第82話『風、安定しててよかったすね』
ゴールデンウィークが終わり、観光地の喧噪がようやく落ち着いた頃のお話です。
元プロ野球選手の慎太、大矢相談役、そしてビシ九郎の三人で、いつものお出かけ回。
行き先はグンマーの山あい、ラベンダー畑の上を飛ぶパラグライダー体験。
空の上での爽快感や笑いの裏に、日常のありがたみや、命の軽さをさらりと描いた回です。
軽口のやり取りの中に、じちまからしい現実の皮肉も隠れています。
いつも通りの三人ですが、少しだけ“空”と“地上”の距離を感じていただけたら嬉しいです。
ゴールデンウィークが終わり、街にようやく静けさが戻ってきた頃。
慎太のセダンが上越自動車道を北へと走っていた。
助手席には大矢、後部座席にはビシ九郎が乗っている。
「いやぁ、連休中は解説やイベントで働きづめやったわ。長期遠征のホテル暮らしより疲れたで」
ハンドルを握りながら慎太が大きく息を吐く。
「ワシは毎日が日曜日じゃから、わざわざ混んどる時期に出かける必要もないのう。家で昼寝して、スーパーで見切り品狙うのが一番じゃ」
大矢は自慢げに腕を組む。
ビシ九郎は窓の外を眺めながら、似非関西弁でぼやいた。
「どこ行っても人だらけやし、あれもこれも値段つり上がっとるやん。アホらしいで」
「そやろ?」
慎太がうなずく。
「駐車場も食いもんも“これでもか”ってくらい観光地価格や。だから今みたいな閑散期に遊びに行くのが正解や」
「そういうとこ、堅実じゃのう。元プロのクセに」
大矢は鼻で笑ったが、慎太は真顔のまま。
「観光は旬を外して楽しむに限るんや」
車窓から見える景色が、徐々に田園から山あいへと変わっていく。
道路脇の幟には「ラベンダーまつり」「高原ゴルフ体験」の文字。
閉じたままの古いドライブインや、シャッターが下りたままの土産物屋も点々と見えた。
やがて車は山麓の駐車場に到着。
アスファルトの広場には十数台の車が止まっているだけで、連休の喧噪は嘘のように静かだった。
「で、今日は何をするんじゃ?温泉か?蕎麦か?それとも果物狩りか?」
大矢が首をかしげると、慎太は顎で空を指し示した。
「ほれ、目の前見てみい」
見上げれば、夏の青空にカラフルな翼がいくつも舞っていた。
パラグライダーだ。紫のラベンダー畑の上をふわりふわりと滑空している。
「なんと!ワシら、今日は空を飛ぶんか!」
大矢は声を張り上げた。
そしてふと、後部座席を振り返る。
「そういえばビシ九郎は平気なんか?獣は空飛ぶなんてビビるんやないか?」
ビシ九郎はにやりと笑い、あっさり返す。
「ワイは平気やで。元々死んどるし、フワフワした存在みたいなもんやからな」
慎太は怪訝そうに目を細めた。
「どこまで本気なんか分からんわ、お前」
大矢は腹を抱えて笑い、
「ほれ見い、ワシより肝が据わっとる!」
と背中を叩いた。
三人はそのまま、ロープウェイ乗り場へと歩いていく。
ギシギシと古びた支柱が風に揺れる音が聞こえてきた。
その横に建っていたのは、プレハブの小さな受付小屋。
扉を開けると、中にいた若い受付の兄ちゃんがだるそうに顔を上げた。
「…ちっす…パラグライダー体験っすか」
「そうじゃ、ワシら三人で飛ぶ!」
大矢が胸を張ると、兄ちゃんは机の引き出しから同意書を投げ出すように置いた。
「……じゃあ、名前と年齢書いて。あと、同意書に運営側は事故っても一切責任とりませんよってあるんで、読んだら承諾のサインよろしく」
「お、おぬし……口の利き方が軽いのう」
大矢がたじろぐ。
「事故っても楽に死ねるやろ。気づいたらあの世やな。」
慎太の一言に兄ちゃんは気だるそうに続けた。
「いや……パラグライダーって、意外と“一思いに死ねない”んすよね。パラシュートが中途半端に減速するから、即死は少ないんす。だいたい寝たきりとか、半身不随とか。そんで死ぬよりキツくて長い入院生活が待ってます」
三人の表情が一気に固まった。
