第66話『無理なものは無理なの。』
ゴールデンウィークを迎える前の夜。
いのりは弟を連れて、ショッピングモールのカットサロンを訪れます。
何気ない日常の一場面ですが、そこには兄妹の小さな成長や、誰かの想いが重なる瞬間がありました。
ささやかな散髪の時間の中に、どんな物語が宿るのか。ぜひ見届けていただけたらと思います。
ゴールデンウィークを前日に控えた夜。
いのりは、モサモサに伸びた弟けいじの前髪を指でつまんでため息をついた。
「見えないでしょ、黒板」
「見えてるもん」
「美容室まだ間に合うね」
強がる声は可愛いが、目は半分しか出ていない。
リビングで見ていた母親が声をかけた。
「いのり、けいじを散髪に連れて行ってくれる?」
「いいよ。モサモサだもんね」
「助かるわ。ありがとうね」
「うん、あと帰省のおやつも買ってくるから」
「はいはい。散髪代とお小遣いね」
いのりは母のきよのから現金の入った封筒を受け取る。
「そういえば、ともりは何してるの?」
と、いのりが呟くと
「おやつよろしく~」
廊下の奥から声がした。部活で疲れたのか、ともりは早々とお風呂に入っているようだった。
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いのりはけいじの手を引き、急遽ウィア犬井のワンツーカットへ足を向けた。
予約なしで利用できる美容室は本当にありがたい。
団地の通路にはオレンジ色の外灯が規則正しく並び、コンクリートの壁に影を落としている。
買い物袋を下げた住民がすれ違いざまに軽く会釈をしていく。
駐輪場には古びた自転車や放置されたバイクが無造作に並んでいた。
団地や店の近くでは、派手な見た目の小学生くらいの女の子たちが、キックボードを脇に置いて楽しそうにおしゃべりしていた。
髪は金や赤のメッシュ、ネイルも光っている。
ダンスでも習っているのだろうか。
まだ家に帰らなくても良いのだろうかと、いのりは思った。
団地に引っ越してきてから、金髪や原色メッシュの小学生をよく見かけるようになった。
けいじの同級生にも、奇抜な髪形や髪を染めた子が何人もいる。
豐島区にいた頃は、ほとんど見なかった光景だ。
流行なのか、地域性なのか。
「自己表現」として笑って受け入れる空気が、この団地にはあるのかもしれない。
でも、けいじの横顔を見下ろすと、胸の奥に小さなざらつきが残る。
子供は、そのままの髪の毛が良い。
清潔で、素朴で、それだけで充分にかわいいのに。
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19時前。
ショッピングモール・ウィア犬井。
ガラス張りの小さな美容室「ワンツーカット」に、いのりとけいじが入っていった。
予約なしで気軽に立ち寄れる低価格カットを売りにしたこの店には、ふらりと訪れる常連客が多い。
店の外装や内装もおしゃれな雰囲気が漂う。
親が気兼ねなく子供を通わせやすいという理由もあり、男女関係なく中高生の利用客も多い。
いのりも安心して髪を任せている。
また、スタッフを指名する場合だけは事前予約が可能で、いのりはいつもスタイリストの長岡つぐみを指名していた。
妹のともりは上田樹理を指名しており、今もその樹理は鏡越しに他の客を担当していた。
手元のハサミは正確そのものだが、腰にぶら下げたスマホ画面には副会長を監視するGPSが光っていた。
受付で名前を告げると、制服姿のレセプションスタッフがにこやかに応じる。
「今日はさほど混んでませんので、すぐにご案内できますよ」
その声と同時に、奥からつぐみがぱっと顔を出した。
「いのりちゃん!いらっしゃい!今日は弟さん連れてきたの??」
にこやかに迎えながらも、心の中では――
(弟思いで、ちゃんとお姉ちゃんしてるいのりちゃん……かわいい……尊い……ハァハァ……!)
