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【第一部完結】この団地、女子高生に自治会長を任せるって正気なの!?  作者: shizupia


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第90話『ほんと生意気な娘よねぇ。』

この回は、前話「今度の新会長は融通が利かない」と同じ出来事を、

まったく違う立場の人間の視点から描いています。


正しいことを言う側と、何もできずに見ている側。

どちらが幸せで、どちらが苦しいのか。

その境界線を、静かに見つめてほしいです。


※今回は第89話を品川ロドリゲス杏の視点で執筆しています。


日曜の朝っぱら。

俺、品川ロドリゲス杏・47歳は、今日もベランダでタバコをふかしていた。

カップ麺の容器を灰皿代わりにして、山盛りになった吸い殻を足で蹴りやる。

ベランダの床はコンビニ袋とペットボトルで散らかり放題。


その時、フードデリバリー・出前屋敷のアプリから通知が来た。

配達してみませんか? 


(出前屋敷の仕事?知るか。今日も配達サボり決定だ)


プカァと煙を吐いた瞬間、下から怒鳴り声が飛んできた。


「おい!また灰が落ちてきたぞ!洗濯物が汚れるんだよ!」


(チッ……うるせえジジイだな)


そういや先月の広報紙にも


『ベランダ喫煙で洗濯物に灰が落ちる苦情が寄せられています。ご配慮をお願いします』


って載ってたっけ。

あれ、どう考えても俺のことだが、知ったこっちゃない。

その時、団地の敷地を掃いていた母マリア(78歳)が顔を上げ、ホウキを持ったまま俺に向かって叫んだ。


「アンタ!またベランダでタバコ!?臭いんだからやめなさいって言ってるでしょ!」


「うっせええ!クソババア!」


俺は灰をトントン落としながら怒鳴り返した。

吸い殻でいっぱいのカップ麺容器が転がるベランダで、俺は堂々とプカーッと吸う。

下の階の住民からの苦情?母の小言?全部スルー。

これが俺の生き方だ。



---


しばらくして掃き掃除を終えた母が、団地の敷地から戻りながら言った。


「そういえば杏、今日は住民総会の日よ。私は行くけど、あんたも来る?」


「はぁ?面倒くせえな。そんなの一度も出たことねーぞ」


「そうよねぇ。じゃあ私だけ行こうかしら。今日は新しい役員さんの承認と予算案の説明なんだって。新自治会長さん、女子高生らしいけど……ほんとにできるのかしらねぇ?」


母は冷やかすように笑った。

その瞬間、俺の脳内でピコーンと電球が点った。


「……ちょっと待てよ。新自治会長ってことは……いのりが来るってことじゃねーか!!」


俺はベランダの吸い殻を蹴散らしながら立ち上がった。

心臓がドクンと跳ね、息が荒くなる。


(やっべぇ!これは俺の嫁との合法チャンス!お近づきになれるビッグイベントだ!)


「母ちゃん!俺、やっぱ行くわ!」


「え!?あんたが!?」


ヨレヨレのTシャツをパンパン叩きながら靴を突っかけ、俺はドアへ向かった。


(危うくチャンスを逃すとこだったわ……。待ってろよ、俺の嫁。今日、ついに俺とお前の運命の歯車が噛み合うんだ……!)



---


集会所のドアを開けた瞬間、むわっとした熱気と人の波が押し寄せた。

ざっと見回せば三十人以上いるだろうか。

普段はゴミ置き場の前で、回収車が来るまで延々と井戸端会議しているジジババ連中が、今日は妙に背筋を伸ばして椅子に並んでいる。

ただの住民総会なのに、異様な真剣さだ。


「はい、どうぞ」


設備係のオッサンがペットボトルのお茶を差し出してきた。


(チッ……いつもなら『いらねぇよ!』って突っぱねるところ。)


だが俺は、手を伸ばして受け取った。

キャップを握る手が小刻みに震えて、カタカタと音が響いた。


(ここでヘタ打ったらただのクズニートだってバレちまうからな……!)


