第59話『痛いのはどこや!?』
今日は、作者自身もお気に入りの一話をお届けします。
いのりがとある“思わぬトラブル”に直面し、それを必死に隠そうとする姿が描かれます。
だけど周囲の人たちはまったく別の方向で受け取ってしまい……。
真剣さとドタバタがかみ合わない、このシリーズならではの空気を楽しんでいただければ嬉しいです。
ゴールデンウィークを目前に控えた、平日の午前。
窓から差し込む光はやわらかいのに、教室の空気はどこかじっとりとしていた。
黒板にチョークの音がカリカリと響く。
隣の席からはシャープペンを走らせる音。
いつも通りの授業風景のはずだった。
そのとき——
風張いのりは、ふとお尻の奥に妙な圧迫感を覚えた。
「ん……?なんか……変な感じ……」
最初は座り方のせいかと思った。
硬いパイプ椅子に腰をかけ直し、姿勢を変えてみる。
けれど違和感は消えない。
むしろ、じわじわと鈍い痛みに変わっていった。
(え……?なにこれ、痛い……?)
チクリとした痛みが、授業が進むごとに増していく。
パイプ椅子のクッションの硬さが、お尻を直接突き刺してくるようだった。
ノートを取りながらも、ペン先が震える。
思い当たる原因はいくつもあった。
連日の自治会イベント参加。
空き時間にはノートを広げて勉強や自治会の資料整理。
気づけばずっと椅子に座りっぱなし。
団地の集会所のパイプ椅子も、学校のパイプ椅子も、柔らかさなんて皆無。
(もしかして……そのせい……?)
休み時間。
いのりは急いでトイレに駆け込み、個室のドアを閉めた。
心臓がどきどきする。
恐る恐る手で触れてみた瞬間——
ポコンとお尻に謎の突起。
「…え?…うそ。これ……イボ……痔……?!」
小さく悲鳴をあげ、自分の顔が真っ赤に染まっていく。
初めて触る感触に、頭が真っ白になった。
(な、なにこれ……私、どうすれば……!?)
制服のスカートを直しながら、必死に深呼吸する。
「こ、こんなの……恥ずかしくて絶対言えない……」
友達にも。
家族にも。
もちろん自治会の人たちにも。
こんな秘密、死んでも知られたくない。
(だ、だめ……!もしバレたら……私……お嫁にいけない……!)
震える唇をかみしめながら、なんとか笑顔を作って教室に戻った。
*
そして昼の学食。
いのりは平気を装い、いつものようにトレーを持って席についた。
カレーライスにサラダ、味噌汁。
普段と変わらないメニュー。
しかし椅子に腰を下ろす瞬間、思わず表情が歪む。
「っ……」
短い吐息が漏れた。
箸を持ちながらも、立ち座りの動きはぎこちない。
それを見逃す楓ではなかった。
「いのり……?なんか今日、動き変じゃない?」
向かいの席の楓が箸を止め、じっと見つめる。
あずさも心配そうに首をかしげる。
「……もしかして体調悪い?」
「えっ!?ぜ、全然! 元気元気!」
いのりは無理やり笑顔を作る。
あずさも心配そうに首をかしげる。
「なんか今日、座り方がおかしいんだよね。無理してない?」
「えっ……!? そ、そんなことないよ!」
いのりはわざと大げさに手を振り、強引に話題をそらした。
(…お願い!…ふたりとも気づかないで!)
