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第79話『やけに簡単すぎるな』

週末の朝、いのりはテスト期間のため自治会の仕事から解放されました。

久しぶりに心置きなく机に向かえる時間。

場所は、彼女がよく通うカメダ珈琲店。

そこで同席するのは、勉強を教えてくれるひとりの青年でした。

ノートを広げ、静かな店内で始まる小さな勉強会。

そしてもうひとり、その様子を見つめる女性がいて——。

それぞれの想いが交差する週末の朝、少しだけ違う視点で描かれる物語です。

どうか、温かい気持ちで見守っていただけたら嬉しいです。

週末の朝。

九潮団地は静かだった。

副会長に自治会の雑務を任せ、いのりはようやく


「これで勉強に集中できる……」


と胸をなでおろしていた。

そんな九潮団地から少し歩いた先にあるカメダ珈琲店。

レンガ調の外壁と大きな窓が、まだ静かな街に柔らかい影を落としている。

ガラスの扉を押して入ってきたのは、いのりと木澤。

二人そろって来店するのは初めて。


「やっぱりここ、落ち着くよね」


「うん。滉平君も、けっこう来てるんでしょ?」


「大学のレポートやる時はよく使ってるよ。机が広いから助かるんだ」


「私もテスト前はここが一番集中できるんだ」


視線を交わして、ふっと笑い合う。

お互いに“いつもの店”だとわかっている安心感があった。


二人は迷うことなく窓際の4人席に腰を下ろした。

背もたれの深いソファに体を預け、テーブルの上を自然に整えていく。

鞄から取り出したノート、教科書、シャープペン。

置く場所が決まっているかのようにスムーズに並べられた。


「私はブレンドにしよ。モーニングはAセットで」


「じゃあ俺はアイスコーヒー。朝は冷たいのがちょうどいいから」


「ふふ、滉平君らしいね」


店員が伝票を置いて去っていくと、店内にまた落ち着いた空気が戻る。

やがてコーヒーの香りとトーストの匂いがテーブルを包み、ほんのり温かい湯気が立ち上った。


「さて、始めますか」


「うん。今日で数学の範囲終わらせる予定だから」


「俺も今日中にレポートまとめたいんだ」


コップの氷がからんと鳴り、ページをめくる音が静かに重なった。

週末のカメダは、ゆったりしたBGMと常連客の控えめな話し声が漂い、二人にとってちょうどいい“勉強の居場所”だった。

窓から射し込む朝の光がノートの紙面を照らし、二人の机に並んだ文字と数式を白く浮かび上がらせる。

いのりと木澤は、慣れた風に席に落ち着き、ゆっくりと勉強を始めていった。



---


いのりのノートに数字と記号が並ぶ。

ペン先が途中で止まり、余白に小さな“?”マークが増えていく。


「うーん……ここからどうやって因数分解するんだっけ……?」


「ん?」


「滉平君、ここって……」


「どれどれ…あれ?」


いのりが声をかけた瞬間、いのりが解いている問題を見て、木澤は机の端に置かれた教科書と問題集を手に取った。

軽くパラパラとめくる。


(……やっぱり…やけに簡単すぎるな。高2でこのレベルか)


ページは薄く、扱う問題は数Ⅰの基礎ばかり。

応用や発展はほとんどなく、ただ反復練習を積み重ねるだけの構成。


(俺が通っていた高校じゃ、高2なら数ⅡBが当たり前で、数Ⅲの入り口に手をかけているやつもいたっけ。同じ普通科でも進学校とレベル差がこんなにあるとは思わなかった。)


心の中でそうつぶやく。

とてもじゃないが、木澤が目指したような国立大学の受験を考えたら全然話にならない。


(でも、そうか。確か雛川シーサイド學院は五探田ごたんた大学の付属高校だったはず。医学部や獣医学部は偏差値が高いけど、文系学部は40台、低いところは39って話だ。お世辞にもレベルが高いとは言えない。文系の内部進学なら、このくらいの基礎を繰り返すだけで十分なんだろう)


ふと楓の顔が浮かぶ。


(あと楓ちゃんは特進コースって話だったよな。つまり外部受験や内部進学でも難関学部を目指す子は、そっちに集められているわけか。なるほど…、コースによって教材の厚みから全然違うんだな)


「滉平君?」


ほんの数秒の沈黙が流れ、いのりが不安そうに木澤をのぞき込む


「あ、ごめんごめん」


木澤は思考を切り替え、いのりのノートを指差した。


「まずね、こういう関数の式を見たら、とりあえず全部左辺に移行して右辺を =0 にする」


「えっと……こうかな?」


「そうそう。で、x をくくって因数分解。式を整理すれば解が見えてくる」


さらにペンを走らせ、ノートに公式を書き出す。


「二次方程式 ax²+bx+c=0 の解は、x = {-b ± √(b² - 4ac)} ÷ 2a。これを解の公式って言うんだ。必ず覚えておくこと。答えが√のところは ± を忘れないで。解を落として減点されるから」


