第77話『息子の嫁に来るなら大歓迎や』
ゴールデンウィークが明けて、少しずつ日常が戻ってきました。
試験前で少しピリピリした空気の中、いのりたち言論部の放課後は今日もにぎやかです。
今回は、楓の弟・壮真が登場します。
野球の練習試合をきっかけに、青春らしい“まっすぐな気持ち”と、家族の温かさを描きました。
団地の外でも、じちまかメンバーの世界が少しずつ広がっていく回です。
ゴールデンウィークが明けた放課後。
言論部の部室には、テスト範囲のプリントや教科書がずらりと広がり、鉛筆の音ばかりが響いていた。
「……ふぅ、眠くて古典マジで頭に入らない。もう帰る~」
あずさが机に突っ伏す。
「昨日もドラマ見て夜更かししてただけでしょ」
といのりが呆れたように言うと、
後輩の星詩帆、みんなから“しほりん”と呼ばれている1年生が小さく笑った。
「先輩方、本当に仲がいいですね……」
その横で、ちびデブ眼鏡に和服姿の福地先生が、あごをぷるぷる揺らしながらお菓子を頬張っていた。
「おや〜ん、今日は早めに帰るのかねん? 最近は熱心に部室へ顔出してたし、いいと思うよ〜ん。いってらっしゃい」
和服の袖で額の汗をぬぐい、にやにやと笑う。
「僕ちゃんも毎日顧問は大変だからねん。週1か2くらいで十分よん」
「先生こそ、放課後のチャイム鳴ったら即帰ってますよね?」
いのりの突っ込みに、福地先生はお菓子を詰まらせながら
「ほほほ〜ん、バレたかねん!」
と顎を揺らした。
そんなやりとりの最中、楓がペンを置いて立ち上がる。
「私、今日はここまでにするね。弟が野球部の練習試合するの。近くのグラウンドで」
「練習試合ですか!?」
しほりんが目を丸くして、すぐに身を乗り出す。
「見てみたいです!」
あずさも
「行きたい行きたい!」
と声を上げた。
いのりは少し迷ったが、机のプリントを見て苦笑する。
「……まあ、少しならいいよね」
楓は鞄を肩に掛け直し、にっこり笑った。
「じゃあ、みんなで一緒に行こっか」
四人は机を片づけて立ち上がり、声を合わせた。
「寄り道決定!」
初夏の光が差し込む廊下へ、軽やかに飛び出していった。
区の管理する野球専用グラウンド。
四方を高い金網フェンスとネットに囲まれたフィールドでは、都立赤物横丁高校と雛川商業高校の練習試合が進んでいた。
夕方の光の中、カキーン!と乾いた打球音とミットに収まる音が反響する。
「わ、広いですね……」
しほりんが目を細め、カバンから黒縁の眼鏡を取り出した。
普段は裸眼で過ごしているが、授業やスポーツ観戦ではこうしてかける。
フレーム越しの瞳がくっきり際立ち、ボーイッシュな横顔がさらに凛々しく見えた。
「ほら、ショート守ってるのがうちの弟。皆本壮真、一年生」
楓がフェンス越しに指差す。
背番号6のユニフォームを着た壮真は、小柄ながらも俊敏なフットワークでゴロをさばき、一塁へ素早く送球していた。
童顔気味の顔立ちに野球帽の影、短く整えられた髪が夕陽に照らされてさらりと揺れる。
「……へえ、思ったよりかっこいいじゃん」
あずさが感心したようにぽつりと漏らす。
その声は静かなグラウンドに響き、壮真の耳にも届いた。
「げっ……姉ちゃん!? 来るなって言ったのに!」
顔をしかめて守備位置に戻るが、胸の奥の鼓動は速くなるばかりだった。
***
イニングが終わり、壮真がベンチへ引き上げる。
タオルで汗を拭う間もなく、二年生の先輩たちが肘でつついてきた。