「俺、ちょっと不安になってきたかもしれん……」
慎太が顔をしかめる。
「マジで若い人とか家族がいる人はやめといたほうがいいっすよ?スカイダイビングのほうが即死できる分だけマシかもしれませんね」
慎太は絶句する。
大矢は老眼鏡を外し、天を仰いで妄想に浸った。
「ワシはもう歳じゃからな……事故ったら意識戻らんまま、息子たちに年金目当てでチューブまみれにされて、週末病棟で延命治療の生き地獄みたいな余生をすごすんじゃろうなぁ」
「縁起でもないこと言うなや!」
慎太が慌てて突っ込む。
兄ちゃんは気の抜けた声で付け足した。
「……でも、プロとタンデムなんで“ほぼ”安全っすよ。万一のときはプロも身の安全を優先して足枷の客を切り離しますけど。なんて冗談っす冗談」
「その、“ほぼ”と“冗談”が笑えんで!」
慎太が突っ込むと、兄ちゃんは
「……はは」
と空笑いを漏らした。
同意書を書き終えると、3人は麓のプレハブ小屋で装備を受け取った。
フライトスーツ、ヘルメット、ハーネス、軍手、そしてスマホを入れる落下防止ケース。
スタッフが慣れた手つきでサイズを確認していく。
「ヘルメットはこのまま着けておいてください。ハーネスは腰に回しておいて、上でインストラクターが仕上げます」
淡々とした説明に従いながら、三人はごそごそと装備を身につけた。
客用のフライトスーツは目立つように白黒のボーダーデザインだった。
「なんや、目がチカチカするな」
と、ビシ九郎が言うと
「お客さんを切り離したとき、森に落下しても見つけやすいんすよ。あとで捜索するとき遺体の回収をしやすいようにってことっすね。」
と、スタッフが笑えない解説をする。
「ワシら揃って、まるで刑務所に入る前の囚人みたいじゃな……。このまま死刑にされるんじゃろか」
大矢がぼやくと、慎太がすかさず突っ込む。
「おい相談役!縁起でもないこと言うなや!これから飛ぶんやぞ」
準備が済むと、スタッフがゴンドラまで案内する。
「ではロープウェイで中腹へどうぞ。飛行ポイントまではそこから歩いてすぐです。戻られたら、またこちらで装備を回収しますので」
三人はロープウェイに乗り込んだ。
鉄の車輪がギシギシと音を立て、揺れながら斜面を登っていく。
「おいおい、大丈夫かこれ。落ちたら終わりやぞ」
「平気や。この高さなら落っこちても即死はせんやろ。車椅子生活が待っとるだけやで」
白黒のフライトスーツに身を包んだビシ九郎が平然とした顔で言ってのける。
「アカン。まだ働かんと子供たちの学費がかかるんや。娘の楓は私立の獣医学部希望やらかな。学費見たら目玉飛び出るで」
慎太が顔をしかめると、大矢は平然とした声で答える。
「こういうスリル込みで観光なんじゃろうが」
窓の外に広がるのは、一面のラベンダー畑。
紫の花々が斜面を埋め尽くしている。
その光景は鮮やかだが、乗客はまばらだった。
「この時期はラベンダーで客を呼ぶんやな」
慎太がつぶやく。
「けど、ゴールデンウィーク明けでガラガラや。ほんま、観光で食うのは大変やで」
「冬になればこの斜面も雪で埋もれるんやろ?雪が降るまでの辛抱や」
とビシ九郎。
「せやけど、頼みのスノボー客も今年は暖冬で雪が少なくて閑古鳥だったらしいで」
大矢が窓に額を押しつける。
「自然はきれいじゃが、頼れるのが季節もんだけじゃ、経営も厳しかろう」
ビシ九郎は足をぶらぶらさせて笑った。
「ワイはどっちでもええわ。花でも雪でも、落ちたらフワフワするだけや」
やがてロープウェイは中腹の駅に到着した。
降り立った先に見えたのは、シャッターを閉ざしたままの古びた土産屋。
かつては観光客で賑わったはずのその前を抜けて、三人は飛び立ちのゲレンデへと歩いていった。
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インストラクターの指示に従い、三人はそれぞれタンデムフライトの準備を整えた。
