第87話『みんなが納得できる形』
地域の暮らしの中で、誰もが一度は感じる「納得できるとは何か」という問いがあります。
今回の物語では、その答えを少しだけ探していくことになります。
日常の延長線にある会話や出来事を通して、
人と人との意見の違い、そして理解し合うことの難しさが描かれます。
いのりにとっても、大切な気づきのある夜です。
平日の夜。
九潮学園のアリーナには、ふだんの部活動の掛け声ではなく、ざわめきが広がっていた。
数百人の住民が集まり、ステージにはスクリーンとマイクが並ぶ。
今夜のテーマは「熱供給の値上げ説明会」だった。
九潮は湾岸エリアの再開発で生まれた街。
基本、各家庭にボイラーはなく、地下を走るパイプから常に熱いお湯が供給される。
ごみ焼却の余熱を利用して電気と温水をつくり、地域全体でシェアする。
それが熱供給だ。
風呂も台所も蛇口をひねればすぐに熱いお湯。
団地も熱供給の追い炊き機能冬が搭載されている。
常に快適で、給湯器の故障を心配する必要もない。
団地のすぐそばには営業所もあり、職員たちは日常的に地域に出入りしていた。
「給湯インフラを握ってるんだから、もっと強気な営業かと思ったけど……意外と丁寧なのよね」
そう話す母・きよのの声を、いのりは隣で聞いていた。
住民にとっては身近な存在。腰が低く真面目に対応してくれる職員が多いと母は言う。
その言葉に、いのりは
「仕組みも人も、見てみなきゃわからないものなんだ」
と感じていた。
この熱供給は家庭だけでなく、九潮学園のプールにも利用されている。
一年中温水プールを維持できるのはこの仕組みのおかげで、地域の公共施設としても欠かせない。
だからこそ、説明会の会場として学園アリーナが選ばれたのも自然なことだった。
「まだテスト終わったばっかりなのに……」
いのりは小さくため息をつく。
「自治会長なんだから、こういうのもお勉強よ」
きよのが横で笑う。
最前列近く、自治会長や連絡会の役員が並ぶエリアに足を踏み入れると、ひとりの青年が立ち上がった。
「こんばんは。103号棟自治会長の木澤滉平です。いつもいのりさんには助けてもらってます」
背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げる。
大学一年生、東亰海洋大学に通う若き自治会長だった。
きよのもにこやかに一礼する。
「まあ、ご丁寧に。娘からお話は聞いてますよ。礼儀正しいのねえ。娘のこと、どうぞよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ……お世話になります」
落ち着いた声で返す木澤。
「なんか結婚の挨拶されているみたいね」
「え?」
そのやり取りを横で聞いて、いのりは耳まで真っ赤になる。
「……お母さん!」
きよのは口元を隠して小声でささやいた。
「“滉平君”、礼儀正しくてしっかりしてるじゃない。ちょっとチャラいけど、確かにいのりの好きそうなタイプね」
「な、なに言ってんの!」
必死に否定するいのりの声は、アリーナのざわめきにかき消された。
壇上のスクリーンに、業者の職員がスライドを映し出す。
棒グラフや円グラフを示しながら、マイクを通した声が会場に響いた。
「九潮地域で採用されている熱供給は、ごみ焼却の際に生じる熱を有効活用し、発電と同時に温水を供給する仕組みです。資源を無駄にせず環境に配慮した“エコ”なシステムでもあります」
ざわめく会場。
「また、近年のガス価格の高騰に比べれば、従量料金……つまり実際に使った分の料金は安く抑えられています。光熱費全体で見れば、むしろ助かっている世帯も多いのです」
しかし次のスライドに切り替わった瞬間、空気がぴりっと張りつめた。
職員は一呼吸置き、声を硬くして言った。
「ただし事業を安定して継続するために……今回は、この基本料金の値上げをお願いしたく存じます。設備の維持管理費、人員の確保、将来的な更新費用を支えるために、どうかご理解を賜りたく……」
会場がざわめく。
「そう、その基本料が高すぎるんだよ!」
「電気や水道だって基本料金はあるけど、熱供給はその何倍も取られるんだ!」
「使わなくても必ず払わされるから、単身者や年金暮らしの年寄りには重い!」
怒号が飛び交い、アリーナ全体を揺らした。
利用頻度の少ない世帯にとって、それは“逃げられない出費”としてのしかかっていた。
「携帯電話みたいに使った分だけなら納得できるのに!」
「結局は基本料高くして使わない人からも取るんだろ!」
進行役が慌ててマイクを握る。
「それではここで、会場の皆さまからご質問を受け付けたいと思います。代表して、自治会長の方からでも……」
そのとき、すっと手が上がった。
母・風張きよのだった。
マイクが渡されると、きよのは落ち着いた声で口を開いた。
