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この団地、女子高生に自治会長を任せるって正気なの!?  作者: shizupia


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第86話『自分の身は自分で守るしかない』

春の通学路には、まだ少しだけ冷たい風が残っています。

歩き慣れた道でも、朝の光の角度や人の流れが変わるだけで、

どこか違う場所のように感じられることがあります。

毎日のように過ぎていく時間の中で、

私たちは安全や安心を、当たり前のものだと思い込んでしまいます。

けれど本当は、日常のすぐ隣に“危うさ”が息をひそめているのかもしれません。

何かを守るということは、思っているよりも難しく、

そして、時に痛みを伴うものです。

このお話は、そんな日常の中にある小さな緊張を描いています。

四月に入学したばかりのけいじのランドセルは、まだ背中には不釣り合いなほど大きかった。

歩くたびに上下に揺れ、ベルトが肩からずれ落ちそうになる。

本人はその姿を誇らしげに見せつけるように胸を張る。


「もう、ひとりで行けるよ」


その言葉に母のきよのは思わず口をつぐんだ。

通学路の横断歩道の前で必ず手をつないでいた日々。


「車に気をつけなさい」


「うん」


「信号は青になるまで待って」


「わかってるって」


何度も繰り返した声が、耳の奥に残っている。

まだ小学校に入ったばかりの子どもが、ひとりで通学路を歩いていく。

それを“誇らしい”と受け止めるには、心配の色がどうしても勝ってしまう。


父のよしつぐも同じだった。

給食センターに向かう道をわざと少し遠回りし、ランドセルを背負った小さな背中を見送るのが朝の習慣になっていた。

一度角を曲がってしまえば姿は見えなくなる。

それでも、そのほんの数十メートルを見届けるだけで、仕事に向かう足取りが軽くなった。


妹のともりもまた、校庭で弟を見かけるたびに気を配っていた。

ともりは中学生になり、もう“お姉ちゃん”を卒業した気でいたけれど、弟がちゃんと友達と遊んでいるか、泣いていないか。

小学校と中学校の校舎は隣り合っているからこそ、目に入るたびに自然と見守ってしまうのだ。

家族みんなが心配で仕方なかった。


けれど春が過ぎ、少しずつ生活が軌道に乗り始めると、ひとりで通学路を歩くけいじの姿は次第に当たり前になっていった。

大きなランドセルが小さな体に揺れる光景も、日常のひとコマとして溶け込んでいく。


『安心』


そう呼べるものが、ようやく芽生えかけていた。


ところが、ある朝。

給食センターの調理場に、慌ただしい内線電話のベルが響いた。


「風張よしつぐさん、至急お電話です」


同僚に呼ばれ、よしつぐは手を止めて受話器を取った。

受話口の向こうから聞こえてきたのは、九潮学園事務員の緊張した声だった。


「けいじ君が登校中に自転車と接触し、救急搬送されました」


一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。

湯気の立つ調理場の音が遠のき、受話器を持つ手が汗で滑りそうになる。


「……すぐに行きます」


そう答えるのが精一杯だった。

白衣を脱ぎ、同僚に事情を伝えると、よしつぐはほとんど駆け足で施設を飛び出した。

雨上がりのアスファルトに靴底が打ちつけられる音だけが、頭の中に響いていた。

総合病院に着いたとき、診察室の前にはけいじの小さな靴が脱ぎそろえられていた。

中から医師の声が聞こえる。


「幸い軽症です。頭を打っていないか検査もしましたが、擦り傷と打撲だけで済みました。簡単な処置で大丈夫でしょう」


その言葉に、よしつぐはようやく息をついた。

けれど、小さな腕に巻かれた白い包帯を目にした瞬間、安心と同時に深い疲労がどっと押し寄せてきた。

ほんの少し前まで「ひとりで行ける」と胸を張っていた小さな姿が脳裏に浮かぶ。

その誇らしさと、目の前の現実との落差が胸を締め付けた。

昼過ぎにはけいじは学校へ戻り、よしつぐも再び仕事へ。

家族の誰もが、心の奥に小さな不安の種を抱えたまま日常へ戻っていくしかなかった。


そして放課後。


「今日は代わりに学校へ迎えに行ってあげて」


両親からそう頼まれたいのりは、まだ何も知らないまま九潮学園の校門をくぐることになる。

そのとき、弟が朝に事故に巻き込まれていたことを初めて知るのだった。