「うん、明日から家族でグンマーに帰省するから、その前に弟の散髪を」
いのりが答えると、つぐみの肩がぴくっと揺れた。
「つぐみお姉ちゃんはゴールデンウィークもお仕事?」
「…ぐはぁっ!…つぐみお姉ちゃん……って、は、はは…ヒュー…ヒュー…!」
嬉しすぎて過呼吸になり、白目を剥きそうになるのをこらえながら、つぐみは次のお客さんの元へと戻っていった。
「それじゃ、けいじくんはいつもの塩見が担当しますね」
受付のスタッフが案内し、けいじは椅子へと通された。
予約なしで来ても、なぜかけいじだけは毎回塩見が担当してくれるのが、この店での暗黙の決まりだった。
やがて、店長の塩見が現れると、顔を上げてにこりと笑う。
「けいじくん、こんばんは。今日はさっぱりしよっか」
「……うん」
クロスに包まれたけいじは、台座を敷かれたカット椅子の真ん中でちょこんと背筋をのばす。
ぶかぶかのクロスの下で足をぶらぶらさせ、耳はほんのり赤い。
その姿を鏡越しに見て、いのりの胸に温かさが広がった。
「お姉さん、今日はどんな風に切ります?」
塩見が注文を確認する。
「前髪は眉にかかるくらい。襟足を刈り上げて、耳を出して。マッシュっぽくお願いします」
「いつもどおりだね。了解」
いのりが家族向けの待合席に座ると、カットが始まった。
バリカンの刃が低く唸り、襟足を丁寧にそろえる。
耳のまわりをハサミで払われるたびに、けいじの耳が小さく跳ねて、なんとも心細げな顔になる。
鏡越しに目が合うと、口だけで
「だいじょうぶ」
と言ってみせた。
じっと座り、鏡に映る自分を真顔で見つめるけいじ。
普段はチンパンジーみたいに飛び跳ねて落ち着きのない小学生なのに、この時ばかりは不思議と大人しい。
バリカンが首筋をかすめると、くすぐったそうに肩がすくむ。
それでも泣きもせず、暴れもせず、ただじっと耐えていた。
「バリカンが苦手で暴れてしまう子や、かゆくて思わず手を出してしまう子も多いのに…頑張ってるね」
と、待合のいのりに話しかける塩見。
塩見の表情には、黙って“やりやすい子だな”という感情がにじんでいた。
塩見の作業に無駄はない。
刃物を扱う手は安全に配慮されて静か。
丁寧に必要なことだけを正確に進めていく。
店内のラジオからは、連休の渋滞予測が流れていた。
刈り上げの境目が、すっと真っ直ぐ一本の線になっていくのを眺めていると、胸のざらつきが少しだけほどけていく気がした。
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その時、ドアが開いて鈴が鳴った。
入ってきたのは、金髪のメッシュが入った小学生の女の子と、派手めの服を着た金髪の母親。
女の子の髪は、根元と毛先の色がまるで違い、ところどころムラになっていた。
市販の薬で無理やりに染めたのだろうか。
あちこちに抜けきらない茶色が残り、どうにもならなくなって、美容室に連れてきたに違いない。
小学生の女の子はメイクもばっちり、ネイルまで塗られている。
でもその姿は、子どもの「やりたい」よりも、親の「飾りたい」が勝っているように見えた。
まるで、親のおもちゃにされているみたいに。
母親は入るなり、カウンターに身を乗り出した。
「この子、もっと派手にしてほしいんです。ゴールデンウィークのバーベキューで目立つやつ。色は……そう、もっと白っぽく抜いて」
受付のスタッフがにこやかに応じる。
「お子様のカラーをご希望でしょうか?恐れ入りますが、カラーの受付は19時までとなっておりまして……」
母親は時計をちらりと見て、声を張った。
「まだ5分前じゃない!いいから受付してよ!」
「ですが、ただいま施術中のお客様がいらっしゃいまして…。どうしても終わる頃には19時を過ぎてしまいます…なので…本日はカラーの受付を終了させていただきました…」
受付の声は次第に弱くなる。
「はぁ!?19時ちょっと過ぎるくらいならいいでしょ。うちは平気よ。待つわ!」
当然のように言い放つ母親に、受付は困惑の色を浮かべた。
その様子に気づいた塩見が、けいじの肩に軽く手を置いた。
「ちょっとごめんね」
はさみを置いて前に出る。
