第63話『なんて冗談(笑)』
前回は学食でのいのり視点でしたが、今回はその裏側。
木澤目線で、彼がいのりの言葉をどう受け止めていたのかを描きました。
「なんて冗談(笑)」のやり取りに込められた、それぞれの気持ちを楽しんでもらえたら嬉しいです。
※今回は第62話の木澤目線でお届けします。
学食のバイトを終えて、更衣室でエプロンを外す。
シャツの袖を整えながら、厨房の先輩たちに頭を下げた。
「お疲れさまでした。午後は大学があるので、また」
いつも通りの挨拶なのに、どこか声が上ずっていた。
自転車にまたがり、団地を抜ける。
春の風が頬を撫で、汗ばむ額を心地よく冷やしてくれる。
「……切り替えなきゃ」
そう呟いたけれど、頭の片隅にはどうしても残ってしまう声があった。
──風張いのりちゃん。
さっき、学食で真っ赤になりながら必死に言った言葉。
「ち、ちがうから!!か、彼氏とか全然そんなんじゃないから!!」
彼女の言葉が耳に残って離れない。
その瞬間の表情まで一緒に思い出して、胸がずしんと重くなる。
(そりゃそうなんだけど…。なんであんなに必死に否定したんだろ…)
別に、俺が彼氏じゃないのは当たり前だ。
だけど、あんなに強く言わなくても。
胸の奥に石を落とされたみたいに、静かな水面に波紋が広がっていく。
理由のわからないざわつきに、ペダルを踏む足はいつもより重かった。
***
講義前、大学の学食に着くと、昼時を過ぎたテーブルには空席が目立っていた。
少し遅めのランチをトレーに乗せ、窓際の席に腰を下ろす。
スープの湯気が立ちのぼる。
けれど箸を持つ手は、なかなか動かない。
胸の奥でモヤモヤが渦を巻いていて、食欲を押し込めてしまう。
スマホを取り出し、ためらいながらLiNEを開く。
『内緒にしててごめんね』
講義までの限られたランチタイムの中で気持ちを振り絞ってメッセージを打ち込む。
『でも、友達に囲まれてるいのりちゃんを見て安心した』
そこまで打って、画面を見つめたまま親指が止まった。
脳裏に浮かぶのは、さっきの
「彼氏なんかじゃない!」
といういのりちゃんの声。
(……なんであんなに必死に言ったんだろう)
何度も頭の中でリピートしている。
(俺なんかと並べれるの、迷惑だったのかな)
その答えは出ない。
だけど、胸の奥がちくりと痛む。
結局、余計な一文を打ち足した。
『ただ、彼氏とかそんなんじゃないって思い切り否定されたのは……ちょっと寂しかったな。なんて冗談(笑)』
送信ボタンを押すと、心臓がどくんと大きく跳ねた。
冗談のつもりだった。
笑いに変えようとしたのに、画面に映る自分の顔はまるで笑っていなかった。
スープをすくい口に運ぶ。
けれど味がよくわからない。
熱さだけが喉を通り過ぎ、胸の奥に落ちていった。
***
スマホを伏せて、スプーンを置く。
けれど頭の中は、いのりのことばかりだった。
──初めて会った自治会長連絡会。
制服姿で大人たちに囲まれても、堂々と意見を口にしていた。
「高校生で会長?すごいな」
って、本気で感心したのを覚えている。
──干潟の清掃イベント。
子どもたちに混ざって泥まみれになりながら笑っていた。
その無邪気さに、不意に胸が跳ねた。
──弟や妹に見せる優しいまなざし。
お姉さんらしい一面が、なんだか可愛らしかった。
──筋トレを終えたあとのこと。
「それなーに?」
興味深そうに覗き込んできたいのりちゃんに、軽い気持ちで「飲んでみる?」と差し出したプロテイン。
ほんの冗談のつもりだった。
でも、いのりはまったくためらいなく受け取って、一口。
「……えっ」
思わず固まった。
本当に飲むなんて思っていなかった。
しかも自然すぎて、抵抗の色がまるでない。
(……普段から男の子に慣れてるのか?)