しかし立ち上がった瞬間、思わず
「っ……!」
と息が漏れる。
背中に冷たい汗が伝った。
楓はその様子をしっかり見逃さなかった。
(……やっぱりおかしい。いのり…絶対何か隠してる……)
動物の小さな変化を見抜こうと日頃から目を養ってきた彼女にとって、いのりの誤魔化しは通用しない。
獣医志望の女子高生の目には、友達の不自然さがはっきり映っていた。
*
放課後。
昇降口を出ると、いのりが二人に向かって笑顔で手を振った。
「ごめん、今日はちょっとやることあるから……先に帰るね!」
「えっ……でも……」
楓が声をかけようとしたが、いのりは軽く会釈して足早に校門を出ていった。
その背中は、どこかぎこちなく見えた。
あずさと楓は顔を見合わせ、そのまま並んで歩き出す。
「……やっぱり、いのりおかしいよね」
あずさが不安そうに呟く。
楓は小さくうなずきながら、スマホを取り出した。
「お父さんなら、何か分かるかもしれない」
発信音のあと、電話の向こうから低い声が返ってきた。
『なんや楓か、急にどうしたんや。」
「いのりのことなんだけど…」
「……いのりがどうしたって?』
楓は昼の学食での様子を、言葉を選びながら説明した。
「立ち上がるときに不自然な動きするの。何というか、すごく痛そうで……でも“元気だよ”って笑って……。どこを痛めたのかは分からないけど、無理してるのは間違いないと思う」
受話器越しの沈黙。
そして慎太は短く言い切った。
『それは間違いないな……痛みを我慢してる動きや。』
その声色には、長年プロでやってきた男の確信があった。
楓は胸を締め付けられるような思いで、スマホを握りしめた。
*
その日の夕方。
取材の仕事を終えた慎太が、団地へと車を走らせる。
フロントガラスの向こう、茜色の空が広がっていた。
「……いのり、大丈夫やろか」
ハンドルをを握りしめ、小さくつぶやいた。
慎太は視線を前に固定したまま、低く答える。
「大丈夫や。……どこか悪いなら、オレが見抜いたる」
夕暮れの団地。
茜色の光に染まる通路を、楓とあずさが並んで歩いていた。
そこへ慎太の車が集会所の脇に滑り込む。
運転席のドアが開き、慎太が紙袋を提げて降りてきた。
「手ぶらで来るのもアレやからな。……どら焼き、買うてきたで」
「お見舞い……ってこと?」
楓が少し笑い、あずさも
「いのり喜ぶかな」
と頷く。
慎太が到着する事前に、楓がいのりに
「集会所の近くで待ってる。少し会えないかな?」
と、LiNEを入れておいた。
そのタイミングで、風張家の玄関ドアが開いた。
制服姿のいのりが小さく会釈しながら出てくる。
「こんばんは……」
歩き方はやはりぎこちなく、腰を庇うように動いていた。
楓とあずさの目が同時に曇る。
「いのり……やっぱり変だよ」
「そうそう、どこか痛いんじゃない?」
「えっ!? ち、ちがうってば! 全然元気だから!」
いのりは慌てて手を振る。
だがその頬には、隠せない脂汗が光っていた。
慎太は黙ったまま紙袋を差し出した。
「ほれ、お見舞いや。……甘いもんでも食べて元気出せ」
「…え、…あの、ありがとうございます」
いのりはどら焼きが入った紙袋を受け取りながら、心の中で悲鳴を上げた。
(イボ痔でお見舞いもらうなんて……っ! もう笑えない……!)
そんな彼女の葛藤をよそに、慎太はじっと観察を続ける。
「……やっぱりな」
その鋭い視線に、いのりの背筋が凍りついた。
「いのり、お前……ホンマは大丈夫やないやろ!」
「えっ!? な、なに言ってるんですか、慎太さん!ほら、元気元気!」
だが慎太の目はごまかせない。
いのりが両手で元気ポーズをするも、下半身は硬直してプルプルしているのを慎太は見逃さなかった。
その瞬間、慎太の目がギラリと光った。
「……その動き、下半身の故障とみた!コンディション不良やな!シーズン絶望、登録抹消ものや!」
いのりはビクッと肩を震わせる。
「へ!? ち、違いますって!」
慎太は一歩前に踏み込み、声を強めた。
「痛いのはどこや!? 大腿か?腰か?臀部か?それとも実は脇腹か?!」
「えっ、そ、そんなの全然!」
(で、臀部…あ、当たってる…!でも尻にイボ痔ですなんて絶対言えないってばーー!!)
脂汗をだらだら流しながら否定するいのりに、慎太はますます感動していた。
「……プロでも隠しきれん痛みを、お前は笑顔で隠してるんか……立派やな」
「ち、ちがうんですーーー!!!」
慎太の脳裏に、かつての現役時代の光景がよみがえる。
──FAで他球団から移籍してきた正捕手。
シーズン終盤に自打球で足の指を痛め、ベンチで泣きそうな顔をしていた。
痺れる足の甲にテーピングを巻きながら、首脳陣へチラッチラッと目線を浴びせ、これでもかとスパイクを脱いだ足に冷却スプレーを曇るほどにかける。
そのとき、慎太は叱り飛ばした。
「お前、高い金もらってチームに来たんやろ!何いつまでも痛いですアピールしとんねん!痛みを隠すなら最後まで隠せ!中途半端にメソメソしやがって!俺だってあちこち痛いんや!ここまで来たらシーズン最後まで出ろや!せやないと球団に申し訳立たんやろ!」
リーダーとしての責任感と、休んだら若手にポジションを奪われるかもしれないベテランとしての恐怖。
なんならこの時、慎太自身も右手人差し指の骨を折った状態で守備につき、バットを振り、シーズンを完走したくらいだ。
だから足指の打撲くらいでメソメソしている主力選手が許せなかった。
あの夜の叫びは今も慎太の耳に残っている。
慎太は目の前の少女を見据えた。
あの捕手よりも、ずっと痛みを隠そうとしている。
しかも身近な友達にさえ言わずに。
「いのり…ホンマに立派やな。プロでも痛いって泣き言言う奴おるのに……お前は根性ある」
何度も涙目になって必死に否定するいのりと、勝手に感動して熱弁をふるう慎太。
「だから、ちがうんですー!」
(尻にイボ痔できたなんて誰にも言えるわけないじゃん!!)