放課後の校門は、ランドセルを揺らした子どもたちであふれていた。

その流れに逆らうように足を進めるいのりは、胸の奥で小さな不安を抱えていた。

忙しい両親から


「今日は代わりに迎えに行って」


とだけ言われただけ。

理由は何も知らされていない。


「あら、もしかして風張けいじ君のお姉さんかしら?」


柔らかい声に振り向くと、眼鏡をかけた女性教師が立っていた。

すっきりとしたショートカットに、落ち着いた微笑。

その雰囲気は穏やかで、初対面の緊張を和らげるものだった。


「はい……そうです」


少し戸惑いながら答えると、先生は軽く会釈して名乗った。


「担任の江村です。今日は来てくれてありがとうね」


優しい口調。

けれど、その奥に隠された緊張感が伝わってきた。

一呼吸おいて、江村先生は真剣な表情に変わる。


「今朝、けいじ君が登校中に自転車と接触して、救急搬送されたの」


「……えっ」


いのりの視界がぐらりと揺れる。

その言葉を理解するまでに数秒かかった。


「幸い軽症で、もう学校に戻ってきているわ。お父さんが病院に付き添ってくださったの。学校へ送り届けた後、そのままお仕事へ復帰されたわ。だから安心して大丈夫。ただ……今後のこともあるから、詳しくお話ししましょう」


江村先生は優しく微笑んで、学童の方へと歩き出した。


「一緒に行きましょう。けいじ君も、きっとお姉さんに会いたがってるはずよ」


いのりは胸の奥に渦巻く安堵と不安を抱えたまま、その後ろ姿を追った。

学童の扉を開けた瞬間、いのりの目に飛び込んできたのは、机に向かって鉛筆を走らせる小さな背中だった。

その右腕に巻かれた白い包帯を見たとき、胸の奥で何かがきゅっと締め付けられる。


「けいじ……」


思わず声をかけると、弟はぱっと顔を上げて笑った。


「いのりねえちゃん!ぼく、救急車乗ったんだよ!ピーポーピーポーって!」


誇らしげに話す声は無邪気そのもの。

その元気さがかえって切なく、いのりはただ膝をついて弟の顔をのぞきこんだ。


「けいじ、痛くないの?」


「ぜんぜん! ちょっとすりむいただけ!」


けいじは元気に笑って見せる。

けれど白い布が、ほんの少しの油断が命に関わることを突きつけていた。

後ろから江村先生が歩み寄り、静かにいのりへ向き直った。


「……今朝は私が校門前の当番で見守りをしていたの。だから全部、この目で見ていたわ」


声は落ち着いていたが、奥底に硬い怒りを含んでいた。


「前には保育園の子を、後ろには上級生の子を乗せた自転車が、勢いよく校門に入ってきたの。ブレーキを使わず、そのままけいじ君に接触した。大事には至らなかったけれど、本当に紙一重だったわ」


いのりは息をのんだ。

目の前で元気に笑う弟の姿と、先生の言葉が結びつかない。

江村先生は続けた。


「その保護者は“たいしたことないでしょ”“みんなやってますから”と繰り返し、謝罪もせずに立ち去ろうとしたの。私はその場で保護者を止めて救急と警察に連絡しました」


「そうだったんですか……」


「……でも、学校の敷地は私有地扱いなの。警察としても強制的に取り締まることは難しい。映像記録もない以上、立証も簡単じゃないのよ」


現実の重さに、いのりは言葉を失った。


「もしご家庭で保険に加入されているなら、まずは保険会社に相談してください。日常生活賠償の特約があれば、何かしらの補償を受けられるかもしれません。場合によっては弁護士を紹介してもらえることもあるわ」


一瞬、希望が見えた。

けれど、すぐに冷たい現実が告げられる。


「ただ、今回の相手は自転車保険に未加入だったの。だから補償を求めても“無い袖は振れない”。結局は示談、つまり和解に近い形で落ち着かせるしかないでしょう」


「……そんな人、本当にいるんだ」


いのりは小さくつぶやいた。

江村先生は頷いた。


「いるのよ。そして、そういう人ほど危険な運転をするし、“自分は悪くない”と繰り返すの。だから、これから学校としては保護者に伝えます。自転車保険に必ず加入すること。未加入は都の条例でも違反です。それから、生徒を自転車での送迎はやめてください、と」


言葉はきっぱりしていた。

だが、すぐに小さく息を吐き、声を和らげた。


「そもそも親が送迎で自転車に未就学児以外を乗せることは二人乗り扱いで違反行為なのよ。……でも、正直に言えば、守らない人は多いでしょう。注意しても“うちは大丈夫”で済ませる親が少なくない。だから結局は、自分の身は自分で守るしかない。無力で、ごめんなさい」