ヘルメットをかぶり、ハーネスのベルトを締められる。大矢が
「腰が千切れそうじゃ!」
と情けない声を上げる。
「大丈夫ですから、力抜いてくださいねー」
と、インストラクターは淡々としていた。
ビシ九郎は自分のヘルメットに小さなカメラが固定されているのを指で叩き、にやりと笑う。
「これで空飛ぶワイの勇姿も残せるっちゅうわけやな。GOTUBEの再生数稼ぎや。視聴者も刺激が無いとすぐに飽きるからな」
「お前、どこまで視聴者に媚びとんねん……」
慎太が呆れ顔でつぶやく。
やがて順番が回ってくる。
大矢がインストラクターと一緒に走り出し、ふわりと宙に浮かぶ。
「おおおおお!これぞ男のロマンじゃあああ!」
紫のラベンダー畑の上を、大声で叫びながら滑空していった。
続いてビシ九郎。
「ええ景色やなあ。地面がどんどん遠ざかって、箱庭みたいに見えるわ」
落ち着いた声でつぶやきながら、カメラ越しに景色を切り取っていく。
そして最後は慎太。
助走を始めた瞬間、下で見ていた観光客がざわついた。
「あれ、皆本慎太じゃない?」
「えっ、本物?ヘルメットしてるけど顔わかる!」
「元プロ野球選手が空飛んでるぞ!」
スマホを掲げる人々。
SNSには「#空飛ぶ皆本慎太」のタグが一気に並んでいく。
風を受けて宙に浮かぶと、景色が一気に開けた。
眼下には紫の絨毯のようなラベンダー畑、遠くには稜線を描く山々。
高低差はおよそ四百五十メートル、飛行距離は二キロ。
わずか数歩の助走で、人はここまで空に解き放たれるのか。
慎太は思わず息をのんだ。
「……ほんま、まだまだ世界は広いな」
しかしその直後、頭の隅で受付の兄ちゃんのだるそうな声がよみがえる。
「パラグライダーって、一思いに死ねないんすよね……」
慎太は一瞬、ぞくりと背筋が冷えるのを感じた。
翼が最後の上昇気流を抜けると、地面が徐々に近づいてきた。
インストラクターの声が背中ごしに落ち着いて届く。
「そのまま足を前へ、ストンと……はい、立てますよ」
砂利の混じった芝に靴底が触れ、膝がわずかに沈む。
慎太は肩の力を抜き、背中のハーネス越しに浅く息を吐いた。
「…ふう…戻ってきたな」
大矢は少し離れた場所で、インストラクターにハーネスのバックルを外してもらいながら大声を上げている。
「わしは男のロマンを極めたぞ!」
唇は笑っているのに、膝はほんの少し震えていた。
ビシ九郎はヘルメットの横に付けた小さなカメラを指でコン、と叩き、満足げに頷く。
「良い映像撮れたで。慎太の“空飛ぶ顔”もバッチリや」
「白黒のフライトスーツが超絶ダサいんやけどな」
「これ、ワイのGOTUBEで使ってええか?」
「勝手に出したらアカン!……あとで俺のチャンネルで使うからデータ送ってくれや」
着地場は麓の受付小屋から歩いて数分の平らな草地で、スタッフが手際よくラインを巻き取り、翼を畳んでいく。
三人は係の案内で小屋へ戻り、ヘルメットとハーネスを順に返却した。
「おかえりなさい。風、安定しててよかったすね。……はは」
受付の兄ちゃんは、相変わらず覇気のない声で言う。
「……“ほぼ”安全、でしたわ」
慎太が苦笑すると、兄ちゃんは気の抜けた笑いを一つだけ吐き、返却済の印を台帳に押した。
汗が引くにつれ、急に腹が鳴った。
小屋の隣には簡易な山小屋風の食堂があり、軒下のメニュー札に「上州舞茸天うどん」「ラベンダーソフト」「ラベンダークッキー」の文字が並ぶ。
少し遅い昼食をとるため、三人は迷わず暖簾をくぐった。
湯気の立つ丼が置かれる。
太めのうどんは噛むほどに弾み、つゆはだしがやさしく立ち上がる。
山菜と刻み葱が香り、舞茸の天ぷらが衣ごとつゆを吸ってほどけた。
「結局、地に足つけて食うもんが一番うまいのう」
大矢は箸を止めずに言い、つゆを一口すすってから、ふと目を細める。
「そういえば風張会長は、今頃どうしとるんじゃろか」
「ゴールデンウィークも終わったんや。学校行っとるんやないか」
