表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
82/94

第81話『目標、カマドウマ』

平日の午前、いつもの団地が静まり返る時間帯に、物語は静かに幕を開けます。

いつも通り集会所でお昼寝をしていたビシ九郎が、なぜか夢の中で懐かしい少女と再会するところからお話が始まります。

ですが、その穏やかな夢はやがて奇妙な現実へとつながっていきます。

今回は、いつものコミカルな雰囲気の中に、ほんの少しだけ不穏な影が差し込むお話です。

団地の裏に眠る謎が静かに姿を見せ始めます。

平日の午前。

団地はいつになく静まり返っていた。

子供たちは学校へ、大人たちは仕事へ向かい、普段なら顔を見かける高齢者も、この時間は病院や買い物、体操教室へと出かけている。

人影はほとんどなく、洗濯物だけが風に揺れていた。


その静けさの中、集会所にはテレビの明かりと扇風機の風だけが流れていた。

畳の上で丸くなって眠るのは、ハクビシンのビシ九郎。

いつもと違い、今日はやけに鮮明な夢を見ていた。


夢の中に現れたのは、懐かしい少女サオリ。

彼女はにこやかに笑いながら、小さな餌を両手に差し出す。


「はい、ビシ九郎。いっぱい食べて」


差し出された餌を頬張る自分。

サオリが


「かわいい、ビシ九郎!」


と声を弾ませるたび、胸の奥が温かくなる。

だが、その餌には毒が仕込まれていた。

舌が痺れ、体が重くなり、意識がゆっくりと遠のいていく。


「ごめんね……ビシ九郎!」


サオリの声が涙混じりに震える。


「……なんや、結局いつもどおりやないか」


そう呟いたビシ九郎の意識が遠のこうとした瞬間。


ガブッ!ガブガブッ!


「いったぁっ!!」


足の指先に走る鋭い痛み。

あまりにリアルすぎるその感覚に、ビシ九郎は跳ね起きた。

目を見開くと、指に食らいついているのは黒光りした虫。

カマドウマこと便所コオロギだった。

しかも一匹ではない。

畳の割れ目、台所の隙間、トイレの目地。

あちこちからぞろぞろと這い出して、集会所に侵入してくる。


「ぎぇぇぇーーっ!! なんやこれ、夢ちゃうやんけ!」


ぴょん、ぴょん、ぴょん。

便所コオロギたちは畳を蹴り、壁に飛びつき、天井へも跳ね回る。

羽音はなくとも、異様な気配が集会所を覆っていた。


「ぎぇーーっ!! やめんかい! ワイの指まだ痛いんやぞ!」


ビシ九郎は畳を転げ回り、必死に足を抱えながら喚き散らす。

跳びかかる黒い影を払おうとしても、数が多すぎて追いつかない。

そのとき、集会所の扉が音もなく開いた。


「……なんの騒ぎだ」


姿を現したのは、副会長の哲人だった。

どうやら集会所の周辺をこっそり調査していた最中らしい。

彼は一瞥しただけで状況を把握すると、口元にわずかな笑みを浮かべる。


「ビシ九郎。ハクビシンとカマドウマは仲良しなんじゃないのか?」


「どこがやねん!! 仲良しどころか足かじられとるわ!」


ビシ九郎は即座にツッコミを返す。

哲人は肩をすくめて、平然と続けた。


「こんなに増える前に食べてくれれば助かったのに」


「アホ言うな! 現代にはうまいもんが山ほどあるやろ!人間も食糧難に備えて昆虫食しようとしとったけど、ホンマにアホやで!ワイはな、どんだけ美味そうに加工されてもカマドウマだけは絶対に食わんねん!」