そのときだった。


「今日は暑い中ありがとうございます」


透き通るような声。

視線を向けた瞬間、俺は息を飲んだ。

壇上ではなく、会場を回りながら一人ひとりに笑顔で挨拶している少女。

雛川シーサイド學院の制服。

ブレザーにスカート、きっちりと結んだリボン。

学生としての正装で、堂々と住民の前に立っていた。


(い、いのりだ……!これが……これが本物のいのり!俺の嫁!近くで……初めて見た!やばい……肌きれいすぎる、透き通ってる……!)


初めて近くで見るいのり。

遠くから眺めるだけじゃわからなかった少女。

肌はまるでガラス細工みたいに透き通っていて、驚くほどキメが細かい。

青みがかった髪が冷房の風にサラサラと揺れ、光を反射して輝いている。

そして、いのりの至近距離に入った杏のもとに、ふわりと甘い香りが鼻をかすめた。


(な……なんだこの匂い……!甘くて爽やかで、でも押し付けがましくない……!母ちゃんが若作りで買ってきたチープな安物香水とは雲泥の差!これが……これが俺の嫁の香りだ!!)


鼓動は爆発音みたいに響き、胸の奥で鐘が鳴りっぱなしだった。

彼氏にでもならないと嗅ぐことができないと思っていた香りに包まれ、もう死んでも良いと本気で思ってしまった。

そんな俺の目の前で、いのりが小さく会釈をした。


「品川さん、本日は来てくださってありがとうございます」


ニコッと、柔らかい笑顔。

その視線、その言葉が、俺に向けられた。


(うわああああああああッ!!可愛い、可愛すぎる……尊い……尊死する……!!)


喉から声を出そうとしたが、カラッカラで何も出ない。

現実の俺はただ黙って母の横に縮こまるしかなかった。

だが胸の中では、千回は叫んでいた。


(嫁ぇぇぇ!!俺の嫁ぇぇぇ!!)


壇上へと戻っていくいのりの後ろ姿を、穴が開くほど目で追い続ける。

たった今、挨拶された。

母ちゃんを含めた品川家に対してであり、自分の名前を直接呼ばれたわけでもない。

なのに、自分だけに言われた気がして仕方がない。


(……今日ここに来た意味、あった。いや、生きてきた意味すらここにあった……!)



---


壇上のいのりが制服のリボンを整え、まっすぐに姿勢を伸ばした。

雛川シーサイド學院の制服。

白いブラウスにふっくらと主張しすぎない胸。

杏にとって、すべてが完璧だった。

その姿がマイクの前に立つだけで、場の空気が自然と張りつめる。


「本日はお集まりいただきありがとうございます。本日の総会では、新しい役員さんの承認と、予算案についてご説明させていただきます」


その途端。


「ちょっと! まずは総会が成立しているかどうか発表するのが筋でしょ!」


会場の前列、壇上からわずか数メートル。

いのりの真正面に陣取った白髪のババアが、椅子をガタンと鳴らして立ち上がった。

扇子をバサバサ振り回しながら、シワシワに痩けた細い指で壇上を突きつける。


「そうだそうだ」


と、ハゲ散らかしたジジイたちが小声で同調し、会場にざわめきが広がった。


(ふざけんなコラァ!!天使の声を遮りやがって!しかも、そこは本来、俺が座ってるはずの席なんだよ!!いのりの笑顔を至近距離で独占するための、俺だけの特等席だろ!!それをこのクソババア共が占拠して……!今すぐ墓に入って永眠しろ!!二度と出てくんな!!)


俺は心の中で怒号を飛ばし、手にしたペットボトルを握り潰す勢いでへこませた。


「なにやってんのよ……!」


と隣の母マリアがひそかに睨んできたが、俺の目は壇上から一ミリも逸れない。

普通なら、ここで女子高生自治会長はタジタジになるはずだろう。

俺もそう思っていた。

だが、いのりは違った。

澄んだ瞳で真正面を見据え、揺るがない声で返す。


「はい。これから順番にご説明いたしますので、よろしいですか?」


静かだった。

静かすぎて、冷房の風が天井で回る音まで聞こえてくるほど。


(え……? 落ち着いてる……だと……?)