「お客様。当店のカラーは19時までの受付ですが、今日は予定数を超えていますので終了させていただきました。申し訳ありませんが、今からではお受けできません」
「なによ、たった数分でしょ。お金払うんだから柔軟にやりなさいよ!」
塩見は一歩踏み込み、落ち着いた声で返す。
「時間の問題ではありません。規則なんです。あと仮に間に合ったとしても、当店では18歳未満のお子様の染毛やパーマは一切お断りしています。」
「はぁ!?」
母親の表情が曇る。
「そもそも、当店のカラー剤は子供に使うことをメーカーが想定していません。だから、皮膚トラブルが起きても、メーカーも、お店も誰も責任は取れないんです。」
「この子が染めたいって言うから良いのよ!やりなさいよ!!」
「お子様がオシャレをしたい気持ちは分かります。ですが、子供の皮膚は薄くて弱い。しかも代謝が良くて大人向けの強い薬品を必要以上に吸収してしまいます。肉体的な負担が大きいのです」
塩見が理論的に説明をするも、母親は真っ赤になって反論してくる。
「難しいこと言われても、何言ってるのかわかんないわよ!」
「では簡単に言いますね。当店ではトラブルになりやすい面倒な施術はお断りします。」
母親は一瞬、言葉に詰まるが、顔を真っ赤にして
「じゃあ、トラブルになっても文句言わないわよ!!」
「はぁ…。ここまで言ってもわかんねーかな?無理なものは無理なの。そういう客が一番信用できないんだよ。」
「聞いていれば偉そうに!あんた店長!?客に向かってその口のきき方は何よ!」
「はい、私が店長の塩見です。“何言ってるかわかんない”っておっしゃるので単刀直入にお伝えさせていただいた次第です。」
「あんたじゃ話にならないわ!本社にクレーム入れてやる!!」
「どうぞお好きになさってください。今この場で直接本社にクレームの電話を入れていただいても構いませんよ?まぁ、今は受付対応時間外ですから本社の人間が電話に出られるのかはわかりませんが。」
「…っ!……ふん!あとでそうさせてもらうわ…!!」
「では、お客様がお待ちなのでこれで」
塩見がけいじの元へ戻ろうとした時、最後に忘れていたかのように振り返り母親に伝える。
「あと…これはお子様本人のためでもあります。幼い頃からカラーを繰り返すとアレルギー体質になりやすくなるんですよ。そうなれば、堂々と髪を染めることができる大人になってからカラーやパーマを楽しめなくなる可能性があります。お子様がそうなることをお望みですか?子どもの未来を守るためには、親がブレーキにならないといけない。守れるのは、母親であるあなただけなんですよ。」
「はあ!?今度は説教!?たかだ美容師ごときが親に偉そうに!」
母親の声が鋭く響き、店内の空気が張りつめる。
そして鏡の中のけいじを指さし、吐き捨てるように言った。
「それに……ほら、そっちの子みたいな素朴なままの髪色なんて絶対イヤ!うちの子はもっと華やかじゃなきゃいけないの!」
クロスに包まれたけいじは目を丸くし、足のぶらぶらも止まってしまっていた。
耳まで赤くなり、固まったように鏡を見つめている。
いのりも突然の指摘に動揺する。
塩見は間髪入れず、母親を真っ直ぐに見据えた。
「うちの大事なお客さんをバカにする人は、お客さんじゃありません。お引き取りください。」
その言葉に、いのりの胸が熱くなる。
同時に、胸の奥にざらつきが広がった。
団地のエレベーターや駐輪場で見かけるあの金髪の子たち。
あの子たちは、一体どこで染めているんだろう。
リスクを無視して、ドラッグストアで売っている市販の安い薬を親が使っているのか、無理を承知でやってくれる裏サロンなのか。
“連休のバーベキューで目立ちたい”なんて理由で、まだ小学生の子供の頭皮に刺激の強い薬をのせる。
それを“みんなやってる”で済まされる世界。
軽くされた責任は、いつも、一番弱いところに落ちていくのだ。
すると、母親の顔がみるみる赤くなり、唇を歪めて吐き捨てた。
「胸糞悪い!!こんな店、二度と来るか!!」
肩にかけたブランドバッグをガッと掛け直す。
ロゴがぎらつくほど強く握りしめ、ヒールの音をカツカツ鳴らしながら、金髪メッシュは入った娘の手を乱暴に引っ張った。
