第61話『煙のない未来を歩ませてやらんとな』
今日は少し大人びた空気が漂う回です。
役員会のあと、タバコを吸いながら語り合う大人たち。
そこにいのりが混じることはなく、トテトテと退散してしまうのですが、その姿こそ彼女らしさ。
純粋な存在だからこそ、大人たちに「守りたい」と思わせてしまう。
そんなコントラストを楽しんでいただければ嬉しいです。
緊急の役員会が終わり、集会所に静けさが戻る。
ホワイトボードに残るカレンダーの書き込みや、机に散らばったメモ用紙を片づけながら、いのりは
「ふぅ…」
と小さく息をついた。
「みなさん、今日は本当にお疲れさまでした。急遽集まっていただきありがとうございます」
深々と頭を下げるいのり。
その隣で、椅子を引く音が立った。
「さーて……私、もう限界」
立ち上がったのは会計係の藤井秀美。
ラフな服装ながら、その眼差しには夜勤続きの疲れがにじんでいた。
「おう、ワシもじゃ!」
大矢相談役も腰を上げる。
二人は目配せをして、ほとんど同時に口を揃えた。
「ここで一服ね!(じゃな)」
ドアを開けると、夜風が流れ込む。
集会所の脇に置かれた古びた灰皿へ、二人は一目散に歩いていく。
その背中をいのりは目で追い、思わず瞬きをした。
(……え、そんなに急いで……?)
灰皿の前に立つ二人。
藤井はライターで火をつけ、メンソール入り紙巻きタバコを深く吸い込む。
大矢も紫煙をくゆらせ、吐息混じりに笑った。
「ふぅ〜、生き返るわ」
「これがなきゃ、やっとれんのう」
二人の吐き出す煙が、夜の闇に白く溶けていった。
藤井は肩をぐるりと回しながら、煙を吐いた。
「……ほんと、今日は日勤で済んだけど。夜勤続きじゃ、この一本がないとやってられないのよね」
大矢が茶化すように笑う。
「おう、産婦人科の看護師がそんなこと言っていいんか」
藤井は苦笑しつつ、タバコを指でくるくる回した。
「だって仕方ないじゃない。助産師なんて激務よ。しかも対応できる人が少ない時間に赤ちゃんが生まれてきちゃったら大騒ぎなのよ。 夜中なんてスタッフも限られてるから、産婦さんが重なったらもう地獄。だから日中でスタッフが揃ってるときに、促進剤で分娩を進めることもある。きれいごとだけじゃ病院は回らないのよ」
「ほぅ……そんな事情があるんか」
大矢が興味深そうにうなずく。
「赤ちゃんもお母さんも命がけ。でも医療だって必死に動いてる。結局システムの中で現実と折り合いつけてやってるのよ。そりゃストレスも溜まるし、タバコくらい吸わせてよって話ね」
紫煙を吐きながら藤井は遠くを見る。
その姿にいのりは胸をざわめかせた。
(……藤井さん、看護師さんなのに……タバコ吸うんだ……)
普段は誠実で、会長である自分を支えてくれる頼れる存在。
その彼女が煙に包まれる姿は、いのりの知らない“大人の顔”だった。
大矢はしわの刻まれた顔を上げ、懐かしそうに言った。
「わしの若い頃はのう、どこにでも灰皿があったもんじゃ。バスも役所も病院も地域センターも……今じゃ全部撤去されて、完全禁煙じゃ」
「そうそう。地域センターにも昔はあったわよね」
藤井がうなずき、唇にタバコを戻す。
「所長なんて、チャリで鮫巣の運転試験場まで吸いに行くのよ。タバコ休憩のためだけに往復して……非効率にもほどがあるでしょ?」
「フハハッ!仕事の能率落としてどうするんじゃって話じゃな」
大矢が笑い、灰皿に灰を落とした。
藤井も苦笑しながら首を振る。
「喫煙所って、昔は一番コミュニケーションが生まれる場所だったわよね。部署が違う従業員たちが顔を合わせて会話をする貴重な出会いの場でもあったし、そこで生まれる恋もあったのに。規制ばかりで従業員のコミュニティを奪えば、むしろ仕事も非生産的になるわよ」
「今じゃ分譲もベランダで吸ってると管理組合に怒られるからのぅ。それに比べたら都営は緩いから助かるわい。こうして集会所脇で吸えるのも幸せなのかもしれん。」
「でも、ベランダ喫煙もトラブルが発生しているわよ。品川さんちの息子さん、杏君だったかしら。上の階の人からは臭い、下の階の人からはタバコの灰を洗濯物に落とされるって苦情が出ているそうよ。」
「そりゃかなわんのぅ。そういう輩がおるからワシらの立場が弱くなるんじゃ。」
大矢相談役と藤井の仲が良いヤニニケーションが2本目のタバコに火をつける。
いのりは窓の陰でその様子を見ながら、
(……大人の時間だ……)
と思い、資料を抱えてペコリと一礼すると、そそくさと帰っていった。
その時、集会所の影からビシ九郎がひょっこりと現れた。
「お、ええもん持っとるやないか。ワイにも一本くれや」
と、ビシ九郎が藤井に貰いタバコをする。