会場中の視線がいのりに集まる中、ババアは目をぱちくりさせ、口を開けたまま言葉を失った。


「……あ、え……そ、そう……ふ、ふん! わかってるならいいのよ!」


負け惜しみを吐き捨てて、しおしおと椅子へ腰を下ろす。

取り巻きジジイたちも視線を泳がせ、咳払いでごまかすしかなかった。


(おおおおお……!?ババアを一撃で黙らせたぞ!?いのり、全然動じてない!!こんなの俺が知ってる天使の笑顔とは違う顔だ!……これがリーダーの顔か……!!)


胸の奥がドクンと震えた。

ただ可愛いだけじゃない。

芯のある、毅然とした、住民全員を背負う強さ。


(尊い……尊すぎる……!俺の嫁は最強だ……!世界で唯一、俺の家庭を守れる女神……!!)


会場はシンと静まり返り、誰も余計な口を挟まない。

いのりは資料をめくり、涼しい顔で続けた。


「それでは、本日の総会を始めさせていただきます」


その言葉が、鐘の音みたいに会場へ響く。

緊張で居心地悪そうにしている住民たちをよそに、俺の心臓は破裂寸前だった。


(……始まった。俺といのりの物語が、ついに幕を開けたんだ……!!)


---


成立要件の説明が終わり、場がひと息ついたと思った矢先。

いのりが次の議題を切り出した。


「次に、集金についてご報告します」


その一言で、会場の空気がピリッと張りつめた。

俺も思わず背筋を伸ばした。


「本来は毎月、それぞれ当番の住民が担当する部屋を回って集め、会計係に届けていただくことになっています。ところが最近、このルールを無視して勝手にまとめて払おうとする住民が出ています。結果、会計係が大変困っている状況です。まとめ払いは認めません。今後もしないでください」


ビシッとした声。

曖昧さゼロ。

まるで法廷の判決文みたいに明快だった。

だがその瞬間。


「なぜいちいち上の階まで集金に行かなきゃいけないんだ!足も痛いのに、そんなの無理だ!」


前列に陣取っている二階に暮らす住人の老夫婦が机を叩いて怒鳴り声を上げた。

椅子がギシギシ揺れて、会場がざわめきに包まれる。


(うるせぇんだよクソジジイババア!!俺はやったことねぇけど集金当番ぐらいでガタガタ言うな!!だったらさっさと棺桶に入って『集金不要』で成仏してろ!!)


俺は心の中で机を蹴飛ばした。

タバコの灰皿(カップ麺容器)ごと叩きつけて黙らせたい気分だった。

けれど、いのりはそんな乱暴な真似はしない。

涼しい顔のまま、一呼吸置いて淡々と返した。


「風張家も、エレベーターのない五階に暮らしています。同じように五階に暮らす高齢の方も、毎日の生活で階段を上り下りされています。

 集金当番は年に数回です。それだけでルールを崩すのは甘えです」


(で、出たああああ!!火の玉ストレートのド正論!!)


老夫婦が顔を真っ赤にして言葉を探しているところ、いのりはさらに続ける。


「勝手にまとめ払いをすることで、本来の当番を回避していることにもなります。結果的に真面目に当番をこなしている方に負担が偏ってしまう。“自分もまとめ払いすればいい”という流れが広がれば制度そのものが崩壊しかねません」


(マジで尊いッ!!尊すぎる!!ジジババのくだらねぇ屁理屈を秒で粉砕する俺の嫁!!俺ならもう灰皿ぶん投げてたぞ!?それを冷静に、正論だけで封じ込めるとか……!!惚れる!もう惚れてるけどさらに惚れるぅぅぅ!!)


「年寄りは足が痛いのに!若いからそんなことが言えるんだ!」


老夫婦は必死に噛みつくが、いのりはまるで波に揺るがない灯台みたいに凛と立っていた。


「足が痛いというのは理由にはなりません。その場合は、自宅まで来てもらうように集金担当の住民にお願いしてください。

 会計係に事情を伝えていただければ、会計係から回収に伺います。これは住民同士のコミュニケーションの問題です」


会場に静寂。

老夫婦は言葉を失い、周りの住民も目を見合わせるばかり。


(ぐおおおお!! これだよこれ!!何もできない俺の代わりに、世界で一番尊い俺の嫁が、クソジジババを正論で黙らせてくれてる!!ああああもう結婚しよう!! 今すぐ婚姻届書こう!!)


