第58話『二刀流』
フォークリフト免許を取ったきよの。
今回はいよいよ、パートとしての現場デビューです。
事務と現場、二刀流で挑む姿に緊張と責任がのしかかります。
社員ではなくパートという立場でありながらも、必要とされる喜びをかみしめるきよの。
どうか応援の気持ちで見守っていただけると嬉しいです。
湾岸の巨大倉庫。
朝の冷たい空気に、フォークリフトのエンジン音や鉄の擦れる音が混じり合う。
高いシャッターの隙間から海風が吹き込み、薄暗いヤードに砂埃が舞った。
「集合!」
課長の声が響くと、作業服姿の社員たちがぞろぞろと列を作った。
ヘルメットの下からは寝不足の目、腕組みする者、コーヒー片手の者。
どこか重たい空気が漂っている。
課長が一歩前に出て、低い声で切り出した。
「……みんなも知っての通り、佐々木が退職代行で辞めてしまった」
その言葉にざわめきが広がる。
「マジかよ、本当に辞めちまったのか…」
「電話一本で終わりか……」
「フォークの戦力が減るのはデカいぞ」
現場を支えてきた佐々木。
彼の不在がどれほど大きな穴なのか、全員が理解していた。
静まり返った空気を、課長はさらに続ける。
「だが——今日から新しい戦力が入る。風張さんだ」
一斉に視線が前へ向く。
ブルゾンの胸には紅い「九」。
ヘルメットをきちんとかぶり、背筋を伸ばした女性が一歩前に出た。
それが、風張きよの。
「……よろしくお願いします!」
頭を下げた瞬間、空気がわずかに変わる。
「本当に免許取ってきたのか……」
「ありがてぇな……」
「事務もやってたのに、フォークまで……助かるな」
驚きと期待と、ほんの少しの好奇心が入り混じった視線が突き刺さる。
その中には、
「美人ママが現場に?」
という隠しきれない感情も混じっていた。
ヘルメットからこぼれたまとめ髪の毛先がふっと揺れるたび、男たちの視線がまたちらつく。
(※きよのの脳内テロップ:ここは職場であり、決してアイドルのデビュー会見ではありません)
耳まで赤くなりながらも、きよのは視線をまっすぐに保つ。
ブルゾンの胸で光る紅い「九」のマークが、彼女の小さな盾のようだった。
「佐々木さんの穴は簡単には埋められない。でも、やれることをやるしかない」
胸の奥で、きよのは静かに決意を固める。
母として、事務員として、そして今は——フォークオペレーターとして。
巨大倉庫の天井に並ぶライトが、一斉にパッと点灯する。
それは、きよのの新しい一日の始まりを告げる光のように思えた。
「風張さん、まずは空パレットだ。荷物はまだ危ない。落ち着いて動かせ」
ベテラン社員・青柳が横について声をかけた。
五十代半ば、現場ひと筋で鍛えられた体つき。
額に刻まれた深い皺は、何千回もの荷を捌いてきた証だった。
低く落ち着いた声は、それだけで現場を安定させる力を持っている。
「はいっ!」
きよのは緊張で少し上ずった声を返す。
ヘルメットの下で唇をかみしめ、震える手でキーを回した。
ドドドド……。
低く重たいエンジン音がヤードに響き、鉄の振動が背骨まで突き上げてくる。
講習所で何度も聞いたはずの音なのに、ここでは別物のように感じた。
目の前に広がるのは、本物の巨大倉庫。
実際に仲間の荷を預かり、運ぶ“責任”がそこにはあった。
「よし、前進!」
青柳の指示に従い、きよのはアクセルをそっと踏み込む。
ガタッ。
車体がわずかに揺れ、ハンドルが思った以上に重くのしかかる。
慌てて切りすぎ、蛇行しかけた。
「焦らずに。……そうだ、そのまま真っ直ぐ。スーッとだ」
青柳の落ち着いた声に、必死で食らいつく。
額を汗がつたい、両手のひらはじっとり濡れてハンドルに張りついた。
周囲の社員たちが腕を組み、静かに見守る。
危険を伴う作業だからこそ、茶化す者は誰もいない。
その代わり、励ましの声が自然と飛んだ。
「大丈夫だ、落ち着いて!」
「ゆっくりでいいぞ!」
「風張さん、頑張れ!」
美人の母が真剣に挑んでいる姿に、現場全員の目がまっすぐ向けられていた。
(怖い……でも、進んでる。ちゃんと前に進んでる)
パレットが目前に迫る。
ハンドルを小刻みに調整し、爪を合わせる。
ただ木製のパレット一枚。
それだけなのに、世界のすべてを背負うような緊張感があった。
「そのまま……よし、ストップ!」
青柳の合図でブレーキを踏む。
ガクンと前のめりになったが、フォークはきちんと止まった。
大きく息を吐き、きよのは胸に手を当てた。
(まだ怖い……でも、私は動かせた。ちゃんと前へ進んだんだ)