「ちょ、まってよ……」
小学生の女の子はネイルの光る指をぎゅっと握りしめ、抵抗もできないまま引きずられる。
ムラだらけの髪が左右に揺れ、無理やり引っ張られるその姿は、まるで親の飾り物のようだった。
ドアが乱暴に開き、ガラスがビリ、と震える。
ブランドバッグの金具がカチンと鳴り、ヒールの音と子どもの小走りが遠ざかっていく。
残されたのは、風鈴の乾いた音だけだった。
塩見は何事もなかったように、ハサミを持ち替えた。
「けいじくんごめんね。お待たせ」
と、けいじに言うと、刈り上げのラインをもう一度なで、前髪の厚みを半分落とす。
けいじの耳が、ぽん、ときれいに出た。
「どう?かゆい?」
「ちょっと……」
「もうちょっとだけ我慢できる?」
「できる」
けいじのカットが再開され、店内に再びドライヤーの音やハサミのリズムが戻ってきた。
ピリつく騒動があった店内とは思えないほど、微笑ましいやりとりが展開された。
騒動の余韻にまだ少しざわつく気持ちの中、いのりは待合席でけいじの姿を見守っていた。
「いのりちゃん、さっきの塩見店長の対応……ちゃんと見てた?」
担当客の施術を終えたつぐみが、いのりの横にひょいと移動してきた。
さらにいのりの耳元に小声で囁く。
「うん。びっくりしたけど……すごかった」
「いのりちゃん、ひとつだけ教えてあげたいことがあるの」
「?」
いのりが首をかしげると、つぐみは顔を近づけて真剣な目で続ける。
「塩見店長のあの言い方、ただ強気なだけじゃないんだよ。店長は“中間管理職”の目線で戦ってる。現場を守るために、本部にどれだけ怒られても構わない、最悪クビになっても構わないって腹をくくってる人なの」
いのりの目が少し大きくなる。
「本部が『お客様第一』って言うのはわかる。でも現場を見ていない本部の人は、都合よく主張してくるお客様に寄り添うし謝罪もする。けど、現場にいる私たちにとっては、そのお客様がトラブルを起こしたときに責任が全部降りかかってくるの。薬剤の事故だってあり得るでしょ?だから店長は、本部の顔色より先にスタッフとお客さんの安全を優先する。そうやって線を引ける人が、本当に頼れる責任者なんだよ」
つぐみはさらに小さな声で付け足す。
「結果的に幹部から『お客様に失礼だ』って怒鳴られることもある。本部に寄せられるクレーム処理の件数が多くなれば、現場に問題があると叱られることもある。けど、そこで折れて現場を守らなかったら、現場の若いスタッフは失望して辞めるし、残されたスタッフも疲弊してちゃんとした仕事もできなくなる。そうなれば結局、運営側にいる本部の人が稼げなくなって困るんだよ。だから塩見店長は、短期的な評価より長期的な現場の目線を選んでるの」
いのりは鏡越しにけいじの横顔をじっと見る。
「本部にクレーム入れられても構わないって…そんな覚悟、すごいね」
つぐみはにっこり笑って目を細めた。
「だから私たちも安心して働けるの。そういう大人がいるから、いのりちゃんみたいな子どもが守られるんだよ」
いのりはしばらく考えてから、小さく頷いた。
(…そうか。自治会長だって、同じ覚悟が必要なんだ)
「つぐみお姉ちゃん……働くって、責任が伴うことなんだね。…教えてくれてありがとう」
素朴なその一言に、つぐみの胸がズキュンと撃ち抜かれる。
(い、いのりちゃん……!尊い……っ)
思わず両手で顔を覆いそうになるが、なんとか笑顔を保つ。
つぐみはまたふっと照れたように笑い、内心で小さくガッツポーズを作る。
(いのりちゃん!!やっぱ当たり前に尊い子だ…!塩見店長みたいな“大人の覚悟”を、いのりちゃんがちゃんと素直に理解してくれるの、嬉しいな)
店内の空気が戻り、ハサミやバリカンの音が鳴り響いた。
けいじのカットも淡々と続いていく。
だが、いのりの胸には、確かな一本の芯が通った。
教えられたばかりの「覚悟」が静かに灯っていたのだ。
数分後。
バックルームに下がったつぐみは、薬剤の入った棚に背中を預けて呼吸を荒げていた。
(いのりちゃんが“つぐみお姉ちゃん”って……!ハァハァ…素直でかわいいよぉ!!かわいいかわいい……!!!)