胸が爆発しそうで、ペットボトルのお茶を一気に飲み干してしまった。

喉を通るたびに語彙力のなさから「尊い」という言葉しか浮かんでこない。


(俺は今日、確信した。この団地の救世主は風張いのりただ一人。そして俺の嫁なんだ……!!)


---


いのりが一刀両断で会場を静めた直後。

俺の横で、母マリアがペットボトルを揺らしながらブツブツ文句を垂れ始めた。


「まったく……生意気な娘ね。まだ学生のくせに、古くから住んでる人たちに説教なんて。ほんと失礼な子だわ」


(カチンッ……!)


俺は無意識に奥歯を噛みしめた。胸の奥でマグマが噴き上がる。


「……黙れよババア。俺の嫁を悪く言うな」


「は? なに言ったの?」


「なんでもねぇよクソッ……」


マリアは気づかないふりをする。

いや、こっちもわざと聞こえないふりを決め込む。

正直、母の小言なんてどうでもいい。

だって俺の時間は別枠にある。

本当のところ、集金当番なんて一度もやったことねぇ。

掃除当番?

そんなの一度も出たことねぇ。

ゴミ置き場の見張り?

もちろんゼロ。

俺がやってるのは、夜通しオンライングループに潜って仲間とレイド回して、日曜の早朝にようやくハードの電源を落として寝床に潜り込むライフスタイルだ。


「今日は掃除当番だったでしょ?」


って朝っぱらから母ちゃんに言われると、うぜぇってのが本音だ。

深夜(正確には朝方)までMMOで駆けずり回って、ようやくログアウトしてコントローラーを机に放り投げたところに、親や近所から


「これから掃除だよ」


って叩き起こされる。


(これから寝るんだよ!殺す気か!!)


と、心の中で何十回も叫んでる。


そんなクソみてぇな昼夜逆転生活のおかげで、集金も掃除も全部母マリアに丸投げしてるんだ。

仕事?


「これから配達行くわ」


って言い訳をして玄関を出るフリはするけど、実際はコンビニ寄って、適当にマンガ雑誌を立ち読みして、タバコ買って帰るだけ。

そうして母マリアは全部やってくれてる。

集金も掃除も、ぜーんぶババア任せ。

だから本来、今日の議題なんて俺には関係ねぇ。


(でもな……。俺はやらねぇ。俺は動かねぇ。俺は何もしてねぇ。それでも……いのりが言うことなら、それが正解なんだよ!)


俺は両手で膝を握りしめ、汗ばんだ掌に爪を食い込ませながら震えた。

母はまだブツブツ続けている。


「ほんとあの娘、調子乗ってるわ。女子高生が会長だなんて、どうせすぐボロが出るわよ」


「……うるせぇっつってんだろババア」


俺は小声で唸った。


「いのりは俺の嫁だ。嫁を悪く言うな……このババア……」


冷房の効いた集会所で、俺の額からは汗が流れていた。総会の空気なんてどうでもいい。俺はいのりを守るためだけに、この場に存在していた。


(あああ……尊い……。クソみてぇな俺と違って、まっすぐ正論を言える。全部背負って“お願いします”って頭を下げられる。やっぱりいのりは……俺の嫁だ。間違いねぇ……)


尊さのあまり、胸が苦しい。

喉が詰まる。

総会前に吸ったばかりのタバコの煙すら甘美に思えた。



---


「……次の議題に移ります。自転車とバイクの駐輪場についてです」


マイクを持ったいのりの声が会場に響くと、空気がまた張りつめた。

俺は椅子に浅く腰かけ、膝の上で汗ばんだ拳を握る。


「現在、駐輪場はすでに飽和しています。これ以上の台数を認める余裕はありません。したがって、今後自転車は一世帯につき一台までとします」


会場にドッとどよめきが広がった。


「子ども用はどうするんだ!」


「通勤や通学は?無理に決まってる!」


「今まで上手くいってたじゃないか!」


ジジババも若い世帯も一斉に怒鳴り散らし、空気が荒れる。

だが、いのりは怯まなかった。

透き通る声で、まっすぐに告げる。


「“自転車がなければ生活できない”というのは理由になりません。それは甘えです」


……火の玉ストレートのド正論がズドン!


