第5話 『私、やるって決めたから』
いのりが会長になった日のことを思い出すエピソードになっています。
誰もやりたくない仕事を引き受けること、誰かがそれを押し付けられる瞬間を見届けること。
誰でも経験があるかと思います。
そんなことを思い出しながら読んでいただけると嬉しいです。
団地の春。
掲示板の前に、私はぼんやり立ち尽くしていた。
“自治会長”という肩書きが、いまだに他人事のようだ。
あの日のことは、今でもはっきり覚えている。
「今日だけ、代理で出てくれればいいから」
お母さん――きよのにそう頼まれて、私は何も知らずに団地の会議室へ向かった。
古参住民や役員が集まるその空間。
前会長のおばちゃんは、エプロン姿でくるくるパーマ、年齢よりずっと元気そうなのに、
その日は珍しく深いため息をついていた。
新役員を決める会議。
特に新会長を決める瞬間が一番緊張感の走る場面だ。
「もうね、私も限界なのよ。夫にも“そろそろゆっくりして”って言われてるし、体もきつくて……」
その言葉に、誰もが沈黙する。
「うちも仕事が忙しいんです」
「持病があって通院が……」
「子どもがまだ小さいから……」
「え、会長ですか?いやいや、私なんて無理ですよ……」
みんな顔を伏せ、会議室には“誰もやりたくない”オーラが充満していた。
その重い空気を破ったのが、広報のママさんだった。
シングルで子育てしながらも、掲示や案内を手際よくこなす現場の立役者。
どこか頼りになる姉御肌で、でも本音は、自分が一番苦労しないための策士だったりもする。
「ねぇ、いのりちゃん。若いし、こういうの得意でしょ?」
「え?」
「今どきの子はスマホもパソコンも使いこなせるし、会長もすぐ慣れるって!」
「いや、あの。私、両親の代理で出席してるだけなんですけど・・・。」
「ほら、いのりちゃん、高校生でフレッシュだし!」
「え…、ちょっと。…それって、マズくないですか?」
役員たちも
「若い方がいいよね」
「これからは新しい風!」
と一気に盛り上がる。
会長のおばちゃんは、申し訳なさそうに、それでもほっとした表情で私を見つめていた。
「……ごめんね、本当に。でも、誰かがやってくれるだけで救われるの」
なんか会長の退任が決まった安堵感がにじみ出る。
「私も好きで会長やってたけど、一人で全部背負うのは無理だったのよ」
「いや、私こそ、まだ高校生だから何もできませんて!」
「分担も、人に頼ることも、下手だったなって最近やっとわかったの。でも若いあなたなら誰とでもうまくやれるわ。大丈夫!わからないことはちゃんとサポートするから!」
「え、今日だけって言ったのに……」
私は小さくつぶやきながら、「会長」名札とタブレット、回覧板を受け取った。
家に帰ると、きよのが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「いのり、ごめんね。帰ってきたとき、ちょうど居合わせた役員さんから聞いたわ。ほんとはお母さんが出たかったけど、役員みんな“若い子がいい”って空気になっちゃったみたいで……」
「ううん、大丈夫。私、やるって決めたから」
なるべく両親に不安な顔をさせたくなかった。
「助かるわ……本当にありがとう」
その横で、仕事から帰ってきたお父さんが、
「いのり、ごめんな。お父さんももうちょっと家のこと手伝えればいいんだけど……最近仕事がバタバタでさ」
「気にしないで。お父さんも無理しないでね」
家族の“すまんね”と“ありがとう”が交錯して、不思議と温かい空気が流れる。
妹のともりはソファでスマホをいじりながら、ちらっと私を見て笑う。
「お姉、逆にすごくない? “やりたくない人の集合体”のなかでJK会長誕生だよ」
「なんか私、団地でいちばん暇そうに見えたのかな」
「いや、“流れを読んだ人が勝ち”ってやつじゃん。広報のママさんも策士だったんでしょ?」
「……策士すぎて声も出なかった(笑)」
私とともりは顔を見合わせて、思わず吹き出した。
弟のけいじがゲーム機を抱えて走ってくる。
「いのりおねーちゃん、会長って偉いの?すごい人?」
「うーん、偉いっていうより、押し付けられた感じだね」
「ぼくも会長やる!」
「じゃあ会長代理だね。まずは、掃除当番から!」
夜、タブレットの明かりの下で、私は前会長のおばちゃんの言葉を思い出していた。
「全部一人でやらなくていい。頼れる人には頼って、分担していくのがいちばん大事なんだと思う」
自分がやりきったからこそ、誰かに譲るときはちゃんと背中を押してくれる。
その温かさに、私は少しだけ救われた。
団地の春は、誰かのため息と、私の小さな決意から始まった。
女子高生自治会長・いのりが誕生した日のことを思い出すお話でした。
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