗島橋の上に着くころにはほとんど止んでいた。
街灯の光が川面に揺れ、遠くには霞む高層ビル群。
振り返れば団地の窓に明かりがともり、暮らしの気配がにじみはじめる。
「ここからの眺め、好きなんだ」
木澤が傘を少し傾け、濡れた髪を指で払う。
「……うん、私も好き」
自然に言葉が出ていた。
この町も、この景色も。
でも何より、彼と一緒に見ていることが嬉しかった。
ふと気づくと、木澤の肩の片側だけが濡れていた。
自分を濡らさないように、そっと身を傾けてくれていたのだ。
(私のこと……守ってくれてたんだ)
胸がじんわりと満たされる。
橋の上はまだ濡れて滑りやすい。
「気をつけて」
そう言って木澤が手を差し出す。
ずっと、もう一度触れたいと思っていた。
その気持ちに抗えず、いのりの指先は自然に動いていた。
彼の手を探すように、そっと伸ばし……
そして握った。
驚いたように一瞬目を見開いた木澤。
けれど次の瞬間には、強さではなく優しさを込めて握り返してくれた。
温かい。
さっき抱き寄せられたときに感じた鼓動と体温が、手のひらからまた伝わってくる。
始球式のあと。
鳴り止まない歓声と鼓動、緊張で足がすくんだ自分を支えてくれたあの感覚。
ずっと繋ぎたかった手が、今ここにある。
(やっぱり……この人しかいない)
ただ足元を守るために差し出されたのかもしれない。
それでも、温もりが何よりも嬉しい。
雨に洗われた空気の中でそれだけが鮮やかに浮き立っていく。
心臓の鼓動は速すぎて、呼吸まで苦しいほど。
役員会の議題も、ジムで流した汗も、彼が語った団地の歴史も、すべて霞んで消えていった。
胸の奥にただ一つの答え。
もう逃げられない。誤魔化せない。
(……もう認めよう)
声には出さず、心の中で宣言した。
(『私は、滉平君が好きなんだ』)
胸の奥が熱くなり、涙がまたにじむ。
でも今度は悲しくない。
ただ、幸せでいっぱいで。
(ふふ……やっぱり私って、チョロいのかも)
自嘲のように思うけれど、頬は緩みっぱなしだった。
恋に落ちるって、きっとこういうこと。
五月雨が湿る初夏の湾岸。
明かりを灯すにはまだ早い時間なのに、薄暗い曇り空の下で東亰レインブリッジがキラキラと光を放つ。
ゴウンゴウンと風を切る音が鳴り響く高速道路。
団地と都心のビル群に挟まれた敗島橋の上で、いのりは願った。
(この時間が、永遠に続けばいいのに……)
そんないのりの願いとは裏腹に、時折通過していく東亰モノレールの軋み音が残酷にも時間の経過を感じさせる。
握った手はそのまま。
ただ雨上がりの静けさだけが二人を包んでいた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第91話「もう認めよう」は、いのりが自分の“気持ち”に気づく大切な回でした。
強い自治会長として走り続けてきたいのりが、初めて自分の弱さを認め、誰かに支えられることを受け入れます。
その優しさが恋心へと変わっていく過程を、雨の静けさと手の温もりで丁寧に描きました。
恋をするということは、決して劇的な出来事ではなく、
静かに、でも確かに心の奥に灯る温かさだと思います。
どうかこれからも、いのりの小さな成長を見守っていただけたら嬉しいです。