もはや会場中の怒号なんて耳に入らない。

俺の胸を撃ち抜いたのはその言葉だ。


(あぁ……!マジで尊い……!文句しか言えないクソ住民どもに、真正面から“甘え”って言えるなんて!こんなの、嫁として完璧すぎるだろ!!)


本音を言えば、俺はバイク計画を立てていた。

配達の効率化のためという建前の下で、実際は『いのりを後ろに乗せて夜の湾岸ドライブ』っていう下心丸出しの計画。

ベランダでタバコ吸いながら、毎晩妄想してたんだ。

青い髪をなびかせて、俺の腰に抱きつくいのり……。

それが俺の青春の全てだった。

でも


「バイクについても同じです。台数に限りがあるため、廃車などで空きが出た場合は希望者で抽選とします。許可するのは原動機付き自転車、原チャリのみです。二人乗りは禁止。なお、勝手にバイクを購入してから申請しても許可は出しません」


俺の夢は、粉々に砕け散った。

二人乗り不可、抽選制、原チャリ限定。

いのりを後ろに乗せる計画なんて、最初から実現不可能だったんだ。


(マジかよ……!俺の青春プランが……!)


目の前でジジババが


「不便すぎるだろ!」


「なんて口の利き方だ!」


と怒鳴ってる。

でも俺は違った。


(そうだ……!できないことを“できない”って、ハッキリ言えるのが嫁なんだ……!俺の甘えも、夢も、全部ブッ壊してくれる……!それが正論ってやつなんだな……!)


夢は潰えた。

でも構わない。

俺は信じる。

チャリ一台で十分だ。

いのりがそう言うなら、それが真実だ。


(俺はペダルを漕ぐ……。嫁の言葉を信じて……命尽きるまで漕ぎ続ける……!)


冷房の効いた集会所で、俺だけが滝のように汗を流していた。

目の前の嫁が「甘え」と断罪するたび、胸の奥が痺れるほど快感に震えていた。


会場はまだ重苦しいざわめきに包まれていた。

駐輪場問題。

自転車も、バイクも、もう物理的に限界。

その言葉を、壇上に立つ女子高生の小さな体からはっきりと突きつけられたのだ。

拳を震わせながらも、涙をこらえた。


(それでいいんだよ!!俺の夢が消えてもいい。いのりが言ったことなら、全部が正しい!いのりがルールであり、法律であり、女神様なんだ!!)


---


いのりは住民のざわめきを正面から見据え、声を張った。


「最後に一つだけ。私を自治会長に選んだのは、ここにいる住民の皆さんです。だから、私を選んだ以上は責任を持って、私に従ってください」


ビシッと告げられたその言葉に、会場が一瞬で凍りついた。

横で母マリアが椅子をバンッと鳴らしながら立ち上がらんばかりにプンプン怒っていた。


「な、なによこの小娘!!古株の住民を捕まえて“私に従え”ですって!?なんて生意気なの!」


(うるせぇババア!!黙れ!!いのりの声が聞こえねぇだろうが!!この場で喋っていいのは、会長……俺の嫁だけなんだよ!!)


俺は小声で毒づき、マリアを睨みつけた。


その時。

沈黙を破ったのは、大矢相談役の低く、腹に響く声だった。


「すべて……会長の言う通りじゃ。ワシは従うぞ」


場の空気が一変する。


「そうだな……」


「確かに……」


あちこちで賛同の声が漏れ、やがて拍手が起こった。

俺は思わず立ち上がった。

拳をグッと握り、胸の前に掲げる。


「……そうだぞ!いのりに従え!」


声は小さかった。

だが、壇上のいのりは確かに俺を見た。

そして、ほんの少し微笑んだ。


---


総会が終わり、片づけのざわめきの中。

廊下を歩いていた俺の横に、小さな影が近づいた。


「品川さん、ありがとうございます。さっき……小さな声で味方してくれましたよね?嬉しかったです」


(え……えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?!?!?!?!?!?!?)