ビシ九郎がちゅるんと麺をすする。
慎太は丼を置いて、少し遠くを見る目になる。
「テストの真っ最中やな。週末も楓とあずさで集まって、ずっと試験勉強してたで。偉いもんや。楓も一緒に勉強する友達ができて、喜んどった」
「会長が空飛んだらどうなるかのう」
大矢が笑いながら茶化す。
「アカン。チビって涙目になって、プルプル震えとるやろ」
慎太は真顔で首を振った。
「そうじゃな。ワシらみたいなんと一緒に飛んだら、もう二度とついてきてくれんかもしれんのう」
大矢も少し真面目な声になる。
「まだまだ先の長い未来があるんや。他にいくらでも面白くて安全な遊びがあるやろ」
慎太は丼を押しやり、遠くを見るように言った。
「せやけど、あんまり遊んどらんとちゃう?いのすけ、自治会長になってから背負い込んどるやろ」
ビシ九郎がふと漏らす。
「立派に責任背負い込むんはええけど……あの子はまだ若い。自分のことを大事にしてほしいもんじゃのう」
大矢が深くうなずいた。
「どっちにしろ、こんな危険な遊び、やらせたらアカンで」
慎太が言うと
「せやな。いのすけは地に足つけとるんや。わざわざ空飛ばんでも、ようやっとる」
ビシ九郎がくすっと笑う。
三人はそれ以上何も言わず、残りのうどんをすする音だけが響いた。
食後、店先のベンチでラベンダーソフトを受け取り、紫がかった渦をかじる。
ひんやり広がる香りが、さっき空から見下ろした斜面を思い起こさせた。
ラベンダークッキーはほろりと砕け、甘さの後ろから草いきれのような清香が追いかけてくる。
「空から見ると、あの畑、ほんまに紫の絨毯やったな」
慎太がぽつりと言えば、大矢は頷き、少し声を落とした。
「……それでも、あの兄ちゃんの言葉は耳に残るのう。“一思いに死ねない”、死ぬよりキツイ入院生活が待っとるんじゃと言われると、健康に生きられることがどれだけ幸せか痛感するわい」
風がベンチの足元を抜ける。
ビシ九郎はソフトの残りをぺろりと片づけ、口を拭って笑った。
「兄ちゃんの言う通り、家族おる若いもんは、危ない遊びは控えとくのが無難やろな。けどな、命張ったスリリングな遊びやからこそ、“生きとる”って実感できるんやで」
「……一度死んでるお前が言うと怖いわ!」
慎太と大矢のツッコミが見事に重なり、店の中のスタッフが思わず振り向いた。
そのまま土産を買い、受付小屋にひと声かけてから駐車場へ戻る。
セダンのドアを閉めると、外の蝉時雨が少し遠くなった。
エンジンをかけ、しばらくは一般道をゆっくり下る。
日向と日陰が交互に差す古い街道を抜け、やがて幹線へ出る交差点でウインカーが鳴った。
「ほな、帰るか」
「うむ。生きて帰るのもロマンのうちじゃ」
「慎太の映像、ほんまにワイのGOTUBEで……」
「アカン言うたやろ!せめてコラボ企画や」
空の青は少し色を薄め、斜面の紫は記憶の奥へ沈んでいく。
ハンドルの感触、シートの硬さ、足元のペダル。
地に足のついた感覚は、さっきまでの“浮遊”を確かに裏打ちしていた。
死の恐怖と隣り合わせだからこそ、いま胸いっぱいに吸い込む空気が、いつもより少しだけ甘かった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は「風」というテーマを通して、日常と非日常の境界を描いてみました。
受付の兄ちゃんの何気ない言葉、白黒スーツの冗談、そして「ほぼ安全」という妙な安心感。
どれも笑っていいのか少し迷うようなセリフですが、その軽さこそが今の時代らしさでもあります。
“地に足をつけて生きる”という言葉の重みを、空の上から見下ろすことで逆に浮かび上がらせました。
慎太たちが食堂で語る「いのりのこと」も、心の底では“守りたい未来”を感じている証です。
次回からは再び団地の日常へと戻りますが、風の記憶がどこかでまた吹くかもしれません。
どうぞ引き続き、じちまかの世界をお楽しみください。