「はっ……前にそれで間違えた!」


いのりは慌ててノートに書き写す。


「まず最初に公式を書いておいて代入。慣れれば迷わずに解ける」


「なるほど……! すごく分かりやすい!」


いのりの表情がぱっと明るくなり、ノートを埋めるペンが軽快に走り出す。

木澤もそれをみて微笑む。


(同じ普通科でも、目指すゴールが違えば教える深さも変わる。ここは“落とさないための設計”ってわけか)


「あとは式が0になるパターンをしっかり押さえて、xに入る数を見つけて座標に書き起こして…」


言われた通りに解答を進めるいのり。


(…いのりちゃん…基礎を固めれば全然余裕だ。これなら一日でもぐんと伸びる)


木澤は心の中でうなずき、アイスコーヒーをもう一口飲んだ。


その時、ペン先がふと重なり、指先がかすかに触れた。

いのりの頬が一瞬で赤く染まる。

木澤は気づいたのか気づかないのか、そのまま解説を続けていく。

カメダの店内に、二人の声と筆記音が穏やかに溶けていった。



---


そのとき、カメダの扉が軽やかに開いた。

初夏の朝、さわやかな風が店内に流れ込む。

入ってきたのは、美容師の長岡つぐみ。

仕事前にモーニングを取ろうと、いつものようにカウンターへ向かう。

そのとき、窓際に目が吸い寄せられた。


「……え?」


そこにいたのは、見慣れた後ろ姿。

風張いのりだった。

そして向かいに座るのは、白いシャツに腕を通した背の高い男子学生風の男。

机いっぱいにノートを広げ、二人は真剣に勉強している。


つぐみは思わず立ち止まり、胸の奥がどくんと鳴る。

慌てて仕切りのある席に移り、メニューを盾にして窓際を盗み見た。


(こ、この人誰……?私、この人見たことない……。でも白シャツがよく似合ってるし、背も高いし……。ちょっとチャラい雰囲気もあるけど、カッコいい……!)


ちょうどそのとき、いのりが口にした。


「滉平君、ここってどうすればいいの?」


耳に入った名前で記憶が繋がる。


(……滉平君?あっ!前にいのりちゃんが“気になる人がいる”って言ったとき、確かその名前を口にしてた……。まさか……この人が、その滉平君!?)


シャープペンを走らせながら説明する木澤の横顔。

それを真剣に見つめるいのり。

少し頬を赤くしながら、うんうんと頷いている。


(な、なにこれ……!勉強してるだけなのに……すごく雰囲気いいんだけど!)


胸がざわつき、頭の中で妄想が膨らむ。

いのりに彼氏?

ふたりでカフェ勉強デート?

机を挟んで向かい合う姿が、やけにお似合いに見えてしまう。


(……いのりちゃん、こういう人がタイプなのかしら?確かにカッコいいし、爽やかだし、なんか頼りがいありそうだし……)


つぐみの視線はもう釘付けだった。


「ハァ……ハァ……尊い……!でも、つぐみお姉ちゃん寂しい……!」


つぐみの呼吸が乱れ、手のコーヒーが震える。


「……カ、カハーーーッ!!!」


つぐみは仕切り席で白目をむき、机に突っ伏した。氷がガランと鳴り、隣客が振り返る。

一方、再びペン先が重なって指が触れると、いのりが慌てて顔を赤くする。


「……っ!!!」


危うくコーヒーをこぼしそうになり、慌てて紙ナプキンを掴む。

仕切りの陰で小刻みに震えながら、白目寸前のつぐみは心の中で叫んでいた。


(い、いのりちゃん尊すぎる……! か、可愛い……! な、なんなのこの光景……! 幸せになってほしい……でもでも、気になって仕方ないよーー!!)


カメダの店内。

窓際では二人が落ち着いて勉強を続け、仕切り席では一人の美容師が勝手に勘違いし、感情崩壊していた。



---


窓際の席。

木澤がノートを指差し、いのりが


「なるほど!わかりやすい!」


と声を弾ませる。

その表情は、学校でも家でもあまり見せない、心から楽しそうな笑顔だった。


(……えっ……いのりちゃん……。こんな顔するんだ……)


仕切りの陰で、つぐみは胸を押さえた。

心臓の鼓動がやけに大きい。

さっきまで


「彼氏とデート!?」


と混乱していた頭に、今度はじわじわと寂しさが広がっていく。


(いのりちゃん…私に何も話してくれなかった……。小さい頃から全部共有してくれたのに……。もう、私の知らない世界があるんだ……)