俺の脳みそは爆発した。


(嘘だろ!?聞こえてたのか!?しかも……今、俺にだけお礼を言ったよな!?俺だけに!?やばい!やばい!やばい!!可愛い!!超可愛い!!ちっちゃい体なのに、まっすぐな瞳で俺を真っ直ぐ見つめて……!!尊いぃぃぃ!!!)


顔が真っ赤に燃え上がるのに、俺は必死にそっぽを向いた。


「……べ、別に……」


(バカ野郎ぉぉぉ!!!なんでそっぽ向くんだよ俺ぇぇぇ!!素直に“ありがとう”って言えよぉぉぉ!!俺のドクズ!!こどおじモード全開!!クソッ……クソォォ!!)


母マリアはその様子をポカーンと見ていた。


「……あんた、あの小娘の味方だったの?」


だがすぐに目を細め、仲間の高齢者グループに混ざってキャッキャと笑いながら毒を吐いた。


「ほんと生意気な娘よねぇ。古株を馬鹿にして……。でもそのうちボロを出すわよ。今に見てなさい」


心の奥底ではメラメラと嫉妬の炎を燃やしていた。


(あの小娘……杏を惑わしてたまるもんですか。杏はあの小娘をかなり気に入っているようだけど……。私の杏に嫁ぐなら、品川家の……私のルールに従ってもらわなきゃいけないんだからね……!!)


---


夜の団地。

総会のざわめきもすっかり静まり返り、廊下の蛍光灯だけがぼんやりと光を落としている。

俺は部屋に戻るなり、ベランダに出て一服を始めた。

カップ麺の容器に刺さった吸い殻の山、その上に新しい煙がゆらゆらと立ちのぼる。

下の階からは


「臭い!」


って声が聞こえてきそうだったが、今日はそんなのどうでもいい。


(……いのり……)


脳内では無限リピート。


『品川さん、ありがとうございます。小さな声で味方してくれましたよね?嬉しかったです』


あの言葉、あの笑顔、あのまっすぐな瞳。

実際、あのときのいのりは壇上から俺を見て、小さく会釈までしてくれていた。

ほんの一瞬、ほかの誰にも見せない柔らかい表情を、俺だけに。


(え?……あれ、やっぱ俺だけに……?やばい、やばい、やばい!!可愛い!!超可愛い!!ちっちゃいのに堂々としてて、それでいてふと見せる笑顔が優しくて……尊いぃぃぃ!!)


いのりの声はまだ耳に残っていた。


「嬉しかったです」


その一言に込められたのは、きっと住民を守る責任の重さと、同時に味方がいた安心感だった。


(俺は……その安心を与えられたのか……!?マジで……俺しかいねぇじゃん……!!)


煙を吸ってはむせ、涙目になりながらも笑みが止まらない。

ベランダの灰皿代わりのカップ麺容器に、震える手で吸い殻を押し込んだ。


「……へへっ。やっぱ俺の嫁だわ……。俺といのり……運命共同体だな」


自室のカーテンの向こうで、母マリアの声が聞こえた。


「杏!タバコやめろって言ってるでしょ!もう臭いのよ!」


「うるせぇぇぇぇ!!ババア!!」


怒鳴り返しながら、俺は夜空に向かって煙を吐き出した。

団地の闇に吸い込まれる紫煙は、どこか甘美な香りに思えてならなかった。


「いのり……。」


(“品川さん、ありがとうございます。小さな声で味方してくれましたよね?嬉しかったです”)


その言葉を胸の中で繰り返す。何度も、何度でも。

俺はもう一生、この一言だけで生きていける気がした。


(……やっぱり俺は、お前の夫だ……)


そう呟いた瞬間、遠くで犬の鳴き声が響いた。

まるで俺といのりの未来を祝福するファンファーレみたいに。


正しさって、時に人を傷つけます。

けれど、誰かが言わなきゃ変わらないこともある。

杏という人物は、だらしなくて、情けなくて、でもどこかで光を探している。

そんな彼の偏愛もまた、“大人の弱さ”として描きたかった部分です。


そして母マリアの一言が、次の波を呼ぶ予感がします。

いのりを巡る人間関係が、ここからさらに複雑に絡んでいく。

その前夜のような回です。


読んでくださり、ありがとうございました。

次回もどうぞよろしくお願いします。

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