「おい壮真、フェンスのとこ見ろよ。かわいい子たち来てんぞ」
「ほんとだ、あの元気そうな子、アイドルっぽくね?」
「眼鏡の子も美形だな」
「落ち着いた雰囲気の子もいい感じだぞ」
冷やかす声に、壮真は気まずそうに笑って肩をすくめた。
「……一番手前が、俺の姉です。あとの三人は……友達じゃないですか?」
「へえ〜、そうなんだ」
「マジかよ、美人ぞろいで凄えな」
先輩たちは興味津々でフェンスを覗き込む。
壮真もつられて視線を向けた。
楓は堂々と手を振り、いのりは柔らかな微笑み。
しほりんは眼鏡の奥の瞳を輝かせている。
そして無邪気に身を乗り出して手を振るあずさ。
(……さっき“かっこいいじゃん”って言ってたの、俺のこと……か?なんていうか……あの人が一番可愛いよな…)
胸の鼓動が跳ね上がり、壮真は思わず目を逸らした。
一年の壮真は、父・皆本慎太の現役時代のイメージ、守備型で小技を繰り出すタイプで見られてきた。
本人も「自分は非力だ」と思い込み、これまでひたすらコンパクトにセンターへ打ち返すことを意識してきた。
長打を狙うなんて考えたこともない。
その壮真に、ついに打席が回ってきた。
相手は雛川商業の左腕。
球速こそ平凡だが、右打者のインコースをえぐるように突いてくる厄介な投手だ。
「うわ、打席回ってきた!」
フェンスの外であずさが身を乗り出す。
「壮真くん、かっこいいとこ見せて!」
壮真の肩がぴくりと動いた。
(……かっこいいとこ? 俺にそんなの……)
頭の奥で、さっきの「かっこいいじゃん」という声が繰り返される。
初球、胸元をえぐる速球を見送ってボール。
二球目、同じコースを差し込まれ、腕をたたんでなんとかファウルにした。
(やっぱり俺は小技しか……そう思ってたけど)
「ファイト!壮真くん!…リラックスして! 思いきりかっ飛ばして!」
あずさの声援が、金網越しに届いた。
「……っ!」
胸に稲妻が走る。
“かっ飛ばす”
そんな打撃をイメージしたことは今まで一度もなかった。
(けど……やってみてもいいのか?)
鼓動がどくどくと速まる。
三球目。
左腕が胸元へ直球を投げ込む。
壮真は迷わず踏み込み、腕をたたみ、全身の力を込めて初めてのフルスイングを放った。
カキィン!
「しまった、ひっかけた!」
打感は完全に三塁線へのゴロかファウル。
手に残るのも“こすった”ような頼りなさ。
だが目の前に広がったのは別の光景だった。
バックスピンが強くかかった打球はセンター寄りの右中間へふわりと舞い上がり、滞空時間を重ねるごとにぐんぐん上昇して伸びていく。
「詰まった内野フライかと思ったのに……」
相手の三塁手が思わずつぶやく。
「一瞬グラブ出しかけたんだぞ……落ちてこねえ!」
内野陣もざわめき、外野手が足を止める。だが落ちない。
打球は、そのまま金網ネットのはるか上空へ突き刺さった。
「やった!ホームランだ!!」
打球を見送ったチームメイトが声を弾ませる。
「すごい……!ほんとに飛ばした!」
あずさが歓声をあげる。
いのりも手を叩き、しほりんは眼鏡の奥で目を丸くする。
楓は口元を押さえ、弟の衝撃の一打に息をのんだ。
ダイヤモンドを回る壮真を、仲間たちが迎える。
「お前、マジかよ!?一年でこんな飛ばす奴いるか!」
「ヤッバ!主砲誕生じゃねーか!」
「皆本すげええ!」
肩を叩かれ、ヘルメットをわしわし撫で回され、壮真は返事もできずに顔を赤くした。
(……俺、本当に飛ばしたんだ……?)
