第70話『グンマーのお土産』
ゴールデンウィークの田舎編。
今回は都会では味わえない独特の「夜の空気」を舞台にしています。
真っ暗な田舎道、どこか不気味に響くカエルの大合唱、そして地域に根付く観光と温泉文化。
一見ほのぼのとした日常のようでいて、その裏には田舎ならではの“笑ってはいけない現実”が潜んでいます。
姉妹のやり取りはコミカルで可愛らしく、それでいて田舎の闇もしっかり盛り込まれている――そんなエピソードをお楽しみください。
夜九時。
ゴールデンウィークのグンマーは、すでに初夏の空気に包まれていた。
近年の温暖化のせいか、昼間は半袖で過ごせるほどの暑さ。
夜になっても涼しさはあるが、薄着で外に出ても寒さを感じないくらいだった。
炭火が落ち着き、にぎやかだった庭のバーベキューもお開きに。
皿の上には食べきれなかった肉や野菜が少し残り、夜風に吹かれて炭の匂いが静かに漂っている。
祖父はすっかり酔いつぶれ、畳の上で大の字になって寝息を立てていた。
けいじはよしつぐと一緒に風呂へ。
きよのと祖母は居間で湯が沸くのを待ちながら、久しぶりの母娘の時間を楽しんでいる。
「みんなで同時にお風呂ってなると、どうしても渋滞しちゃうのよね」
祖母が笑いながら言った。
「だから、いのりとともりは近所の温泉に行ってきたらどうかしら。歩いてすぐだし、夜は24時まで入れるんだから」
「え、そんなのあるの?」
いのりが目を丸くする。
「この辺は観光地だからね。温泉宿があって、日帰り入浴の観光客にも人気なんだよ。せっかくだから姉妹で行っておいで」
祖母の言葉に、ともりがにやりと笑った。
「行こうよお姉。せっかくグンマー来たんだし!」
戸惑ういのりの横で、祖母は箪笥を開ける。
「これ、ちょうどいいんじゃないかと思ってね」
奥から取り出したのは、きよのが中高生のころに着ていた浴衣だった。
それが今、姉妹の手に渡ろうとしていた。
「これはきよのが中学生のときに着ていた浴衣。こっちは高校のときによく着ていたものだよ」
「えっ……お母さんの?」
いのりとともりは顔を見合わせる。
古風な花柄の浴衣は少し色褪せているが、丁寧に仕舞われてきた気配がある。
いのりは中学生用を着てみたが、胸元がぶかぶかで落ち着かない。
一方、ともりは高校時代の浴衣がぴったり。
祖母も
「よく似合うねぇ」
と目を細める。
(……私のほうが年上なのに、なんでこうなるんだろう)
いのりは複雑な気持ちで胸元を押さえた。
浴衣姿で外に出ようとした二人に、祖母はにこやかに声をかける。
「夜道は暗いけど大丈夫よ。この辺は何十年も事件なんて起きてないんだから。……でも車には気をつけなさいね。飲んだ帰りのオヤジが平気で運転してるから」
「え、それのほうが怖いじゃん……」
ともりが苦笑する。
さらに祖母は軽くおどけて続けた。
「あ、それと熊にも気をつけて。この前なんか、バスの停留所に出て大騒ぎになったんだから」
「……熊!?」
二人は顔を見合わせ、
「えぇぇ!?」
と声を揃える。
外へ出ると、街灯の少ないグンマーの夜道は想像以上に真っ暗だった。
両脇には一面の蒟蒻畑が広がり、風に揺れる黒いビニールがガサガサと音を立てる。
時おり田んぼの方からは、ゲコゲコとカエルの大合唱。
初夏の湿った夜風が浴衣の裾を揺らし、姉妹の足をひんやりと撫でていった。
「……こんなところ、何か起きても誰も気づかないよね」
「拉致されたって、カエルの声にかき消されるだけじゃない?」
「それどころか、田舎って犯罪あっても隠蔽されそう。『何も起きてない』ってことにするの得意そうだし」
二人は顔を見合わせて小さく笑ったが、背筋にはひやりと冷たいものが走る。
(平和って……ただ“何も起きてないようにされてるだけ”なのかもしれない)
浴衣の裾を押さえ、ともりが駆け足になる。
「お姉、早く行こ!」
二人は肩を寄せ合いながら、温泉宿へと歩みを進めた。
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温泉宿に着くと、ちょうど女湯は誰もおらず貸し切り状態だった。
「ほんとに誰もいない……?」
「うわ、ラッキーすぎ!」
脱衣所で顔を見合わせ、二人はくすっと笑う。
本来ならゴールデンウィーク真っ只中で混んでいてもおかしくない。
けれどこの宿に泊まっている外国人観光客の団体は、宴会場で盛り上がっている真っ最中だった。
壁越しに聞こえてくるのは、この温泉が舞台になったアニメの主題歌や挿入歌の大合唱。
「すごい……本気で歌ってる」
「カラオケじゃなくて、ほとんどライブ会場だね……」
その熱気のおかげで、広い温泉は無人。
「……でも、こうやって外国人が来てくれるから、この宿もホクホクなんだろうね」
「田舎の観光って、こういう聖地巡礼に支えられてるんだな〜」
二人は顔を見合わせ、苦笑した。
湯船に肩まで浸かると、夜空に星が瞬き、湯けむりが風に揺れる。
「ふぅ〜……生き返る……」
二人同時にため息をついた瞬間、ともりがぐいっと伸びをした。
ぷかりと水面に浮かぶ胸が、波紋を広げる。
「ちょ、ちょっと!ともり、また大きくなってない!?」
いのりが真っ赤になって叫ぶと、妹はあっけらかんと答える。
「うん。ソフトボールで投げるとき、揺れて邪魔なんだよね」
「な、なにそれ……!」
赤面して胸元を押さえる姉。
(わ、わたしだってぺちゃんこじゃないのに!)