「119号棟の風張です。私たちのように毎日お風呂を使う家庭にとっては、確かに熱供給はありがたいです。引っ越し前よりガス代も減りましたし、とても助かっています。でも、施設に入って家を空けている高齢者や、ほとんどお湯を使わない単身世帯にとっては、毎月の高額な基本料金が大きな負担です」
会場がしんと静まる。
きよのは言葉を区切り、続けた。
「もし値上げが本当に必要なら、基本料金ではなく、従量料金を見直していただけないでしょうか。使った分に応じて払うなら納得できます。使わなくても必ず取られる“基本料金の値上げ”は、会社にとって安定した収益になると思いますが、利用者の信頼を失うだけです」
一拍置いて、拍手が起こった。前方の席から、後方から、パラパラと、やがて大きな拍手に広がっていった。
「そうだそうだ!」
「値上げが嫌なんじゃない、納得できるならいいんだ!」
「使った分を払うなら仕方ない!」
壇上の職員は驚いた表情を浮かべ、深く頭を下げた。
「ありがとうございます……本日のご意見、必ず上層部に伝えさせていただきます」
その言葉を合図に、進行役が説明会の締めを告げる。
会場のざわめきはまだ完全には収まらなかったが、どこかに安堵の色も混じっていた。
「奥さん、いいこと言ってくれたな」
「そうよ。やっぱり声をあげないとね」
そんな言葉があちこちで交わされる。
「いのりちゃんのお母さん、すごく立派だね」
隣に座っていた木澤が、素直な声でそう言った。
いのりは真っ赤になりながらも、小さく頷いた。
母の姿を誇らしく思う気持ちは、言葉にしなくても胸の奥に溢れていた。
会場を出ると、知り合いの自治会長や近所の人たちが次々ときよのに声をかけた。
「よくぞ言ってくれました」
「私も同じこと思ってたんです」
「代表で言ってもらえて助かりました」
きよのは照れくさそうに笑いながらも、しっかりと一人ひとりに礼を返していた。
その横顔を見つめるいのりの胸に、熱いものが込み上げてくる。
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数日後。
熱供給から一枚の通知が届いた。
『検討していた基本料金の値上げは見送ることとなりました。
その代わり、使用料に応じた従量料金の改定、および世帯ごとの使用実態に応じた段階的な基本料金の導入を検討いたします。』
通知を見たきよのが呟いた。
「……もしかしたら、家庭によっては基本料金が上がってくれた方が安く済むのかもしれないわね。」
いのりが頷く。
「確かに、たくさん使っていた家庭はその分だけ値上がりしちゃうよね」
きよのは苦笑いしながら天井を見上げた。
「私、余計なこと言っちゃったかしら」
それを聞いたいのりは思った。
「ううん。お母さんが声を上げたこと、感謝している人がたくさんいたじゃん。一律に押しつけられるんじゃなくて、段階的に選べる仕組みになるなら……それは“みんなが納得できる形”だったのかもしれないよ」
「ありがとう、いのり」
通知を読み終えたいのりは、あの夜の母の姿を思い浮かべた。
生活に直結することだからこそ、きちんと意見を言う母。
その逞しさは、ただ家庭を守る母親ではなく、住民の一人として堂々と声を上げる姿だった。
免許を取得し、倉庫でフォークリフトに乗るようになってから、母は以前よりも生き生きとしている。
日焼けした頬、背筋の伸びた姿勢。
新しい世界に挑んで得た自信が、家庭でもにじみ出ていた。
「ねぇ、いのり。“みんなが納得できる形”なんて本当はないのよ。自治会長やっていたらわかるでしょ。全員が賛同してくれる取り組みなんてありはしないわ」
「お母さん……」
「だけど……小さな声でもね、集まれば届くこともあるのよ」
母のその一言が、自治会長のいのりにはズシンと響いた。
便利さと不公平。
感謝と不満。
相反する思いのどちらも抱えながら、それでも納得できる仕組みを求めて声を上げる。
それこそが“住民の代表”としての責任なのだと、いのりは知った。
「公平って単純な計算じゃないんだ」
母の逞しさは、確かに自分にも受け継がれている。
ならば今度は、自治会長として自分がその力を発揮する番だ。
「私もフォークリフトの免許取ってみようかな…いや、それは年齢的にまだ無理か」
胸の奥に熱を抱えたいのりは、苦笑いを浮かべながら静かに拳を握った。
母の背中を見て学んだことを胸に刻み、これからの自治会活動に生かしていこうと心に誓った。
『自分も、母のように逞しくなりたい。』
誰かと意見が食い違うとき、私たちはつい「どちらが正しいか」で考えてしまいます。
けれど本当に大切なのは、「どうすればお互いが納得できるか」を探すことなのかもしれません。
このお話では、そんな“折り合いをつける勇気”が描かれています。
いのりが見つめた出来事の中に、
少しでも読んでくださる方の心に残る言葉があればうれしいです。