「ぷはーっ!メンソールうめぇぇ!やっぱ最初の一口は格別やな!」
ハクビシン姿のまま、タバコに火をつけると、思い切り吸い込んで幸せな顔をする。
「ワシはメンソールが苦手でのう。スースーするのが喉に響くんじゃ」
「高齢者の相談役にメンソールは似合わへんで。ニコチン重めのヤツ吸うとればええんや」
灰皿の横でそれぞれの声が響いた。
思い出したかのように藤井が言う。
「ていうかビシ九郎、いつからいたの!?」
ハクビシン・ビシ九郎は当たり前のようにタバコをくわえ、器用にふんぞり返っている。
「ワイ?ずっと藤井の姉ちゃんの隣におったやんけ。みんな気づかんかっただけや。ワイは集会所に住んどるんやからな、当たり前に参加しとるわ」
「いや、ホントに気づかなかった!」
藤井がツッコミを入れるが、ビシ九郎は全く気にしない。
それがビシ九郎の不思議な能力でもあるのだ。
「やっぱタバコはええな。ワイは小遣い少ないから貰いタバコが最高にうまいで」
「そりゃそうじゃ。ワシも年金少ないのに、もうやめられん。とはいえ、タバコを吸うハクビシンなんて聞いたこともないがのう」
相談役が苦笑いする。
「今じゃタバコもどんどん値上がって、吸う人も減ってきたわよね…」
ビシ九郎は煙を吐きながら目を細め、ぼそりとつぶやいた。
「こんなに増税ばかりして、喫煙者減らしてアホやな。ホンマにタバコ農家、どんどん潰れるで。しかも吸える場所を全部奪ったら、その辺で隠れて吸って、結局ポイ捨てが増えるだけやろ。そんで火災の元になったりするんや。……誰が得すんねんな」
核心を突いた言葉に、二人は顔を見合わせる。
「……たしかにのう。そのへんに灰皿を置いといた方が防災になるかもしれん」
大矢がうめくようにうなずき、藤井も
「……ハクビシンのくせに妙に正論言うわね」
と肩をすくめた。
「そもそも、たばこ税は国防も兼ねているんや。年々増える防衛費も喫煙者から巻き上げた金で工面しとるんやで。いうなれば、喫煙者は日苯を守っているガーディアン(守護神)でもあり、ソルジャー(兵士)でもあるんや。もっと大事にしてやらなアカン。」
ビシ九郎は胸を張り、また煙をぷはーっと吐いた。
「いやぁ、湾岸の風を浴びながらのメンソールは最高やで!」
藤井と大矢相談役は微笑みながら、水で湿った灰皿にジュッと灰を落とした。
その頃…
副会長が集会所を出て肩をすくめた瞬間。
暗がりからひょいっと人影が飛び出した。
「つーかまえた! GPSでバレバレなんだから!」
「……樹理!?」
青ざめる副会長の前で、美容師・上田樹理はスマホを掲げる。
画面には彼の現在地が赤いピンで表示されていた。
「逃げても無駄! ほら、ご飯行こ!」
強引に腕を引っ張られ、副会長は観念したように苦笑し、そのまま団地の外へ連れ去られていった。
残されたタバコ組。
藤井が煙を吐きながら静かに言った。
「……私、会長のために少しでも力になりたいんだ。あの子、会長として責任を全部ひとりで抱え込もうとするから。だから支えになれたらって」
大矢も大きくうなずく。
「立派な子じゃ。ワシらみたいな大人にならんように、見守ってやらんとな」
ビシ九郎も珍しく真顔でうなずいた。
「いのすけは人を惹きつける何かを持っとるんや。真っ直ぐで純粋で、何より模範になれる責任感がある。……こんなもん吸わせたらアカンで」
藤井はタバコを灰皿に押し付けて、笑みを浮かべた。
「そうね。タバコなんて吸わなくて済むなら、そのほうが良いに決まってる」
大矢も最後の煙を夜空に吐き出し、火を消す。
「……あの子には、煙のない未来を歩ませてやらんとな」
三人の言葉と白い煙は、夜空に静かに溶けていった。
藤井は、さっき資料を抱えて一目散に帰っていった小柄な背中を思い浮かべる。
「……あの子、本当に頑張ってる」
その呟きに、大矢も、ビシ九郎も黙ってうなずいた。
蛍光灯に照らされた集会所の窓はもう暗い。
けれどそこには、ひとりの少女を想う大人たちの温かい眼差しが、確かに残っていた。
今回、副会長が現場に出てきて、結局は樹理に捕まってしまう場面。
これは副会長自身の「いのりに惹かれて動いた証」であり、リスクを受け入れたからこその結末でした。
そして、こうしたキャラの動きは、作者が完全に操作して描いたものというより、物語の中でキャラ自身が自然に選び取った行動のように思えます。
じちまかワールドは、気がつけばキャラたちが勝手に動き出して、作者である私自身の心をほっこりさせてくれるようになりました。
いのりが作者にとって「娘のように、愛しくて、尊くて、可愛いらしい存在」であることが一段と浮き彫りになった回になったと思います。
これからも、圧倒的なヒロインとして輝き続けてくれると信じています。