ビシ九郎の絶叫が響き渡る中、哲人は落ち着き払った動作でポケットからスマホを取り出した。


「仕方ない。害虫駆除を呼ぶか」


短く呟いたその声には、どこか別の意味も含まれているように聞こえた。


---


数台のワゴン車が集会所前に停まり、防護服に身を包んだ大所帯が降りてきた。

職員の胸元や背中、そしてヘルメットにまで大きくプリントされた「九紅データサイエンス株式会社」のロゴが目立っている。

物々しい雰囲気を漂わせていても、この時間の団地には人影がなく、ワゴン車が横付けされていても誰一人気に留める住民はいなかった。


「……おい副会長。ホンマに害虫駆除業者なんかいな?どう見ても大手のコンサル会社にしか見えんのやけど……」


ビシ九郎は目を剥いて叫んだ。

哲人は涼しい顔で答える。


「問題ない。彼らは優秀だ。気にするな」


チームは無言で動き出し、台所やトイレの床下、壁を徹底的に点検していく。

噴霧器から白い煙が立ちこめ、粉末薬剤が隙間に流し込まれ、ジェル状の毒餌が配置された。

その手際は害虫駆除というより、製薬会社の防疫部門さながらだった。


「対象確認。目標、カマドウマ。薬品散布開始」


「駆除率、百パーセントを想定」


無機質な声が交わされ、やがてカマドウマたちは一匹残らず駆逐された。

集会所全体に薬品の匂いが充満し、まるで病院の消毒室のよう。


「うぅっ……なんやこれ、病院のニオイみたいやな……」


ビシ九郎は鼻を押さえ、青ざめながら呻いた。


その時。

調査員たちが、高齢者の踏み間違い事故でヒビの入った壁に集まった。


「ここもふさがないと、害虫駆除の意味がありません」


そう言いながら、物々しい機材を取り出し、壁の奥を調べ始める。

レーザー測定器、タブレット、カメラ。

記録された映像には、金属基礎の一部と異質な材質が覗いていた。


ひとりの調査員が画面を見つめ、静かに言った。


「……報告通りですね。やはり初期型で間違いありません。識別コード、D-6、“ゆりかご”です」


別の調査員が言葉を継ぐ。


「これで確信が持てました。しかし、このまま剥き出しにしておくのはまずい。他の住民に見られる前に塞いでしまいましょう」


さらにもう一人が補足した。


「公社からの修理依頼も滞っていますし、今のうちに片付けてしまうべきです」


哲人はわずかに目を細め、静かに頷いた。


「……ああ、今のうちにお願いします」


調査員たちは即座にセメントを練り、壁の補修に取りかかった。

パテで上塗りする音だけが、薬品臭の漂う集会所に響いた。


---


作業は手際よく進み、ヒビの入った壁はすっかり新しくなった。

異質な材質や金属基礎は完全に覆われ、外から見ればただの事故補修だ。


「修理も完了しました」


調査員がそう告げると、哲人は静かに頷いた。


「承知。集会所の修理が終わったこと、私から会長に伝えておきます」


黒いロゴ入りのヘルメットが次々と去り、集会所に静けさが戻る。

ビシ九郎は鼻を押さえながら哲人に問いかけた。


「……副会長、これ、いのすけは知っとるんか?」


哲人はビシ九郎を真っすぐ見据え、声を落として答える。


「会長は今テスト期間中だ。混乱させるだけだろう。ここは僕が代理で動く。この件は口外するな」


「……まぁ、ワイは壁が直れば何でもええけどな」


ビシ九郎は肩をすくめて畳に寝転がった。

哲人は時計をちらりと見て、鞄を肩に掛ける。


「おっと、もうこんな時間。午後からは大学に行かないといけないんだ。午前中に片づいて助かったよ」


と言い、哲人は足早に出掛けていった。

壁の穴が修復された集会所は空調の効きも良くなり、涼しい風が流れ込む。


「さて、もう一眠りや」


ビシ九郎はそう言って目を閉じ、すぐに寝息が戻った。

一方、団地を出た哲人は、運河にかかる「うみねこ橋」の上で足を止めた。

真昼の太陽に白く照らされる団地を振り返り、誰に聞かせるでもなく呟く。


「……“九紅のゆりかご”よ。今はまだその時じゃない……どうか安らかに眠れ」


真夏の光にその言葉は溶け、川面に静かに広がっていった。

最後までありがとうございます。

第81話で哲人の口から出た「九紅のゆりかご」。

団地の“日常”の中に潜む“非日常”を描いてみました。

ビシ九郎の騒がしい朝から一転して、九紅の調査チームが現れるあたりから、少しずつ物語の空気が変わっていきます。

そして「ゆりかご」という言葉が、これから先の展開を大きく動かしていくことになります。

まだ詳しい意味は明かされませんが、壁の奥に眠る“何か”が、この団地にとって重要な存在であることだけは確かです。

いのりがこの異変を知るのは、もう少し先のことになります。

どうぞ次回もお楽しみにお待ちください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