ここまで来ると絶対にバレるわけにはいかないと意地になるいのり。
楓とあずさは顔を見合わせ、ただただ心配そうに見つめていた。
そんなやりとりが繰り返される団地集会所の前。
いのりの中で時間が止まったような空気が流れる。
さらに集会所玄関口で立ち止まった慎太は、いのりをじっと見据えた。
「…いのり…お前の気持ちは、ようわかった。ホンマに弱みを見せまいと立派やで。お前はほんま、強い子や」
ついには感動して熱くなった目頭を押さえる慎太。
「えっ!? い、いやいやいや!」
顔を真っ赤にして必死に手を振るいのり。
(違うのに……!ただのイボ痔なのに……!)
それでも慎太は、勝手に胸をジーンと熱くしていた。
「ホンマに困ったらええ医者紹介したるからな。まぁ無理せんと頑張れ。若いのにガッツあって素晴らしいとしか言えん! 俺そういうの大好きやで!俺が監督やったら即レギュラーや!」
「は、はい……ありがとうございます……」
(だから違うんだってばぁぁぁぁ!ってか、お医者さんにだって見せたくないから!!)
いのりは脂汗をにじませながら、なんとか笑顔を貼りつける。
慎太は満足げに笑い、楓を連れて帰っていった。
夕焼けに照らされる背中が、団地の外へと消えていく。
*
その夜。
集会所に灯りがともり、いのりは机に広げた資料に赤ペンを走らせていた。
そこから地域センターに提出する自治会の書類をまとめ、必要事項に記入をしていく。
真剣な表情でページをめくるが、硬いパイプ椅子に座り直すたび、お尻にヒリヒリとした痛みが走り、思わず顔をしかめる。
そこへ、ひょっこりとビシ九郎が顔を出した。
「お、いのすけ。ええもん持っとるやないか!どら焼きやろ、それ!」
ビシ九郎が慎太からお見舞いで貰ったどら焼きの紙袋に反応する。
「もう……勝手に来ないでよ」
「ええやんけ。ワイ、ここに住んどるんやから。ほな、一杯やろうや!」
と、ビシ九郎は缶の焼酎ハイボールをチラつかせる。
「いや…私、未成年なんだけど…。じゃあお茶いれるね」
ビシ九郎は袋からどら焼きを取り出すと、ためらいもなくかぶりついた。
「んん〜!うまいわこれ。ええセンスしとるな」
「ちょ、勝手に食べないでよ!」
「ええやんけ、半分はワイのもんやろ。いや、全部でもええけどな」
いのりはため息をつき、休憩がてらお茶を入れようと急須を探して棚を開けた。
すると奥から古びた薬袋が出てくる。
「……なにこれ?」
中には、未開封の座薬が十数本。
大体一週間分くらい入っていた。
いのりが目を丸くすると、ビシ九郎は平然とした顔で言った。
「それか?ワイが前に団地のヤブ医者からもろて、そのまま忘れとったやつや。もう出禁になったんやけどな」
ビシ九郎は、どら焼きを頬張りながら言う。
「出禁て……」
いのりは呆れながらも、そっと薬袋を胸に抱きしめた。
「……ねぇ、ビシ九郎。これ、もらっても良い?お父さん困ってるから」
「ん?ええけど……」
ビシ九郎は首をかしげる。
「よしつぐ、イボ痔なんか?」
「っ……!」
いのりは一瞬固まったあと、ぎこちなく笑顔を作る。
「う、うん……なんか……たまにトイレから叫び声聞こえるときあるから心配で……」
自分でも苦しい言い訳に、心の中で絶叫する。
(ごめん、お父さんーーー!!)
静まり返った集会所に、いのりの心の叫びだけがこだました。
どら焼きの甘い香りと、小さな嘘と、誰にも言えない秘密。
それが夜の団地にしみ込んでいった。
*
そしてその後——
ビシ九郎がヤブ医者に処方された座薬のおかげで、いのりはゴールデンウィークまでにイボ痔を完治させることに成功したのだった。
今回のお話は、作者自身もとても気に入っています。
その理由は──狙ったわけではなかったのに、過去のエピソードとの伏線回収がきれいに決まったからです。
第26話でビシ九郎が花粉症で受診したとき、ヤブ医者からなぜか処方された“イボ痔の座薬”。
ただのギャグだと思っていたものが、今回まさかの形でつながりました。
オムニバス形式で描いてきた物語が、思いがけないところで自然にまとまり、最後まできれいに完結。
そんな偶然のめぐり合わせが、この作品を書き続ける楽しさになっています。