無線が飛んだ。
『風張さん、伝票の確認お願いします!』
「はいっ!」
きよのはフォークを停め、シートベルトを外す。
安全確認をしてから事務所へ駆け込み、端末を操作する。
表計算ソフトの画面に次々と数字を打ち込み、処理を済ませると、数秒後にはまたヤードへ。
(※きよのの脳内テロップ:事務員からの変身時間・わずか五秒)
ヘルメットをかぶり直し、エンジンキーを回す。
さっきまでデスクワークをしていた女性が、次の瞬間には鉄のハンドルを握っている。
社員たちがざわついた。
「……マジで二刀流じゃねぇか」
「事務と現場、文化がまるで違うのに……」
「俺なんか伝票見ただけで頭痛くなるぞ」
青柳が腕を組み、静かに言葉を重ねた。
「現場は“目”で見る仕事だ。荷の大きさ、重さ、動き……全部体感だ。事務は“数字”の仕事。秒単位で入力して、在庫を正確に回す。両方やれる人間なんて、そうはいない」
(※きよのの脳内テロップ:非公式スキル『表計算ソフト+フォーク』発動中)
パレットを持ち上げ、所定の位置へスーッと運ぶ。
昨日まで“講習所の受講者”だったきよのが、今は倉庫の数字と荷を同時に回していた。
課長も感慨深げに頷く。
「二刀流……いい響きだな。現場と事務、両方に通じる人材がいると、倉庫全体が違ってくる。風張さん、本当にありがとう」
空気が変わった。
最初は珍しさで注がれていた視線が、今は“仲間を迎える目”に変わっていた。
きよのはヘルメットを外し、汗をぬぐう。
息は荒く、胸は早鐘を打っている。
(私は即戦力じゃない。だけど……数字と現場をつなげる、その役目は私にしかできないのかもしれない)
胸の紅い「九」のマークが、振動とともに誇らしげに揺れていた。
夕暮れ。
倉庫のシャッターが閉まり、ヤードに静けさが戻る。
きよのは作業用ベストを脱ぎ、冷たい水を一気に飲み干した。
全身が鉛のように重い。
だが心は、不思議と軽かった。
(私は即戦力じゃない。まだ研修生のようなもの。でも、辞めた人の穴を少しでも埋められるなら——“助かった”って言ってもらえるなら、それだけで挑戦した価値がある)
胸の「九」を軽く叩き、駐輪場の自転車にまたがる。
湾岸の風が汗ばんだ首筋を撫で、ペダルを踏む足は重いのに、心は高揚していた。
玄関を開けると、けいじがランドセルを投げ出して飛びついてきた。
「ママ! 今日フォーク乗ったの!? ぼくも乗せて!」
小さな腕の力が、疲れた体に温かく染み込む。
(※きよのの脳内テロップ:フォークリフトは子どもを乗せてはいけません)
いのりは母に抱き着いたけいじの横から真剣な眼差しで覗き込んだ。
「会社の人たちも安心しただろうね。これでお母さんが現場に立てるって証明になったわけだし。」
高校生らしい現実的なコメントに、きよのは小さく頷く。
ともりは皿を片付けながら、ぽつりと呟いた。
「……お母さんが頑張ってるの、ちゃんと伝わってるんだね。危ない仕事だから心配だけど……すごいなって思う」
ソフトボールで日焼けした腕に皿を抱え、少しだけ誇らしげに微笑んでいた。
リビングでは、よしつぐがテレビのリモコンを放り投げて立ち上がった。
「おーっ! ついにフォークリフトデビューか! 母ちゃん、最高だな!」
大げさすぎるリアクションに、子どもたちがどっと笑う。
きよのは照れながらも、三人の頭を順に撫でた。
「必要とされるって、嬉しいことなんだよ」
言葉を口にした瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。
フォークの振動も、数字を打ち込む音も、すべては“誰かに必要とされている証”だった。
窓の外から、夜の海風が吹き込む。
団地の灯りがポツポツとともり、風張家のリビングにも柔らかな明かりが広がった。
——母は、新しい現場で力を尽くす。
子どもたちは、その姿を見つめて育っていく。
これで「きよののフォークリフト挑戦編」は一区切りとなります。
免許取得から実技練習、そして現場デビューまでを短期シリーズとして描きました。
社員ではなくパートだからこそ、即戦力とはいかない。
それでも「助かる」と言ってもらえる存在になれることが、きよのにとって大きな力になっています。
もちろん、挑戦はここで終わりではありません。
パートであっても、新しいことに挑み続けるきよのの姿を、これからも物語の中で描いていきます。
どうぞ、これからも風張家と団地の日々を見守っていただけると嬉しいです。