その目に宿る悔しさを見た瞬間、いのりはふと安心を覚えた。

けいじは、この先生に見守られている。

事故が起きたときも、真正面から向き合ってくれた。

そして今、できる限りの現実を正直に伝えてくれている。

胸に残る不安は消えない。

けれどいのりは、弟の担任を信頼できる。

そう思えた。


---


けいじの手を引いて学校をあとにすると、夕方の通学路はにぎわっていた。

ランドセルを揺らす子どもたち、買い物袋を提げた母親とベビーカーを押す父親。

そこへ背後から、自転車のベルが短く鳴り響いた。

振り返った瞬間、二台の自転車が並走して追い抜いていった。

運転しているのはどちらも子育てをする母親。

子どもを後ろに乗せ、親同士で談笑しながらペダルを踏んでいる。

その光景に、いのりの目は釘付けになった。

後ろの子ども用シートにまたがっているのは、どう見ても小学生。

子供の体はシートの対象年齢を超えてはみ出し、母親の運転する自転車の後ろでスマートフォンをいじっている。

重いランドセルは背もたれに無理やりぶら下げられていた。

歩道の柵や電柱にでも引っかかれば、一瞬で転倒するだろう。


(……あんな大きな子を乗せていたら、もう二人乗りと同じじゃない。平気で道交法違反をしている人が、こんなにいるなんて)


その前方には、小さな子の手を引いて歩く母親の姿。

その親子のすぐ脇を、並走したままの二台が左右からすり抜けた。

ほんのわずか数十センチの距離。

小さな子が転んだり、一歩でも横にずれていたら、確実にぶつかっていた。


「ひどい……なんで……」


思わず声が漏れる。

すれ違いざまも、親たちのおしゃべりは途切れない。

同じように子育てをする親が危険を気にする素振りもなく、笑い声だけが通りに残った。


(こういう親の子どもが、また大人になって同じことを繰り返すんだろう。“みんなやってる”が当たり前になって……危険が世代を超えて受け継がれていく)


さらに先には、片手にスマホを持ちながら自転車をこぐ学生の姿。

視線は画面に落ち、下校する子どもたちがすぐ脇を歩いているのに、顔を上げようともしない。

ふらついて子どもに当たったら……その想像だけで背筋が冷えた。


(事故が起きてからじゃ遅いのに……。どうして危険に気づけないんだろう)


いのりは弟の手を強く握り直した。

包帯の巻かれた小さな腕。

それを守れるのは、いま自分しかいない。

ふと前を見ると、別の母親が小さな子どもの手をしっかりと握り、歩道をゆっくりと進んでいた。

その背中は自転車に頼らず、子どもの足取りに合わせて歩いている。


(……私が母親になったら、そうありたい。子どもの手を引いて、子供のペースで一緒に歩きたい)


自転車は移動が早くて便利だ。

けれど、その便利さに依存した瞬間、凶器に変わる。

乗せている子ども自身が危険にさらされることだってある。

それを自覚せず、「楽だから」と使い続ける親たちの姿に、いのりの目にはもう恐怖しか映らなかった。


団地の駐輪場に差しかかると、そこでも別の自転車が猛スピードですり抜けていった。

歩行者のすぐ脇をかすめるように。

住民でもない自転車が、ここを抜け道として使っている。


(注意喚起の看板を取り付けなきゃ……。このままじゃ、また事故が起きる)


胸に渦巻くもどかしさ。

自治会長としての立場を思い出しながらも、直接の声を上げる勇気はまだ持てなかった。

それでも……せめてこの手だけは離さない。

けいじは不思議そうに首をかしげた。


「いのりねえちゃん、なんでそんな顔してんの?」


「……なんでもないよ」


強く握った手に込めた力が、答えのすべてだった。


その日の帰り道、いのりは気づいていた。

誰かに守られるだけではなく、自分の手で守る強さが必要だということを。

自治会長としても、姉としても。


本来、子どもを守るのは保護者の役目。

痛い思いをして、危険な目に遭うことで学ぶこともある。

だが、命が失われてしまってからでは遅い。


誰かを守るためには、守られる側にも、自分で身を守る力を持ってもらわなければならない。

誰かに頼りきってはいけない。

自己防衛のためには、たとえ厳しいことを言う立場になったとしても、やらなければならないことがある。


いのりは、「自分の身は自分で守る」という言葉の意味を、ようやく理解しはじめていた。



当たり前のように過ぎていく日々の中で、

ふと立ち止まらなければ見えないことがあります。

誰かを思う気持ちや、守りたいと願う心も、

その形を間違えれば、優しさとは少し違うものになってしまうのかもしれません。

私たちはきっと、誰かに支えられながら生きています。

けれど同時に、自分自身を支える力も持っていなければならないのだと思います。

このお話を書きながら、

当たり前のようにある「日常」という言葉の重さを、あらためて感じました。

静かな時間の中で、何かひとつでも心に残るものがあれば嬉しいです。

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