胸の鼓動がまだ止まらない。
その打球は、高校一年生のレベルをはるかに超えていた。
まるで外国人助っ人が叩き込んだような、規格外の大飛球。
そして、少し離れたフェンスの外。
腕を組んで見つめていた皆本慎太は、思わず口をあんぐり開けていた。
(……なんやあれ……高校一年であんな打球飛ばすんかい……)
「ホンマ…びっくりこいたわ〜……」
二千本安打の名手ですら、息子の打球に、ただ絶句するしかなかった。
試合が終わり、ベンチから出てきた壮真が、ぎこちなくフェンスの前まで歩み寄った。
帽子を取って、少しうつむきながら声を張る。
「……さっきは、応援ありがとうございました!」
その真っ直ぐな礼に、あずさが一瞬目を丸くする。
「うん! 壮真くん、すっごくかっこよかったよ!次も頑張ってね!」
その言葉に壮真は鼓動が高鳴る。
「よかったね、壮真。あずさに応援してもらえて」
楓が微笑む。
「……っ! ……また応援、来てくださいっ!」
壮真は耳まで赤く染まり、声を詰まらせてベンチへ駆け戻っていった。
(あの人、あずささんって言うのか…。可愛かったな…)
「うわー、青春だー!」
しほりんが大げさに手を叩き、いのりも
「ほんとだね」
と頷いて茶化す。
その横で、楓は小さく笑った。
「……壮真、あずさの声で頑張れたんだよ」
それは、弟を誇らしく見つめる姉の顔だった。
「え? そ、そうかな?」
あずさは頬を赤らめつつ、慌てて手を振る。
「試合の後だから、火照ってるだけだよ、きっと!」
いのりと詩帆は微笑ましく見ていた。
わいわい盛り上がる声が、夕暮れのグラウンドに響いた。
***
その日の夜。
皆本家の食卓には、笑い声が絶えなかった。
「壮真ったら、ホームランまで打つなんて……ほんとにすごかった」
楓がにやにやと弟を見て、箸を置く。
「ねえ、あずさの応援、効いたんでしょ?」
「ち、違うって!」
壮真は耳まで真っ赤にして、慌てて否定する。
そこで慎太がニヤリと口を開いた。
「なんや、お前……あずさに惚れとるんか?」
「なっ!? そ、そんなわけないだろ!」
壮真の声は裏返り、顔はさらに真っ赤。
「わっかりやすいな〜、壮真。あずさならフリーやないか?」
慎太はわざとらしく笑いながらお茶をすする。
「でも、いのりは狙ったらアカンぞ?アイツはちゃんとコブつきやからな」
と、にやり。
「お父さん!」
楓があきれ顔で口を挟む。
「私の親友なんだから、あんまりネタにしないでよ?」
だが慎太は涼しい顔で言い放った。
「楓、俺は本気やで。あずさならしっかりしとる。息子の嫁に来るなら大歓迎や」
「そ、そんなんじゃないやい!!」
壮真は机に突っ伏しそうになりながら、必死に否定する。
慎太はふと真顔になり、茶碗を置いた。
「……それにしてもや。ホンマ、壮真があんな規格外な凄い打球飛ばすなんて俺も知らんかったわ。 外国人助っ人みたいなゴリゴリの長距離砲になれるかもわからんな」
「……っ!」
壮真は再び顔を赤くし、うつむいて黙り込む。
だがその姿は、父に褒められて照れているようにしか見えなかった。
楓はくすくすと笑いながら弟を見守り、母は穏やかに微笑んでお茶を注ぐ。
皆本家の食卓は、温かさと笑いに包まれていた。
壮真のホームランはもちろんですが、それ以上に描きたかったのは「家族のやり取りの温かさ」でした。
慎太の何気ない冗談の中には、ちゃんと“いのりの恋を見守る優しさ”が込められています。
いのりは周りの人たちに支えられながら、少しずつ大人に近づいていく。
そんな姿が私にはとても尊く感じられます。
あずさの応援で頑張れた壮真、それを微笑ましく見つめる姉の楓。
そしてその家族の温かさに包まれたいのりたち。
今回は、恋も家族も全部がつながっているような回になりました。