第57話『ちゃんと安全第一でやるから』
フォークリフトの実技編。
母・きよのが本気で挑戦する姿を描きました。
初めてハンドルを握るときの緊張感や、周囲の人たちの励ましの声。
「安全第一」で一歩ずつ進んでいくきよのの姿を、ぜひ見届けてください。
風張きよののフォークリフト講習三日目。
ついに“実技”の日が来た。
ヤードには、何台ものフォークリフトが横一列に並んでいる。
鉄の塊。無骨な作業車。
空気はオイルと鉄の匂いに満ち、遠くで警告ブザーがピッ、ピッと響いていた。
ブルゾンにジーンズ。
胸には赤い「九」のロゴ。
風張きよのは、緊張で固まった指先を無理やり動かし、エンジンキーを回した。
ドドドドッ——。
低い唸りが背骨にまで響き、シート全体が振動する。
ハンドルが重く震え、その大きさがいっそう恐ろしく感じられた。
(……思った以上にデカい。怖い……でも、やるしかない)
講師の声が飛ぶ。
「はい、まずは前進してみましょう」
おそるおそるアクセルを踏み込んだ瞬間、車体がガタガタと大きく揺れた。
思わずハンドルを切りすぎ、逆に振られて蛇行する。
「ブレーキ! 止まって!」
講師の声に、慌てて足を踏み替える。
ガクンと前のめりになり、シートベルトに体が食い込んだ。
ヤードの空気が一瞬ピリッと張り詰める。
だが次の瞬間、周囲の受講者から声が上がった。
「大丈夫だ! 誰だって最初はそうなる!」
「ゆっくりでいい、落ち着いて!」
「ママさん、頑張れー!」
真剣な声援。
笑いではなく、励まし。
現場を知る男たちだからこそ、危険を茶化さない。
ただ、きよのが女性で、美人で、必死だからこそ応援の熱が強い。
耳まで赤くなりながらも、きよのはブルゾンの裾をぎゅっと握った。
(……無理かもしれない。けど、ここで諦めたら応援してくれた人たちに失礼。やるしかない!)
深呼吸をひとつ。
胸の紅い「九」のマークに視線を落とす。
九紅ロジティクスの名が、背中を押す。
「……お願いします。もう一度、やらせてください」
講師が目を細め、頷いた。
「その意気だ。じゃあ、もう一度前進!」
再びエンジン音がうなりを上げる。
きよのは両手に力を込め、重いハンドルを握り直した。
「次は、パレットに爪を差し込んでみましょう」
講師の声に、きよのはごくりと唾を飲んだ。
目の前に置かれた木製パレット。
ただの四角い箱……のはずなのに、いざフォークで狙うと、まるで小さな獲物が牙をむいて待ち構えているように見える。
エンジンを吹かし、前進。
爪の先端がパレットに近づいた瞬間——
ガコンッ!
派手な音とともに、先端が木枠に当たり弾かれる。
慌てて角度を直すが、またもガタンッ!と下をえぐり、木屑がパラリと散った。
(水平が分からない……! 真っ直ぐのつもりなのに!)
講師が即座に声を飛ばす。
「もっと水平に! 落ち着いて!」
「ハンドルは急じゃダメだ。スーッと回して!」
必死に応じるが、結果はまたガコン、ガコン。
シートの上できよのの背中は汗でじっとり。手のひらもハンドルに張りつく。
ヤードの後方から声が飛んだ。
「焦らなくていいぞ!」
「ママさん、ゆっくりで! 角度を見て!」
「いける、いける!」
真剣な応援。
笑いはない。
ただ、美人の母が懸命に挑んでいる姿に、男たちの声が自然と強くなる。
(……簡単にできると思ってたのに。現場で毎日やってる人たちって、こんな難しいことを当たり前みたいにやってたんだ)
きよのは唇を噛み、深呼吸をひとつ。
爪の先端をじっと凝視し、ほんのわずかに角度を合わせる。
スーッと進める。
カチッ。
今度は音もなく、爪がパレットの隙間に滑り込んだ。
「おっ……!」
後ろで誰かが息を呑む。
「今の良かったぞ!」
「そうだ、その感覚!」
きよのの胸に、じわりと達成感が広がった。
(……できる。時間はかかるけど、できるんだ)
額の汗をぬぐい、口元に小さな笑みを浮かべる。
エンジン音とブザーの響く中、きよのは少しずつ“運転している自分”を確かに感じ始めていた。
四日目。
いよいよ修了試験の日が来た。
課題はシンプル。
「パレットを持ち上げ、指定の位置に移動して正しく置き、戻る」
ただそれだけ。
……ただ、それだけが恐ろしく難しい。
名前を呼ばれる。
「風張さん、お願いします」
「……はい」
きよのは深呼吸をひとつ。
手のひらがじっとり汗ばんで、キーを握るのもおぼつかない。
エンジンをかけると、ドドドと低い唸りが全身に伝わり、心臓の鼓動と共鳴する。
前進。
バックブザーが「ピッ、ピッ、ピッ」と鳴り響く。
そのリズムとシンクロするように、胸の中でドクン、ドクンと音が鳴る。
(落ち着け、落ち着け……! 急は敵……ブーンじゃなくて、スーッ!)