少しだけ置いていかれた気がして、胸がきゅうっと痛む。

けれど同時に、窓際のいのりはあまりにも幸せそうだった。


「ふふっ。なんかね、滉平君に教えてもらってると……お兄ちゃんができたみたいで嬉しいんだ」


「へえ、そう感じる?」


「うん。だって私、長女だから。ずっと“妹”って立場を知らないんだよね」


木澤は頷き、コーヒーを口に運ぶ。


いのりは、少し迷ったあとで続けた。


「でもね、“つぐみお姉ちゃん”っていう美容師のお姉さんがいるの。血はつながってないけど、前に“お姉ちゃんって呼んでほしい”ってお願いされて……それからそう呼んでるの」


木澤は


「へえ」


と頷き、柔らかく笑う。


「そう呼ぶくらい、仲がいいんだな」


「うん。忙しい人だから勉強を教えてもらったことはないけど……私にとっては本当のお姉ちゃんみたいな存在で。だから今、滉平君に教えてもらってると……お兄ちゃんとお姉ちゃんがそろったみたいで、すっごく嬉しいんだ」


木澤はその言葉に目を細め、静かに答える。


「それなら……俺も教えがいがあるよ」


ノートをのぞき込みながら、滉平の吐息が自分の指にかすかに触れる。

その瞬間、胸の奥が不意に跳ねた。


(でも、ただ勉強を教えてもらってるだけなのに……なんでこんなに近く感じるんだろう)


頭では


「兄のような存在」


もしくは


「頼れる先輩と後輩の関係」


と整理しているのに、頬は勝手に熱を帯びる。

まるで答えの出ない方程式を解こうとしているみたいに、心の中がぐるぐるしていく。


「…滉平君のこと…お兄ちゃんみたいなはずって思ってるのに、なんでこんなに胸がドキドキしてるんだろう。……やっぱりちょっと違う気がする……」


二人の穏やかなやり取り。

そのすぐ後ろ。

仕切りの陰で耳をそばだてていたつぐみは、全身に衝撃を受けていた。


(つ、つぐみお姉ちゃんって……!やっぱり呼んでくれてる……!しかも今、ちゃんと話題に出してくれて……!いのりちゃん……!私のこと、忘れてなかったんだ……嬉しい!)


視界が一気に滲み、鼻の奥がつんと熱くなる。

涙と鼻水が同時に溢れ、息が苦しくなるほど胸が詰まる。

喉から変な音が漏れる。


「グ、グハァァァァァァ!!!!」


机に突っ伏し、ティッシュをぐしゃぐしゃに握りつぶすつぐみ。

顔中ぐしゃぐしゃにしながら、白目をむいて震える。

頬には涙、鼻からは透明な筋、口からは泡。

三重苦のリアクション芸を、朝のカフェで惜しげもなく披露していた。


「お、お客様!?大丈夫ですか!?」


慌てて駆け寄る店員に、つぐみは必死にかすれ声を絞り出した。


「ひゅーっ……ひっく……だ、大丈夫です……!妹が尊すぎるだけですから……!」


店員は眉をひそめ、周囲の客はそわそわと視線を送る。


「……救急車、呼びます?」


と真剣な声が落ちた瞬間、


「ひぃぃぃ……っ!大丈夫っ……!妹がお姉ちゃんって呼んでくれた……それだけで、生きていけますからぁぁぁ……!」


つぐみは喉を震わせ、白目を剥いて奇声を発した。

涙と鼻水と泡を同時に垂れ流し、酸素を求める魚のように口をぱくぱくさせる。

肩は痙攣し、全身が小刻みに震える。

もはや感情の器が完全に決壊していた。


「……お気持ちは分かりますが、店内での“尊死”はご遠慮ください」


「す、すみません……尊みが過ぎました……」


一方、窓際の二人は、静かにノートへ数式を書き写し、何事もなかったかのように勉強を続けている。

カメダ珈琲店には、ペンの走る音と、感情崩壊する美容師の奇声が、奇妙なハーモニーを描いていた。

いのりは数式の√をなぞり、滉平は静かに余白を整える。

朝の光だけが、二人の机を同じ角度で照らしていた。

今回のテーマは、「学ぶことの不均衡」です。

義務教育を終えた高校では、生徒のレベルに合わせてカリキュラムが分かれます。

入学の段階で学力が測られ、すでに“どの深さまで教わるか”が決まっている。

同じ高校生でも、学校によって学べる範囲やスピードがまったく違うという現実があります。


木澤が感じた「やけに簡単すぎるな」という一言は、単なる驚きではありません。

それは、努力の差ではなく“教育制度の設計そのもの”に潜む格差への気づきです。

優秀とされる生徒も、別の学校に行けば“井の中の蛙”。

一方で、進学校から外れた生徒でも、環境が違えば上位に立てる。

教育のスタートラインは同じでも、カリキュラムの分岐点が未来の幅を決めてしまう。


この回では、恋愛や日常の空気の中に、そんな社会の縮図をさりげなく重ねました。

努力の価値を否定するつもりはありません。

ただ、努力する以前に“学ぶ内容の土台”が異なる現実を、

一人の青年の目を通して描いてみたかったのです。


次回も、静かな日常の中に潜む社会の構造を、そっと映していきます。

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