そんな考えが頭をよぎって、胸の奥がもやもやした。
「いや、気にするのもおかしいか」
と自分に言い聞かせたけれど、シェイカーに残った甘い香りを見つめると、妙に落ち着かなかった。
……思い返せば、全部同じ感情に行き着く。
「いい子だな」
「健気だな」
「優しいな」
「可愛いな」
いのりは本当に魅力的だ。
性格も良くて、面倒見も良くて、自治会長までやっている。
人懐っこくて、尊敬できるし、誰からも好かれる。
そして細身で小柄で可愛らしい。
(……あんな子に彼氏がいないなんて、あるのかな)
そう思った瞬間、苦笑が漏れた。
自分なんかが選ばれるはずがない。
どこかで自分を一歩引いてしまう。
いのりと同じように
「釣り合わない」
と思ってしまう。
***
スープを飲み干しても、胸のざわめきは収まらなかった。
(…いのりちゃん…彼氏、いるのかな…。いや、いたことあるのかな…?)
怖くて聞けやしない。
でも気になって仕方がない。
そして、ひとつだけはっきりわかることがあった。
もし、いのりに彼氏がいたら──絶対に嫌だ。
過去にいたことがあるとしても、それはそれで嫌だ。
気づいた瞬間、心臓がぎゅっと締めつけられる。
こんな自分の気持ちを
「まるで思春期の中学生みたいだ」
と笑いたくても、笑えなかった。
始球式の日の光景が頭をよぎる。
台風接近で防災パトロールが中止になった。
いのりちゃんに会えなくなって、どこか残念な気持ちだった。
でも、いのりちゃんが防災イベントとしてプロ野球観戦に誘ってくれた。
二人きりじゃないけど、すごくうれしかった。
そして堂々と満員の観衆の中で投げ切った始球式。
本当にかっこよかった。
でも、左利きのいのりに合わせて、ベテラン捕手がわざわざグローブを外し、手を差し出した。
形式的な握手にすぎないのに、胸がざらついた。
あの人だって──いのりちゃんの手を握りたかったんじゃないか。
そんな不純な気持ちになる自分に自己嫌悪もした。
だから、自分も思わずいのりちゃんの手を握った。
その小さなぬくもりは、今も指先に残っている。
ずっと握っていたいとさえ思った。
……でも、もしいのりちゃんに彼氏がいたら。
あの一瞬すら、自分はとんでもなく許されないことをしたんじゃないか。
(俺、なんでこんなこと考えてんだろ)
苦笑しながら席を立ち上がる。
春の光が差し込む教室でノートを広げても、心のざわめきだけは消えてくれなかった。
講義の合間、机の下でスマホをそっと開いた。
いのりちゃんからの返信が届いていた。
『学食バイトに来てるなんて知らなかったからびっくりしたよ。
だから、しばらく学校でも滉平君に会えるって思ったらすごく嬉しかった。
でも他の女の子たちが滉平君のことすごく気になっているみたい。
私も滉平君が他の女の子と楽しそうにしているの見たら…すごく寂しいって思った。
なんて冗談(笑)
滉平君を嫌な気持ちにさせていたならごめんね。
私、全然そんなつもりはないよ。
いつも助けてもらっているから本当に感謝しているんだ。ありがとう』
冗談めかしながらも、最後の言葉が心に沁みる。
あの必死な否定がただの拒絶じゃないとわかって、胸の奥がふっと軽くなった。
(……俺、単純すぎるな)
思わず苦笑しながらも、ノートを開く手はどこか軽かった。
木澤にとって、いのりはただの後輩でも、ただの友達でもなくなりつつある存在。
冗談に隠した素直な気持ちと、いのりの返信からにじむ優しさが、二人の距離感を少しずつ変えていきます。
次回もまた違う角度から、じちまからしい青春と自治会の日常を描いていきますので、ぜひお付き合いください。