「お姉もちゃんとあるでしょ?確認してみよっか」
「はぁ!? ちょっ……やめっ!」
にやりと笑ったともりが、いのりの胸に両手を伸ばす。
「もみもみ〜♡」
「きゃあああ!!」
柔らかい感触に悪戯っぽく笑う妹と、必死で逃げ回る姉。
「やーめーろー!」
「あはははは!」
貸し切りの温泉は、あっという間にドタバタ劇場になった。
バシャーン!
いのりが派手にしぶきを上げ、湯けむりの中で咳き込みながら顔を真っ赤にする。
ともりは腹を抱えて笑い転げる。
「お姉、反応かわいすぎ! ほんとピュアだよね〜」
「う、うるさいっ……!」
ひとしきり笑ったあと、ともりがふと真面目な顔になって姉を見つめた。
「でもさ。お姉の魅力って胸じゃないと思う」
「……え?」
「お尻と脚。キュッと締まってて細いじゃん。私なんて部活始めてから脚ばっか太くなっちゃって」
そう言って、自分の太ももを軽く叩く。
いのりは自分の足元を見下ろす。
湯に濡れた白い脚は、月光を受けてすらりと伸びていた。
体重は40キロを切っている。
細身すぎて献血もできなかったけれど、その華奢さは同年代の女子から見れば憧れのモデル体型。
本人は胸のことばかり気にしていたが、妹の目には十分魅力的に映っていた。
「お姉の脚、絶対モデルでも通用するよ。私、ちょっと羨ましいんだよね」
「……そういうものなの?」
いのりの声は少し震えていたが、どこか柔らかく響いた。
遠く宴会場から
「アンコール!」
の声が飛び、舞台アニメの歌が再び響き渡る。
貸し切りの湯船で騒ぐ姉妹と、外国人観光客の熱唱。
田舎の温泉宿は、観光客のおかげでホクホクに潤いながら、奇妙に賑やかな夜を迎えていた。
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湯上がりの脱衣所。
二人はドライヤーを使ったけれど、髪はまだ半乾きで首筋に貼りついている。
しっとりと濡れた髪と浴衣姿が合わさると、妙に大人びて見えた。
鏡の前で、アメニティに置かれた化粧水をぱしゃぱしゃと顔に馴染ませる。
二人とも普段からノーメイクのすっぴん。
けれど中高生らしい瑞々しい肌があれば、それだけで十分可愛かった。
「……やっぱりちょっと冷えるね」
「でもその濡れ髪、むしろ色っぽいよ、お姉」
ともりのからかいに、いのりは耳まで真っ赤になる。
そのまま浴衣姿でロビーへ出ると、宴会場からは外国人観光客の大合唱が響いてきた。
舞台アニメの主題歌が、カラオケというよりライブさながらのボリュームで流れ込んでくる。
「……すごいね。こっちまで聞こえる」
「まあ、あの人たちのおかげで宿はホクホクなんだし」
苦笑しながら、二人はロビーのソファに並んで腰を下ろした。
「せっかくだから写真撮ろうよ。お姉、スマホ貸して!」
「え? ちょっと待って……」
「いいから!」
ともりが半ば強引にいのりのスマホを取り上げる。
「はい、カシャリ!」
半乾きの濡れ髪、浴衣姿でソファに並ぶ姉妹。
画面に映った二人は、すっぴんにもかかわらず驚くほど可愛らしかった。
「わぁ〜いい感じ! 滉平さんに送っちゃお♡」
「はぁ!? だ、だめだって!! 滉平くんにそんなの!」
必死に止めようとするいのりを横目に、ともりは器用にLiNEを開き、友達リストから滉平を選択。
ともりはスマホをいじりながら、ニヤリと笑った。
「はい、送信っと……」
画像と一緒に送られたメッセージには、“グンマーのお土産♡”と付け足されていた。
「はぁ!? なに勝手にそんなの付け足してぇぇぇ!!」
真っ赤になるいのりを横目に、メッセージはすでに滉平の元へ飛んでいった。
数秒後――
“既読”の文字が浮かぶ。
「えっ……もう既読!?」
「滉平さん、反応早っ」
「うわああああぁぁぁ!!」
顔を真っ赤にして頭を抱えるいのり。
その横でともりは満足げにニヤリと笑った。
背後では、外国人団体がアニソンを絶唱し続けていた。