爪をパレットに近づける。
スッと差し込める——はずだった。
だがわずかに角度が狂い、ガコンッと嫌な音を立てて弾かれる。
「っ……!」
背中を冷や汗がつたう。
講師の視線、後方の受講者たちの沈黙。
一瞬で全身が硬直した。
(ダメだ、焦るな……。ここで諦めたら終わり!)
もう一度、深呼吸。
脳裏に講師の声が蘇る。
——「荷は生き物だと思え」
——「スーッと、水平に」
指先でハンドルをほんのわずかに調整。
爪が、狙った隙間にスーッと滑り込んだ。
(……入った!)
心臓が跳ねる。
荷をゆっくりと持ち上げ、前進。
曲がり角でグラリと荷が揺れた。
一瞬ヒヤッとしたが、両手に力を込め、ぐっと押さえ込む。
(逃がさない……! 落とさせない!)
視線は一直線。
周囲の声は何も聞こえない。
ただ、心臓の音とエンジンの唸りだけが世界を満たしていた。
指定の位置に差し掛かり、そっとレバーを倒す。
フォークが下がり、パレットが地面に触れる。
ガタン。
静寂。
ブレーキを踏み込み、車体を停止させた。
背中を汗がつうっと伝う。
講師が一拍置いてから、頷いた。
「……はい、合格です」
一気に視界がにじむ。
「……っ、やった……!」
握りしめた手が震え、ハンドルに汗の跡が残った。
後方から拍手と声援が飛ぶ。
「合格だ!」
「やったな、ママさん!」
「すごいぞ!」
きよのの胸に縫い込まれた紅い「九」が、誇らしげに光を放っていた。
その夜。
風張家のダイニングに、じゅうじゅうとハンバーグの香りが広がっていた。
テーブルの真ん中には湯気の立つ鉄板。
よしつぐが
「うおっ、熱っ!」
と手を振りながらソースをかけ、家族を笑わせる。
「……みんな、聞いて」
きよのはバッグから、小さなカードを取り出した。
白地に顔写真の入った修了証。
テーブルに置いた瞬間、子どもたちの目が一斉に輝いた。
「えっ!? ほんとに!」
けいじが椅子から身を乗り出す。
「ママ、すごい! かっこいい! ピッピッて鳴らして、ぼくも持ち上げてよ!」
(※きよのの脳内テロップ:フォークリフトに“子ども持ち上げ機能”はありません。子どもを乗せてはいけません)
いのりもカードを覗き込み、
「へぇ、修了証ってこんなんだ」
と目を丸くした。
「これで時給も上がるんでしょ? ママ、やっぱり頼りになるなぁ」
JK自治会長らしい、現実的で冷静な評価。
ともりは、部活帰りのユニフォーム姿で皿を片付けながらぽつり。
「……すごいよ。ほんとに。でも危ないことだから……気をつけてね」
青春ソフト女子らしい、真剣な心配。
口調はぶっきらぼうだけど、声は優しかった。
よしつぐが新聞をバサッと置き、声を張り上げた。
「おおーっ! ついに取ったか! お母さん、やるなぁ!」
大げさなリアクションに、子どもたちがどっと笑う。
きよのは照れながらも、三人の頭を順に撫でた。
「大丈夫。無理はしない。ちゃんと安全第一でやるから」
(……お母さんだって、新しいことに挑戦していいんだ)
胸の奥で静かにそうつぶやく。
けいじは
「ぼくもフォーク乗りたい!」
と無邪気に叫び、
いのりは
「それバイト先でも役立つ資格じゃん」
と冷静に返し、
ともりは
「でも、お母さんが怪我したら家庭も職場も困るんだからね!」
と念を押す。
その全部が、きよのにとっては嬉しい言葉だった。
キッチンから流れる水音。
笑い声と
「おめでとう」
と
「気をつけてね」
が重なって、
きよのの胸にじんわりと染み込んでいく。
母は新しい資格を手に。
子どもたちは、その姿を見つめて育っていく。
その夜、風張家の明かりは、いつもより少し長く灯っていた。
今回はきよのの修了試験合格までを描きました。
家族それぞれのリアクションがとても温かく、団欒のシーンを書いていても楽しかったです。
母親であっても新しい挑戦をしていいんだ、というテーマを少し強調してみました。
読後に「応援したい」と思ってもらえたら嬉しいです。