白目を剥き、口元はまるで餌を欲して水面に口をパクパクさせる鯉のよう。
両手を天に掲げ、足を小刻みに痙攣させながら、奇妙なステップで踊り狂う。
他のスタッフに
「え…つぐみさんが“喜びの舞”を踊っている!?」
と真顔で心配される。
(塩見店長の前じゃ絶対言えないけど……私、いのりちゃんのためなら命かけられる……!!)
そんな変態じみた忠誠と愛情が、誰にも知られず店の奥で爆発していた。
塩見は、最後の毛くずをドライヤーで飛ばし、けいじに鏡を少し傾ける。
そこにいたのは、少しだけ大人びた、でも間違いなく小学一年生の子どもの顔だった。
派手さはない。
でも清潔感があり、似合っていて、うちの弟の良さがちゃんと見える。
「すごい!けいじかっこいい!」
思わず、いのりの口から出た。
塩見は鏡越しに軽く会釈した。
「子どもはね、子どもらしい素のままの素材を活かすのが一番。それで充分“派手”です」
塩見の幼い子どもへの気配り、刃物を扱う者の安全な配慮、熟練された丁寧な技術力、プロとしての信念、責任者としての立場。
それらを目の当たりにして、いのりは胸の奥でうなずいた。
(…そうだ。自治会長だって同じ。高圧的な住民の声に逆らえないまま流されるんじゃなく、みんなの生活を守るために線を引かなきゃいけない)
線を引くことで一部の住民からは嫌われても構わない。
でも線を引かなければ、守るべき立場の弱い人が困る。
そう胸の奥でつぶやいたとき、いのりの瞳には確かな決意が宿っていた。
会計のとき、いのりは封筒からちょうどの金額を出しながら、さっきのやり取りを反芻した。
“融通がきかない”のではなく、“線を引く側”の責任。
団地に来てから見えてきた文化の差に、単純な善悪を貼るつもりはない。
でも、誰かが線を引かなければ、弱いところから崩れる。
今日、ここでは引かれた。
店を出ると、階段から吹き抜ける風が少し冷たかった。
エレベーターに乗り込むけいじが、ガラスに映る自分の横顔を、しげしげと眺める。
「ねえ、ぼく、ちょっと大人になった?」
「うん。ちょっとね」
風鈴の音が、遠くでまだ揺れている気がした。
いのりは、弟の頭を一度だけ、くしゃっと撫でた。
清潔で、似合うのが一番。
それは派手なスローガンよりずっと、強い。
その後、いのりはけいじの手を引くと、そのままショッピングモール内でおやつの買い出しを終えた。
ショッピングモールを出ると、夜風に乗った湾岸特有の潮のにおいがふんわりと漂っている。
深夜でもずっと明るい街灯の下を自転車に気を付けながら、買い物袋を片手にぶら下げ、もう片方の手で弟の手を引く少女の後ろ姿が団地の方向へと消えていった。
今回は、ゴールデンウィーク前夜の散髪を描きました。
普段は落ち着きのないけいじが美容室では静かに座っている姿、その横で毅然とした態度を見せる塩見店長の覚悟、そしていのりを溺愛するつぐみの暴走したリアクション。すべてが絡み合って、一つの物語になったと思います。
そして何よりも大切なのは、それらがすべていのりの成長につながっているということです。
子どもらしさや可愛らしさを残しながらも、周囲の大人たちの言葉や姿勢を受け止めて、少しずつ自治会長としての責任や強さを学んでいく。
その過程を、読者の皆さまにぜひ見守っていただけたら嬉しいです。
いのりはこの物語の中心にいるヒロインです。
彼女が何を感じ、どう成長していくのか、その一歩一歩を一緒に見届けていただければと思います。