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そのころ九潮団地近くの区民公園。
炭火の煙が夜空に立ちのぼり、香ばしい匂いが風に漂っていた。
大学1年生になった木澤滉平は、高校時代の仲間たちと久々の再会を楽しんでいた。
それぞれが歩き出した道を語り合う。
「俺、中亰に引っ越したんだ。あっちの大学に通ってて、帰ってくるのほんと久しぶり」
「オレは専門学校。課題多いけど、まあなんとかやってるわ」
「俺なんかバイトでボロボロ。授業より労働時間の方が長いってどういうことだよ!」
笑い声があがり、網の上では肉と野菜がジュウジュウと音を立てていた。
コップを掲げたのは、浪人を選んだ友人。
「俺さ、今年は受験失敗したわ。でも来年こそは絶対合格する!今日は息抜き!」
「大丈夫だって、お前なら行ける!」
「受かったらまたここでBBQな!」
肩を叩き合い、拍手と声援が夜風に混じる。
木澤もソフトドリンクを掲げ、笑みを浮かべた。
懐かしい仲間に囲まれている時間が、ただただ心地よかった。
そのとき――ポンッ、とLiNEの通知音が鳴る。
「……ん?」
画面を開いた瞬間、木澤の世界が止まった。
『グンマーのお土産♡』
というメッセージと一緒に添付された浴衣姉妹のツーショット画像。
浴衣姿のいのりとともり。
濡れ髪、すっぴん、ソファに並んで寄り添ったツーショットだった。
胸元はほんの少しはだけ、かすかな色香を漂わせている。
「……ッッッッッ!?」
ブシュウウウウウウウッ!!!!
木澤から鼻血がスプリンクラーのように噴き出し、炭火の上でパチパチと弾けた。
「ぎゃああああ!? 肉が!肉が血まみれぇ!」
「おい滉平!?どうしたんだよ!?」
「消防呼ぶか!?いや救急車か!?」
仲間たちが大慌てで肉を退避させる。
木澤は顔を真っ赤にし、スマホを胸に抱きしめるように隠した。
(な、なにこれ……可愛すぎる……!)
鼻血ぽたぽたと流しながら震える手で二度見。
(少しはだけてる?……やばい、これはやばい……!)
ともりも十分に魅力的だが、木澤の目が行くのはいのりの姿。
(しかも……俺にだけ送ってくれたのか?いのりちゃんって誰にでもこういうの送る子じゃないよな……?だとしたら……だとしたら……!)
震える指でしっかり保存。
しっかり鍵をかけておく。
絶対に消せるわけがない。
胸の奥に火が灯るように、その一枚を大切に抱え込んだ。
木澤は震える指でスタンプを探し、無意識にタップ。
『グッジョブ!』
と親指を立てた、ゆるキャラの大きなスタンプが存在感を放っていた。
数秒後。
木澤からのグッジョブ!スタンプを見届けた姉妹。
ロビーのソファでいのりの絶叫が響き渡る。
「うわああああぁぁぁぁ!!やめてぇぇぇぇぇ!!!」
顔を覆って床に転がり、耳まで真っ赤。
その横でともりは口元を押さえ、ニヤニヤが止まらなかった。
「ほらね。滉平さん、めっちゃ喜んでるじゃん。やっぱり送って正解♡」
「や、やめてぇぇぇぇ!!!」
一方で、木澤は…
「おい!鼻血まだ出てんぞ!」
「タオルで押さえろって!」
「お前絶対なんかやましいもん見てただろー!」
「ち、違うって!!」
必死に否定しながらも、木澤の頭の中はぐるぐると渦巻いていた。
(あ、後で……じっくり見よう……絶対に……)
ポケットにスマホを仕舞い込み、誰にも見せまいと強く握りしめた。
団地の夜空に、懐かしい笑い声と滉平の必死の言い訳が混じり合う。
いのりから届いた一枚の写真は、彼の理性を容赦なく撃ち抜いていた。
田舎の夜は静かだからこそ、想像以上に生々しい現実が見えてきます。
平和に見えて、実は熊や飲酒運転、外国人観光客など、独特の課題がそこかしこに潜んでいる。
そんな環境の中で、姉妹の視点を通すと「笑えるようで笑えない光景」が不思議とコミカルに変わります。
今回も青春のきらめきと泥臭いリアルを同時に描けたと思います。
この温度差を楽しんでいただければ嬉しいです。